北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【2】旅団観閲行進開始(2012-04-29)

2019-02-10 20:09:18 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■第14旅団長永井昌弘陸将補
 第14旅団長永井昌弘陸将補による整列した旅団及び駐屯地駐屯部隊の部隊巡閲と訓示に続き来賓祝辞と祝電披露が完了、いよいよ観閲行進準備の号令がかかりました。

 善通寺第14旅団、中部方面隊隷下旅団で第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊など、を基幹とする。

 善通寺駐屯地創設62周年記念行事、善通寺駐屯地の歴史は非常に長いのですが当方にとっては初めての駐屯地、撮影位置を選定するにあたって初めての駐屯地というのは言い換えれば周りの多くの方のご近所で馴染みの駐屯地、ベテランぞろいへ単機進出したかたちだ。

 第14旅団記念行事、折角部隊も休日を式典として駐屯地を開放してくれましたので良い写真を仕上げたい。中部方面混成団隷下部隊の整列と合せ、指揮官巡閲と観閲行進準備の号令がかかると共に、式典も行進も良好な撮影環境といえ、この撮影位置は良かったと思う。

 四国善通寺の善通寺駐屯地はJR善通寺駅から駐屯地へ向かう道程に旧陸軍第十一師団時代の遺構や広大な師団本営の名残が垣間見えまして、弘法大師空海所縁の善通寺の伽藍に隣接する善通寺駐屯地も師団駐屯地並に広大である、ということは前回も紹介しました。

 軍都、という響きが今日的に有する意味合いと響きについては様々な考察があり得るでしょうが、善通寺も日本にいくつか挙げられる軍都の一つである事は市街地の形成とともに第三キャンプ地区に残る旧陸軍第十一師団司令部庁舎、現在の駐屯地資料館に垣間見える。

 第十一師団司令部時代には創設当初、もう少し師団司令部という事で華美な調度品と豪華な装飾品が並んでいたとの事ですが、乃木希典中将は軍事施設に豪華絢爛は不要として、一つだけを除いて華美な調度品と装飾品を司令部庁舎から撤去させた、と伝わっています。

 師団司令部に唯一輝きを放っていたのは菊の御紋章で、この一つを例外として質実剛健の装いとしたと伝わる。乃木希典は陸軍大将として日露戦争で第三軍を指揮し旅順攻防戦で知られる指揮官で、その質素倹約と質実剛健が今日に伝わる通りの歴史といえるでしょう。

 乃木希典、調べれば調べる程に、実は人間味溢れる人格者として好きになります。数ある自衛隊行事の中で善通寺駐屯地祭へ行った理由の一つは乃木大将かもしれない。もう一つは、千僧駐屯地にて四国出身の方に善通寺駐屯地も凄いですよ、とお勧め頂いた御縁から。

 幕末慶応長州征討では山縣有朋奇兵隊指揮下で幕府軍の大軍を相手に巧みに戦い、慶応年間には命令により伏見御親兵兵営での仏式軍事教練を受ける、当時はナポレオン三世の厚意にて日本は大陸軍式の教練を採用しつつあるところで、明治二年に陸軍少佐を拝命する。

 熊本鎮台歩兵第十四連隊長として明治8年の秋月の乱鎮定を主導します。しかし、大河ドラマ“せごどん”で改めて注目された西郷隆盛の西南戦争にて乃木連隊長は大敗を喫してしまいます、第十四連隊駐屯地は小倉、不穏情勢受け即座に熊本へ向かうも少々遅かった。

 第十四連隊は熊本鎮台籠城部隊へ合流するべく急ぐ最中、熊本城熊本市植木町にて西郷軍と遭遇、連隊長以下200名の部隊は400名の薩軍と激戦となり、その最中に連隊旗手が戦死、結果連隊旗を奪われてしまうのですね。日本史上、連隊旗を奪われたのはこの時のみ。

 連隊旗といいますと自衛隊では連隊に付与される部隊旗の一つですが、旧軍においては戦車連隊や砲兵連隊に騎兵連隊には連隊旗は無く、歩兵連隊のみが天皇より連隊創設と共に下賜され連隊長と共に日本陸軍の象徴として掲げられたという、それはそれは凄い重みが。

 連隊旗手は優秀な新任少尉が担い、万一敵の手に奪われる危機に際しては奉焼、つまり焼いてしまい、奪われないようにしました。現在のスポーツ優勝旗の旗竿が槍のように鋭利に仕立てられる由来も、万一にも奪われぬように時には短槍として使う為の配慮の名残り。

 田原坂の戦いという西南戦争一つの天王山となった戦いは植木町での遭遇線と共に形成された戦線において展開し、第十四連隊は連隊旗を奪われるほどの激戦ながら良く防戦し、乃木連隊長は負傷を圧して増援と共に徐々に薩軍を潰走させ、熊本城包囲を解きました。

 連隊旗奪われる、これは相当に堪えたらしく乃木連隊長は東京歩兵第一連隊長を命じられるも、理想の軍人像を失したままに新橋領国の料亭通いという放蕩を尽くし、戦術は単調で、佐倉歩兵第二連隊との対抗演習では側面機動の奇襲を受け惨敗したという歴史もある。

 児玉源太郎が第二連隊長であったということで、CGS陸上自衛隊指揮幕僚課程の玄関に肖像が掲げられる児玉源太郎と乃木の繋がりが垣間見えます。二人は日露戦争の旅順攻防戦で共に戦うと共に、先の西南戦争では熊本鎮台にて連隊長と鎮台参謀長という関係でした。

 ドイツ軍参謀総長カール-ベルンハルト-フォン-モルトケとの出逢い、政府から命じられたドイツ留学においてこの世界軍事史上の最良の出逢いが乃木を変えたといわれていまして、野外要務令としてドイツが当時進めていた初級指揮官教育課程の重要性を説かれたという。

 ナポレオン三世の派遣した軍事顧問団の教育を受け明治天皇の下で西郷隆盛を相手に戦い、カール-ベルンハルト-フォン-モルトケに直接軍人教育の在り方を説かれ山縣有朋は直属上官で児玉源太郎は生涯の戦友、なんというか、明治時代とは、凄い時代だったのですねえ。

 綱紀粛正質実剛健、乃木希典の理想像はここに固まったといえまして、日清戦争前には先の遊興とは程遠い生活とともに軍服を着用し粗食に耐え、騎馬にて隷下部隊の訓練を毎日視察するという、現代では乃木神社に祭られる程の人物像が醸成されていったといいます。

 日清戦争では東京歩兵第一旅団長として大陸へ出征し旅順要塞を即日攻略、蓋平会戦では包囲された友軍第三師団を敵包囲の間隙を運動戦で突き瓦解させる巧みな戦術を発揮、この勲功が評価され第二師団長を拝命、下関条約の後の台湾乙未戦争を制し初代総督となる。

 台湾総督としては過度な質実剛健を強いた事で殖産産業として東京が進める工業化政策に固執と云えるほどの公正を要求し産業開発や軍閥宣撫工作が進まず、結果的に辞任します。しかし、公正と綱紀はその後の台湾価値観を変え、今日までの日台関係基礎を築きました。

 第十一師団新編とともに初代師団長に任命された乃木中将は、毎日隷下部隊訓練を視察し、騎馬にて隷下部隊の丸亀駐屯地や高松駐屯地などを廻ったという。簡単に聞こえますが、善通寺から毎日丸亀と高松を廻る事、鉄道ではなく騎馬で行き来は非常に長距離といえる。

 太平洋戦争開戦時には満州駐屯、ソ連の満州侵攻に備え訓練を重ねていましたが、戦局の悪化と共に連合軍の本土進攻が現実的な課題となり、1945年4月に師団創設の地四国善通寺へと戻る事となりました。この当たりの歴史については第14旅団資料館の展示に詳しい。

 師団はその後太平洋戦争終戦まで残り、師団から派遣された三個大隊がグアム島攻防戦に派遣され、全滅するまで戦い抜いたことが戦史に記されています。駐屯地に隣接し香川護国神社が五岳山を駐屯地と共に遥拝していまして、当時の厳しい歴史を現代に伝えている。

 丸亀歩兵第十二連隊、徳島歩兵第四十三連隊、高知歩兵第四十四連隊、騎兵第十一連隊、山砲兵第十一連隊、工兵第十一連隊、輜重兵第十一連隊、第十一師団通信隊、第十一師団制毒隊、第十一師団野戦病院、第十一師団防疫給水部、第十一師団病馬廠、が基幹部隊だ。

 第二次世界大戦の日本敗戦とともに四国はイギリス軍が進駐軍として展開しました。旧軍施設の中でも第十一師団施設は終戦時の荒廃も無くイギリス軍が丁寧に接収した事が今日の施設から見て取れる、という事なのでしょうか。残る赤煉瓦倉庫群は1909年のものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【1】四国旅団の記念式典(2012-04-29)

2019-01-20 20:19:20 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■歴史と伝統の四国善通寺旅団
 四国善通寺、ここには第14旅団が駐屯しています。四国旅団というべき第14旅団は歴史と伝統を誇る部隊の系譜に在り、今回からその創設記念行事の様子をご紹介しましょう。

 第14旅団、四国全域を防衛警備管区とする陸上自衛隊の旅団です。旅団司令部は善通寺駐屯地、香川県善通寺市に所在しています。四国はお遍路で知られる平穏無事な印象がありますが、ここ善通寺駐屯地はもともと旧陸軍第十一師団本営が置かれた四国の軍都です。

 旅団は2018年の改編で16式機動戦闘車と96式装輪装甲車により高度に機械化された即応機動旅団へ改編されましたが、今回紹介する旅団記念行事の撮影は2012年、74式戦車と軽装甲機動車にFH-70榴弾砲を備えた伝統的な普通科部隊を中心とする新しい旅団です。

 普通科隊員や74式戦車とともに善通寺五岳山の特徴的な山容が。実は四国のこの特徴的な山容は、一年に数回しか出会えない自衛隊行事の構図を供してくれましたので、正確な名を知りたいのですが、五岳山でよいのでしょうか、違っていればお教えいただければ幸い。

