北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】平成28年第1空挺団降下訓練始【03】響け”空の神兵”大空へ(2016-01-10)

2019-09-15 20:02:52 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■航空自衛隊輸送機から降下
 陸上自衛隊では空挺部隊の落下傘降下に際しては伝統的に名曲"空の神兵"が響きますが冬の寒空には一際とよく響きました。

 C-1輸送機の展開、既に降下準備を完了した隊員の姿が降下扉付近に確認できる。この100秒前に掛かるのは降下用意!環掛けッ!、号令でC-1機内には落下傘開傘紐と直結した環紐を通す導線が張られており、装具点検!、空挺隊員は前の空挺隊員装具を点検する。

 C-1機内の導線と落下傘は一体化しています、位置就け、この号令とともに、用意の号令を待ち、降下へ、降下その瞬間に自重で開傘紐は強く引かれる、こうする事で空挺隊員が輸送機を飛び出した瞬間に開傘紐は解き放たれ、空で自動的に丁度四秒後、落下傘は花開く。

 C-1輸送機は1970年初飛行の輸送機で、各国の輸送機が低速域の操縦性を重視する設計思想と対照的にジェット旅客機ボーイング737と同型のエンジンを採用し高速飛行性能を重視、これにより24時間当たりの輸送力を増大させるという、新幹線の発想で設計された。

 C-130輸送機の飛来、この種の飛行展示は航空祭や駐屯地祭の航過飛行に慣れてしまいますと、一回の航過飛行で完了してしまう印象がありますが、何しろ習志野訓練場は狭い為、一度で全員が降下する事は出来ず、結果的に何度も上空を降下へ航過してゆくのですね。

 落下傘が自動開傘するまでは四秒間、いち降下ッ!にい降下ッ!さん降下ッ!よん降下ッ!!、開くまでを数えます、正にその瞬間がC-130の降下扉から跳んだ直後の空挺隊員が写っています、落下傘は引き出され、紐と共に開く瞬間を待っている瞬間が写りました。

 696ML/12落下傘は現在の13式空挺傘の前型に当ります、696ML/12落下傘が更にその前の60式空挺傘が空中で瀬食すると変形し高速落下する危険があったのに対し、空中で接触した場合でも元の形状へ戻るまで迅速という利点がある。ただ、絡まりやすい、ともいう。

 13式空挺傘は空中で接触した場合でも元の形状に迅速に復元する為、輸送機の左右両扉から同時に降下する事が出来ます。この利点は同じ降下点に対して一機あたり、いままで左右一方から降下したのに対し二倍の人員を迅速に降下できるという速度の利点があります。

 空挺大隊は380名、空挺中隊3個と大隊本部に情報小隊と通信小隊に対戦車小隊が就く。この空挺大隊は空挺団に3個ありまして、即応待機、准待機、訓練待機、とローテーションを組む事が可能です。この編成、2004年までは空挺普通科群、という一単位編成でした。

 KC-130空中給油輸送機からの降下が続く。C-130輸送機とKC-130空中給油輸送機は人員92名か空挺隊員60名、C-1輸送機は人員60名か空挺隊員45名を輸送します。これは単純計算ですが、空挺大隊380名輸送にはC-130H輸送機で7機、C-1輸送機で9機要る。

 空挺大隊には情報小隊は当然偵察オートバイや1/2tトラックで車両化されていますし、対戦車小隊には中距離多目的誘導弾が装備されている、空挺中隊にも一部は軽装甲機動車が装備されている。緩衝材と落下傘を加えると、これらを輸送するのはかなり嵩張ります。

 最先任曹長兼降下長が全員の降下完了、機内よし!扉よし!を輸送機機長に宣言し、お世話になりました!と喊声を上げて報告すると共に自らが最後の降下を行い、ここで航空自衛隊の空輸任務は完了、その瞬間から落下傘で降下し陸上自衛隊空挺部隊の任務が始る。

 航空自衛隊は小牧基地と入間基地に美保基地の三基地に輸送機を配備しています、小牧基地がC-130H輸送機とKC-130空中給油輸送機を装備する第401輸送航空隊、入間基地がC-1輸送機を装備する第402航空隊、そして美保基地が最新型機を有する第403航空隊を。

 C-2輸送機、川崎重工がC-1輸送機の後継として開発した新型輸送機を第403航空隊は運用しています、C-1は8t搭載し1500kmしか飛行できません。これがC-2では26t搭載し6800km飛行でき、最大37tまでの重貨物を搭載、人員だけならば10000km飛行できる。

 BTR-96装輪装甲車、仮設敵が攻撃を加えてきました。この空挺団降下訓練始めは空挺降下を展示すると共に空挺団の任務を空包用いた訓練展示模擬戦闘により展示します、つまり空挺部隊が降下した場所は我が領土を敵が占領しているとの想定です。戦が始まるのだ。

 96式装輪装甲車っぽいと思われるでしょうがBTR-96装甲車とした方が、仮設敵らしさが滲み出ているでしょう。74式戦車は仮設敵になった場合でT-74戦車、90式戦車ではT-90という戦車が実際に居ますし、K-90戦車とでも呼称するとそれっぽく感じるのでしょうか。

 P-3C哨戒機、下総教育航空群の機体です。状況によれば離島に敵が上陸し、奪還へ向かった空挺団に攻撃を加える兆候を見せているという。昨今の空挺団降下訓練始めでは島嶼部防衛を想定し、習志野訓練場を習志野島というような離島に見立てて状況を展開してゆく。

 P-3C哨戒機が旋回する、下総航空基地は房総半島南部に在ると勘違いする人が多いのですが、それは館山航空基地の方で下総航空基地は千葉県柏市に在ります。つまり習志野訓練場からかなり近い位置、航空基地祭は余り混雑しない穴場的な航空祭として有名な一つ。

 BTR-96装甲車部隊が我が空挺部隊に対し間合いを詰めてきます、しかし、空挺部隊の展開と共に敵が行動を開始したという事は、その位置を暴露しつつあるという事です。一方、P-3C哨戒機が飛行できる程度に航空優勢は我に有利、我が方の防衛作戦が本格化します。

 LR-2連絡偵察機、陸上自衛隊が保有する唯一の固定翼機が航空偵察を開始します。実は2016年のこの降下訓練始めの時点では僅かにLR-1連絡偵察機が木更津で運用中でありLR-1がこの日参加するという話題もあったのですが、飛来してきましたのはLR-2でした。

 LR-2は偵察ポッドを搭載する事で画像偵察機として運用可能、機内に観測員を複数搭乗させ情報収集機として運用する事もあります。更に前のLR-1は偵察任務に加えまして12.7mm機銃ポッドを搭載し、軽対地攻撃機、COIN機として運用する事も可能でした。

 LR-2はアメリカキングエア社製、現在のホーカーキングエア社のキングエア350自衛隊仕様機で、実は平時における情報収集任務や電波観測任務等、この規模の航空機、運用する需要は相応に大きく、自衛隊の導入数は僅かですが安価ですし数が在って良い機種と思う。

 BTR-96装甲車の攻撃が本格化しつつある、ここ前型LR-1であれば搭載する二丁の12.7mm機銃により、制圧出来たのかもしれません、BTR-96は重量14.5tの軽装甲車ですので上面を12.7mmで集中射撃したならば、撃破できたでしょう。反撃が怖いですが、ね。

 CH-47JA輸送ヘリコプターにより、空挺団本部偵察小隊の高高度降下が開始される。敵BTR-96装甲車は我がLR-2の強硬偵察を前に航空攻撃を警戒し、一時後退しました。そこで空挺団は更なる空挺部隊の投入を行うべく、高高度降下による情報収集を開始しました。

 自由降下による情報収集、空挺団本部には本部中隊として、偵察小隊と降下誘導小隊が置かれており、政府が外交政策では全く投了状態となった際に憲法上の権利を国民へ護るべく探す選択肢として、自衛隊で最後に頼る空挺団、その情報収集を行う事がその任務です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】平成28年第1空挺団降下訓練始【02】真冬の落下傘降下開始(2016-01-10)

2019-08-25 20:08:21 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■習志野に舞い降りる空挺団
 幕之内ではなく松之内の空挺団降下訓練始めは青空の一下にいよいよ落下傘降下の時機となりました。

 CH-47JA輸送ヘリコプターより高高度自由降下を開始する。空挺隊員は厳し空挺教育課程を修了し空挺徽章を手にしますが、空挺作戦は基本的に奇襲であり強襲作戦です。この為に更に空挺隊員より自由降下課程という高高度降下を行う専門要員の教育課程がある。

 自由降下開始、自由降下傘はパラグライダー方式の落下傘ですが、重量20kgと所謂パラグライダーよりも重く、各種装備を携行し降下する事が可能です。その到達距離は高高度自由降下を行った場合、更に30km奥地へ降下する事が可能で隠密且つ迅速な輸送手段です。

 自由降下の目的は隠密裏の内陸展開であり、これは大規模な空挺作戦に先立つ夜間浸透を行い、降下予定地を偵察する主任務で行われます。強襲作戦である空挺作戦は降下予定地を航空偵察するには、降下予定地が暴露する懸念があり、隠密裏に行わねばなりません。

 空挺降下予定地は奇襲の拠点であると共に航空機からの補給を受ける策源地でもある、その場所に敵が僅かでも展開しているならば、降下中という最も脆弱な状況で敵に暴露したまま損耗を被る危険があり、その為に万全の情報収集を行うのが、自由降下を行う部隊だ。

 習志野訓練場を舞台とする降下訓練始めでは、実感が掴みにくいのですが、空挺作戦が行われるのは敵主要補給路や策源地等の戦略目標、若しくは敵の脅威下にありつつ増援の展開まで時間を要する状況下での緊急展開任務です。共通点は味方の増援を受けにくいこと。

