北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】松本城-観桜,金華山城の支城としての歴史と小笠原氏狙う武田氏の信濃侵攻

2024-04-30 07:01:20 | 旅行記
■松本城は深志城
 城郭はその細部もさることながら歴史を辿りますと既知の知識と新しい知識の邂逅と体系化が面白いのです。

 松本城はもともと別の城郭の支城に過ぎなかった、というのは今の巨大な城郭を見上げますと驚きまして、ニセコ要塞や琵琶湖要塞のような巨大軍事施設でもあったのか、と訝るところですが、実は当初の松本城は深志城と呼ばれた、小さな城でした。

 深志城と呼ばれた時代にはスミノフ軍、じゃない武田信玄の脅威がありました時代でして、しかしその築城はもう少し時代を遡りまして、永正年間、これは16世紀初頭の西暦1504年から1520年頃の築城となっていました、築城は府中小笠原氏によるもの。

 府中小笠原氏が信濃守護を与った際に造営されました城郭は、しかしいまの松本市の市域でも少し離れた金華山城というところにあります。岐阜城とは凄い離れているなあ、と歴史好きは思われるでしょうが美濃の金華山ではなく松本の城郭の地名でして。

 金華山城とはもう一つ林城ともいい、ここで供されていた陣中飯がハヤシライスであったわけではないのですが、天文年間に武田信玄と小笠原長時との戦いで府中小笠原氏は林城に籠城の構えを見せますが、支城犬甘城陥落とともに防衛線が瓦解してしまう。

 林城跡、としていまも土塁など遺構が現存しているのですが、隣接して井川城跡という遺構が並びましてこの二つで小笠原氏城跡というものを構成している、この立地は松本駅から南方に1㎞程の立地ということで、行こうと思えば行けたのですが。

 足利尊氏、府中小笠原氏が当地を拝領しました際には当主小笠原貞宗が、室町幕府開府前の足利尊氏に付き従い、建武の新政などに際し功績を残したことで信濃守護を任され、その信濃を拠点に筑摩や安曇に勢力圏を広げていった、という歴史がある。

 居館としてこの際先ず井川館を構築、これは発掘作業により伝櫓台跡などが発見されていて、今は水路の縄張りが残る程度なのですが六田川という近隣河川の水源を利用した掘割など、かなり大きな城郭であったらしい、その支城として今の松本城を、と。

 信濃侵攻では、城郭の支城を防衛線とする構えで小笠原氏は迎え撃ちますが、結果は上記の通り、ただ、林城は使用に適さないとして廃城にしたうえで、この松本城を利用するわけです。もっとも、地形を見るとそう離れていないわけで、理由は気になる。

 林城の戦いでは武田信玄と直接戦火を交える前に落ち延び、しかし色々あった上で当主は上杉家に救われるものの後に織田家などの庇護を転々、その最後は会津という、ここ信濃とは縁もないような遠い地にて、戦国乱世の末期に天寿を全うしているもよう。

 武田信玄はこの勝利を以て筑摩平定を完了し、一方で小笠原長時は落ち延び、上杉景勝の配下を経て織田信長に重用、そして奇しくも三男小笠原貞慶は織田信長の配下として有名な長篠の戦に参陣し、一応は武田家への復仇を果たすという歴史があります。

 上杉謙信への備え。松本城は、その始まりが林城の支城ではあったのですが当地一帯を併合した武田信玄が越後の上杉謙信への防衛体制確立を期して大きく拡張した城郭といい、武田四天王の一人である馬場信春を城代として配置していました。

 小笠原貞慶、色々あって織田信長の配下に参陣したという事ですが、実際色々ありまして、しかし実際あったいろいろな先に、最終的には此処松本城を取り戻すという、なかなかに歴史情緒といいますか機運と数奇が交わる歴史が広がっているようです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【防衛情報】アメリカ海兵隊... | トップ | 【京都発幕間旅情】榛名さん... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

旅行記」カテゴリの最新記事