 旧陸軍第十一師団本営が置かれた軍都、かの乃木希典が台湾総督を経て初代師団長を務めた師団です。当時の師団は新設師団であり、善通寺駐屯地には明治時代の建物も赤れんが倉庫群として現存しており、過去には有名な愛知県の明治村への移設も検討されたという。

 善通寺駐屯地へ初めて歩みを進めた当方の率直な感想は広い、大きい、というものでした。そうだろうか、と思われるかもしれませんが第3師団の千僧駐屯地、第10師団の守山駐屯地、そして東京は第1師団の練馬駐屯地を幾度か探訪し、広さの相場を知っていたために。

 騎兵連隊跡地、善通寺駐屯地へと善通寺駅から歩みを進めてゆきますと、旧軍時代の面影が石碑に残っています。四国学院大学というキャンパスの前を通りますが、聞けばここも旧陸軍第十一師団の駐屯地跡地といいますので、駅前が広く駐屯地だったことになります。

 旅団司令部駐屯地、という事ですが、なにしろ指揮階梯から旅団は師団の下という印象が、勿論日本では師団隷下部隊に旅団は無いのですが、要するに師団駐屯地の方が広いのではないかという率直な思い込みがありまして、そのまま地図で広さを視ず行った故といえる。

 軍都といえば、旭川駐屯地の広大な第2師団、正門から駐屯地祭式典会場まで徒歩40分掛かった、要するに京都でいえば北大路駅から金閣寺までの所要時間、みんなバスで移動する距離、途中に大徳寺とか今宮神社とかある、よりも広大な駐屯地一応は知っています。

 北海道の駐屯地は広いなあ、という印象で、その際には思っていました。その上で、善通寺と云いますと、まあ、温暖な蜜柑と饂飩の豊か、言い換えれば戦塵硝煙発砲焔とは無縁そうな印象がありましたので、要するに広くとも千僧駐屯地や伊丹駐屯地の広さを想った。

 南風はじめ特急が善通寺駅には停車します、印象は饂飩、饂飩の店が駅前に駅横に道端に商店街に、中華料理店のような饂飩店と喫茶店のような饂飩店に駄菓子屋のような饂飩店とコインランドリーのような饂飩店、コンビニや信号よりも饂飩店が多い事を実感します。

 四国旅客鉄道がこの善通寺に特急を運行させる背景には金毘羅山と善通寺、四国の豊かな歴史を伝える風土がある訳なのですが、そしてここに駐屯地があると聞きますと、なにしろ想像力が乏しいと反省する当方、思い浮かべたのは信太山のような山裾の駐屯地です。

 弘法大師空海が拓いた善通寺の荘厳な伽藍と天を衝く古くしかし新鮮な五重塔がどきりとするほどの威容を誇ると共に鋭敏な山々が峯を視野に左右広く広く雄大さを伝える中に私が善通寺駅から長い道を進みますと、目に入ったのは柳の木に爪を研ぐ猫と駐屯地でした。

 即応機動旅団へ改編され、重厚な機械化部隊である第15即応機動連隊を隷下に置く第14旅団、それが現在の旅団の姿ですが、今回紹介する旅団行事は2012年に撮影しました即応機動旅団改編前の旅団の様子です。16式機動戦闘車はまだ試作車公開前、74式戦車時代だ。

 犬派の当方が爪を研ぐ猫に最初に印象が持ったのは、道路わきの街路樹の堀の深い柳の大木に堂々と仁王立ちの爪とぎの様子に威容というか猫ならではの気軽さ故の気風を感じたとともに、その猫の背景に煉瓦の外柵が延々と広がり其処が駐屯地であると気付いたから。

 旅団編制は司令部及び同付隊、第15即応機動連隊、第50普通科連隊、中部方面特科隊、第14偵察隊、第14高射特科隊、第14施設隊、第14通信隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊など、現在の旅団編制は以上の通りとなっている。

 千僧駐屯地と似ているかな、と思ったのは、まあ広さは別としましてですが、善通寺駐屯地にも駐屯地の中央に公道が走っている点でしょうか、千僧駐屯地でも式典会場と師団司令部の敷地の中間に国道が走っていまして、自衛隊専用歩道橋で行き来しましたからね。

 第2営舎地区や第2キャンプ、というそうでして旅団司令部がある、つまり駐屯地記念行事式典会場の置かれた側が駐屯地の中心、明治時代の建物が残る風光明媚な地区が第2営舎地区や第2キャンプという。キャンプと名が冠せられているのは英軍駐屯時代の名残か。

 第3営舎地区や第3キャンプという区画がある、善通寺駐屯地の広大さを示すのはもう一つありまして、ここには駐屯地資料館と保存装備展示地区が広がっています。駐屯地資料館は旧陸軍第十一師団司令部庁舎が活用されていまして、自衛隊時代にも活用されました。

 第2混成団司令部庁舎、として使われていまして、この第2混成団は第14旅団司令部改編への母体となった部隊です。資料館は明治時代の風情を感じるといいますか、広い建物ではないのですが質素な中に機能美を秘めた、しかし古く格式のある建物です。ここは好き。

 旅団司令部庁舎は混成団の旅団改編と共に新しく建設されたもので、混成団司令部庁舎よりも600mほど離れた場所にあります、第3キャンプから駐屯地中心の方へ、という事なのですが、途中に公道もあり、実は地味に引っ越しが大変だったのかな、とおもったりも。

 第2混成団は1981年に四国にも新しい部隊をという機運、具体的には毎年多くの新隊員が志願し北海道の第一線へ配属された一方、退官近くになれば郷里近くの部隊を志願する為に四国にも受け皿の部隊を必要とする事となり、新たに混成団を新編したという構図です。

 第2教育団、現在は大津に移駐し中部方面混成団へ拡大改編を受けていますが、混成団創設以前の善通寺駐屯地は第2教育団本部が置かれる駐屯地で、四国全域は広島海田市の第13師団が警備隊区としていました。ここに第2混成団が置かれ第14旅団になったという。

 混成団の旅団への改編は2006年に挙行されました。これは1996年防衛大綱において明示されていました戦略機動部隊への改編事業の一環として行われ、第15普通科連隊主体の混成団へ新たに第50普通科連隊を新編し、機動運用体制を執らせる事が主眼といわれている。

 旅団創設当時の編制は司令部及び同付隊、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊など、という編成でした。

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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(6)これが普通科の実力だ!(2013-09-08)

2018-12-30 20:16:09 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■突き破る普通科部隊の実力
 訓練展示はいよいよ最終段階となり、いよいよ障害を突き破る普通科部隊の本領発揮で金沢名物と迷物のガラス突き破りがはじまる。

 普通科連隊は近接戦闘部隊としてあらゆる地形と天候を克服し任務を遂行する能力を有しています。自衛隊には機甲科や特科に施設科と武器科や需品科と多くの職種がありますが、あらゆる地形と天候を克服する、と明示されている職種は普通科だけとの事でした。

 普通科部隊、しかし陸上自衛隊の師団及び旅団の基幹部隊として位置づけられており、自衛隊の任務の多様化に合わせた多種多様な新任務、時代の要請に適合する事を求められています。一方で多種多様任務の中には必ずしも普通科部隊が想定した任務ばかりではない。

 1990年代から普通科部隊の任務の筆頭に加えられたものは災害派遣任務と国際貢献任務、勿論自衛隊にとり国土防衛に続き災害派遣任務は創設以来重要な任務でしたが、1959年の伊勢湾台風、第10混成団時代の第10師団創設前の災害でしたが、その後は安寧が続く。

 阪神大震災、1995年に発災した巨大地震は6500名以上の人命が失われ、自衛隊の災害派遣任務は軍事機構としての独立完結した編成、救命救助活動と行方不明者捜索に加えて給食野営と洗濯から整備補給までを独立して行う唯一の組織である事が明確に示されました。

 1995年には自衛隊へ現在の人命救助システムのような災害派遣専用機材の配備はなく、文字通り円ぴに鶴嘴で徒手空拳に近い状況で任務に対応していました。人命救助システムの配備で油圧ジャッキや削岩機と捜索用カメラ等各種機材が配備された事は大きな前進です。

 2011年の東日本大震災は、しかし自衛隊の能力に限界があるという当然の事実を突きつけられた事となりました。近接戦闘部隊として国土防衛の第一線にあたる、という普通科部隊の本務はありますが、その片手間で災害派遣を行うとの運用は限界が生じているという。

 戦闘任務に資する、しかし災害派遣に資する装備品というものは実は非常に多く、例えば情報小隊への無人機の大幅な増強と航空法下での運用基盤の構築、それに被災地が浸水地域や土砂災害地域であっても派遣可能な全地形車両の配備、可能である装備品は実に多い。

 全地形車両、つまり傾斜地でも湖沼地帯でも積雪地でも沿岸部でも軟弱地形でも舗装道路でも階段でも進む事が出来る車両ですが、金沢駐屯地には78式雪上車が配備されています。しかし、冬季以外用途が無い雪上車より全地形車両を配備する必要は、ないでしょうか。

 78式雪上車、後継の10式雪上車も優れた積雪地での機動力を発揮しますが、お近くの航空自衛隊輪島分屯基地に配備されるスウェーデン製BV-206全地形車両であれば、山岳戦闘や錯綜地形での連絡線構築、通信中継機材や各種火器の稜線への進出が容易となる装備です。

 BvS10全地形車両、イギリス海兵隊はじめ採用しているBV-206の装甲型ですが、この装備が中隊単位で配備されているならば、西日本豪雨災害のような大水害、想定される南海トラフ地震への津波被災地から多くの人命を救助する事が出来るでしょうし、戦力も強い。

 中隊単位でこの種の車両を配備しますと自衛隊に在る普通科連隊の数から必要な数量は500両を超えてしまいますが、一方で自衛隊は諸外国が10機揃えるのにも苦労しているCH-47輸送ヘリコプターを70機揃えていまして、火砲や地対空ミサイル等多いものは多い。