 UH-1J多用途ヘリコプターが習志野訓練場へ展開する、UH-1は1961年に運用開始したHU-1B以来自衛隊での運用を経て信頼を掴み、UH-1HにUH-1Jと改良型が導入されると共に現在、富士重工製造で双発型のUH-2を後継機として評価試験が実施されています。

 HU-1Bはアメリカのベル社製機体を富士重工がライセンス生産し、富士重工はその後一貫してUH-1系統の航空機ライセンス生産を行うと共に民間型の生産も担っています。この状況で降下を行う要員は、大規模空挺作戦に先行しての降下誘導小隊の降下開始でしょう。

 降下誘導小隊が展開を開始しました、空挺部隊展開の誘導準備が開始されます。降下誘導小隊の任務は大規模な空挺強襲に先立ち、輸送機へ信号送信を行い降下地点の誘導を行う事に在り、空挺隊員の中でも特に選抜した要員にて構成されています。信号には鏡を使う。

 空挺作戦、航空機という軍事上考え得る最速の手段で展開する一方、一旦降下完了してしまいますと、徒歩機動が主力となってしまいます。近年は輸送機能力向上により車両輸送も難易度は低くなりましたが、留意事項ではあり、その分の発動は万全の準備を要します。

 C-1輸送機の展開、空挺作戦の本番だ。C-1輸送機は川崎重工製高性能輸送機で、1970年に初飛行となりました。沖縄返還前の1970年、開発が具体化した1960年代は専守防衛の教条的遵守要求が強く、航続距離を抑える必要はありましたが、その分高速度を重視した。

 降下開始。空挺団は今も昔も降下前の行くぞを指し示す怒号の様な号令と共に降下を開始します、降下前の大声はアメリカ軍でも、あのロシア軍でも怒号で号令を掛けつつ、最後の安全点検を行うという。安全点検にやりすぎは無く、飛び出した後で戻りは出来ない。

 降下用意!環掛けッ!、C-1輸送機の機内には落下傘開傘紐と直結した環紐を通す導線が張られており、降下用意の号令と共に導線と環を一本化します。装具点検!、空挺隊員は前の空挺隊員装具の安全を四カ所に分け確実に点検します、これ故に空挺は仲間を信頼する。

 C-1機内の導線と落下傘は一体化しています、位置就け、この号令とともに、用意の号令を待ち、降下へ、降下その瞬間に自重で開傘紐は強く引かれる、こうする事で空挺隊員が輸送機を飛び出した瞬間に開傘紐は解き放たれ、空で自動的に丁度四秒後、落下傘は花開く。

 用意用意用意!、降下降下降下!、この号令とともに四秒一名の滞りなく一つの扉から空挺隊員は力いっぱいに大地へと飛び出します、瞬間の躊躇いも気の迷いも許されない、事故に繋がる為で、確実に降下できるように空挺隊員は常に初心を忘れず訓練と点検に向う。

 いち降下ッ!にい降下ッ!さん降下ッ!よん降下ッ!!、飛び出した瞬間に空挺隊員は舌を噛まぬよう、しかし着実にこの号令を習慣づけます、四秒で開く落下傘、この四秒を数える、そして開かなければ、事故、そのまま落下を避けるべく即座に胸の予備傘を用いる。

 習志野訓練場へ次々と降下する空挺隊員、空挺団では前身となる1956年の第101空挺大隊創設以来、不開傘という落下傘が開かない事で墜落する事故は三度しか起きていません。しかし言い換えれば三度起きているのであり、着地の瞬間まで、安全確保へ気は抜けない。

 五転接地着地、両足を踵併せ閉じて接地した瞬間に膝下脚部を撓わせて曲げつつ腰部と太腿から転がり回り背中で仰向けへ大地へ横たわると共に反動を利用し立ち上がる、要するに着地した瞬間に体を曲げて転がり衝撃を吸収する、慣れると三階から落ちても怪我無し。

 C-130輸送機からの空挺降下が開始される。降下用意!環掛けッ!、装具点検!、用意用意用意!、降下降下降下!。この号令は無線中継をそのまま会場のスピーカーを通じて響き渡っています。いち降下ッ!にい降下ッ!さん降下ッ!よん降下ッ!!、この大空に響く。

 C-130輸送機は完全武装の兵員92名を登場させる事が出来ます。しかし空挺隊員は巨大な落下傘と予備傘を身に着ける為、60名しか登場する事が出来ません。C-1輸送機も60名を輸送するのですが、空挺隊員を輸送する際には45名まで抑えて飛行します。装備は重い。

 KC-130空中給油輸送機が展開する、航空自衛隊にまだ2機しか装備されていない装備で、C-130H輸送機を改修し導入されました、KC-130空中給油輸送機の任務は救難用のUH-60J救難ヘリコプター支援で、これにより広い洋上での救難任務の達成率は高まった。

 用意用意用意!、降下降下降下!。会場へ響き渡るのは降下の号令と共にと軍歌“空の神兵”、旧陸軍のパレンバン空挺強襲作戦やメナド空挺作戦、そして絶望的な状況へ立ち向かったレイテ高砂空挺作戦と陸軍空挺部隊の意地を示した沖縄の義烈空挺作戦が戦史に残る。

 みよ落下傘空に舞い!みよ落下傘空を往く!、“空の神兵”に謳われた様子が再現されているのですが、習志野訓練場が狭い関係で同時に降下できる落下傘が限られています、一機一機が一列で進入していますが、出来れば編隊で降下できる広さのある訓練場が望ましい。

 報道席の奥へ降下する空挺部隊、報道席と云いますと素晴らしい撮影環境が用意されているように思えるのですが、其処で撮った方曰く、両線の向こうは政府関係者や空挺団関係者席となっていて、丘陵の陰になってしまい見えない、仮設敵にはこれ反射面陣地だ、と。

 降下する隊員とC-130輸送機、丸い形状の落下傘が変形しているようにみえるのは、拡大すると紐を引いている隊員が見えます、これは丸い形状の落下傘でもある程度操縦出来るよう設計されていまして、これにより訓練場外へ着地しないよう、操作しているのですね。

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【日曜特集】平成28年第1空挺団降下訓練始【01】中谷元防衛大臣の到着(2016-01-10)

2019-08-11 20:15:08 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■正月幕之内の第1空挺団
 陸上第1空挺団、日本自衛隊に精鋭部隊は数あれど間違いなく最精鋭筆頭に挙げられる、別名日本唯一の軍隊とはここ。

 陸上幕僚長岩田清文陸将が搭乗するCH-47JA輸送ヘリコプターが飛来する、岩田陸将は元71戦車連隊長という戦車乗りで、元第7師団長、前任はあの東日本大震災統合任務部隊司令官を務めた事で評価され東北方面総監から陸幕長を補職された君塚栄治陸幕長です。

 ここは千葉県習志野訓練場上空、この日は2016年1月10日、毎年念頭に挙行される第1空挺団降下訓練始が挙行される念頭記念日です。第1空挺団は大臣直轄部隊である中央即応集団即応部隊であり、世界中如何なる任地へも危険な任務へも即応する空中挺身部隊だ。

 CH-47JA輸送ヘリコプターは陸上自衛隊が55機と世界的に見ても多数を装備していまして、更に航空自衛隊もレーダーサイトへの輸送用に20機を運用、自衛隊全体で75機を運用しています。川崎重工でのライセンス生産により、稼動率と信頼性も高い点が特色です。

 第1ヘリコプター団はCH-47JA輸送ヘリコプターを32機集中配備する自衛隊最強のヘリコプター輸送部隊で、この日は降下訓練始め視察の高級将官や政府要人の空輸支援にも当っています。空輸支援に加え、当然降下訓練始めへ参加する機体も既に退去展開している。

 第1空挺団降下訓練始め、この訓練は展示訓練的な意味合いが大きく、報道公開されると共に広く一般にも公開されています。毎年この行事が最初の自衛隊行事撮影という方も多く、開門時間は勿論、早朝というよりも深夜の時間帯から訓練場前に並ぶ人も多いという。

 高射教導隊第3中隊の87式自走高射機関砲が待機位置へ前進してゆきます。空挺団の年頭行事ではあるのですが、その支援には陸海空自衛隊の様々な部隊が協同していまして、なかなか見る事が出来ない装備品が普通に参加しますのも、多くの見学者が集う理由の一つ。

 第1戦車大隊の10式戦車が。おお、歓声が。2016年では既に北海道の第2戦車連隊と第1戦車大隊と第8戦車大隊へ配備開始、間もなく第71戦車連隊と第4戦車大隊へも配備開始となる、ただ、戦車数削減政策により本来この年に第3戦車大隊への配備予定は中止に。

 CH-47JA輸送ヘリコプターが更に一機、上空に展開します。第1ヘリコプター団はここ習志野訓練場の所在する千葉県と並ぶ千葉県木更津市、木更津駐屯地に駐屯しています。CH-47JA輸送ヘリコプターとは、CH-47J輸送ヘリコプターの航続距離を延伸したもの。

 空挺隊員が落下傘で降下する。先程飛行のCH-47JA輸送ヘリコプター一機の後部扉から空へ躍り出た空挺隊員と直後に開く落下傘、見よ落下傘!空に舞い、とはいうもののん、いきなりの空挺降下開始か、とまだカメラ準備できていないのに、等という様な流れには。

 降下試験ですので、そんな流れにはなりません。この日は快晴、ですが、一定以上の強風ですと落下傘降下が中止、となる事もあります。ここ習志野訓練場は空挺部隊の訓練場としては、米軍特殊部隊員が驚く程に狭く、強風の最中で降下しますと市街地に出てしまう。

