■高射特科装備の変遷
千葉県の下志津駐屯地、陸上自衛隊下志津駐屯地祭、毎年四月下旬に行われる駐屯地祭で、高射特科職種の教育を一手に担う陸上自衛隊の教育機関が駐屯している。今回は、その駐屯地で保管されている保存装備。
装備品展示に並ぶ各種現役車両。陸上自衛隊高射特科部隊の華といえば、03式中距離地対空誘導弾、いわゆる中SAMである。射程は60kmといわれ、限定的な弾道弾迎撃能力があるとされる。弾体はペトリオットよりも小柄ながら、一世代新しいこともあり、索敵、誘導方式、発射運用、どれをとっても世界最先端の高射装備である。しかしながら、ここに来るまでは様々な歴史が土台としてある。高射学校には、とうぜん、これら装備も保存されている。
写真はM51/75㍉高射砲。1952年の保安隊発足時に米軍から供与された高射砲で、M38射撃統制装置と連動して射撃する近代的な高射砲で、当時は航空自衛隊の基地などの防空も陸自の任務であったため、航空基地や後方策源地における防空を請け負っていた。砲は重量8.6㌧、25㌧牽引車により運用された。毎分45~55発の発射速度を有し、有効射程は6.3km、最大射程13.5kmである。
高い発射速度を担保した22発収容のドラム式給弾装置がみえる。近接信管(VT)を用いる本砲の導入は、陸上自衛隊初期の防空装備が少なくとも質では先端を走っていたことを意味する。
ところで、陸自では写真などをみるとM1A1/90㍉高射砲も運用していたようだが、どこかの駐屯地に残っていないのだろうか。
M42自走高射機関砲。40㍉機関砲を連装で搭載しており、目視照準により射撃する。米軍供与装備で、第7混成団(第7師団)の高射装備として主に装備された。この目視に頼るM42の他に、自走高射火器は、ハーフトラックに37㍉機関砲と機銃を搭載したM15A1があったおだが、M15A1は供与装備ということで、基本的に米国へ返還、ということとなっているようだ。
L90/35㍉高射機関砲。スイスのエリコン社製で、スーパーフレダーマウス一基、電源車一基、光学目標照準器一基、機関砲二基、機関砲電源車二基から構成される。FCSにより管制され、高い命中精度を発揮するが、牽引状態から設置し、各砲と電源車と照準装置を接続するのに20分ほど必要とのこと。しかし、師団高射特科大隊の主力装備として長く防空の傘を第一線に供した。まだ、北部方面隊と東北方面隊の一部師団で運用されている。
こちらは旧陸軍の25㍉機関砲。沖縄戦で使用されたもので、沖縄島首里西方の激戦で千葉から派遣された第62師団独立第二大隊で運用されたもの。弾倉を手動で給弾し射撃するもので、対空戦以外に地上掃討にも使用された。この機関砲は1973年8月に首里東側の大名付近で行われた不発弾処理の際に発見されたもので、千葉県に里帰りした。
99式80㍉高射砲。京阪地区の防空に用いられてたもので、1941年11月に中部方面防空旅団、1944年には高射第3師団として改編強化された。この砲は、高射砲第12連隊か、高射砲第123連隊の装備といわれている。ところで、この高射砲で日本戦車の強敵、米軍のM-4戦車を水平射撃したらどうなったのかに興味が湧いたりする。
このほか、ホークミサイルが展示されており、更に資料館が当時から今日までの取り組みなどを紹介している。
HARUNA
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