 CH-47JA輸送ヘリコプターがこれだけ多数を揃えている背景ですが、地皺の大きな我が国では地形障害を一挙に克服するために空中機動能力を整備する必要がある、という視点に基づき、前型V-107輸送ヘリコプター時代から継続して高価な機体を多数揃えてきている。

 全地形車両は上掲の地皺の多いわが国では必要な装備で、例えば金沢駐屯地に配備しても航続距離は大きく、大規模災害時に名古屋や大阪であれば充分自走可能です。即応機動連隊のように全国へ自走して緊急展開する少数の部隊を除いて、BvS10は必要だと考えます。

 国際貢献任務、陸上自衛隊へ突きつけられた1990年代からの新任務にこの変革を上げる事が出来ましょう、2017年の南スーダンPKO任務完了撤収以降、自衛隊のPKO任務参加は一時中断していますが、これも自衛隊の運用体系と必ずしも合致するものではありません。

 近接戦闘部隊である普通科部隊は冷戦時代、地形防御を活かしての対戦車戦闘、特に戦車部隊を重視していた極東ソ連軍の侵攻へ対処する、という主眼で運用研究がなされています。従って機甲師団を除けば装甲車が殆ど配備されておらず、地形利用第一となっている。

 PKO任務は戦闘が第一ではないという理解、実際には2002年の東ティモールPKO任務以来、PKO派遣は従来の国連総会決議ではなく安全保障理事会決議により派遣される事となり、安保理決議は国連憲章上の平和への措置に当ると共に強行規範と位置付けられている。

 PKOの変容、これはどういう意味かと問われれば、戦闘地域には送られないが戦闘が発生した場合は文民保護等の戦闘に参加する事を求められる危険な地域へ派遣を求められる、というもの、地形防護に依存し装甲車両を殆ど持たない自衛隊普通科部隊には向きません。

 89式装甲戦闘車やCV-90装甲戦闘車のような車両が必要となる状況へ、軽装備普通科部隊を派遣している、ということ。勿論、79式対舟艇対戦車誘導弾や後継装備である中距離多目的誘導弾を派遣したならば、必要な防護任務は果たせましょうが、本質はそこにはない。

 レオパルド2戦車を配備していたNATO諸国が冷戦後次々と戦車を排しCV-90装甲戦闘車に大きく乗り換えた世界の趨勢は此処にあり、自衛隊はこのあたりを、戦車削減がミサイル防衛等の新任務費用捻出の方便となり、隊員の安全は置き去りにされている現状です。

 危険な地域には派遣しません、とは政治的方便で、パリで乱射テロ事件が発生し東京の地下鉄にサリンが1990年代に散布された一点だけでも、戦闘地域と後方地域の明確な区別は、地域紛争では不可能です。具体的には、サリンが使われない戦場は数多在りますから、ね。

 82式指揮通信車を量産した小松製作所が金沢駐屯地に近い小松市に所在していますが、例えば石油危機前の自衛隊では全普通科部隊の装甲化を志し、北海道に高性能の73式装甲車を、浮航能力持ち車内射撃可能な12.7mm機銃を備えた高性能、そしてもう一つを考えた。

 小型装甲車、とは小松製作所が三菱重工と普通科部隊用装甲車として試作まで実施していた四輪駆動装甲車で、要するに82式指揮通信車の四輪駆動型、車高は前部と後部を指揮通信車と違い同高の設計とした装甲車を開発していました、重視されたのは路上機動力です。

 89式装甲戦闘車のような35mm機関砲と対戦車ミサイルを重装甲の車体に搭載した車両は必要ですが、一方で普及させられる装甲車、というものがPKO任務には絶対必要です。ただ、石油危機以降共通しますが、全てが予算が無い、一言で隊員の安全が置き去りになる。

 BvS10中隊と小型装甲車中隊に軽装甲機動車中隊と高機動車中隊、なにやら富士教導連隷下の普通科教導連隊の廉価版のようですが、中隊ごとにあらゆる任務へ対応できる各種装備を持つ専門集団へ、普通科部隊も変革を求められるのではないか、と考える次第です。こうしたかたちで、金沢駐屯地祭特集は今回の第六回が最終弾、年内に完結する事が出来ました。

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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(5)普通科連隊の攻撃前進!(2013-09-08)

2018-12-09 20:04:18 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■普通科戦車特科協同
 金沢駐屯地祭、中隊規模で第14普通科連隊の能力を最大限に展示すべく、普通科戦車特科協同の訓練展示が展開されてゆきます。

 普通科連隊は第一線中隊に本部管理中隊長、第1中隊長、第2中隊長、第3中隊長、第4中隊長、重迫撃砲中隊長、対戦車中隊長、を配置し攻撃や防御に関する近接戦闘に火力支援から対戦車戦闘へも当たる陸上自衛隊の骨幹戦力です。そして近年は、装備更新が進む。

 軽装甲機動車は2002年より第一線への大量配備が開始された普通科部隊期待の新装備で、普通科部隊の他に偵察部隊や戦車部隊本部車両としても配備、航空自衛隊基地警備用も含めれば1950両程度が既に配備されています。軽量に加えて比較的安価と出来た点が大きい。

 LAV,と愛称を冠する本車は小型装甲車として開発が進められ、普通科部隊の小銃小隊を複数の車両に分散させ乗車戦闘を基本とする事で分散集合を迅速化させたもの。研究当時は小型装甲車としてフランスのVBL軽装甲車やドイツのウィーゼル空挺装甲車を参考とした。

 小型装甲車という開発当時の名称の通り、重量4.5t、全長4.4m、全幅2.04m、前項1.85mと非常にコンパクトで車内には座席が4席、ただ、車内には人員だけであればまだ余裕があり、後部と銃座を加え詰め込めば更に3名程度は乗車可能、これが市街戦では心強い。

 軽装甲機動車配備当時の訓練展示では普通科の攻撃に際し、敵弾幕下での攻撃前進に車体後部に更に3名を乗車させ、前進する様子が展示されていまして、元々狭い車内ですので個人装備だけで満員の状態ですが、隊員の盾に装甲車が必要な場合は柔軟な運用が可能だ。

 1950両も量産されていますので、用途は多様で、陸上自衛隊普通科部隊を象徴する装備となっています。具体的には北海道の機甲師団以外の普通科連隊では中隊本部車両や情報小隊の車両として配備され中隊単位で配備の96式装輪装甲車と連携し運用されています。

 本土師団や旅団では即応機動連隊以外の普通科連隊に中隊単位で配備されており、集中運用を念頭としています。普通科連隊では高機動車主体の中隊と共に普通科部隊の主力を構成、軽装甲機動車化中隊を有する事で限定的ではありますが半装甲化する事が出来ました。

 小銃班には2両が装備され、3個小隊と小隊長車の7両で一個小隊を編成し、普通科中隊には22両が配備されています。96式装輪装甲車化中隊は13両乃至14両で構成されますので、分散能力は高く広範囲に展開でき、装甲車ですので正面緊迫が必要な際の集合も早い。

 VBL軽装甲車を研究当時に参考としている分、形状がVBLは片側二扉、LAVは片側四扉、という部分を除けば車体形状の特色は合致する部分が多いのですが、VBLは乗車戦闘を基本としているのに対し、軽装甲機動車は下車戦闘を基本としている運用に違いがあります。

 VBL軽装甲車はフランスでは騎兵小隊や偵察小隊に8両が配備され、12.7mm機銃搭載型が2両と7.62mm機銃搭載型が2両と対戦車ロケット搭載型が2両に対戦車ミサイル搭載型が2両、という四種二両の車両が地域制圧と対戦車任務や火力支援用とで相互支援する。

 フランス第1機甲師団や第3機甲師団の隷下旅団での運用は上記の通りですが、軽装甲機動車も12.7mm重機関銃は搭載可能ですので、01式軽対戦車誘導弾や84mm無反動砲と基本型のMINIMI分隊機銃搭載車を合わせフランス方式の8両一組の運用が理想かな、と。

 陸上自衛隊での運用ですが、普通科中隊では基本的に下車戦闘を行うという。小銃班が2両に分乗している為、各車に操縦手と車長を小銃小隊から合計4名出す必要があり、実質半数を操縦に充てている、この為に下車戦闘を基本としなければ小銃手が不足するという。

 下車戦闘となった場合に軽装甲機動車は置き去りとなり、敵に奪われないよう施錠できると云う利点がありますが、回収はどうするかと聞いてみますと、せっかく敵と接触した状況で当面の敵を撃破した後も接触を維持し、軽装甲機動車の回収は後続部隊に任せという。

 96式装輪装甲車ならば専門の操縦手と車長が居り10名を輸送可能、下車戦闘時にも車載機銃により下車要員を支援し続けると共に、攻撃前進に併せ必要ならば共に前進でき、当面の敵を撃破したらばそのまま乗車させ接触を維持しつつ攻撃前進に機動力を付与できます。

 四輪駆動の装輪装甲車ですので、不整地突破能力には装軌式装甲車と比較すれば限界があり、高機動車と比較すれば重心が高い為に錯綜地形での横転の頻度は高く、82式指揮通信車並みに横転する、という声もありましたので、不整地突破能力は装輪車の範疇だ、とも。

 また高機動車であれば小銃班の内、操縦手と車長以外は休息できますが上掲の通り、小銃班を二両に分けている為、操縦手と助手席の車長が二両分必要で、長距離移動の際に休めない、という話もあります。元々の研究が乗車戦闘用ですので、第一線要求との乖離、か。

 ただ、それでも普通科連隊の貴重な装甲車両、取得威容は96式装輪装甲車の三分の一以下に抑えられていますので、連隊長が期待する手札だ。そして軽装甲機動車はほぼ同時に制式化された、第一線の強力な01式軽対戦車誘導弾、通称軽MATを車載運用しています。

 01式軽対戦車誘導弾は射程1500m、赤外線画像誘導方式で発射後の誘導が不要な撃ち放し方式のミサイルで、タンデム弾頭方式により爆発反応装甲等の防御力強化車両に対する打撃力を重視しており、特に射撃後の誘導不要である点は射撃後迅速な陣地変換が可能です。