 UH-1J多用途ヘリコプターとペトリオットミサイル、ペトリオットミサイルは都市部防空用の航空自衛隊の装備ですが、これは別に訓練参加ではなく、習志野分屯基地に展開する第1高射群第1高射隊の装備で、万一の低空侵攻に備えて、日夜即応体制を執っています。

 兒玉恭幸陸将補、第1空挺団長の空挺降下です。第1空挺団降下訓練始めでは伝統として空挺団長以下主要幹部と最年長の空挺隊員と共に最年少の空挺隊員が先陣を切って降下します。空挺団は全員空挺徽章持ち、有事の際には指揮官先頭で戦闘落下傘降下ができる。

 空挺とは空中挺身の略称です。これは旧軍時代の造語なのですが、諸外国の空挺部隊は直訳しますと落下傘部隊やパラシュート部隊という名称が付与されます。ただ、主力から前進し独立戦闘を担うという空挺部隊の運用を考えますと、落下傘部隊よりも納得がゆく。

 空挺団は陸将補の空挺団長を指揮官に1佐の空挺団副団長と空挺団高級幕僚を置き、空挺団本部、第1空挺大隊、第2空挺大隊、第3空挺大隊、空挺特科大隊、空挺団後方支援隊、空挺通信中隊、空挺施設中隊、という編成です。各部隊の隊長が、この降下で続いて行く。

 696ML/12落下傘、2000年から採用されているフランス製落下傘ライセンス生産品を装備しています。実は既に13式空挺傘としてこの降下訓練始めの時点では後継落下傘が採用されていますが、この降下訓練始めは全部隊が習熟している696ML/12落下傘を用いました。

 13式空挺傘、落下傘に高性能低性能はあるのか、と疑問がもたれるかもしれませんが、696ML/12落下傘では狭い地域へ集中投下する考慮は無く、低速で空中接触した場合に絡まる危険がありました、13式空挺傘はこの点が改良され、多数が同時展開できるように。

 CH-47JA輸送ヘリコプターが、四つ星を冠して要人輸送任務に当っています。この行事では統合幕僚長と海上幕僚長に航空幕僚長が視察します。先ほどの陸上幕僚長到着は、ここまでの空挺団幹部の降下を視察する、という目的で一足先に進出したのでしょうか、ね。

 55名の人員を同時空輸するCH-47JA輸送ヘリコプターは着陸時に物凄い砂塵を巻き起こします。詰め込めば80名程度ならば普通に空輸できますが、1982年にフォークランド紛争ではイギリス陸軍が通勤電車方式で詰め込み210名を短距離空輸した事例もあります。

 要人が続々と到着する。CH-47JA輸送ヘリコプターは、中距離多目的誘導弾や93式近距離地対空誘導弾にP-19対空レーダ装置と牽引車を含む120mmRT重迫撃砲と軽装甲機動車等を空輸できます。短距離ならば、FH-70榴弾砲や81式短距離地対空誘導弾本体も載る。

 C-1輸送機が、離陸したCH-47JA輸送ヘリコプターの奥に見えました。既に降下訓練は試験効果により視程も風速も共に可能という決定があり、空挺降下に備えて既に航空自衛隊輸送機複数に分乗した空挺隊員は千葉県上空を旋回しつつ降下開始まで、空中待機中です。

 中谷元防衛大臣の到着、中谷大臣は第一次小泉内閣において第67代防衛庁長官を経験、第三次安倍内閣では再任され、今回の降下訓練始めを第14代防衛大臣として視閲しました。そして防衛大学校出身で2尉まで務めレンジャー徽章も有しますが、退官し政治の道へ。

 中谷大臣は宮沢喜一代議士秘書等を務め1990年に衆院選に郷里高知県より候補、以来一貫し経験を積んでいます。ちなみに防衛大学校ではこの当時の陸幕長の先輩に当るとも。あまり関係ないですが、誕生日は10月14日でして、鉄道の日にあたる。これは余談ですよ。

 要人輸送は此処で完了、在日米軍関係者を含め多くが。なお、この降下訓練始めを欠席する防衛大臣は再選できないという逸話がありましたが、民主党政権時代の北澤俊美大臣と一川保夫大臣と田中直紀大臣は此処に来ていたが後の衆院選で全員落選、逸話だったよう。

 高高度を飛行するCH-47JA輸送ヘリコプター、良く見ますと高高度を飛行する機体の後部から人員が飛び出しているのが見分けられるでしょうか、そう、高高度自由降下を始めている様子が見えます、いよいよ、ここから2016年第1空挺団降下訓練始めが開始されます。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【9】想い出の赤鷲戦車隊(2012-04-29)

2019-07-28 20:07:34 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■思い出の即応近代化旅団
 今回の第九回が第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭特集の完結編となります。

 第14旅団、今回写真にて行事を紹介しています2012年と2020年代を目の前とした今日では第14旅団の編制は同じ善通寺駐屯地にあって大きく変容しています。ある意味で回顧録というよりは懐古趣味的、といえる写真としてご覧になる方も居るかもしれませんね。

 即応機動旅団への2018年改編により全国へ機動展開する能力を整備された、という説明が為されますが2012年の行事が行われる事を遡る二年前、あの東日本大震災においても第14旅団は全力で出動しており、第2混成団時代には、阪神大震災へも派遣されています。

 即応機動旅団となった第14旅団の現在は、旅団司令部、同付隊、第15即応機動連隊、第50普通科連隊、中部方面特科隊、第14偵察隊、第14高射特科隊、第14施設隊、第14通信隊、第14飛行隊、第14特殊武器防護隊、第14後方支援隊、第14音楽隊、というもの。

 善通寺市での行事一つをとっても実は大きく変容しています、2018年の行事へと撮影に赴きましたが、2018年の善通寺駐屯地祭では市街パレードとしまして今回の特集で紹介した観閲行進は市内の公道において善通寺五重塔を背景に広く強く勇壮に実施されていました。

 第14旅団は2012年時点で、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設隊、第14通信隊、第14特殊武器防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊等、という、今日とは大分に違う。

 市街パレードは2017年の即応機動旅団改編前年から実施されていまして、2017年の市街パレードでは第14戦車中隊の74式戦車が観閲行進を行っています。思えばこの行事で活躍した第14戦車中隊は既にもう無くなっているのですね、部隊マークも廃止されています。

 74式戦車を駆っていた第14戦車中隊は第15普通科連隊の第15即応機動連隊へ改編された際に第15即応機動連隊機動戦闘車隊として統合されていまして、装備品は74式戦車から16式機動戦闘車へと転換しています。もっとも、いろいろと云われる装備ではあります。

 第8師団、南九州を防衛警備管区とする西部方面隊隷下の師団ですが、実は何気にこの第14旅団と張り合っている、思い込みだと思うのですが率直な印象として思ったところがあります。なんといいますか、第8師団祭と第14旅団祭は、四月の同日に行われる事が多い。

 即応機動師団へ第8師団が改編されたのは2018年3月、第14旅団と第8師団は同じ年度末に即応機動師団と即応機動旅団へ改編されているという。実は第14旅団は諸般の事情で改編行事が一日遅れて四月一日、新年度初日に行われています。まあ、ほぼ同日ですね。

 2017年に74式戦車が善通寺市内を市街パレードで勇壮に轟音を響かせた、というその日に当方は何をやっていたのか、と言いますと、はい。その日北熊本駐屯地に居ました。10式戦車が轟音を響かせていました、第8戦車大隊と第8特科連隊の最後の行事参加と聞き。

 2018年に善通寺駐屯地祭へ進出された方々の中には、第8師団に行くか第14旅団へ行くか、迷われた方が多いという。実は新編行事を行脚したという方が居まして、知り合いの知り合いには、なんと自家用車で北熊本と善通寺を一日で移動したという猛者までいます。

 北熊本駐屯地へ前年いったからこそ2018年に善通寺に行った当方は74式戦車善通寺の最初で最後の市街パレードを2012年に善通寺で第14戦車中隊撮ったからいいよね、という。しかし、これには面白い話がありまして、此処まではいうなればまあ主観的な要素が多い。

 16式機動戦闘車が善通寺駐屯地祭2018において空包射撃を行う、とは旅団広報の方が強調していたという事ですが、その話を第8師団広報の方に話したお方から聞いたお話し、第8師団は16式機動戦闘車の他に10式戦車も同時に射撃します、と張り合っていたとも。

 考えれば、これから即応機動師団と即応機動旅団は次々に改編され誕生してゆきます。もちろん、三個普通科中隊の装甲車という者は世界規模で視ればそれ程大層なものではなく、96式装輪装甲車も世界的に視れば安価に量産できていますのでもっと改編は多くてもいい。

 その上で2012年の時点では分らなかった、と言いますか現時点でもわからない部分があります、第15即応機動連隊が創設されたものの第50普通科連隊はどうするのか。第15即応機動連隊は硬度に装甲化されていまして16式機動戦闘車も二個中隊ある。では50連隊は。

 第50普通科連隊は2012年時点では第14特科隊のFH-70榴弾砲と第14戦車中隊の74式戦車によりささやかながら連隊戦闘団を編成する事が出来ましたが、第14戦車中隊は前述の通り第15即応機動連隊へ統合、第14特科隊は中部方面特科隊で運用が難しいといえる。

 第14飛行隊が増強改編でもされていましたらば、第50普通科連隊は第15即応機動連隊の機動打撃力を空中機動と共に速力で協同する、といえるのかもしれませんが、第14飛行隊は当初計画ではヘリコプター合計10機程度を考えていたというも実際は4機に過ぎません。

 即応機動旅団と云いますが地域配備部隊としての第14旅団の中から選抜部隊として、非常に失礼な言い方ですが恰もスポーツ全国大会に行く様な代表部隊として優秀な装備を充てられているような錯覚も感じまして、実際防衛出動に第50普通連隊はどう臨むのでしょう。

