北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】建仁寺,最初禅寺の伽藍に京都に禅寺が多いのは何故だろうかの問いを考える

2022-02-16 20:22:55 | 写真
■京に禅寺が多いのは何故だろう
 散策も無意識に歩み進めていてもふと当たり前の光景の理由を聞かれますと答えに何か迷いが生じることもあるのかもしれない。

 京都に禅寺が多いのは何故だろう、こう情緒豊かな方に話題を振られますと、もう少し浪漫を感じる受け答えを求められるのかもしれませんが、貴族社会から武家社会への劇的な転換とともに禅宗と武家の相関関係が由来しているという事が、実は背景にありました。

 外務省が在るではないか。しかし明治維新後の日本を見ますと、なにしろ外交関係は欧米との関係が重要であり、しかも外務省があります、すると、今も京都に禅寺が多い理由を応えている訳ではないのですよね。すると実は気風が京都と、合っているのかもしれない。

 十方住持制。禅問答に自由闊達な議論を高い語学力と共に求められる禅寺は、それまでの日本の寺院が住持の後継者を身内から推薦して成り立っていたのに対し、十方住持制、つまり四方八方から公募するという、これも中国の制度を輸入したのですが、採用します。

 十方住持制というのは試験の結果により取り立てられる一種の官僚的制度を日本にいち早く取り入れた一つ、もちろん朝廷の大学寮制度よりは後塵を拝していますが、身分にとらわれないという意味で僧侶になる事は自由でしたし、住持になるのは実力次第といえた。

 住持を単に身内からという制度を軽んじる訳ではありません、なにしろ剃髪し、厳しい生活、信仰と生活を一体化させるには十方住持制とともに世襲制という点にも信仰を伝えるには重要な意味があります、しかし世襲と云うと貴族的な響きにも映るのは確かでしょう。

 京都を俯瞰しますと、禅寺が多い事は事実なのですが、そしてもう一つ大学も多いのですね。こちらも制度として京都に集めた訳ではないのですけれども、ふと思うのは禅寺の十方住持制と大学の入学試験の制度、何か似通っているのではないか、共通点を感じるのだ。

 大学入試共通テストにて、不正行為があり試験会場から問題が流出した、そんな事件にひと騒動ありました2022年ですが、公平を重んじるのが大学入試です、そこはまさに実力主義であるとともに、試験で実力を発揮出来れば誰でも合格でき、また奨学金制度も厚い。

 実力で一つのし上がってやろう、こうした気風が十方住持制と大学制度、京都にはなじみが在るのかもしれません。果たせるかな、武家により保護された禅宗はそのまま遥か歴史の流れを経まして戦国乱世に入りますと、それこそ実力主義、少々血は飛ぶ、となります。

 八坂の塔、つまりは法観寺五重塔に、新しい武将が上洛しますとその旗指物を京都でも洛中に一際高く見える法観寺五重塔へ掲げて実力を示したという、こうした意味で実力主義の街となりました京都には、禅宗や大学というものが時を経ても、馴染むのかもしれない。

 法観寺五重塔。さて、京都を代表する風景で、火曜サスペンス劇場などで京都にひと騒動ある時は、探偵や刑事さんが法観寺五重塔を背景に一走りします、その法観寺なのですが、こうした日本を代表する建物を持つ寺院も、実はここ建仁寺の塔頭寺院の一つでもある。

 実力主義と開かれた機会、その姿勢が歴史として根付いているからこそ、京都と禅寺の関係はあるのかもしれません。すると、京都に禅寺が多いのは公家政治から武家政治への政権交代に際しての官僚代行的という模範解答と共に、実力主義という風土があった、とも。

 京都に禅寺が多いのは何故だろう、その答えには大学が多いように京都の風土と合っていたから、こう表現する事が出来るのかもしれませんね。もっとも、回りくどい印象なのかもしれませんが、ふと自分で合点のゆく結論を出しつつ祇園の俗世へと帰路に就きました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】建仁寺,栄西著した興禅護国論は京都と鎌倉-日本と中国二つの関係を結ぶ