 重量は大きく、逆に言えば予備弾を含め小銃班が数十kmの攻撃前進に際し徒歩携行するには少々非現実的なものであり、軽装甲機動車での車載運用がその装備の真価を示すともいえるでしょう。射程1500mといえば制式当時僅かに残る64式対戦車誘導弾とほぼ同じ。

 第一線の対戦車火力を大幅に拡大させた01式対戦車誘導弾ですが、エンジンを稼働させる戦車については赤外線照準装置が確実に目標を捕捉する一方、小型発動発電機程度の熱源では条件次第では照準が難しく、一旦照準すれば赤外線妨害には強いものの使い勝手が。

 即ち、対戦車誘導弾を機銃陣地攻撃や敵火砲への攻撃に転用する事が難しく、相手が戦車や装甲車を伴わない場合には、火力支援等に使いにくいという指摘もあります。そういう意味では従来使用された無誘導の84mm無反動砲の利点を再評価する声もあるとのこと。

 84mm無反動砲の後継装備として導入された01式軽対戦車誘導弾、島嶼部防衛戦では水陸両用戦車やヘリコプターの降着を撃破するには非常に優れた装備といえますが、無反動砲の威力も大きい、其処で陸上自衛隊はカールグスタフM3を補完用に調達再開しています。

 現代火力戦闘や機動戦対応を考えれば、82式指揮通信車の四輪駆動型のような、1975年からフランスで運用が続くVAB装甲車や不整地に弱いがウニモグトラック派生のコンドル軽装甲車等四輪駆動の安い車種でもよいので小銃班用装甲車を大量配備する必要性は感じる。

 しかし、その上で陸上自衛隊普通科部隊は国土の七割が山岳地帯であり、高機動車の機動力の高さは特筆するものがあります。限られた平野部には都市部が広がると共に6800の島嶼部から構成される国土を防衛すべく、様々な創意工夫と訓練を日々続けている訳ですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(4)戦闘訓練展示状況開始!(2013-09-08)

2018-11-04 20:10:14 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■金沢連隊の戦闘訓練展示
 金沢駐屯地祭、いよいよ今回から普通科連隊の訓練展示、状況開始です。

 情報小隊が先鋒を務めます。この情報に基づき連隊が動く。軽装甲機動車に79式対舟艇対戦車誘導弾と120mm重迫撃砲RT、近年は79式対舟艇対戦車誘導弾に代えて最新鋭の中距離多目的誘導弾配備が全国で始まっていますが、この三装備だけでも陸上自衛隊普通科部隊は冷戦時代より装備が大幅に近代化した、といえます。

 89式小銃に個人用暗視装置とともに先兵小隊が前進する。ここまでは部隊は高機動車で自走します。高機動車、1992年の調達開始ですが、この四輪駆動の野戦車両が後半に装備開始された点でも自衛隊の機動力は大幅に強化されたといえます。冷戦時代は普通科部隊の自動車化が、連隊の輸送小隊が有するトラックだけでは足りず、師団輸送隊の支援を必要としました。

 第10偵察隊の87式偵察警戒車が進む、1980年代は偵察隊が自走していても連隊の大半はトラック機動でした。73式大型トラック、現在の3t半トラックという呼称ですが、24名の人員を輸送可能です。73式大型トラックが9両あれば、数字の上では普通科中隊を同時輸送出来る事となります、勿論、部隊車両について迫撃砲小隊や無反動砲小隊と中隊本部は自動車化されていますが。

 1t半トラック、ミサイルを機動しています、昔はジープでしたが小銃班の機動力を買えたのは中型トラックでした。73式中型トラックが丁度小銃班が一つ丸々乗車できる車両という事で、ジープという愛称で親しまれた73式小型トラックと共に普通科部隊は自動車機動を実施していました、73式大型トラックの方が多数の乗車が可能ですが競合地域でこの車両はいかにも大きすぎる。

 地上偵察と共に空中機動のUH-1Jが進出します。実戦であれば判明した第一線に高機動車が殺到する事だ。1992年に調達された高機動車は、この73式中型トラックの後継という位置づけ、製造はトヨタ自動車で日野自動車が担当していた73式中型トラックと、最終的に高機動車の駆動系など足回りを共通化させた型が開発、文字通り後継といいますか用途は重なりますもの。

 しかし、高機動車と73式中型トラックでは、明らかに高機動車が野戦機動を念頭に車体銃身一つとってもある程度の路外機動を念頭に開発されています。車高も低く、そしてCH-47輸送ヘリコプター機内に搭載できるほどに小型化されており野戦車両の性格が増しました。

 敵BTR-82装甲車を発見、高機動車などの非装甲車両はこういう硬い車両と出くわす数km手前で下車させる必要がある。高機動車は一両で小銃班全員が乗車可能で、しかも乗り心地が上々と現場の評判がいい。かなりの悪路を踏破する愛にも横転などの心配は無く、整備性もトヨタ自動車が世界を席巻した理由が実感できるほどのもので、車体一部がFRP製ではありますが現場支持は厚い。

 87式偵察警戒車が25mm機関砲で威嚇しつつBTR-82装甲車の攻撃から離隔をとる。普通科部隊の友、というべき車両は高機動車、という表現を幾度か聞きましたが、高速道路網を駆使して長距離機動の際にも小銃班のうち操縦要員として運転手と助手席の車長、この2名以外は休息を採る事が出来、これが入る前と後では疲労度が根本で違う、という。

 さあ、先鋒部隊の情報に基づき火力戦闘が始まる。小銃班の必要な装備を全部載せても十分な搭載力がある点が高機動車の支持の背景にあり、加えて段列地区等に集積する携行品等を輸送する際には1/4tトレーラをけん引する能力が高機動車にはあります、設計に余裕があると共にPKO仕様等では防弾板追加も可能でした。

 UH-1Jからレンジャーが展開する。このUH-1は改良型が多数開発されましたが、前述の高機動車も一応改良型は存在する、例えばPKO仕様では駒門駐屯地祭に並んだ国際協力仕様高機動車が車体内部に防弾板を追加し、防弾ガラスも追加、しかし懸架装置は基本型の高機動車のまま重量増加に耐えているとの事で、即ち、自衛隊装備にあって将来発展性の余裕を十分確保できたという装備品の一つ。

 UH-1Jからレンジャーが展開する、躍動感ある写真ですが、同時に迫撃砲部隊の展開も始まっている。120mm重迫撃砲RTは高機動車に併せて配備が開始された1990年代からの陸上自衛隊の新しい看板装備です。フランス製の120mm重迫撃砲RTは最大射程8.1km、射程延伸弾使用時13kmの射程を誇り、旧型のM-2/107mm重迫撃砲の射程4kmよりも大幅に伸びた。

 レンジャーが状況に入っている。フランス軍では砲兵連隊が運用する事例がある程に火力の大きな120㎜重迫撃砲RTですが、普通科連隊の重迫撃砲中隊にはこれを12門装備しています。車輪と一体化しており、重迫牽引車、これは高機動車の派生型ですが牽引する事で素早い機動展開が可能になった。

 重迫撃砲が進出して参りました。重迫牽引車、元々は高機動車の開発はこの用途で開発された、とも言われるものですが、生産数は高機動車と併せ4000両を超えており、普通科部隊の火力支援を新時代へ昇華させました。なお参考までに重迫撃砲牽引時にこの車両は重迫撃砲の付属品扱いになるという。

 偽装網を展開する、重火力ですので効力射を相手に浴びせかけるまでは発見されないようにしたい。105mm榴弾砲の後継という位置づけとしても想定するフランス製重迫撃砲の開発は、フランス軍がアフリカ地域での旧植民地への元宗主国として、地域安定化任務へ担う緊急展開に際し、フランス空軍C-160輸送機等での空輸性に考慮、軽量な大火力が求められました。

 81mm迫撃砲も展開する、こちらはイギリス製のものを名古屋の豊和工業がライセンス生産している。空挺部隊重視のフランス軍は、この120㎜重迫撃砲を重宝すると共に機械化歩兵部隊に随伴可能な軽量大火力としても重宝され、輸出にも成功し、NATO各国での評価も高い装備です。陸上自衛隊の装備開始は冷戦終結後1994年ですが、実に500門近くを導入している。

 FH-70榴弾砲が展開して参りました。120mm重迫撃砲の存在により陸上自衛隊の第一線火力は世界的に見て高い水準となりました、世界には軽歩兵旅団で普通科連隊の重迫撃砲中隊より火力の小さな部隊は存在しており、逆に言えば迫撃砲の特色、瞬発火力が強い120mm重迫撃砲の威力はそれだけ大きい。

 迫撃砲陣地の横では対戦車ミサイルの展開も進む。79式対舟艇対戦車誘導弾、陸上自衛隊では大車輪で中距離多目的誘導弾への置き換えが進んでいます、そして実はこの第14普通科連隊も2015年度末に79式対舟艇対戦車誘導弾の運用が終了、対戦車中隊は第5中隊へ改編されていますが、この装備の配備は大きかった。

 普通科連隊の主要装備が横一列に並ぶ展示ですね。重MAT,と称されるこのミサイルは対舟艇用の爆発力の大きなHE弾頭と対戦車用の装甲貫徹力の大きなHEAT弾頭を選択でき、本体重量が33kgと比較的大威力である点が特色です。アメリカのBGM-71-TOWの弾頭重量が16kgというので、その威力の大きさが分る。

 74式戦車が進出して参りました、直接照準で瞬発交戦能力の高い戦車、やはり勇壮だ。対戦車隊として元々は師団長直轄の対戦車部隊に16セットが配備されていましたが、師団改編により当時の第10師団は全普通科連隊、第14普通科連隊、第33普通科連隊、第35普通科連隊、第49普通科連隊、に対戦車中隊が編成、12セットが配備されていたのです。

 79式対舟艇対戦車誘導弾、展開完了だ。ミサイル運用はジープ、つまり73式小型トラック車上に発射装置と誘導装置を搭載し、弾薬輸送車等を随伴、射撃時には地上に発射架を降ろして運用します。車上からは射撃できない、という原則との事ですが、出来るはず、という様な見解もありまして、情報は多い。