 高機動車主体の普通科部隊ですが、もちろん警備任務を筆頭に重迫撃砲も対戦車ミサイルも装備していますし、錯綜地形であれば彼我混交の状態に持ち込むことで戦車さえも敵ではありません。市街地戦闘では普通科部隊の独断場といえる、次いで施設科部隊の、と。

 輸送防護車のような耐爆車両が高機動車に代えて大量装備されたならば、また様々な運用が可能となのるのかもしれませんが、この豪州製装甲車両は通称ブッシュマスター、しかし宇都宮の中央即応連隊が導入した際に取得費用を見ますと96式装輪装甲車より若干高い。

 ブッシュマスターは車内容積が十分確保されていまして、長距離機動に最適といえるものではあるのですが96式装輪装甲車と車高が高く、取得費用も一割五分ほど高い。世界的に視れば96式装輪装甲車が完成度まあまあ、取得費用手頃、という優れた車両なのですね。

 さて即応機動旅団となった第14旅団ですが、改編前の第14旅団は東日本大震災に1500名もの隊員を派遣しています、第15即応機動連隊が900名規模といいますので、防衛出動を考えた場合、当然留守部隊を残し第50普通科連隊も派遣される事は間違いありません。

 第14偵察戦闘大隊のような部隊へ第14偵察隊を増強改編する必要、その上で第50普通科連隊と協同するなどの施策は、検討されてしかるべきでしょう。もっとも、偵察戦闘大隊には機動戦闘車よりも打撃力と防御力に情報収集能力に長けた戦車中隊が必要とも思うが。

 さてさて、今回が最終回です。第14旅団はこの後に即応近代化旅団から即応機動旅団へと改編され、ここまで紹介しました第14戦車中隊、通称赤鷲戦車隊は廃止され歴史ある第15普通科連隊は第15即応機動連隊へ改編されました。今見返しますと、懐かしい情景ですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【8】訓練展示状況終了(2012-04-29)

2019-07-14 20:02:17 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■軽装甲機動車の躍進
 第14旅団祭善通寺駐屯地祭の訓練展示はいよいよ佳境を迎えてきていますが、撮影位置からは少々と遠い。

 創設記念行事を紹介していますが、本行事は即応機動旅団改編前の2012年のもの。現在の第14旅団は強力そのもの、主力の第15即応機動旅団が、北海道から東京と沖縄、又は世界の隅々まで、必要があれば即座に出動する即応機動旅団という編成となっています。

 2012年当時の第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設隊、第14通信隊、第14特殊武器防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊等、という編成になっていました。

 2020年代に向かう第14旅団の陣容は以下の通り。旅団司令部、同付隊、第15即応機動連隊、第50普通科連隊、中部方面特科隊、第14偵察隊、第14高射特科隊、第14施設隊、第14通信隊、第14飛行隊、第14特殊武器防護隊、第14後方支援隊、第14音楽隊、と。

 第15即応機動連隊は、久々に日本へ騎兵連隊が戻ってきた、との印象でした。96式装輪装甲車で充足された三個中隊に16式機動戦闘車の2個中隊、120mm重迫撃砲装備の火力支援中隊に75式装甲ドーザーから93式近距離地対空誘導弾まで備えた本部管理中隊という。

 騎兵連隊は機動力を活かして側面攻撃や後方連絡線遮断、相手の防御陣地が防御力薄弱であれば正面攻撃による突破も可能です。現代では航空騎兵部隊や戦車部隊へとってかわられた部隊ですが、敵情解明するという騎兵の任務はそのまま偵察部隊へ受け継がれている。

 96式装輪装甲車が三個中隊分整列した情景というものは、富士学校や北海道の旅団行事であればこのくらいは普通であったのですけれども、2018年の即応機動連隊編成完結式の居並ぶ迫力は、なるほど本州にも中央即応連隊のほかにも強力な部隊が、という印象でした。

 威力偵察、自衛隊はもう少し偵察というものに本腰を入れなければ、師団偵察隊には87式偵察警戒車が5両配備され、2000年代に入りここに機銃装備の軽装甲機動車が加わったのみ、これでは敵の前衛を突破できません、そして前衛を相手に生き残れるかも確証がない。

 16式機動戦闘車が2個中隊あれば、現在の配備定数から機動戦闘車中隊の装備定数が戦車中隊の14両編成よりも小型の可能性はあるのですが、それでも5両の87式偵察警戒車よりもかなり生存性が高くなったといえるでしょう、前衛を突破できる可能性も出てきます。

 即応機動連隊の96式装輪装甲車三個中隊は、16式機動戦闘車の打撃力では敵前衛を突破できない状況、例えば戦車部隊を前衛に派遣している状況や多数の歩兵戦闘車と共に複郭陣地を形成されている場合などに普通科部隊ならではの機動力により偵察が可能でしょう。

 普通科部隊はあらゆる地形を克服する唯一の職種、必要であれば下車戦闘を展開でき、これは普通科の錯綜地形を最大限活かす能力と相まって、主陣地を解明するには大きな能力となります。そして180名しかいない偵察隊よりも、長時間に戦闘継続が可能でしょう。

 偵察部隊として虎の子即応機動連隊を動員するのは、と思われるかもしれませんが、統合機動防衛力に関する防衛省解説では、武力攻撃を受けた場合、当該地域の地域配備部隊に続いて即応機動部隊が投入され、続く重装備の部隊の投入への拠点を、と説明されている。

 北部方面隊の重戦力を主体とした部隊が第三次動員部隊と理解するならば、その前に投入されるという第二次投入部隊である即応機動連隊の性質は、やはり機動力を以て展開し、敵の陣容と戦力を解明するための偵察部隊としての性格を有している、といえるでしょう。

 第14旅団は、しかし改編前の編成を考えますと、陸上自衛隊の将来を考える上で重要な要素を含んでいます。第14旅団の編成に第7高射特科群と中部方面航空隊を高射特科連隊とヘリコプター隊として編成に加えた場合、どうか。那覇の第15旅団と似た編成ですが。

 師団という作戦単位が、相次ぐ人員の抽出、これは中央即応集団や水陸機動団という新部隊を自衛隊全体の定員をほぼ動かさないまま新編し続けたためですが、年々人を減らし、定員割れではなく定員そのものを縮小、ほぼ形骸化、名ばかり師団を生んでしまいました。

 2000年代までは、人員は少なくとも戦車大隊と特科連隊があり、地対空ミサイルと防空レーダーまで一通り備えている、一方面を担任できる作戦単位としての師団の体裁は保っていましたが、2020年代を前に、特科火砲は方面直轄へ、戦車は廃止、という流れが進む。

 地域配備部隊としての部隊を維持するのであれば、要するに動かさない部隊として、方面隊が有するホーク部隊、ホークは年々03式中距離地対空誘導弾へ換装されていますので戦域防空部隊というべきか、これと方面隊が有するヘリコプター部隊を加えてはどうか。

 旅団として一つの方面を、地域警備と戦域防空を担える部隊として維持できるでしょう。しかし、これでは旅団であり師団ではありません。続く選択肢として、方面混成団と旅団を統合し、師団を構成する。これで少なくとも定員は10000名規模とできるでしょう。

 即応機動師団と即応機動旅団以外の部隊は、こうした旅団混成団統合型地域配備師団としたほうが、部隊の体裁が取れるのではないか。もちろん、地域配備とはいっても第14旅団型の部隊ですので、連隊戦闘団を編成し初動部隊としての任務も担える事は確かですね。

 北部方面隊のように自衛隊全体で重装備が集中配備される部隊は別として、本州の戦車部隊を廃止し特科部隊も方面隊直轄であり、配分された場合でも特科火砲が師団あたりに一個大隊のみ、という師団については方面混成団との混成を真剣に検討するべきと考えます。

 地域配備師団の概案を。中部方面隊は第3師団を中部方面混成団と統合し、地域配備師団へ。東部方面隊は第1師団を東部方面混成団と。西部方面隊は第4師団を西部方面混成団と師団を。東北方面隊も第9師団を東北方面混成団と統合し師団へ。五個師団が望ましい。

 即応機動師団改編は北海道以外では東北方面隊第6師団が予定されており、現在既に改編が成った西部方面隊の第8師団がある。即応機動旅団は第14旅団が改編完了で、続いて東部方面隊第12旅団が即応機動旅団へ改編予定となっています。これらを本土に集約すべき。

 北部方面隊に新たに即応機動師団と旅団が改編されますが、現状充分な防衛力を有する師団の即応機動師団改編を二つ棚上し、資材を中部の第10師団、第13旅団へ充当する事で、基本的に本土の師団旅団を地域配備部隊は一応の規模を、機動運用部隊は装備をまわせる。

 地対空ミサイル部隊と地域配備部隊の統合という視点は、第14旅団よりも那覇の第15旅団を彷彿させるものですが、第15旅団以上に特科部隊と戦車部隊を少なくとも隷下に置いており、火力戦闘と機動打撃、独立運用できる野戦部隊として充分な能力を有しています。

 第14旅団は、陸上自衛隊が長年研究した部隊編制の集大成の一つといえる。その上で、十年単位の長期計画である防衛計画の大綱が数年おきに改訂される状況下で次々と加えられる新任務対応へやせ細る師団へ、何か打開策を第14旅団が有しているように見えますね。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【7】訓練展示状況開始(2012-04-29)

2019-06-30 20:10:22 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■善通寺駐屯地祭模擬戦
 第14旅団記念行事は観閲行進が完了し訓練展示へ、併せて当方も撮影地を訓練展示の攻撃部隊正面へ陣地変換しました。

 訓練展示状況開始という事で第50連隊が前進開始しますと進路上に敵の仕掛けた地雷が/第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設隊、第14通信隊、第14特殊武器防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、というものが2012年の編制となっている。

