■旅団と混成団隷下部隊
旅団観閲行進は第14旅団隷下の戦闘支援部隊、そして方面隊直轄の混成団普通科部隊観閲行進へと展開してゆきました。

第14旅団の前身である第2混成団、創設当時の編制をみますと、第2混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、という陣容で定員は1900名規模でした。

第2混成団戦車隊について、しかし改編後に消滅する事となります、1992年に第2混成団戦車隊が北海道移駐により廃止されました。戦車北転事業、という冷戦時代末期に進められた北海道の戦車増強計画、考えますとこれは日本の本土防衛における最大の愚行の一つ。

戦車北転事業は北海道防衛強化の為に本州の全ての戦車大隊から一個戦車中隊を抽出して北海道へ配置転換させる、というもの。第2混成団戦車隊は基本的に一個中隊基幹、という者ですので一個小隊さえ残らず、北海道への転地で事実上全廃となってしまいました。

北海道の第2戦車連隊等を見ますと、つまり本州から受け入れた側ですが、前身の第2戦車大隊では最盛期の編制は第1戦車中隊、第2戦車中隊、第3戦車中隊、第4戦車中隊、第316戦車中隊、という一つだけ300番台の中隊がありましたが、これが本州の中隊です。

第1戦車群、2014年に廃止された北部方面隊直轄戦車部隊ですが、本部管理中隊、第301戦車中隊、第302戦車中隊、第303戦車中隊、第304戦車中隊、第305戦車中隊、という。こちらは北転戦車中隊ではありませんが全部300番台の戦車中隊が集まっているのですね。

北海道の直轄戦車部隊、これはどういう位置づけかといいますと、有事の際に北海道に配置されている四個師団だけではソ連軍の最大規模の進行を阻止する事は出来ないと考えられており、南九州や西日本と中部地方に東北地方の師団を緊急展開する構想がありました。

戦車は、本州の師団装備の中でももとも重量があるものでして、旧式の61式戦車だけは車幅が3m未満に冴えられた関係で国鉄狭軌貨物輸送車両限界内に収められていた事から鉄道輸送にて一挙多数を緊急展開させることが可能ですが、大柄な74式戦車では無理でした。

北転事業とは、この輸送の難しさを念頭に建前の一つに最初から北海道に戦車中隊を配置しておきまして、充分な訓練環境とともに訓練を積ませる事で、有事の際には携行できる装備だけで北海道に展開させた本土師団を戦車で武装させ戦闘団を編成させるという狙い。

移動重視の構図は一軒説得力を持たせたように見えますが、陸上自衛隊全体の戦車縮小が決定すると最初に廃止されたのは北海道に馴染みのない後から展開した300番台の戦車部隊でした。恰も不況の時代に派遣社員が調整されるが如く、派遣先の北海道でそのまま。

2006年に陸上自衛隊は第2混成団を第14旅団へと拡大改編を行います。旅団改編の概要は団本部中隊を解体し改編する形で分割し旅団司令部と同付隊に本部の津新機能を拡充し第14通信中隊とし、情報小隊を強化し第14偵察隊へ再編、87式偵察警戒車も配備される。

第15普通科連隊は師団普通科連隊としての重厚な編成でしたが、旅団普通科連隊へと改編すると共に第15普通科連隊と第50普通科連隊に分割し第50普通科連隊は移設された高知駐屯地へ移駐しました。高知県では悲願の普通科連隊とあって、歓呼の声で迎えられます。

第2混成団後方支援中隊は大幅に増強改編され第14後方支援隊となる。第2混成団音楽隊は人員規模そのままに第14音楽隊へ。第2混成団特科大隊は増強改編の形で第14特科隊と第14高射特科中隊へ改編され、第2混成団施設隊は微減し第14施設中隊となります。

第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、新たに74式戦車が戦車中隊とし戻ってきた。

第50普通科連隊は高知駐屯地に駐屯しますが、実は混成団時代に在った高知県沿岸部の高知駐屯地は陸上自衛隊有数の手狭な駐屯地となっていまして、高台に新しい駐屯地を建設する事となりました。しかし、2006年の旅団改編時にはまだ庁舎が完成していなかった。

連隊新編は第15普通科連隊を分割する事で実施されましたが、なにしろ装備品を増強した為、善通寺時代と比較して二つの連隊の合計はかなり大型になっていまして、高知駐屯地新駐屯地が完成するまでの期間は善通寺にプレハブ隊舎を並べて凌いでいたともいいます。

