「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

シュタイナー自身の思考体験について

2014-11-25 09:40:57 | 読書ノート
昨日、久しぶりに「神智学」を開いてみた

この本には、私の好きな"認識の小道"が出てくる

どうして認識の小道が好ましいのかについて、考えてみたことがなかった

シュタイナーの言っていることは、具体的にはよくわからないことが多いので、なんとなく、予感のような漠然とした感覚だけで、いいような気がしたというだけなのかもしれない

でも、昨日読んでみたら、以前に比べ具体的にわかる気がする箇所が増えていた

自分の人生の経過の中で見えてきた部分と、「自由の哲学」を少しだけ読み込んだことで分かりやすくなったところとがある気がする

認識の小道は、思考→霊視の道らしい

霊という言葉には、今だにひいてしまう
しかし、人間の思考、言葉の可能性に限界が設けられず、宇宙全体の把握にまで広がるのかもしれないと考えるのは、楽しいことだ

この認識の小道の中でも、やはり思考することの重要性が繰り返し述べられている

それで思ったのは、
おそらくシュタイナー自身にも、修行となるほどの思考経験をして、そしてそれが霊視へと繋がって行ったという実際の体験があったはずだということである

彼の厳密な思考経験というのは、具体的には何だったのだろうか?

私が思うに、それはカントを読んだことではないだろうか

哲学の本は、言葉のイメージを厳密に定義付け、筆者の頭の中にあるそれらの関係性をも厳密にマッピングしながらでなければ読み進むことが出来ない

しかしそれをきっちり行うことが出来たときには、その構築性を持った建造物内の空間を散策し、柱の一つ一つを触り、壁画を鑑賞したり、階段を登って二階の窓から外の景色を眺めたりすることが出来るのである

1人の人間の思想体系を丁寧に理解することは、並大抵の作業ではない
それが完全に出来たなら、自分がその人物になることが出来ると言ってもよいぐらい、滅私的な、根気のいる作業ではないだろうか

そしてその作業で培われる能力、厳密な思考の能力が、事物をその内側から理解する能力へと繋がると言われるのならば、それはある程度理解出来る話である

シュタイナー自身にとってのカント経験は、いったいどのようなものだったのだろう?
カント哲学の内容の理解もさることながら、その読解の為の思考作業の経験そのものからシュタイナーが得たものは非常に大きかったのではないだろうか

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