 軽装甲機動車が攻撃前進へ進出してきました。79式対舟艇対戦車誘導弾は機動力に限界があるのですが、この軽装甲機動車は01式軽対戦車誘導弾を車上から射撃できます。車上射撃の可否が陣地変換の所要時間を大きく変えますが、陣地変換の射撃陣地が掩砲所構築の時間的余裕があるならば、こちらの方が生存性は高くなります。ただ、例えば車体重量の大きな高機動車等に発射架を置き車載運用は出来なかったのか、興味は湧きますね。

 01式軽対戦車誘導弾が広く配備され、こちらのシュア亭は1.3kmという。自衛隊最初の対戦車ミサイルは64式対戦車誘導弾、通称MATの後継として導入されたものでMATは射程1.6kmですので重MATの射程4kmは大きな延伸といえます。ただ、MATは車上から射撃が基本でしたので、重MATは陣地変換に要する時間が長くなっていまして、何とかならないのかな、と。

 第2世代ミサイルで赤外線半自動指令方式という、つまり射手が目標を照準し続ける事でミサイルへワイヤーを通して目標情報が伝達され続け命中する。ただ、ミサイルはこの誘導方式の限界であまり速度が出せず、秒速200m、最大射程4kmの飛翔には20秒を要する。この種のミサイル攻撃を受けた場合は、この特科火砲が白燐弾で煙覆し、その後に効力射で叩き潰す。

 重MATは1セットに発射装置と照準装置を搭載し、弾薬輸送車には予備弾8発を搭載、8発が一基数ということになり、段列地区に更に一基数集積する事で中隊は192発を携行する事となります。ミサイルが大型である分、携行数に限りありますが頼もしい装備でした。

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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(3)観閲行進から訓練展示へ(2013-09-08)

2018-10-21 20:12:40 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■対戦車中隊の観閲行進
 金沢駐屯地創設63周年記念行事は観閲行進から訓練展示へ進みます。

 普通科部隊、小銃や機関銃を駆使し近接戦闘に当たる部隊です。歩兵と旧称された普通科部隊は責任交戦範囲の観点からは500m以内を基本として担当し、特に100m以内に間合いを詰める近接戦闘では戦車や火砲を含めあらゆる戦闘部隊は普通科部隊に敵いません。

 89式小銃、5.56mm機銃MNIMI,対人狙撃銃、M-2重機関銃、110mm個人対戦車弾、01式軽対戦車誘導弾、84mm無反動砲、9mm拳銃、小銃班は多様な装備を有し近接戦闘に当たります、当然ですが一個小銃班が散開、個人用掩体や地形に隠れますとほぼ見えないというのですね。

 90式戦車の乗員の方にその昔、最大の脅威について聞いてみた事がありますが、脅威は意外や意外、最新の10式戦車ではなく110mm個人対戦車弾を抱えて一人待ち伏せる普通科隊員との不期遭遇、という答えでした。70km/hで走っていると気づかずやられるという。

 90式戦車は、しかし500m以上間合いを取っていれば負ける事はありません、100m以上であってもなんとかなるでしょう、しかし、歩兵の間合いに気付かず入ってしまうと、厳しい運命が待っています。だからこそ、基本的に戦車部隊は歩兵部隊と協同する訳ですね。

 近接戦闘部隊として普通科部隊はあらゆる地形と天候を克服し戦闘を継続します。戦車の機動力は凄まじいものがありますが、普通科はロープを用いれば断崖絶壁さえ踏破し追随は出来ません。航空部隊は山脈に海さえ飛び越えますが、悪天候では離陸さえできません。

 攻撃の基本は、突破・包囲・迂回、ですが実施の上で課題となるのは地形の克服です、これが無ければ迂回できない地形というものも多い、気象の克服は攻撃の持続性を左右するものですね。この、全ての地形と天候の克服を両立するのは、普通科部隊だけなのですね。

 射撃競技会や持続走競技会と銃剣道競技会、普通科部隊はこの三要素を中心に様々な協議会を重ね一人ひとりの個人の戦闘能力錬磨を期しています。射撃と銃剣術さえ大成したらば、基本的に戦闘が個人と個人の近接戦闘において負ける事は無い、という発想ですね。

 持続走競技会は、文字通り地形の克服を筆頭に普通科部隊の錯綜地形での機動力構築を期するもの。特に持続走の上に武装競争という完全武装での持久走競技会もあり、あらゆる地形克服には必要な素養を身に着けます。錯綜地形の多いわが国には必要な要素といえる。

 ソフトボール投げなど、競技会以外に自衛官体力検定という制度があります。怠けないように、という部分も大きいのでしょうがこの通り自衛官体力検定には様々な要素がありますが、この一つをとっても、例えば手榴弾投擲を筆頭に必要な素養を定着させるのが狙い。

 銃剣道競技会に加えて格闘競技会もあり、自衛隊ではこの種の訓練を通じて、しかし訓練中の事故を局限化する取り組みと併せ要員を錬成しています。訓練事故、誤った価値観では事故でもなければ軍隊は強くなれない、特に外国軍隊と自衛隊を比較する例もあります。

 訓練事故ですが、しかし、実任務の前に訓練で部隊が摩耗しては、定員割れを増やしたままで実任務に臨む事を強いるものであり、逆に訓練事故の根絶をそのまま訓練水準の低下に繋げない方法があるならば、事故を根絶する姿勢の方が武装集団としては必要でしょう。

 指導者の大量錬成と基礎教育の強化、実は格闘関連の教育での事故は中学校高等学校での体育授業中での事故の方が目立つことがありまして、自衛隊では文字通り必修の素養として訓練しているものですが、事故の回避にはどうすれば良いのかについて聞いてみた事が。

 結局、防具の正しい着用により順次挌闘に関しては基礎教育を積み重ね、修練度合いを客観的に判断した上で訓練度合いを高めて行く、この為には必要な指導者の数があり、これを揃える必要がある。つまり事故の確率を局限化する取り組みが反映されている訳ですね。

 徒歩機動40km、陸上自衛隊普通科部隊では火砲の射程の延伸等戦闘様相の変容に反映し、40kmを踏破し迂回攻撃や包囲機動を行う徒歩機動訓練を実施しています。勿論、装甲車や車両は装備されているのですが、基本的に車両のみで踏破できる地形だけではありません。

 完全装備の接敵行軍、相手との遭遇戦を想定しつつ徒歩機動での攻撃訓練を実施する、40kmの徒歩機動はその気になればそれほど困難ではなさそうに見えますが、完全装備で、しかも必要に応じ不整地や山間部を踏破し、しかも接敵行軍となると難易度は低くない。

 体力錬成と教育、自衛隊で特筆すべきは米軍などでは体力ピークが二十代前半として若さで支える、という認識なのですが、自衛隊では三十代半ばの陸曹が体力錬成と戦闘技術の到達点として考えている、というお話を聞いたことがありまして、この認識に現れている。

 遮二無二体力の伸びしろを若さに見出すのではなく、重いものをいかに効率的に梱包し、そして接敵行軍筆頭に戦闘に対応する感覚、各種技術と戦闘技術への応用等を実現するには、やはり若さだけで一朝一夕に行えず、錬成と教育が重要だ、という認識なのでしょう。

 教育というもの、錬成というものは重要ですが、しかしまれに現代戦、ミサイルやレーザーが飛び交う時代、そうは言いつつレーザーが飛び交うのは測距用や照準用なのですが閑話休題、しかし体力、銃剣術や小銃射撃がミサイルやレーザーの時代に対応するのか、と。

 ミサイルやレーザーの時代、ではあるのですが、しかし戦闘は基本的に人と人の闘争の拡大と集団化ですので、我の意志が彼の意志を屈曲させなければ成り立ちません、そして第一線という表現が、その一線に人間が立って成り立たせているものという視点が重要です。

 第一線が維持できるか瓦解するかは、やはり収斂するのは個々人の技量となるものです。この部分で部隊を構成する個々人の素養を教育し錬成しているかが、一例として近接戦闘、市街地での一対一の状況や小部隊戦闘において具現化し、冷厳な損耗率に反映するという。

 その上で、現代戦はミサイルやレーザーがすべてではないのですが、個人携帯対戦車弾や車両操縦と車両整備、測距や標定と計算術や通信機器の操作と、個々人が生き残ったうえで必要とされる能力や技術が多様化しており、一朝一夕に養成できるものではありません。

 多種多様な技術を有していても、また、ミサイルがどのように長射程化しようとも、レーザー照準や測距といった技術が発展しようとも、最後の決着をつける部分は人が担うものである訳ですから、この部分が瓦解しないよう、個々人の戦闘技術が影響する訳ですね。

 ここに積み重ねの教育の重要さが有る。その上で、例えば徒歩機動一つとっても、ヘリコプターを多数保有していても堅固な防御陣地正面に攻勢を期して着陸したらば忽ちのうちに砲迫で制圧されますので一定の徒歩機動が必要、装甲車もどこでも走れるわけではない。

 この連隊は精強です、という紹介をOBの方から受ける事がありますが、根拠なしの自負ではなく、教育訓練と戦術に各種相違への挑戦と研究、個々人の要員錬成と競技会、この部分まで踏まえて、自衛隊は強い、と自負できる背景があるのだろうなあ、と考えます。

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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(2)第14普通科連隊観閲行進(2013-09-08)

2018-09-23 20:09:29 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■観閲行進にみる連隊編成
 金沢駐屯地祭、式典に続き観閲行進が開始されます。その威容と共に普通科連隊の編制を視てみましょう。

 普通科連隊、連隊長を頂点に副連隊長が補佐し、第1科長、第2科長、第3科長、第4科長の幕僚機構があります。そして第一線中隊は本部管理中隊長、第1中隊長、第2中隊長、第3中隊長、第4中隊長、重迫撃砲中隊長、対戦車中隊長、教育隊長が当たる訳です。

 普通科連隊は、陸上自衛隊の戦闘骨幹戦力であり、近接戦闘を主任務とすると共に有事の際、戦車中隊や特科大隊と施設中隊及び後方支援連隊からの配属部隊や衛生小隊と共に連隊戦闘団を編成します。この為、連隊は独立戦闘能力をかなり深く意識しているのですね。

