~note~
この私の活動(観察結果の反省により、概念を形成する)は、
・私の自立的な本性から出たもの
or
・意識内にある思想や思想の結合の規定に沿っている
どちらなのか?
とりあえず今は結論を出さず、
我々が絶えず
自分が関与せずに我々に与えられている対象や事象に対して、
ある関係に置かれるような
概念結合を求めるように
促されているのを感じている
という事実を確かめるだけにしておこう
この働き(概念を形成する)が、
・本当に我々の働きなのか?
or
・我々は変更しえない必然性に従って
遂行するのか
という問題については、
今のところ決定しないままでおこう
それ(概念形成)が我々の働きとして現れているということは、疑う余地がない
我々に、対象とその概念が
同時に与えられるのではないことは
自明である
我々が行為者であるというのは、見せかけ上のことかもしれない
しかしともかく、直接に観察すれば、事態はそのように現れている
そこで問題は、
我々がある事象に対して、
概念による対応物を付加することで、我々は何を得るのか?
ということである
~hasutama ~
回りくどい、ややこしい話し方ね💧
概念結合の作業が、
私の自立的な本性から出たものか、
それとも意識内の思想の結合規定に沿ったものか?
これはあとで考察の対象にしてくれるとのこと
自立的な本性から出たと結論しそうな雰囲気だけど
自立的な本性とは何なの?
また、「概念結合を求めるよう促す」のは誰で
概念結合作業を行うのは、もし私でないとするなら、一体誰なのだろう?
「私自身が概念結合作業の行為者である
というのは、見せかけ上のことかもしれない」
と言うのは、一般的にはすごく不思議なことではないだろうか
でも私としては、こう問いを持つことは府に落ちる気がする
実感として、考えた結果が自分の成果だというふうには、どうも思うことが出来ない
私が私であることさえも、見せかけ上のことかもね?なんて茶化されそう
「直接に観察」すれば、
「事態はそんな風に現象」
という言い方も、不思議
直接な観察でなければ、どんな観察があるのだろう
違う見方をするならば、事態も違った様相を見せる
そう言いたいのだろう
しかしそれはあとで考えるとして、
今はとりあえず、
ある事象に、
私が概念的対応物を付加する
そのことで私は何を得るか?
について考えることにしましょう^_^;
とのこと
つづく
この私の活動(観察結果の反省により、概念を形成する)は、
・私の自立的な本性から出たもの
or
・意識内にある思想や思想の結合の規定に沿っている
どちらなのか?
とりあえず今は結論を出さず、
我々が絶えず
自分が関与せずに我々に与えられている対象や事象に対して、
ある関係に置かれるような
概念結合を求めるように
促されているのを感じている
という事実を確かめるだけにしておこう
この働き(概念を形成する)が、
・本当に我々の働きなのか?
or
・我々は変更しえない必然性に従って
遂行するのか
という問題については、
今のところ決定しないままでおこう
それ(概念形成)が我々の働きとして現れているということは、疑う余地がない
我々に、対象とその概念が
同時に与えられるのではないことは
自明である
我々が行為者であるというのは、見せかけ上のことかもしれない
しかしともかく、直接に観察すれば、事態はそのように現れている
そこで問題は、
我々がある事象に対して、
概念による対応物を付加することで、我々は何を得るのか?
ということである
~hasutama ~
回りくどい、ややこしい話し方ね💧
概念結合の作業が、
私の自立的な本性から出たものか、
それとも意識内の思想の結合規定に沿ったものか?
これはあとで考察の対象にしてくれるとのこと
自立的な本性から出たと結論しそうな雰囲気だけど
自立的な本性とは何なの?
また、「概念結合を求めるよう促す」のは誰で
概念結合作業を行うのは、もし私でないとするなら、一体誰なのだろう?
「私自身が概念結合作業の行為者である
というのは、見せかけ上のことかもしれない」
と言うのは、一般的にはすごく不思議なことではないだろうか
でも私としては、こう問いを持つことは府に落ちる気がする
実感として、考えた結果が自分の成果だというふうには、どうも思うことが出来ない
私が私であることさえも、見せかけ上のことかもね?なんて茶化されそう
「直接に観察」すれば、
「事態はそんな風に現象」
という言い方も、不思議
直接な観察でなければ、どんな観察があるのだろう
違う見方をするならば、事態も違った様相を見せる
そう言いたいのだろう
しかしそれはあとで考えるとして、
今はとりあえず、
ある事象に、
私が概念的対応物を付加する
そのことで私は何を得るか?
について考えることにしましょう^_^;
とのこと
つづく