「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

私が行なっているように見える概念形成

2014-08-04 22:16:17 | 第3章 世界認識に仕える思考
~note~

この私の活動(観察結果の反省により、概念を形成する)は、

・私の自立的な本性から出たもの
or
・意識内にある思想や思想の結合の規定に沿っている

どちらなのか?

とりあえず今は結論を出さず、

我々が絶えず
自分が関与せずに我々に与えられている対象や事象に対して、
ある関係に置かれるような
概念結合を求めるように
促されているのを感じている

という事実を確かめるだけにしておこう



この働き(概念を形成する)が、

・本当に我々の働きなのか?
or
・我々は変更しえない必然性に従って
遂行するのか

という問題については、
今のところ決定しないままでおこう



それ(概念形成)が我々の働きとして現れているということは、疑う余地がない

我々に、対象とその概念が
同時に与えられるのではないことは
自明である

我々が行為者であるというのは、見せかけ上のことかもしれない

しかしともかく、直接に観察すれば、事態はそのように現れている



そこで問題は、

我々がある事象に対して、
概念による対応物を付加することで、我々は何を得るのか?

ということである



~hasutama ~

回りくどい、ややこしい話し方ね💧

概念結合の作業が、
私の自立的な本性から出たものか、
それとも意識内の思想の結合規定に沿ったものか?

これはあとで考察の対象にしてくれるとのこと

自立的な本性から出たと結論しそうな雰囲気だけど
自立的な本性とは何なの?

また、「概念結合を求めるよう促す」のは誰で

概念結合作業を行うのは、もし私でないとするなら、一体誰なのだろう?

「私自身が概念結合作業の行為者である
というのは、見せかけ上のことかもしれない」
と言うのは、一般的にはすごく不思議なことではないだろうか

でも私としては、こう問いを持つことは府に落ちる気がする
実感として、考えた結果が自分の成果だというふうには、どうも思うことが出来ない

私が私であることさえも、見せかけ上のことかもね?なんて茶化されそう

「直接に観察」すれば、
「事態はそんな風に現象」
という言い方も、不思議
直接な観察でなければ、どんな観察があるのだろう
違う見方をするならば、事態も違った様相を見せる
そう言いたいのだろう

しかしそれはあとで考えるとして、
今はとりあえず、

ある事象に、
私が概念的対応物を付加する
そのことで私は何を得るか?

について考えることにしましょう^_^;
とのこと

つづく















最新の画像もっと見る

コメントを投稿