「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

世界と私と、それを認識するものと

2015-08-23 08:55:49 | 1918年の再販のための序文
ブログを書く時間がなかなか取れない

この場に記してみたいことは、たいてい考えの芽、あるいは種みたいなもので
書いてみることで光があたり、また伸びていく可能性が生まれるのではないかと思っている

ずーっと「自由の哲学」を読む課題が続いていて、いつ終わるのかも見通しが立たない
でも気にせずに、のんびりと無理なく楽しみたい

今気になっているのは、彼が立てる『問い』に持った違和感である

話の流れからして、なぜその問いを立てることに必然性があるのか?
と思ってしまい、自然な流れとして受け止めることが出来ない

つまり、「なぜ彼はその問いを立てるのか?」という問いを、私自身も立てることになるのだ

もしかしたら、私がその疑問を持つことのほうにも疑問を持たれることがあるかもしれない

ひねた考えかもしれないが、ここにヒエラルキーのような価値観が隠れている場合がある

偉い人に対する疑問を持つこと自体が疑問だという

それで思い至るのは、シュタイナー氏が言う人間の存在形式についての話である

人間は世界の一部として、世界に包まれて存在している
と同時に
世界に対峙して、自分を個として認識しながら存在している

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ここまでが、以前書いていた文

下書きに入ってほったらかしになっていた
悪くない着想ではないか?と引っ張り出してみた

このあといったいどう話を続けようとしたのか
今の私にはわからない

でも、もしかしたらこうかも?と
今の自分が過去の自分の考えを引き継いでみる

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この、シュタイナーの言う人間の存在形式の文は
あらためて考えてみると、思いの他発見がある

その発見というのは……

自分にとっての
世界vs自分

という図式において
というか、言葉において

世界は、世界と自分という分断として現れる
しかし実際には、その2つだけではなくて
その二つを見ている私というものがある

そうなると3つになるのだろうか?
でもその3つを見ている私は?

3つ目の私はどこまでも下がっていって
無限に退いて行けるだろう

3つ目の私は、特殊な性質を持っている


「世界に包まれる」という時の
その世界部分というのは、いわゆる自然界のもの以外も含まれている
自分が、これぞ自分だと思う、厳密に完全に自分であると思える部分以外は
世界の側に含まれる

世界に対峙して、自分を個として認識すると言うその個として認識している部分は
自分であると言える
それ以外の部分は、たとえそれが自分の肉体や脳の働きであっても世界の側に含まれるのではないだろうか

てことは、私というのは視点であって、どこまでも退いていけるし、世界と視点の間に何層もの思惟空間を作ることができるんじゃない?

その空間というのはいったいどんなものなのだろう?

それにそんなに身軽に退いていった私という視点は、勝手に色々なところにもぐり込んで行けるんじゃないだろうか?

この、トンチのような空間を進むとシュタイナーの言う「霊的」なものにもたどりつくのだりうか?







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