 第1科長、S-1と略称され連隊幕僚機構に在って人事担当を担います。第1科は第1科長以下、庶務班長、広報班長、募集-援護担当幹部、が配置されていまして、連隊本部の運営を具体的に担う事務機能と共に隊区全般の広報業務から報道対応まで一手に担う部署という。

 第2科長、S-2と略称され情報担当を担う幕僚です。第2科は第2科長以下、情報幹部と地誌幹部が就きます。地誌幹部とは連隊は特定地域を警備隊区として防衛警備任務に当るのですが、その際に河川や道路と隘路や稜線等の地形に国民保護情報を一手に担当している。

 第3科長、S-3という作戦運用担当の幕僚機構です。第3科は第3科長以下、運用訓練幹部主任と運用訓練幹部、警備幹部、予備自衛官担当幹部、通信幹部、より成りまして、運用訓練幹部は有事の際には作戦幹部として連隊長へ幕僚見積等所見を提示する要職の筆頭だ。

 第4科長、S-4と故障される兵站幕僚機構、自衛隊用語では後方支援担当という。第4科には第4科長以下、部隊車両幹部、管理幹部、が就いていまして、整備全般状況を把握すると共に連隊段列地区という独自の兵站拠点地域の管理と第一線への補給線維持も担います。

 幕僚陣は第1科長、第2科長、第3科長、第4科長、4名が人事と情報と作戦に兵站、と担います。上記の通り所管職域は明確化していますが、第一線中隊長と違い近接戦闘部隊を直接担う事は無く、職域に留まらず必要な所見を阿らず連隊長に提示する役割とのこと。

 本部管理中隊長、本部管理中隊には本部管理中隊長以下、人事班長、情報小隊長、施設作業小隊長、管理整備小隊長、衛生小隊長が就きます。各小隊は情報小隊は斥候等情報収集、施設作業小隊は戦闘工兵任務に当り、等など、連隊の行動全般を支援する任務に当ります。

 第1中隊長、普通科中隊には中隊長以下、副中隊長、運用訓練幹部、第1小隊長、第2小隊長、第3小隊長、第4小隊長、迫撃砲小隊長、対戦車小隊長、が就きます。対戦車小隊は対戦車ミサイル普及以前には無反動砲小隊が当てられ、呼称も無反動砲小隊長でした。

 第2中隊長、中隊長以下、副中隊長、運用訓練幹部、第1小隊長、第2小隊長、第3小隊長、第4小隊長、迫撃砲小隊長、対戦車小隊長、は共通です。小銃小隊は高機動車か軽装甲機動車により高度に自動車化されており、一個中隊が軽装甲機動車中隊となっています。

 第3中隊長、中隊長以下、副中隊長、運用訓練幹部、第1小隊長、第2小隊長、第3小隊長、第4小隊長、迫撃砲小隊長、対戦車小隊長、という共通編成です。対戦車小隊は射程2kmの87式対戦車誘導弾を装備、迫撃砲小隊は射程5kmのL-16/81mm迫撃砲を有する。

 第4中隊長、中隊長以下、副中隊長、運用訓練幹部、第1小隊長、第2小隊長、第3小隊長、第4小隊長、迫撃砲小隊長、対戦車小隊長、は同じ。半装甲化編成という現行では普通科連隊に一個の装甲車中隊を置く編成が全国的に普遍化され、第4中隊か、近年一部普通科連隊に増強される第5中隊が軽装甲機動車化されている事が多い。

 重迫撃砲中隊長、中隊長以下、射撃幹部、偵察幹部、前進観測幹部、第1迫撃砲小隊、第2迫撃砲小隊、が置かれています。射程8.1km、延伸弾使用時に13kmの射程を有する120mm重迫撃砲RTを12門装備しており、冷戦時代には射程5kmのM-2/107mm重迫撃砲を有していました。

 対戦車中隊長、中隊長以下、副中隊長、運用訓練幹部、第1小隊長、第2小隊長、第3小隊長、という編成で射程4kmの79式対舟艇対戦車誘導弾12セット有する。師団対戦車隊から普通科連隊へ対戦車火力を増強改編し誕生、ただ近年は全国的に近接戦闘部隊強化の流れを受け第5中隊へ改編されつつある。

 教育隊長、新隊員という昨今は自衛官候補生の前期教育を担うと共に前期教育終了後の第一線部隊配置となった新隊員の後期教育支援をも担います。教育隊長と並列し金沢駐屯地のように自動車教習所を有する駐屯地では自動車教習所長として幹部が充てられています。

 世界の歩兵中隊とは概ね100名程度の人員を以て編成され、云々、と諸外国の部隊編成では哨戒されますが、陸上自衛隊の普通科中隊は220名規模の人員を有しています。これは普通科中隊が小銃小隊に加えて迫撃砲小隊と対戦車小隊を独自に編成下に置いている為という。

 歩兵大隊の隷下に武器中隊として迫撃砲小隊と対戦車ミサイル小隊を有する編成が、米軍やNATO諸国が冷戦時代に一般的な編成としていました。しかし、陸上自衛隊は普通科連隊隷下に普通科大隊を置く編成を1962年の陸上自衛隊改編において中隊に代えています。

 普通科中隊は諸外国の歩兵中隊と比較し二倍程度の人員を有する小型の歩兵大隊、という水準となっています。これは自動車化等運動戦という陸上戦闘体系の変容を予見し、部隊の分散と集合を迅速化させる、との視点から導入されたもので、米軍を参考としたもの。

 ペントミック編成という1950年代にアメリカ陸軍が核戦争時代を見越し、一発の戦術核で師団が全滅しないよう従来の4000名規模歩兵連隊編成を改め、師団を小型化すると共に大隊戦闘群を基本に、従来の三単位編成から五単位編成としたものを日本が参考としました。

 1962年の陸上自衛隊改編は、自衛隊創設当時から採用された大型師団にあたる管区隊制度と機械化混成団の連携、という運用を改め、管区隊を四単位編成の甲師団に縮小、混成団を三単位編成の乙師団に拡大、この過程で普通科連隊数を大幅増強する必要が出ています。

 三単位編成というものは、基幹部隊が三個ある、という意味です。当然五単位編成とは基幹部隊が五個という。ペンタゴンという単語が五角形を示すように元々ペンとミック編成とは五単位編成であった訳ですが、日本は五単位編成ではなく小型編成概念だけ導入した。

 核戦争時代の小規模編成というアメリカ陸軍改編を、単に自衛官定員をそのままに部隊数を増強するために一つ一つの部隊定員を縮小するという苦肉の策を用い、この際に普通科連隊隷下に在った普通科大隊を廃止、代えて普通科中隊の定員を増やしたという構図です。

 フランス陸軍も自衛隊以外に歩兵連隊から歩兵大隊を廃止し、歩兵中隊を連隊の直下に置く編成を採り、歩兵連隊定員が1100名程度と、自衛隊の1200名規模の普通科連隊と重なる改編を行っています。一方、他のNATO諸国では歩兵連隊を止め歩兵大隊を基幹とした。

 基盤的防衛力整備という1976年防衛大綱の概念は、元々日本の抑止力を強化するために防衛力強化が必要という部内意見を内局が平時に最小限の人員を維持し有事に急速強化するための基盤整備だ、という方便で説明したもの。この為過去には有事の際、一応普通科中隊を大隊化する構想は、あったともいう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】金沢駐屯地創設63周年記念行事(1)第14連隊,もののふ群像(2013-09-08)

2018-09-02 20:02:39 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■金沢,戒田重雄連隊長へ敬礼
 日曜特集、今回からは金沢駐屯地祭、戒田重雄連隊長が指揮する第14普通科連隊の記念行事を紹介しましょう。

 第14普通科連隊、金沢駐屯地に駐屯する陸上自衛隊の普通科連隊です。京阪神と北陸とを結ぶ歴史的所縁を思い起こせば伊丹市千僧の第3師団との所縁を想いますが、第14普通科連隊は東海北陸地方を警備管区とする名古屋第10師団隷下の普通科連隊となっています。

 もののふ群像、かや書房出版の書籍ですが陸上自衛隊普通科部隊について、物語形式にて訓練や日常風景と自衛官という個人や指揮官の視点から描いている書籍です。部隊の舞台は冷戦時代の金沢、第14普通科連隊です。この本、図書館などにも並んでいる事が多い。

 金沢駐屯地、実は行事を見に行こう、と思った背景には高校生時代に読んだこの本の影響がありまして、106mm無反動砲や64式小銃の時代、現行軽装甲機動車や79式対舟艇対戦車誘導弾の時代よりも前の情景が広がっていますが、この一冊で普通科連隊を知ったもの。

 普通科連隊、といいましてもインターネット普及前の時代には、なかなか福知山駐屯地や信太山駐屯地に行くには難しく、なにしろ駐屯地祭がいつ行われているかは地連の掲示板に頼るほかなかった、という時代です。そんな中で一冊丸ごと普通科連隊紹介は貴重だ。

 加賀百万石、歴史情緒あふれる地域の普通科連隊、というのではなく、十年以上前に初めて金沢駐屯地祭へ歩みを進めた背景には、高校生時代に読んだ“もののふ群像”の舞台を自分も歩んでみたい、という認識が大きかった。そして行事の規模が凄かったのですよね。

 痛車に初めて乗せてもらったのもこの時でした。訳が分からない、と北海道から九州まで返されるのですが、当日、地元の方に駐屯地行かれるのでしたら一緒にどうですか、とお誘いいただきまして、ありがたい、と。その車が偶然魔法少女的な自動車だった、という。

 兼六園も散策しましたし、とにかく行ってみた金沢は面白かった、そして、何故か当方、金沢大学の研究会の方々とご縁が出来まして、金沢がぐっと近くなったのが当時でした。ご縁、というものは大事でして、そして重ねて金沢駐屯地祭撮影へ展開したという構図だ。

 小松空港から首都圏の研究会などに出席していまして、当時はブルートレインの寝台特急北陸、夜行急行能登が運行中でしたし、新潟まで上越新幹線で出れば東京からの帰路は早いとも思ったのですが、北陸地方と東京の距離感というものを感じたのもこの頃でしたね。