 第14戦車中隊と協同し攻撃を試みるも敵の敷設した地雷原の幅は意外な程に厚いと判明/第14旅団、改編当時の編制では旅団司令部以下、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊という編成です。

 わが中隊長はOH-6D観測ヘリコプターによる航空偵察を以て陣地など敵情解明を命じる/第2混成団時代まで遡りますと、混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、というものですので、混成団から旅団、実に立派に育ったというところでしょう。

 74式戦車は機動力を活かして防御側面の突破を計ると共にレンジャーの投入が決定する/軽装甲機動車と高機動車を装備する普通科連隊に、戦車中隊は74式戦車と96式装輪装甲車を、特科隊はFH-70榴弾砲を装備し高射特科中隊は81式短距離地対空誘導弾と93式近距離地対空誘導弾を、対空レーダ装置に対砲レーダ装置まで一通りの装備を有しています。

 第14特科隊のFH-70榴弾砲が展開を完了し把握した敵陣地への攻撃準備射撃が開始へ/普通科連隊は本部管理中隊に3個普通科中隊という編成で、本部管理中隊には重迫撃砲小隊が120mm重迫撃砲RTを装備、普通科中隊のうち一個は軽装甲機動車を装備している編成で、81mm迫撃砲と87式対戦車誘導弾も装備している旅団普通科連隊となっています。

 UH-1J多用途ヘリコプターが進出し内一機が重機関銃にてレンジャー展開を支援する/旅団普通科連隊という編成は、本部管理中隊に三個普通科中隊を加えた編成です。実員は650名程度で、実質師団普通科連隊の半分強程度の人員を有するのみで、かつての自衛隊草創期における混成団普通科連隊の隷下に配置された普通科大隊と同程度の人員規模という。

 12.7mm重機関銃を突出し発見した仮設敵の前哨陣地に対し空から猛烈な射撃を加える/普通科大隊ではなく普通科連隊となっているのは、本部管理中隊を有する事で通信や補給整備面で一つの独立作戦応力を有するという部分と共に、災害派遣などで隊区を有する為には連隊編成である必要が、と説明された事もあります、しかし人によっては違う回答も。

 仮設敵部隊は前哨陣地から激しくAR-18/AK-89小銃を撃ってヘリコプターを牽制するが/第3戦車大隊は、今津駐屯地に駐屯する精鋭戦車部隊で、連隊ではありませんが滋賀県を防衛警備隊区、としています。滋賀県において災害は発生した際には滋賀県知事は最寄りの京都府福知山駐屯地の第7普通科連隊ではなく、第3戦車大隊長へ災害派遣要請を出す。

 レンジャー隊員が空中機動により進入する事には仮設敵前哨陣地はほぼ制圧されている/普通科大隊であっても隊区を有する事が出来る事を示しているのですよね。普通科大隊では本部管理中隊を置けない、というのであれば普通科隊とする選択肢がある。偵察隊や特科隊と同じ隊編成です。もっとも、この場合は伝統の連隊旗が維持できなくなるのですが。

 UH-1Jはレンジャー展開へ一挙に前進するが同時にOH-6Dが敵主陣地発見の一方が入る/旅団という作戦単位が自衛隊へ再整備されたのは意外と新しく1999年に第13師団が第13旅団へ改編された際の新編です。それ以前には戦車団や特科団と空挺団が事実上の旅団と扱われていましたし、機械化混成団についても事実上の旅団でしたが呼称は旅団ではない。

 FH-70榴弾砲が効力射を開始し実際であれば30kmを隔てて行われる砲兵戦の始りをみた/旧陸軍には旅団という呼称が普通のように使われていまして、師団隷下に旅団を置いた事例もあれば群司令部直轄の独立混成旅団という作戦単位もありました。自衛隊も1962年の管区隊と混成団の師団改編の際に、可能性としては旅団単位があり得たかもしれなません。

 OH-6D観測ヘリコプターは情報収集から本来任務たる着弾観測任務へ移行し砲弾を導く/機械化混成団は、しかし実際には1962年の師団創設改編において管区隊の一部を割譲し併合する形で増強改編が行われ、管区隊は15000名規模から9000名規模へ縮小し甲師団へ、混成団は4000名と6000名規模の編制から7000名編成へ拡充させ乙師団へとなりました。

 発砲焔が眩しく刹那一瞬遅れて155mm榴弾砲の雷鳴のような稲妻のような響きが轟く/旅団普通科連隊という作戦単位が初めて導入されたのは正にこの時で、実は第13師団が旅団改編される数年間は識者の間でも編成概要が第13師団の3個普通科連隊編成が2個普通科連隊体制となり、連隊隷下の普通科中隊数が維持されるとか、大隊縮小等色々云われた。

 弾着今の号令と共にはじける疑爆筒と舞い上がる白煙を前にこの撮影位置失敗かもと思う/都道府県知事の観点からは、やはり地元に普通科連隊が置かれている事の方が災害派遣要請の際に即座に対応できる、という実情があるようです。普通科連隊が置かれていない奈良県や富山県と福井県では実際に、自衛隊駐屯地誘致運動が行われている程ですから、ね。

 UH-1J多用途ヘリコプターからレンジャーロープ降下による浸透が遂に開始されました/郷土部隊、という表現がありますが、地元の部隊というものはやはり大事にされるものです。本項冒頭に第2混成団から第14旅団となり、現在の即応機動旅団となった旅団までを立派に育った、と表現しましたが、逆に、地元に育てられた、といえるのかもしれません。

 レンジャーの展開を若干航空火力としては限界のある12.7mm重機関銃で掩護する僚機が/高知県の第50普通科連隊、この第14旅団隷下部隊に関するお話を聞きますと、郷土部隊という位置づけの重要さを、具体的には県民や行政に愛される部隊というものを考えさせられます。これは前述しましたが、第50普通科連隊は高知移駐前に行事が行われたほど。

 レンジャーは降着完了と共に徒歩の踏破力を最大限活かし錯綜地形を利用し前進してゆく/1200名規模の師団普通科連隊が配置されるならばそれに越した事ではないのでしょうが、高知県としては人員規模が小さくとも連隊旗を奉じて県内の防衛警備及び災害派遣に当る事が、特に南海トラフ巨大地震の脅威を突き付けられる最中では特に、重要なのでしょう。

 74式戦車が盛んに105mm戦車砲射撃で探りを入れつつ中隊本部へ障害処理の要請を行う/千葉県習志野の第1空挺団、ここには空挺普通科大隊が3個置かれています。もともとは空挺普通科群という編成でしたが、増強改編の際に三個大隊編成へ転換したのですね。空挺普通科大隊の編制は340名基幹で3個空挺普通科中隊と大隊本部を基幹としています。

 96式装輪装甲車が70式地雷原処理装置を搭載し敵の攻撃を受けにくい位置の処理へ進む/普通科大隊という編成はこのように、空挺団において再編成されているのですね。空挺団の増強改編は2004年に実施されていまして、空挺団は長年部隊待機態勢の関係上三単位編成へ転換を望んでいました。しかし、この普通科大隊、規模は旅団普通科連隊の半分ほど。

 障害処理支援射撃の要請が第14特科隊のFH-70へ出され特科部隊は即座に射撃を開始へ/習志野の普通科大隊を視ていますと、やはり旅団隷下に普通科大隊、という呼称は無理があるようには見えるのですが。特に習志野に空挺団全てが駐屯していますので成り立っていますが、普通科大隊だけで駐屯地を維持しようとすると業務隊と不均衡が生じかねない。

 地雷原は我が方へは障害ですが敵には防御陣地であり防御に向かう敵の攪乱へ特科が撃つ/大隊編成ですが、しかし、本特集で提示しました即応予備自衛官制度と併せて考えますと一つの選択肢となり得るのでしょうか。要するに、本部管理中隊と第一普通科大隊に第二普通科大隊という編成、第一普通科大隊が現役要員で第二普通科大隊を即応予備自衛官に。

 一際大きな爆破の展示と共に巻き上がる白煙の向こうを画像補正で透き通るように試した/即応予備自衛官部隊は訓練日数が年間30日と、同じ予備役部隊でもアメリカ陸軍州兵の年間訓練日数50日と比較しても少ないのですが、駐屯地を出て防衛出動や災害派遣に展開する場合は第一大隊のみとし、第二大隊は即時召集し留守部隊として管区内の事態に備える。

 74式戦車が障害処理完了を待ちつつ長大105mm戦車砲は躍動する車体と共に敵を睨む/日本本土決戦、という可能性は専守防衛政策を憲法上選択したのですから不可欠なのですが、実際は数千単位や万単位の犠牲者が生じる危機について、災害派遣のほうが現実として多く、この場合は機動運用するには不測の事態に備え、留守部隊を残す必要があります。

 障害処理完了示す地雷誘爆の大きな爆発の展示はその向こうに96式装輪装甲車が見える/統合機動防衛力として自衛隊全体が機動運用を行うという政策を進める以上、警備隊区から離れて出動する場合に、留守部隊をどう維持し統合機動防衛力と両立するのかは、実は非常に大きな課題となります。これは日本全体で、考えてゆくべき視点といえるでしょう。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【6】戦車隊と航空部隊(2012-04-29)

2019-06-16 20:08:33 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■老兵74式戦車の迫力
 観閲行進はいよいよ最終段階、第14戦車中隊の74式戦車と第14飛行隊のUH-1J多用途ヘリコプター等が立体的に行進を行います。

 第15即応機動連隊は、第14旅団の即応機動旅団改編と共に第15普通科連隊から改編されました。実は改編が決定した翌年には第14戦車中隊の本部車両として配備されていました96式装輪装甲車へ第15即応機動連隊と明記、行事の訓練展示へ参加した事例もあった。

