「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

 「直覚」が乗り越える二元論

2014-01-13 13:56:45 | 1918年の再販のための序文
この本を読んでいると、すぐにわからないことに出会う

そして少し調べてみて思ったのだけど、シュタイナーの住んでいたところでは、その時代には
哲学は活発な学問だったのだろう

1918年の序に出てきた、二つの問いのうちの一つ目の問いに出てくる、「人間の本性の直覚」という聞きなれない言いまわしには違和感を抱いた

しかし、この当時少し哲学をかじった人にとってはそうではなかったのかもしれない

キリスト教が絶対だった世界で、フォイエルバッハが神とは「人間の本性」だと言ったのは、相当大胆な発言だっただろう
それを言う前にはきっと、宗教改革とか、手工業の発達とか、なんだか色々な社会の変化があって、それを受け入れるだけの状況があって、またそうした発想が社会的にも望まれていたのかもしれない

地域や時代を隔ててこの本を訳するにあたっては、基本的な言葉ほど逆に訳出は難しかったのではないだろうか

直覚という言葉も、どうしてこんな肝心な文章の中で、突然こんな聞きなれない表現に出会うのか?と思ったのだが、訳した人がこの言葉を使うのにはそれなりな、きちんとした理由があるのかもしれない

twitterで見つけたゲーテの言葉↓

われわれは、不断に創造する自然を直観することによって、その生産の営みに精神的に参加するのに相応しい者となるべきだ。

私は最初は無意識のうちに、内的衝動に駆られて、かの原像的なもの、元型的なものをひたすら追求し、自然に即した叙述を築き上げることに成功した。

ゲーテ「直観的判断力」

シュタイナーが重視するゲーテの直感的な認識方法を「直覚」と呼ぶなら、人間本性の直覚という言葉がこの本のキーワードとなることに納得できそうである

人間本性の直覚が、客観的観察と、主観的認識を統合する機能を持っているなら、あるいはそれに向けて進もうとするなら、私と世界の対立が解消される道が見えるということ?

またそれは、ゲーテが言う「不断に創造する自然を直観することによって、その生産の営みに精神的に参加する」ことなのかもしれない

不断に創造する自然
生産に精神的に参加

どちらにせよそれは、人間にとっては「本性の直覚」行動を通じて理解でき、また参加できる

多分これは、シュタイナーが言っていることと同じだ

なんだか東洋的な感じのする話
ゲーテは確か東の文化に興味を持っていたはず
極東に住む私にとって、親しみがわく発想な気がするのはそのせいか

なんだか楽しそうな企画だけど


(??)

まだ、言葉を並べてみただけで、よくわかっていない
考察の余地あり






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