 大阪駅にて先日サンダーバードの終発を見送りましたが、金沢行の特急は指定席が満員、対して四月に新幹線かがやき乗車の際に以外に指定席に空席が多かった点から、首都圏と北陸の繫がりよりも、京阪神と北陸の繫がりを痛感しました、そんな金沢でのおはなし。

 古都金沢、加賀百万石の前田家が治めた北陸の金沢は北陸最大の都市として、また今日では、石川県県庁所在地として栄え、歴史と伝統の街との機運豊かに兼六園と金沢城が広がり、そして旧制四高が置かれ泉鏡花始め文学と学問の気風が薫る街並みが広がっています。

 金沢第九師団、近現代史に造詣の深い方ならば、この陸軍精鋭師団をご存知でしょう、日清戦争後の三国干渉等情勢緊迫化を背景に創設、日露戦争において旅順要塞攻防戦において膨大な犠牲を経て遂に制圧、太平洋戦争では最終的に台湾を戦場から守り抜きました。

 陸上自衛隊創設と共に第10師団隷下にあって第14普通科連隊は北陸地方の石川県全域と共に福井県と富山県を防衛警備管区とし、一個連隊にて北陸三県を担当するという、その広大な警備管区から第14普通科連隊は北陸方面隊と云われるほどの重責を担っています。

 北陸方面隊、との別名がもたれる北陸地方ですが富山県に隣接する新潟県は高田の第2普通科連隊と新発田の第30普通科連隊が担当していました。これは新潟県に万一着上陸を許せば本州を縦貫し首都東京まで敵脅威下に置かれるという防衛上の観点からの措置でした。

 専守防衛の我が国、しかし日本海の対岸には自由主義の価値観を必ずしも共有しない脅威が存在し、冷戦時代、対岸のソ連からの着上陸は我が国最大の防衛課題でした。日本本土へ着上陸を行う際には絶対に兵站中継地と策源地、そしてその連絡線が不可欠となります。

 北海道北部、最も着上陸の蓋然性が高かったのは沿海州に最も近く樺太島を兵站中継地と出来る立地です、ここには陸上自衛隊は最精鋭師団の一つ、第2師団を駐屯させ防衛警備に充ててました。北海道の北部方面隊には戦車団や特科団が置かれ今日も機甲師団が在る。

 北海道東部、北方領土から中口径火砲の射程内にある道東地区も着上陸の蓋然性が高い立地です。ただ、万一の際は宗谷海峡を封鎖する事で兵站連絡線を抑える事は出来た。道東地区は第5師団が守りを固めていましたが地形障害が少なく増援を受けにくい地形でした。

 青函地区、冬季にも航行が可能である津軽海峡、その両岸の青函地区は道南の第11師団と東北北部の青森第9師団が抑止力を利かせていましたが、万一この地域に脅威が及んだ際には北海道全域が孤立化する懸念があり、冷戦下、我が国防衛上の最重要地域の一つです。

 北陸地方ですが、日本本土全域を制圧する着上陸、とは可能性が非常に低かったのですが、限定戦争、つまり我が国一部を占領し、その制圧下に置く事で有利な外交交渉の条件を引き出す、善隣条約締結や日米安保破棄の圧力、港湾租借等強要という可能性がありました。

 能登半島、第14普通科連隊と第10師団が最も想定していたのは日本海に突き出た能登半島北部を兵站策源地とし、北陸地方全域に対し圧力をかけるという限定侵攻の可能性でしょう。同じことが新潟の第12師団管区には佐渡島への限定侵攻の可能性も考えられました。

 勿論、水陸両用作戦とは兵站拠点と兵站連絡線、そして水陸両用部隊と航空部隊の連携に続く主力部隊の上陸、これらを陸海空御支援下で推進するという一大事業です。着上陸予定地に例えば一個中隊が布陣しているだけでも、実行可否は非常に大きな影響を与えうる。

 第14普通科連隊の重責は、冷戦時代に日本海沿岸への軍事圧力の増大へ、日本海のどの地域に対しても限定侵攻を許さないという姿勢を示すと共に、有事の際には脅威正面へ即応し転地可能な体制を維持し、北陸の地から必要な抑止力を北陸と全国へ轟かすことでした。

 基盤的防衛力整備、1976年の防衛大綱において明示され、統合機動防衛力の2010年代まで続きました防衛戦略は、全国に画一的防衛力を配置し防衛基盤とする、その上で有事の際には防衛基盤を急速に強化する事で抑止力を実的防衛力へ昇華させる、という指針です。

 普通科連隊の配置は、この基盤的防衛力整備を確たる水準とする為の基本であり、併せて近接戦闘部隊の極致である普通科部隊を全国に駐屯させるという施策です。実際、戦闘の本質は土地の収奪、直接戦闘にて敵に銃剣を突きつけなければ、戦闘に決着はつきません。

 もののふ群像、戦闘の本質云々の上記は、この作中にあった一つでもあるのですが、ね。金沢駐屯地は、金沢市の高台にあり金沢駅からも路線バスが運行されています。市の中心部から少し距離がありますが、この一冊の舞台となった駐屯地というのが感慨深いですね。

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【日曜特集】富士学校創設63周年富士駐屯地祭【10】最新鋭16式機動戦闘車(2017-07-09)

2018-08-05 20:00:03 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■最終回:10式戦車機動展示
 富士学校創設63周年富士駐屯地祭特集は今回が最終回となります、日本の戦車は性能と費用面でかなり優れた位置にありますが、この当たりへの理解が薄い。

 アメリカが大量一括調達した際の総合価格を示されても、その値段で自衛隊が調達するには一括大量調達で自衛隊十個分程度の戦車を買わなければその費用には収まりません、また開発費や生産治具費用を別枠で計上しているので、費用定義が日米で異なるのです。

 M-1A1戦車を自衛隊が必要な数量だけ調達した場合ですが、一例としてオーストラリアを。オーストラリアがアメリカのM-1A1をM-1A1Dとして電子装置を近代化したものを調達した際の費用ですが、2010年数値で一両当たり13億8000万円という数値が出ていました。

 こう書きますとあまり安い気がしません。電子装備が最新なので高い、といわれましても目標自動追尾装置がある訳でもなく、しかも量産されたM-1A1を部品単位で保管している状況で、デポで再度組みなおした、表現を恐れずに言えば新古品というものだったのです。

 レオパルド2もドイツ連邦軍が2700両も大量生産していた当時は安価でした、というもの。レオパルド2とは単車当たりの高性能を狙ったものではなく、数を揃え優勢を狙うもの。90式戦車も火器管制装置を簡略化、手動装填としたらばもう少し安価とできたでしょう。

 レオパルド2戦車には砲弾の気象影響を検知する気象観測装置が省かれていたり、車長用照準器などはなく戦車長は身を乗り出して視察するという概念の設計であったり、若干運用への考え方が違います。これは平野部の限られた日本と欧州の平原の環境の差といえる。

 西ドイツ連邦軍の戦車の場合、ともかくソ連の膨大な戦車との大平原での戦闘に備え数を揃えるには一両当たりを安価にして安くしなければならない切迫性があったのです、国境の向こうに地続きで18個機甲師団が27個機械化歩兵師団と共に待っていましたから、ね。

 90式戦車は量産初期こそ12億円と高価格でしたが、これは初度費用として生産関連費用が上乗せされていた為でその後は徐々に下がり2000年代には9億円程度に、最終的には8億円台で最も安価な年度には7億円台まで下がっています。これは当時かなり驚かされた。

 その頃レオパルド2は海外輸出を企図して増加装甲や遠隔操作銃搭に市街戦防御装置と価格が上がり、概ね16億円程度、中東に提示されたフルオプションと訓練整備支援のセットでは一両当たり42億円という桁外れのお値段が提示されたこともあります、これも驚きだ。

 何故欧州製の戦車が高くなったのか、といいますと欧米は冷戦時代に大量生産に慣れていましたが冷戦が終わり少量長期生産に移行すると途端にコスト上昇に悩まされる事となりました。元々生産を抑え気味であった日本のコスト管理が勝利した、といえるでしょう。

 戦車教導隊第4中隊は74式戦車を装備しています、74式戦車は873両という大量生産された戦後第二世代の戦車です。新型砲弾により今日でも第一線に対応する105mm戦車砲を備えた戦後第二世代戦車なのですが、第二世代戦車は1960年代に多くが生産されています。

 第一世代戦車は実は第二次世界大戦中の中戦車の性能の延長線上にある設計でした、重戦車と軽戦車という区分がある中で、一番性能面で打撃力と防御力に機動力が均等化されていて運用が容易であった事でこの技術を応用し第一世代戦車が形成されていったわけです。

 74式戦車が属する第二世代戦車は、打撃力・機動力・防御力、という三要素の内で当時の技術では二つしか充分に達成させる技術が無く、一つは断念するしかありませんでした。当時は対戦車ミサイル等戦車を攻撃する技術が高くなっていた為、妥協を迫られました。

 打撃力・機動力・防御力という三要素の内で重装甲を与えると鋼鉄の装甲が非常に大きくなる為に満足な機動力を持たせる事が出来ず、イギリスのチーフテン戦車などは防御力重視で機動力を断念させました、M-60戦車もこの範疇に含める事が出来るかもしれません。

 機動力重視、フランスのAMX-30やドイツのレオパルド1等は防御力を機関砲に耐える程度としつつ機動力を重視している訳です、そして日本の74式戦車は機動力を重視しました。ただ、第二世代戦車の中で最後に登場した74式戦車はただ防御力断念では終わりません。

 第二世代戦車である74式戦車は、正面装甲で40mm機関砲に辛うじて耐える、最近の40mm機関砲用APDS弾は厳しいものの、まあ当時の大口径機関砲には耐えられまして、しかも戦車砲弾の命中へは砲塔の形状を工夫する事で防御力をもう少し底上げしています。

 74式戦車の外見上の特徴は平たい砲塔に在ります、ミサイルや戦車砲弾はまるい形状の鋳造砲塔を採用することで命中しても滑らせることで直撃を免れる構造を執っています、しかし、それだけでは不安なので油気圧懸架装置を採用しました、当時は勇気ある選択肢だ。