 96式装輪装甲車は改編が決定した時点で三個中隊が配備される、という話だったのですが、正直なところ自衛隊が保有する96式装輪装甲車は400両程度、その中で四国にそれほど多くを掻き集められるのかなと思ったりもしたのですが、編制完結できたのは御存じの通り。

 96式装輪装甲車もそうですが16式機動戦闘車も配備され、特に96式装輪装甲車は冬タイヤへの交換やチェーン装着も大変である、と昔に北海道真駒内駐屯地の第11旅団で聞いたことがありましたので、実は見た目以上に苦労があるのかな、と思ったりもしましたが。

 しかし、第15普通科連隊は虎の子部隊、その気合いと気迫は様々なところで聞きます。第15普通科連隊は第13師団時代から四国の普通科連隊として伝統がありますし、そして第15歩兵連隊という群馬県高崎連隊の名前を受け継ぐ普通科連隊、当方も応援しています。

 さて善通寺駐屯地と云えば第14旅団、その通りなのですが、第2混成団から受け継がれた歴史があります。そして第2混成団が新編される前までは第2教育団が置かれていました。現在は大津駐屯地に移駐しまして中部方面混成団となりました昔の第2混成団、ですね。

 第110教育大隊は第2教育団と現示の中部方面混成団隷下部隊ですが、大隊本部と共通教育中隊が此処善通寺駐屯地に置かれています。第2教育団の教育大隊は第109教育大隊と第110教育大隊の二つですので、この一つが置かれている、中部方面隊教育一つの拠点だ。

 自衛官候補生、と昨今は名称が改編されましたが、ちょっと自衛官候補生という名称よりも新隊員課程という方がしっくりきますね。新隊員教育というものを担うのが教育大隊の任務、隷下に共通教育中隊が三個置かれていまして、自衛隊員としての基礎教育を担う。

 前期教育という三か月の教育課程がありまして、小銃の執銃や整備と射撃、行進と戦闘動作の基本の基礎、体力練成や服務規則等を中心とした座学、体力練成や営内生活への順応、こうしたものを行います。ただ、勿論この三か月間だけでは基礎の基礎しか教えられない。

 敬礼動作一つとってもボーイスカウトや演劇部でもなければ中々なじめない動作、しかも欠礼などがあっては大変です。小銃の分解結合等は当たり前ですが自衛官でなければ馴染まない。前期教育はみっちり三か月間で班長さんに懇切丁寧に腕立て伏せと共に学びます。

 後期教育という課程が更に三か月、こちらは第一線部隊で実施され、自衛官教育は基礎だけで半年間を要します。普通科や機甲科に特科や施設科と武器科に通信科と会計科と自衛隊は多くの職種がありますが、OJT,即ちオン-ザ-ジョブ-トレーニング方式で学ぶのですね。

 自衛官としての使命の自覚、宣誓式にて宣誓しますが、特別職国家公務員という憲法上の位置づけと共に国家公務員としての立場と、諸外国や社会制度としては軍人としての素養を身につけねばなりません。そして新隊員は一任期二年間の任期に入るという構図です。

 二年間の任期の内に半年間を教育に充てる。実は日本社会において忘れられているのは即戦力重視や現代的な会社機構でも徒弟制度のようないきなりの実務を経て現場で覚えさせるという方式、結果的に教育軽視となっている事が国際競争力に如実に現れているのでは。

 教育重視といいますか、即戦力で雇用しても教育を行わなければ労働需要の変容と共にその能力は短期間で摩耗若しくは陳腐化してしまいます、自衛隊の場合は新隊員教育に加えてMOS資格教育等素養の練成にかなり尽力しており、この点は学ぶべき点と云えましょう。

 第110教育大隊、その上で大変だなあ、と考えるのは善通寺駐屯地祭が挙行されるのは四月下旬、これをゴールデンウィーク前だ、と思われるかもしれませんが任官が春ですのでいきなりの第14旅団と共にならんでの式典参加となります。第14旅団は精鋭部隊の一つ。

 中部方面混成団隷下の第110教育大隊、大変だなあと思うのは、五月初旬に大津駐屯地祭があるのですね、この為第110教育大隊は善通寺駐屯地から式典参加へと大津駐屯地へ行かなければならない。ゴールデンウィークがあって無い様なもの、といえるかもしれない。

 第47普通科連隊第1中隊も善通寺駐屯地に駐屯しています。第47普通科連隊といえば、海田市駐屯地に連隊本部を置く普通科連隊であり、善通寺駐屯地では無かったのではないか、と思われるかもしれません。しかし、第1中隊はここ善通寺に駐屯しているのですね。

 第47普通科連隊は即応予備自衛官主体の普通科連隊です。元々は第13旅団隷下にありましたが、陸上自衛隊改編により、同じく即応予備自衛官基幹で第10師団隷下の豊川駐屯地第49普通科連隊共々、第2教育団より改編された中部方面混成団へ移管されたのですね。

 即応予備自衛官制度とは年間30日間の教育訓練を行う予備自衛官制度です。予備自衛官制度では年間訓練日数が5日間しかありませんので、新装備の教育訓練は勿論、年間五日間でできる教育訓練は限られたものしかありません。これが30日間となると自由度が増える。

 30日間の訓練は予備自衛官のような分割訓練も認められておらず、即応予備自衛官訓練召集日程が明確に定められています。訓練時間が限られますので、外出時間は現役隊員と比較して明確に少なく、短期集中で戦術訓練等を着実に実施しているという制度がこれです。

 訓練召集を考えますと、西日本地域全域の即応予備自衛官を毎回訓練の為に連隊本部の置かれた海田市駐屯地へ集合させるのは、それこそ四国全域と山陽山陰地方からの隊員召集は距離的にも簡単なものではありません、ここに第47普通科連隊第1中隊の駐屯がある。

 要するに第1中隊は善通寺駐屯地近傍に居住する即応予備自衛官の教育を担っているのですね。制度としては、例えば第14旅団が全力で管区外へ派遣される事態となった際に、善通寺に第47普通科連隊第1中隊を臨時招集する事で後詰や留守部隊、ともできるでしょう。

 考えられた制度ですが、しかし聞きますと年間30日間に確実に訓練召集されるという制度は、会社員での兼業は難しく、第一次産業でも簡単ではないといいます。それでも企業協力金がありますので、家庭内産業の様な小規模な事業者では頑張って任官してくれるとも。

 即応予備自衛官制度は、自衛官の満期除隊と共に志願し登録する制度です。ただ、自衛官経験者でなくとも予備自衛官に任官できる予備自衛官補制度というものがありまして、将来的にこれを拡充し予備自衛官補から即応予備自衛官となる道も、というのですが、ね。

 第47普通科連隊第1中隊、第47普通科連隊は予備自衛官部隊とは言っても装備品については、他の第一線普通科連隊と同等の物を装備しており中隊編成も基本的に同じです、精鋭部隊として最近では2018年西日本豪雨災害にも召集され災害派遣へと活躍しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【5】戦闘支援部隊行進(2012-04-29)

2019-06-02 20:05:19 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■旅団と混成団隷下部隊
 旅団観閲行進は第14旅団隷下の戦闘支援部隊、そして方面隊直轄の混成団普通科部隊観閲行進へと展開してゆきました。

 第14旅団の前身である第2混成団、創設当時の編制をみますと、第2混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、という陣容で定員は1900名規模でした。

 第2混成団戦車隊について、しかし改編後に消滅する事となります、1992年に第2混成団戦車隊が北海道移駐により廃止されました。戦車北転事業、という冷戦時代末期に進められた北海道の戦車増強計画、考えますとこれは日本の本土防衛における最大の愚行の一つ。

 戦車北転事業は北海道防衛強化の為に本州の全ての戦車大隊から一個戦車中隊を抽出して北海道へ配置転換させる、というもの。第2混成団戦車隊は基本的に一個中隊基幹、という者ですので一個小隊さえ残らず、北海道への転地で事実上全廃となってしまいました。

 北海道の第2戦車連隊等を見ますと、つまり本州から受け入れた側ですが、前身の第2戦車大隊では最盛期の編制は第1戦車中隊、第2戦車中隊、第3戦車中隊、第4戦車中隊、第316戦車中隊、という一つだけ300番台の中隊がありましたが、これが本州の中隊です。

 第1戦車群、2014年に廃止された北部方面隊直轄戦車部隊ですが、本部管理中隊、第301戦車中隊、第302戦車中隊、第303戦車中隊、第304戦車中隊、第305戦車中隊、という。こちらは北転戦車中隊ではありませんが全部300番台の戦車中隊が集まっているのですね。

 北海道の直轄戦車部隊、これはどういう位置づけかといいますと、有事の際に北海道に配置されている四個師団だけではソ連軍の最大規模の進行を阻止する事は出来ないと考えられており、南九州や西日本と中部地方に東北地方の師団を緊急展開する構想がありました。

 戦車は、本州の師団装備の中でももとも重量があるものでして、旧式の61式戦車だけは車幅が3m未満に冴えられた関係で国鉄狭軌貨物輸送車両限界内に収められていた事から鉄道輸送にて一挙多数を緊急展開させることが可能ですが、大柄な74式戦車では無理でした。

 北転事業とは、この輸送の難しさを念頭に建前の一つに最初から北海道に戦車中隊を配置しておきまして、充分な訓練環境とともに訓練を積ませる事で、有事の際には携行できる装備だけで北海道に展開させた本土師団を戦車で武装させ戦闘団を編成させるという狙い。

 移動重視の構図は一軒説得力を持たせたように見えますが、陸上自衛隊全体の戦車縮小が決定すると最初に廃止されたのは北海道に馴染みのない後から展開した300番台の戦車部隊でした。恰も不況の時代に派遣社員が調整されるが如く、派遣先の北海道でそのまま。