2022-02-16 20:00:45 | 写真
■双龍図天井画の如く結ぶ連環
 建仁寺が開山しました当時は京都と鎌倉に日本と中国という恰も天井画の双龍図の如くの関係を結ぶ位置に禅宗があったといえるかもしれません。

 建仁寺の開山となりました栄西は、興禅護国論を著しまして、禅宗こそが護国の仏法であると広めています、それは日本に京都と鎌倉、二つの首都が在った故の布教と云わねばなりません、何故ならば比叡山延暦寺の影響があり、かの空海さえも高野山に遷ったほど。

 寿福寺を鎌倉の地に開いた栄西は、源頼朝の支援により京都にこの建仁寺を開山します、同じころに鎌倉の鶴岡八幡宮、弓の神である八幡信仰を武家になぞらえたもの、これを京都にも置く事としまして六条八幡宮を造営していまして、信仰で京都上洛を果たしました。

 興禅護国論、これは当時最新鋭の仏法であった禅宗を、武家の宗派とし、それは遠まわしに密教と真言宗に天台宗という武家が興隆を果たす前の貴族社会に受け入れられた仏法と明らかに距離を置くものであったのですが、同時に禅宗は中国で発展中の哲学であったと。

 禅宗の教義を求めて日本から多くの僧侶が宋へ渡りまして、そして宋からも多くの僧侶が来日しました、中では現存する宇治の万福寺のように残るものもあるのですが、当時の禅宗寺院と云うものはいまの万福寺以上に国際色溢れていた寺院であったようです。例えば。

 大陸風の寺院、宋から来日した僧侶は大陸風の伽藍を再現しまして、そして儀式や行事では言語は中国語となっていました。なにしろ中国最先端の教義であるということは盛んに議論されている定型化する前の宗派であり、禅問答も今のように定型句などはありません。

 禅問答は、20世紀の時点で同じ結論をなぞるものとなっていますので憲法議論さえ分り切った議論として禅問答という表現が用いられているのですが、当時は自由闊達な議論が禅問答の姿でした、そして私たちが規範理論など先端議論に英語を用いる様に、当時の寺は。

 五山文学、こう呼ばれている様に当時の京都五山となる禅寺寺院は中国語が標準であり、漢語漢文漢詩は必修というものでして、しかし、京都に禅寺が多いという、この建仁寺の入り口にて論じた背景には、漢語漢文漢詩は必修、この部分に新しい価値が見いだされる。

 武家社会が貴族社会にとって代わりゆく事で、それまで武装集団であった武家に政治中枢を担う事が当然求められるのですが、武家には外交官、朝廷であれば太政大臣と八省の治部省に一任された外交も武家が、鎌倉幕府が独自に行わねばなりません、そして急務です。

 京都五山の寺院、さて、禅問答として論説を聞き意見を述べるという際に漢語漢文漢詩へ秀でている事が求められる禅宗寺院の僧侶は、そして幕府から保護されているという経緯についても含めて特に京都五山の僧侶には外交における重要な地位を担う事となりました。

 大陸や半島と日本の禅寺寺院とは、漢詩の贈答を日常的に行っていました。そこで、外交文書の作成、外交文書の保管、時には外交使節の応対まで含めて、幕府は寺院に頼ることとなったのですね。なにより、制度として外交を担う武家の制度がありません、結果的に。

 京都に禅寺が多い、その背景には武家の宗派ということで重視されたという側面もありますが、同時に外交機構の一翼を担う事を求められてのもので、外交を天台宗や真言宗に武家が助力を求めても代替にはなりません、こうして時代の要請が禅寺を広めてゆきました。

 国際都市京都、考えてみますとCOVID-19により世界の方を日本に入国できない時代が続いているはずなのですが、不思議と京都を散策しますと多様性を感じる事があります。しかし、その始まりは実にこの建仁寺が開山しました頃から、世界と繋がっていたのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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