家にたまたまあった「自由の哲学」は、人智学出版社のものです
まず前書きに取り組もうとしたら、いきなり頓挫
この本の論述が、すべてそこに帰結していくという重要な二つの「問い」があるようだが、その「問い1」が述べられている文の意味がつかめないの
人間の本質を直感して、その直感が、生活体験や科学を通じて人間に出会うほかの全てのものの支柱であることが判明する可能性は存在するのか?
これについて人は、このような直感はそれ自身を支えることが出来ず、したがって懐疑論や批判によって不確実なものの範囲においやられてしまうのではないか、という感じを抱いている。
イザラ書房のものでは
われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄すべてにも有効な考察方法が一体存在するのか、ということである。懐疑論や批判主義はこの問題を解決不可能な領域に追いやっている。
ドイツ語が読めればいいのに、宇宙語みたいにわからない
しかたがないから、英文を持って来てみた
Is it possible to find a view of the essential nature of man such as will give us a foundation for everything else that comes to meet us ― whether through life experience or through science ― which we feel is otherwise not self-supporting and therefore liable to be driven by doubt and criticism into the realm of uncertainty?
どの文がどの単語にかかるのかの解釈で、訳は違ってくる・・
うーん、うーん
英文を眺め回して、hasutama意訳に挑戦してみると、
人間に与えられている資質の何かが、私達に向かってくるあらゆるものに対して、その根拠を与える・・そういう見解に至ることは出来るのか?
実際自分が体験したとか、それとも科学的に調べた結果とか、そういうものでなければ、私たちは、それをあやふやなものと感じて、疑いや批判によって、不確実なものの範疇に押しやってしまいがちではないだろうか?
はー、わからない
犬になった気分
でもこの絵文字の犬かわいくて好きー♪
それとも・・
実際経験したことにせよ、科学的に調べたものにせよ、私達に向かってくる全てのものに対して、その根拠を与える、そのような資質を、人間が持っているという見解に至ることは可能なのだろうか?
この見解に至れないとしたら、私たちは自分で自分を支えることが出来ず、疑いや批判によって、まるで不確かなもののなかに投げ出されてしまったように感じるのではないでしょうか?
このほうがしっくりくる
あら?本に出ている訳と全然違う
もーわからない、不確かなものの中に放り込まれ、
・・絵文字で遊んでいる
おしまい
まず前書きに取り組もうとしたら、いきなり頓挫
この本の論述が、すべてそこに帰結していくという重要な二つの「問い」があるようだが、その「問い1」が述べられている文の意味がつかめないの
人間の本質を直感して、その直感が、生活体験や科学を通じて人間に出会うほかの全てのものの支柱であることが判明する可能性は存在するのか?
これについて人は、このような直感はそれ自身を支えることが出来ず、したがって懐疑論や批判によって不確実なものの範囲においやられてしまうのではないか、という感じを抱いている。
イザラ書房のものでは
われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄すべてにも有効な考察方法が一体存在するのか、ということである。懐疑論や批判主義はこの問題を解決不可能な領域に追いやっている。
ドイツ語が読めればいいのに、宇宙語みたいにわからない
しかたがないから、英文を持って来てみた
Is it possible to find a view of the essential nature of man such as will give us a foundation for everything else that comes to meet us ― whether through life experience or through science ― which we feel is otherwise not self-supporting and therefore liable to be driven by doubt and criticism into the realm of uncertainty?
どの文がどの単語にかかるのかの解釈で、訳は違ってくる・・
うーん、うーん
英文を眺め回して、hasutama意訳に挑戦してみると、
人間に与えられている資質の何かが、私達に向かってくるあらゆるものに対して、その根拠を与える・・そういう見解に至ることは出来るのか?
実際自分が体験したとか、それとも科学的に調べた結果とか、そういうものでなければ、私たちは、それをあやふやなものと感じて、疑いや批判によって、不確実なものの範疇に押しやってしまいがちではないだろうか?
はー、わからない
犬になった気分
でもこの絵文字の犬かわいくて好きー♪
それとも・・
実際経験したことにせよ、科学的に調べたものにせよ、私達に向かってくる全てのものに対して、その根拠を与える、そのような資質を、人間が持っているという見解に至ることは可能なのだろうか?
この見解に至れないとしたら、私たちは自分で自分を支えることが出来ず、疑いや批判によって、まるで不確かなもののなかに投げ出されてしまったように感じるのではないでしょうか?
このほうがしっくりくる
あら?本に出ている訳と全然違う
もーわからない、不確かなものの中に放り込まれ、
・・絵文字で遊んでいる
おしまい
久しぶりに自分のブログの該当部分をちょっと読んでみましたが、懐かしいなぁ~。ややこしいな~。迷走しまくりですね。
読んでて思いだした私なりのニュアンスは…
人は生きてる中でいろんなものに出会うが、
それらがそれだけで完全に独立して揺らがないわけじゃなくて、
こっちの見方によっていくらでも別の見え方で目の前に現れる。
疑ったり批判したりしたら、いくらでもぐらつく。
でも、ぐらつかない「出会い方(私のあり方)」ってのもあるんじゃないかな?
それが何か(=たぶん“紛れなく見て考える”こと)について、この本に書きますよ。
ご本人が「わからない」と言っておられるのにナンですが、
hasutamaさんの最後の私訳、すごくわかりやすいです(^^;)。
私の読んでいるのは鈴木一博さんの訳です。
とてもシンプルで、直訳のようなスルメのような訳です。
参考になるかもしれませんので、載せておきますね。
ひとつは、人のなんたるかを見てとるに、
ほかのすべてにも支えとなる「見てとる」ができるかだ。
人は生きるで迎え、知識として受けるもろもろにつき、
それがそれのみで支えられないのを感じもしよう。
そもそもすべてが懐疑と批判でぐらつこう。
私たち、贅沢な読み方してますね♪
2度目ですら、意志の力を振り絞らないと読めないわ(^^)。
ゆっくり行きましょう~。
ものすごくありがとう!です
オキツさんがご自分の書いてくださったイメージ
見方によっていくらでもぐらついてしまう世界と、
ぐらつかない見方をともなった出会い方ってあるのか?
納得~♪です
と言いつつ・・あまり語句にこだわってもしかたがないのですけど、この文だけ、こだわってみようと思います
単語と単語の関係がわからなくて、納得いかないところが数箇所・・
鈴木氏の言葉は、村の長老の語りかけのようで、しみてきますね~
と言いつつ・・彼は単語と単語の関係をどうとらえたのか?とジロジロ・・
自由の哲学の内容より、自分の性格のなんたるかが見てとれ気がしてきましたよ(笑)