 2006年に陸上自衛隊は第2混成団を第14旅団へと拡大改編を行います。旅団改編の概要は団本部中隊を解体し改編する形で分割し旅団司令部と同付隊に本部の津新機能を拡充し第14通信中隊とし、情報小隊を強化し第14偵察隊へ再編、87式偵察警戒車も配備される。

 第15普通科連隊は師団普通科連隊としての重厚な編成でしたが、旅団普通科連隊へと改編すると共に第15普通科連隊と第50普通科連隊に分割し第50普通科連隊は移設された高知駐屯地へ移駐しました。高知県では悲願の普通科連隊とあって、歓呼の声で迎えられます。

 第2混成団後方支援中隊は大幅に増強改編され第14後方支援隊となる。第2混成団音楽隊は人員規模そのままに第14音楽隊へ。第2混成団特科大隊は増強改編の形で第14特科隊と第14高射特科中隊へ改編され、第2混成団施設隊は微減し第14施設中隊となります。

 第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、新たに74式戦車が戦車中隊とし戻ってきた。

 第50普通科連隊は高知駐屯地に駐屯しますが、実は混成団時代に在った高知県沿岸部の高知駐屯地は陸上自衛隊有数の手狭な駐屯地となっていまして、高台に新しい駐屯地を建設する事となりました。しかし、2006年の旅団改編時にはまだ庁舎が完成していなかった。

 連隊新編は第15普通科連隊を分割する事で実施されましたが、なにしろ装備品を増強した為、善通寺時代と比較して二つの連隊の合計はかなり大型になっていまして、高知駐屯地新駐屯地が完成するまでの期間は善通寺にプレハブ隊舎を並べて凌いでいたともいいます。

 高知県は悲願の普通科連隊駐屯地誘致成功でした。そして驚く事に駐屯地が完成する前に県内の運動公園に高知県が第50普通科連隊を招いて、高知駐屯地祭を行った程でもありました。市民公園中央に並ぶ高機動車と軽装甲機動車、行事写真が資料館に残っていますね。

 北徳島分屯地は2010年完成、多用途ヘリコプター2機と観測ヘリコプター2機が置かれるだけの第14飛行隊の分屯地ですが、新たに海上自衛隊徳島航空基地に隣接し建設されています。八尾駐屯地にて第14飛行隊準備隊を新編しまして、そのまま四国移駐させる方式で。

 東日本大震災はこの改編を完了させた翌年の2011年に発生しました。第14旅団も最大規模の災害派遣を実施し、旅団規模は2500名規模なのですが実に1500名を派遣しています。これは四国を防衛警備隊区とする、つまり留守部隊を残さなければならない状況で、です。

 東日本大震災災害派遣の際に痛感したのは、普通科連隊の現役要員は旅団普通科連隊定数の650名規模でよいから、220名規模の即応予備自衛官中隊、師団普通科連隊隷下の普通科中隊規模の予備役部隊を編成に加え、留守部隊を予備役に任せられる体制が必要だ、と。

 即応予備自衛官は方面混成団の隷下に統合されていますが、教育訓練の合理化を考えれば納得は行く編成ではあるものの、警備隊区を任されている普通科連隊にこそ、留守部隊を常設し後顧の憂いを省き機動運用させる枠組み作りが必要ではないか、と思いましたね。

 徳島駐屯地が南部の阿南市に完成したのは2012年、もともとは高知県沿岸部に所在した高知駐屯地の第14施設中隊を第14施設隊へ拡大改編した上で移駐させています。ちなみに、北徳島分屯地と徳島駐屯地は名前が似ていますが60kmほど離れているので要注意です。

 2012年の旅団改編では第14通信中隊が第14通信隊へ拡大改編されていまして、旅団機能は年々増強されていました。続いて2016年の旅団改編では第14化学防護隊が第14特殊武器防護隊へ改編され、核兵器や放射性兵器と生物兵器への四国初の対処部隊が完成します。

 即応機動旅団への改編は、この行事の翌年に明示されました。その改編計画が明示された当時は第15普通科連隊が即応機動連隊へ改編されるという情報と共に戦車中隊と特科隊の機能が機動戦闘車隊と火力支援中隊へ集約されると聞き、第50連隊の去就を考えてしまう。

 2012年当時の第14旅団編制は、即応機動連隊のような装甲部隊の編制はありませんが戦車中隊も置かれ、思えば中央即応集団に水陸機動団等に人員を抽出され5000名台となった肩肘張った師団より、旅団と方面混成団を併せて師団とした方が自然と思ったりもします。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【4】偵察特科施設行進(2012-04-29)

2019-05-05 20:17:17 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■四国旅団の観閲行進
 第14旅団祭、今回は第14偵察隊と第14特科隊に第14高射特科中隊と第14施設中隊の観閲行進を紹介しましょう。

 善通寺第14旅団祭、その始まりは1981年の第2混成団新編まで遡ります。新編当時の編制は、混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、という陣容です。

 第14旅団の編制と比較しますと、司令部及び同付隊、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14特化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、という。

 第15普通科連隊は現在第15即応機動連隊というかつての第2混成団のような機動運用部隊となっていますが、第13師団より管区毎移管されました。第2混成団戦車隊も第13戦車大隊より移管され、しかし61式戦車20両を基幹の、かなり大型の編制を執っています。

 機械化混成団、実は1981年の団新編に先立って、地元で誤解されていたのが1962年師団制度創設以前の機械化混成団のような強力で日あく的大きな舞台が善通寺に創設される、という、誤解でした。機械化混成団は名古屋の第10師団も昔は第10混成団でした、ね。

 機械化混成団は、普通科連隊、特科連隊、施設大隊、偵察中隊、通信中隊、武器中隊、補給中隊衛生中隊、飛行隊、以上の編制として1950年代に創設されていました。一見第2混成団と似ている編成のようですが、定員6100名、この頃の普通科連隊は非常に大型だった。

 混成団普通科連隊は4個普通科大隊と重迫撃砲中隊に戦車中隊と衛生中隊という陣容で普通科大隊は3個普通科中隊を基幹とする現在の旅団普通科連隊に匹敵する規模、しかも普通科連隊隷下に戦車中隊が置かれ、その戦車中隊も戦車定数は22両と巨大なものでした。

 混成団特科連隊も直接支援大隊と全般支援大隊、105mm榴弾砲と155mm榴弾砲を各18門の合計36門有していまして、高射大隊は高射機関砲32門を基幹とする。悪いですが現在の千僧駐屯地第3師団が5000名台まで擦り減っていますので機械化混成団の方が巨大だ。

 善通寺もこの当初想像した混成団、勿論この混成団の前に1972年の沖縄返還と共に新編された第1混成団が1500名規模となっていましたので、大きな混成団とは幻想でもあったのかもしれませんが、自衛隊と古くから親しむ四国の土地柄、勘違いもあったのでしょう。

 第13師団は、第15普通科連隊が第2混成団として独立した事で四個普通科連隊基幹の甲師団から三個普通科連隊基幹の乙師団へと改編されました。米子駐屯地の第8普通科連隊、山口駐屯地の第17普通科連隊、そして海田市駐屯地の第46普通科連隊、という陣容へ。

 海田市駐屯地の第13旅団、現在は第13師団は旅団へ改編されています。実のところ、山陽山陰地方を防衛警備管区とする第13師団は冷戦終結と共に山陰地方へのロシア軍着上陸という蓋然性が低くなり充足率も低下、定員の低い師団を充足させる為に旅団としました。

 しかし、第13旅団へ改編した後に急浮上した脅威が北朝鮮工作船による浸透の脅威です、まともな揚陸艇さえない北朝鮮軍の大規模着陸の可能性はありませんが、武装工作員浸透の脅威が邦人拉致疑惑の明白な証拠と共に急浮上し、日本海側防備重要性が拡大してゆく。

 四国の守りは、しかし第2混成団時代とは急に別の角度から突き付けられる事となったのが禁煙その脅威が認識される事となった南海トラフ巨大地震です。紀伊水道沿岸と四国南岸が東日本大震災に匹敵する巨大津波脅威に曝されており、ここも守らなければならない。

 さて混成団改編、第2混成団は四国全域と淡路島を警備管区として受け持つようになります。淡路島に着上陸というものは平安朝末期の源平合戦以降ありませんが、防衛警備管区は災害派遣対処、という重要な任務も含まれています、淡路島は兵庫県の一部なのですが。

 淡路島が第2混成団警備管区へ含まれたのは、現在のような明石海峡大橋が建設される前において、鳴門を越えて四国側からの方が淡路島へも迅速に展開出来る為で、実際、1995年の阪神淡路大震災は震源に近い淡路島への災害派遣を第2混成団が全力で対応しました。

 混成団新編は暖簾分けに似ているといえるかもしれません、第13師団からの一部部隊を暖簾分けした、という構図ですね。戦車部隊も特科部隊も暖簾分けに近い形で分けられています。そして混成団新編に併せ1961年からの第2教育団はそのまま大津駐屯地へ移駐へ。

 第2混成団戦車隊の駐屯地は岡山県日本原駐屯地のまま、これは混成団管区内の四国には大演習場は勿論中演習場も無い為で、戦車射撃を行うためには必要な措置でした。当たり前ですが、混成団新編当時に瀬戸大橋本州四国連絡橋は建設途中で在りまだ存在しません。

 第2混成団特科大隊はやはり第13特科連隊より一個大隊を分割、もともと第13特科連隊が第15普通科連隊と共に連隊戦闘団を編成する際に担当大隊を分割したのですが、当時の行事写真を見ますと155mm榴弾砲と105mm榴弾砲が混成配備されているのが分ります。