 油気圧懸架装置、これは車体を油気圧で前後左右に40cmを上下させる事が出来、地形に身を隠してしまう構造です、戦車が装甲に限度があるのならば地形に隠れてしまえばよい。そしても一つ副次効果がありまして、小型の砲塔を採用する欠点を油気圧懸架装置が補う。

 地形に身を隠す油気圧懸架装置ですが、小型砲塔を採用した事で主砲の仰角俯角が大きく執れなくなります、砲塔小型化で防御力を全面集中した分が主砲角度という攻撃力を制約するのですが、油気圧懸架装置にて車体を傾かせられる為、主砲角度を確保できるのです。

 105mm戦車砲による攻撃力を重視していまして、砲塔小型化による主砲角度成約を油気圧懸架装置で補うという前述に加え、距離を正確に測る測距レーザー装置を搭載し、遠距離で正確な射撃を行えるようなっていましたし、設計面ではかなり成功していたといえます。

 油気圧懸架装置を採用した事で地雷を踏んだ場合の脆弱性や、開発当時は標準的な暗視装置であった搭載する赤外線サーチライトによる夜戦方式が陳腐化し、最前線で赤外線灯光器を照射した瞬間に赤外線が検知され瞬時に制圧されるのでは、という危惧もありました。

 夜間戦闘については、操縦手用暗視装置が新型となった際に砲手用暗視装置の更新も期待されましたが、其処までは為されず、苦肉の策ではありますが直協部隊による照明弾との併用や偵察部隊の暗視装置との協同により、充分な、必要最低限の能力を保持しています。

 ただ、旧式です。暗視装置を最新に切替え、複合装甲を装着したらばまだまだ使える、という指摘も昔はありましたが、無理です。第二世代戦車は砲弾が一撃で誘爆しないよう車内各所に分散配置していますが、この発想そのものが今日、非常に陳腐化しているのです。

 第三世代戦車は砲弾を防護できる区画に集中して配置しています、ですから第三世代戦車は多少貫徹されても砲弾誘爆の危険は無く、内張り装甲により部品の飛散を防護できれば乗員は貫徹し風通しのよくなった戦車内で戦闘継続できますが、第二世代戦車は無理です。

 第二世代戦車については車内何処かに砲弾が少数づつ配置されているので、砲弾が命中し爆発するまでの時間を稼ぐという発想です。結果、乗員は戦車を捨て即座に脱出しなければならないというものです。世代差とは様々な部分で技術と思想が進歩しているのですね。

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【日曜特集】富士学校創設63周年富士駐屯地祭【09】当面の敵を撃破せよ(2017-07-09)

2018-07-08 20:10:32 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■富士戦闘団任務達成状況終了
 2015年度行事用の解説で2017年度行事写真、少々解説と写真が外れてしまいましたがご容赦を。

 戦車教導隊第2中隊の90式戦車が続く。16式機動戦闘車は量産開始三年目の製造費用が7億5500万円です。対して90式戦車は生産開始当時こそ12億円という高価な費用を要していましたが、生産治具購入などを初度費として加算していた為、12億円に繋がった。

 90式戦車も量産が続くと共に生産費用は8億5000万円前後に低減され、2010年の生産終了までに一両当たり7億9000万円まで費用を下げた事もありました。16式機動戦闘車はそれよりも3500万円ほど安価なのですが、まあ、軽装甲機動車初期一両分、というところ。

 しかし、戦車乗りとしては、16式機動戦闘車よりも90式戦車のほうを選ぶと思うのですが、どうでしょうか、と考えてしまいます。16式機動戦闘車に乗車する戦車要員の立場になって考えなければなりません、戦車砲に撃たれたらば確実に撃破される車両どちらがよいか。

 74式戦車は確かに現在のままでは第一線戦闘に対応できません、暗視装置を新型の熱線暗視装置に換装、増加装甲を砲塔と車体前面に装着し、遠隔操作銃搭RWSを搭載しても第三世代戦車改良型に対抗できません、しかし16式機動戦闘車がその答えになるとも思えない。

 戦車教導隊第2中隊の90式戦車、この流星マークの90式戦車が最初の90式戦車中隊でしたので、ゴジラシリーズはじめ多くの映画では90式戦車といえば流星マーク、というものでしたね。映画に出演しますと、戦車部隊はかなり後世までその雄姿が作品として残る。

 複合装甲で対戦車ミサイルや徹甲弾脅威に対応する強靭な防御力を有し、1mもの鋼鉄を貫徹する120mm滑腔砲を搭載し1500馬力エンジンにより70km/hという機動力を有する戦車です。打撃機動防御を揃えた、この三要素を揃えたものが世界では第3世代戦車という。

 90式戦車は目標自動追尾装置と自動装填装置という二つの新技術を採用し、世界の戦車の中で最優秀の性能を保持していました。冗談ではなく最優秀と言い切れるのは、自動装填装置の採用により、車内容積でいちばん場所を取る装填手をロボットに置き換えている。

 砲塔に乗車する砲手と車長を砲塔前部に集中する事が出来、ここに複合装甲を重点的に配置することで、軽量なのに重装甲、ということを実現できたわけです。逆に複合装甲を採用しないと、装甲厚を鋼鉄で1mにしなければならず、これでは重すぎて動きがとれません。

 防御力の面から自動装填装置は意義があります。装填手は後部の弾薬庫から砲身基部に装填するため、体を回して作業するため、この空間も複合装甲で覆うとなるとかなり重量がかさむのです、もちろんロボットが装填しますが緊急時には車長による手動装填も可能だ。

 レオパルド2、M-1A1、チャレンジャー、各国の戦車はこの為に複合装甲を広くとる必要があるのですね、ただ、装填手は戦車乗員が最初に割り当てられる修業の場、ここをロボット化するのですから戦車初心者は陸曹になって初めて操縦手として着任することになる。

 陸曹になるまで戦車乗員と慣れない、というのは90式戦車に始った3名定員の戦車ですが、陸曹の養成は時間が掛かります。この為の戦車乗員をどう養成するのか、装軌装甲車操縦手等を充てていますが自衛隊装甲車が装輪化する潮流のなか、将来の問題の一つでしょう。

 目標自動追尾装置は、戦車照準器通じ砲手がロックオンした目標を文字通り自動追尾するものです。自動追尾するという事は砲手が延々と砲塔を微調整して目標を追い続ける必要が無い訳ですが90式戦車は自車が移動しつつ敵が移動する最中を照準し続ける事が可能だ。

 複数の戦車と同時に抗戦できるというものが目標自動追尾装置の強みです。これは90式戦車には戦車長用の独立照準器が搭載されています、車内から目標を索敵でき、砲手が主砲の照準を行いますが、車長がより優先度の高い目標を発見した場合には優先照準できる。

 目標追尾装置と車長用照準器の併用、これはどういう事かと云えば、砲手が目標戦車を自動追尾させる最中に戦車長がより優先度の高い、例えばこちらを狙う、目標を発見した場合には即座に優先射撃し撃破出来る。しかし、ロックオン目標も追尾し続けている訳です。

 車長指定の目標を撃破し、その四秒後に自動装填装置が装填した直後に砲手がロックオンしている目標を打撃することができる。ただ、目標自動追尾には砲塔を標的に追随させる必要があり、二つの標的が角度的に離れすぎていると追随不能となってしまいますが、ね。

 自動装填装置はフランスのルクレルク戦車やロシアのT-72戦車以降のT-80戦車やT-90戦車が採用し、目標自動追尾装置はイスラエルのメルカヴァMk3BIZ戦車以降のメルカヴァMk4なども採用していますが、両方とも採用したのは90式戦車が初めてです、画期的だ。

 当初は不具合に悩まされましたが、整備手順を完成させ、世界最強の戦車として自衛隊は育て上げました。自動装填装置と目標追尾装置の併用搭載は非常に効果が高く、最新型の10式戦車でもこの方式が採用されています、勿論性能と信頼性を高めて、搭載されました。

 戦車教導隊第3中隊の90式戦車、開発当時は相当な最先端技術を盛り込んだ戦車である事から一両当たり12億円もしまして、毎年36両しか調達できない、といわれたものでした。当時はバブル崩壊もあって、不必要なまで贅沢な戦車なのでは、とも言われたものですが。

現代の視点で見ますと、毎年6両しか10式戦車を調達できない現状では36両も調達できている状況は時代の違いを痛感させられますが、実は74式戦車は毎年80両ちかくを調達していたのですから36両となると少ない、という印象に直結する事は確かに否めません。

 しかし、90式戦車は量産を続けると共に徐々に調達価格が低減してゆきました。戦車の費用の三割近くは火器管制装置の費用により占められる、とはイスラエルのメルカヴァMk3戦車にBAZ火器管制装置を搭載しただけで調達費用が三割増大した事でいわれましたもの。

 90式戦車が費用面で高くなっていたのは自動装填装置と自動目標追尾装置に車長用独立照準器という高度な機材を、第三世代戦車として複合装甲や新世代の暗視装置と高出力エンジン等の元々高い費用の構成要素に加えた為であって、コスト管理で失敗した訳ではない。

 そもそも90式戦車が高いといわれた背景、調達されていた当時には、湾岸戦争当時の報道でアメリカのM-1A1戦車が3億5000万円程度、という情報が出ており、ドイツのレオパルド2も4億円程度なので90式戦車は不当に高い、という主張がしめされていたのです。

 しかし、サウジアラビアがM-1A2戦車を調達する際には8億7000万円という数字が示され、そもそも3億5000万円程度というのは7000両の一括調達費用の事業評価数値をドル換算を当時円高レートで再換算したという、一種さお竹屋の移動販売のような数値でした。

 高いたかいというならば自衛隊が外国製を輸入したらば安くなるのか、90式戦車の代わりにM-1A1戦車を導入する場合はどうなるのか、という視点が必要となるでしょう。勿論、90式戦車の自動装填装置や目標追尾装置や車長用独立照準器搭載はオプションとなります。

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