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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【1】復旧が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく

2021-03-07 20:09:50 | 防災・災害派遣
■津波被災地復興への遠い道
 阪神大震災の教訓ですが、復旧が一日遅れれば復興は一ヶ月遅れ復興着手が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく。

 復興というものをどのように考えるか、東日本大震災は発災一年や発災二年という追悼の記憶の深い震災祈念日と比して、大きな区切りとなる発災十年の重責は"復興は実現したのか"という部分に収斂するように思います。しかし、復興と呼ぶには厳しい状況があることも否めません。いや復興は簡単ではない、1995年、阪神大震災後の神戸でもそうでした。

 民を忘れた政治が在った。実際のところ東日本大震災の復興を法的手続きの観点から見た場合は適法で手続きも検証しやすいものです。しかし、これは平時の感覚であり、果たしてあの巨大災害は平時の感覚で復興に臨む事は適当だったのでしょうか。政治、特に政府は建物や街並みの形或る物の建て直しを重視したものの、其処の民を忘れていなかったか。

 津波被災地では復興の実感できない地域がまだ広くあり、これは原発帰還困難地域や核汚染地域に留まらず、津波災害地域全般に当てはまる事例です。難しいのは、時間をかけ高台移転を住民合意の上で実施した地域でも、過疎化が想定外の水準で進んでおり、多くの公的支援と共に移転した地域、新興住宅街であるべき地域で復興が遅れている、という。

 宮城県沿岸部や岩手県沿岸部、原発帰還困難区域を除く福島県沿岸部では、高台造成や沿岸部瓦礫撤去というものは進んだ、住宅再建も可能な範囲内で進んでいる、という印象はあります。しかし、高台移転をどこに行うのか、財源をどうするのか、高齢化世帯の住宅再建資金の問題、復興遅れからの雇用流失による人口減少問題は全く解決されていない。

 戻りたいが戻れない、こういう声は実際のところ、戻る時機を逸したもので、仕事が無いにもかかわらず住宅再建を行う事は出来ませんし、産業が復興できていない地域で公的支援に依存して敢然と地域復興を待つ、というよりは広域避難の先で仕事を探すというのが普通の対応でしょう。だからこそ拙速でも十年前、復興着手を急がねばなりませんでした。

 商店街を箱モノだけ再建したとしても、商店街の活力源は住宅街であり住民です。住民は商店街で自給自足するのではなく、会社や事業所や工場に農林漁業といった生活基盤とともに街を構成するのです。つまりどれか一つを再建しても意味が無いのですね。そして、住民は一時的に別の場所に生活基盤を構築したならば、戻るには経済的負担が大きいのだ。

 震災十年。東北復興の現状を考えるとともに忘れてはならないのは、この規模の災害と言うものは次も必ず発生する、という事です。この規模の、と冠したのは敢えてここに再度津波が襲来するという点ではなく、南海トラフ地震、沖縄トラフ地震、南九州沖地震、宮城沖地震、千島海溝地震、日本海中部地震、どこでいつ起こるかは限らない、という。

 次の巨大災害は必ずやってきます、しかし、どのように復興するのか、復興に必要なコミュニティが解消してしまう前に迅速に復旧を復興に繋げる枠組というものを考えておかねば、南海トラフ地震、沖縄トラフ地震、南九州沖地震、宮城沖地震、千島海溝地震、日本海中部地震、数多可能性ある巨大災害を前に日本という社会が存続できなくなるのです。

 復興の課題。ここを敢えて震災十年の際に考えなければならないのは、復興を迅速とするための、為政者が後年批判される覚悟も含め、枠組みと反省点を十分に検討しておかなければ、順次日本全域が復興できない被災地というもので覆われてしまう、という切迫感があるためです。海溝型巨大地震は頻発しないものの、定期的に発生しているのですから。

 神戸の復興は、都市計画というものの画定にいたるまでは拙速と批判されても速度を重視したために行政手続きを再検証した場合、越権的な決定を政治決断により合法化した事例が散見されました。この背景には復興は着手に一週間遅れれば実現まで一年遅延する、という、住民生活基盤の残る内に着手し実現するという切迫感があったとされています。