 第15即応機動連隊、2018年に第15普通科連隊を増強改編史創設された部隊なのですが、個々の編制を視てゆきますと、勿論人員規模はコンパクト化されているのですが、思った以上に第2混成団と編成上の共通点が多い事に気付かされるのは、当方だけでしょうか。

 第15即応機動連隊は連隊本部、本部管理中隊、第1普通科中隊、第2普通科中隊、第3普通科中隊、火力支援中隊、機動戦闘車隊、というもの。3個普通科中隊は96式装輪装甲車により装甲化されていまして、機動戦闘車隊は2個機動戦闘車中隊基幹の大隊編成です。

 即応機動連隊の本部管理中隊機能は極めて充実していまして、連隊本部班、補給小隊、通信小隊、衛生小隊、情報小隊、施設作業小隊、対戦車小隊、高射小隊、といい、75式装甲ドーザに93式近距離地対空誘導弾と軽装甲機動車に中距離多目的誘導弾システムを持つ。

 第2混成団について、しかし、今回行事を紹介しています2012年の第14旅団についても大きく強化されています。大きな部分は装備の近代化というもの。本州陸上自衛隊は装備近代化の度合いが遅れているといわれていますが、長い目で見ると実は着実に進んでいる。

 1980年代と2010年代とでは装備が大きく転換しています、90mm戦車砲を備えた61式戦車は105mm戦車砲の74式戦車、原型設計が1917年という古い米軍供与M-1/155mm榴弾砲とM-1/105mm榴弾砲は洗練された半自動装填装置を備え39口径のFH-70榴弾砲へ。

1990年代に陸上自衛隊の全面的な自動車化が始まりまして、従来は地形防御を最大限活かす軽歩兵部隊の能力、あらゆる地形と悪天候を克服する徒歩機動能力を重視し、自動車化は普通科連隊本部管理中隊輸送小隊と師団輸送隊のトラック輸送支援を受けていたもの。

 1992年に導入が開始されました高機動車は毎年400両以上が取得され、一挙に普通科部隊の自動車化が進みました、これにより輸送小隊や輸送隊の73式大型トラックへ24名づつ分乗して輸送する、連隊本部と迫撃砲部隊のみ自動車化、という状況を脱却した訳ですね。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【3】普通科部隊の行進(2012-04-29)

2019-03-31 20:02:40 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■普通科,第15連隊と第50連隊
 第14旅団記念式典観閲行進は前回の第15普通科連隊観閲行進に続き第50普通科連隊、そして第14偵察隊の観閲行進へと進みます。

 善通寺駐屯地の歴史は1961年の第2教育団善通寺移駐から始まりました。1959年に大久保駐屯地にて創設された第2教育団は信太山第4陸曹教育隊、大久保第107教育大隊、信太山第108教育大隊、大津第109教育大隊、善通寺第110教育大隊、という編成でした。

 大久保駐屯地は京都府宇治市、京都市内から地下鉄で一本の大久保です。実はこの大久保駐屯地、困ったときは大久保駐屯地、という程に草創期の自衛隊には重視されていた駐屯地で、一時は中部方面総監部にあたる管区総監部も大久保に置く、という話が合ったほど。

 管区総監部を置くという背景には当時京阪神地区の旧軍施設は朝鮮戦争に伴う国連軍施設として最大限活用されており、活用されていないものは大蔵省管理、日本経済は朝鮮特需により戦後不況を脱するかに見えていたものの財政状況は最悪で、とても土地余裕が無い。

 宇治市では、しかし大阪中心部には遠すぎるという事で、しかし国連軍接収が解かれた場所はそのまま大蔵省管理となる為、書類上管理が終了する前に実質的に撤収した大阪中心部の適地を自衛隊が先に確保する、という構図で幕僚がジープにて巡回したという逸話も。

 大阪第二空港、戦前から残る大阪の小型機用ローカル空港とその周辺の空き地が旧軍により飛行場とされていましたが、朝鮮戦争と共に国連軍が大阪第一空港だけでは必要な空輸能力を満たせず、大阪第二空港を拡張使用していましたがその近くに空き地があるという。

 大阪第二空港の近くとはいっても空地は兵庫県側に在るといい、元々旧軍時代には大阪城が陸軍第四師団司令部庁舎として使用された歴史を振り返れば、大阪第二空港は大阪中心部からは遠いものの、神戸大阪に近い利点も。大阪第二空港はまたの名を伊丹空港という。

 管区総監部、中部方面総監部と1962年の師団改編により創設された第3師団は、伊丹空港近くの伊丹駐屯地と千僧駐屯地に総監部と司令部を置く事となり今日に至ります。続いて続々入隊する新隊員へ第2教育団が大久保に置かれたのですが、手狭である事は否めない。

 第4施設団と、新たに普通科連隊を従来の普通科大隊に戦車中隊までを有する大型編成を改め中隊基幹の小型編成とする際に大久保駐屯地には新編第45普通科連隊も将来的に置かれる事となります、要するに次の部隊が待っているので先にできた部隊は動く必要が、と。

 1961年に善通寺駐屯地へ第2教育団は移駐しました。四国は京阪神地区や山陽広島地区と中京地区等と人口ではそれほど大きくはありませんが、多くの新隊員が志願しており、四国にて前期教育を終えた隊員は緊張高まるソ連を睨み北海道防衛の第一線へと赴きました。

 四国防衛は広島第13師団、現在の第13旅団の所管となっています。第13師団の警備隊区は非常に広く、山陽山陰四国9県、つまり、山口県、広島県、岡山県、島根県、鳥取県、香川県、愛媛県、徳島県、高知県、一つの方面隊に匹敵する師団警備隊区といえますね。

 当時の第13師団は師団司令部以下、米子第8普通科連隊、善通寺第15普通科連隊、山口第17普通科連隊、第13特科連隊、第13戦車大隊、第13偵察隊、第13通信大隊、第13武器大隊、第13輸送大隊、第13補給大隊、第13衛生隊、第13音楽隊、という編成です。

 広島海田市へ師団司令部を置く一方で山陽地区に普通科連隊が無いのは有事の際の即応に問題が、という事で1970年に海田市へ第46普通科連隊が新編され、普通科連隊四個を基幹とする定員9000名の甲師団となりました。しかし、管区が広すぎる事に代わりはない。

 山陽山陰四国9県は実際に広大だったようで、これを象徴する師団の装備がありました。第13飛行隊の装備でL-19観測機、という航空機が陸上自衛隊で最後まで装備されていたのです。L-19観測機、1965年の大怪獣ガメラやバルジ大作戦で登場した古い観測機ですね。

 飛行隊にL-19観測機、既に観測ヘリコプターとしてOH-55やOH-6の配備が進んでいた時代ですが、第13師団の当時の管区は広すぎまして、連絡飛行にOH-55では全く航続距離が足りなかった為、固定翼機としてL-19が残されていたという構図です。それ程に広い。

 四国善通寺に第2混成団が新編されたのは1981年、1976年に制定されました初の防衛大綱には四国への作戦部隊配置が明記されていまして、1976年は我が国が石油危機に伴う高度経済成長の終焉、狂乱物価と景気後退に見舞われている中の四国混成団創設決定でした。

 緊張緩和の時代ではありましたが、我が国防衛政策は画定に10年を要する為、これも現在の中国脅威への西方シフトというべき統合機動防衛力整備事業が本格化したのは中国海洋進出が本格化した十年後に当る頃ではありますが、緊張緩和時代に決定したという訳です。

 新冷戦がソ連軍アフガン侵攻により始まったのが1979年でしたので、十年遅れの防衛政策ですが、四国混成団創設の1981年と離隔を置かず実現したのは一つの僥倖といえるものでしたが、広すぎる第13師団管区の四国部分を独立した混成団へ移管するという方針が。

 第2混成団が創設された背景には四国からへ自衛隊草創期に北海道へ向かった新隊員が北海道から郷里近くへ退官前の異動を願う時代、という実情を前述していますが、同時に第13師団が山陽山陰地区の防衛へ重点を置く必要性がありました、ソ連の海洋進出という。

 ソ連の海洋進出は1979年にソ連太平洋艦隊初の航空母艦として空母ミンスクが回航され、従来のミサイル巡洋艦と共に強襲揚陸艦イワンロゴフ級の建造と太平洋への配備等、太平洋正面におけるアメリカ海軍の圧倒的な戦力への挑戦者が生まれた構図があったのですね。

 日本海正面においては、日本海を隔ててソ連太平洋艦隊主力の展開するウラジヴォストークがあるのですが、空母ミンスクと強襲揚陸艦イワンロゴフと共に編成される両用作戦部隊が日本の本州日本海沿岸へ限定侵攻を加える可能性が現実的脅威として生じてきました。

 西日本への大規模侵攻という蓋然性は後方連絡線の長大化からソ連軍にとり現実的ではありませんでしたが、海軍歩兵大隊を日本海沿岸の過疎地域や離島へ限定侵攻させ、政治的要求を我が国へ迫る、全面戦争と異なる制限戦争を仕掛けられる可能性は充分ありました。

 第2混成団はこうした背景によりその創設が急がれると共に、流石に四国進攻という脅威は無い事から、太平洋からソ連軍が四国に着上陸するような状況であっては既に東京も京都も駄目になっていますからね、その上で四国の混成団は戦略予備となり得たといえます。

 第14旅団に繋がる第2混成団、1981年新編時の編制は一個普通科連隊基幹とする増強戦闘団に近く、混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、以上の通り。

 1981年という年は陸上自衛隊変革の一年でもありました。新たに階級に陸曹長が創設されまして、一等陸曹の頭打ちとなった状況を打破した変革が行われました、言い換えれば幹部自衛官至上主義がアメリカ陸軍影響を受け下士官の地位向上が行われた年度なのですね。

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