「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

謎めいた事物たちvs思考する私自身

2013-09-07 12:19:35 | 第3章 世界認識に仕える思考
考察対象となる宇宙の出来事に

・気づかれることのないひとつの手続き

・いっさいの他の出来事とは異なる何か

・気づかれぬ要素

・対象の背後に揺れ動いているような何か

・性質の異なる何か

が混入している

それらは、

私の働きかけなしにも存在しており、

それが、

真実なのか目くらましや夢なのかを私は知ることが出来ない

自然はすでに存在してしまっており、それをもう一度創造するには、
その存在条件を読み取らねばならない

なぜ事物が私にとって謎めいた現れ方をするのか?

その理由は、

その事物の成立過程に私が立ち会わなかったからである



それに比べて、唯一思考だけは自分が生み出したのだから、宇宙の他の事物とは違う、特別なものだとシュタイナーは言う

では思考なら何でもいいのかというと、そうではなく、

あるものが存在する

いかなる意味で存在する?かは、存在そのものだけからでは、わからない

他のものとの関係を考察するときにのみ、存在の意味が見えてくる

しかし、それではまだ、「他のものとの関係を知ること」以上に出ることは出来ない

もし、存在の意味を存在そのものから汲み取れるような対象があれば、それを確かな基盤にし、そこから宇宙の事物の存在の根拠を探求することが出来るだろう

そのようなものとは、

思考する私自身 である

思考する私自身は、なぜ確かな基盤となれるか?

・私の存在の根拠は思考活動

・思考活動は思考活動に基づく

存在の根拠、意味、成立過程がクリアーだから

とシュタイナーは言うが、なんかすっきりしない

何が、どうすっきりしないのか?を考える私

その思考内容は今から存在させる

観察対象は、この文章
それから自分のすっきりしない感じ

思考だからといって、そんなふうに純粋に存在させることが出来るのだろうか

そんな思考を行える人間はどのぐらいいるのだろう

稀有なものを話の根拠にしてるのではないだろうか

それで思い出したが、始めから気になりつづけているのは、「思考する人間」とか「人間の本性の考察」というふうに、活動する状態そのものが、重要なものとして「主語」として扱われていることだ

「私の思考」という、それは生き生きとしたある存在だが、動的なものを今固定して名付けなければならない…という事情があって、

それでそんな奇妙な感じがするのだろうか






おまけの写真

天然酵母パンづくり







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