 東日本大震災では、復興には多額の予算が確保されたものの、その手続きが煩雑であり、また適用可能と判断された後に些末な書類上欠落や現地調査の手落ち等から必要な予算が突如中止されたり適用除外となる等して復興等の時機を逸する事例も多く、高台移転には合議制を求めた為に先ず住民集会の立ち上げ等に時間を要し、時機を逸した印象が強い。

 復旧が一日遅れれば復興は一ヶ月遅れる、復興着手が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく。この観念の要諦は、電力や水道ガスなどのインフラが復旧しなければ復興のために住民が被災地へ戻れない、被災地に戻ることができなければ時間とともに住民の生活基盤や経済活動基盤が分散してしまい、街を再建しても住民が戻れなくなる、という懸念です。

 東北地方の復興の場合は、決定が一週間遅れることで実現が一年遅れる、という状況が現実化しているようにも懸念します。具体的には高台移転の可否と行政手続きの平時手続きへの固執、政治決断を求められる際の責任者の空白化という状況が遅滞を生んだように思います。そして当時の政府が後世の批判をおそれ、手続き厳格化に固執した点も響いた。

 しかし、復興が遅延しようとも、手続きが明確で合法的であれば、これは政治の怠慢だが、誰も責める事が出来ないのですよね、例えば法的根拠が曖昧でも津波で更地となった被災地で長期浸水地域以外の居住可能地域には、将来、例えば百年後千年後、津波が押し寄せる地域であったとしても、私有地だっても仮設住宅貸与を行うべきであった、とおもう。

 再度津波の危険がある地域には時間を掛けて高台移転を行う、これはある意味妥当に思えるかもしれませんが、高台に適当な住宅地がある訳でもなく、先ず何処に移転するのかの議論から住民参画で行わねばなりませんでした、これは民主主義的手続きではあるのですが、それならば、移転までに元の居住地に仮設住宅を建ててでも人口を維持すべきだった。

 住民参画といっても、結局のところ直接民主主義の手法を持ち込んだものであり、要するにどこまで費用負担できるかの折衝を行政が限られた選択肢を提示した上で住民全体に責任を分散させる手法に他なりませんでした。高台移転が最初に造成し実現したのが2015年といいますが、制度の土台が拙速より手続きを重視した為ですので、致し方なかったとも。

 津波再来に備える事は重要ですが、昭和三陸地震から東日本大震災まで相当時間がありましたし、千年に一度の津波に備えるならば千年単位で造成し、先ずは被災地域に住宅を、万一の際は津波避難に適する高層住宅建設へ公的支援を出す方式に留め、先ず、千年単位の安全を企図した復興よりも、年内に可能な復興を先行させるべきだったとも考えます。

 復興着手は時間との闘いであるが、少なくとも被災地自治体や県庁の切迫感の認識に対して、中央政府は非常時という認識はあってもそれを制度に反映させる事無く平時手続きに固執した状況がありました。少なくとも阪神大震災の様な決断を強いられた際に、政治は、決断を避け平時手続きとした。当時の政治への非難云々でなく、いまの被災地の現実です。

 政治は責任、東日本大震災の復興における大幅な遅れに際して大事だと考えるのは前首相が震災前の第一次内閣時代に述べた気構えでしょうか、具体的には、法令に触れる可能性があっても、法的根拠が曖昧であっても、責任をとる覚悟というものを示さねばならない、逆に教条主義厳格さであっても手続き主義的で怠惰な政治家を主権者は選んではならない。

 実際のところ、津波被災地域ほど、高台移転という百年後千年後の津波に備える手法を政府が固執した事で遅れた復興の着手は、相当長期間に渡り影響は残るでしょう。ただ、復興が不可能であるとは考える必要はありません、次の世代まで要するでしょうが、震災前のコミュニティは分散してしまっても、新しいコミュニティの形成が実現するでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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コメント (2)
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