高知県は悲願の普通科連隊駐屯地誘致成功でした。そして驚く事に駐屯地が完成する前に県内の運動公園に高知県が第50普通科連隊を招いて、高知駐屯地祭を行った程でもありました。市民公園中央に並ぶ高機動車と軽装甲機動車、行事写真が資料館に残っていますね。

北徳島分屯地は2010年完成、多用途ヘリコプター2機と観測ヘリコプター2機が置かれるだけの第14飛行隊の分屯地ですが、新たに海上自衛隊徳島航空基地に隣接し建設されています。八尾駐屯地にて第14飛行隊準備隊を新編しまして、そのまま四国移駐させる方式で。

東日本大震災はこの改編を完了させた翌年の2011年に発生しました。第14旅団も最大規模の災害派遣を実施し、旅団規模は2500名規模なのですが実に1500名を派遣しています。これは四国を防衛警備隊区とする、つまり留守部隊を残さなければならない状況で、です。

東日本大震災災害派遣の際に痛感したのは、普通科連隊の現役要員は旅団普通科連隊定数の650名規模でよいから、220名規模の即応予備自衛官中隊、師団普通科連隊隷下の普通科中隊規模の予備役部隊を編成に加え、留守部隊を予備役に任せられる体制が必要だ、と。

即応予備自衛官は方面混成団の隷下に統合されていますが、教育訓練の合理化を考えれば納得は行く編成ではあるものの、警備隊区を任されている普通科連隊にこそ、留守部隊を常設し後顧の憂いを省き機動運用させる枠組み作りが必要ではないか、と思いましたね。

徳島駐屯地が南部の阿南市に完成したのは2012年、もともとは高知県沿岸部に所在した高知駐屯地の第14施設中隊を第14施設隊へ拡大改編した上で移駐させています。ちなみに、北徳島分屯地と徳島駐屯地は名前が似ていますが60kmほど離れているので要注意です。

2012年の旅団改編では第14通信中隊が第14通信隊へ拡大改編されていまして、旅団機能は年々増強されていました。続いて2016年の旅団改編では第14化学防護隊が第14特殊武器防護隊へ改編され、核兵器や放射性兵器と生物兵器への四国初の対処部隊が完成します。

即応機動旅団への改編は、この行事の翌年に明示されました。その改編計画が明示された当時は第15普通科連隊が即応機動連隊へ改編されるという情報と共に戦車中隊と特科隊の機能が機動戦闘車隊と火力支援中隊へ集約されると聞き、第50連隊の去就を考えてしまう。

2012年当時の第14旅団編制は、即応機動連隊のような装甲部隊の編制はありませんが戦車中隊も置かれ、思えば中央即応集団に水陸機動団等に人員を抽出され5000名台となった肩肘張った師団より、旅団と方面混成団を併せて師団とした方が自然と思ったりもします。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
旅団観閲行進は第14旅団隷下の戦闘支援部隊、そして方面隊直轄の混成団普通科部隊観閲行進へと展開してゆきました。

第14旅団の前身である第2混成団、創設当時の編制をみますと、第2混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、という陣容で定員は1900名規模でした。

第2混成団戦車隊について、しかし改編後に消滅する事となります、1992年に第2混成団戦車隊が北海道移駐により廃止されました。戦車北転事業、という冷戦時代末期に進められた北海道の戦車増強計画、考えますとこれは日本の本土防衛における最大の愚行の一つ。

戦車北転事業は北海道防衛強化の為に本州の全ての戦車大隊から一個戦車中隊を抽出して北海道へ配置転換させる、というもの。第2混成団戦車隊は基本的に一個中隊基幹、という者ですので一個小隊さえ残らず、北海道への転地で事実上全廃となってしまいました。

北海道の第2戦車連隊等を見ますと、つまり本州から受け入れた側ですが、前身の第2戦車大隊では最盛期の編制は第1戦車中隊、第2戦車中隊、第3戦車中隊、第4戦車中隊、第316戦車中隊、という一つだけ300番台の中隊がありましたが、これが本州の中隊です。

第1戦車群、2014年に廃止された北部方面隊直轄戦車部隊ですが、本部管理中隊、第301戦車中隊、第302戦車中隊、第303戦車中隊、第304戦車中隊、第305戦車中隊、という。こちらは北転戦車中隊ではありませんが全部300番台の戦車中隊が集まっているのですね。

北海道の直轄戦車部隊、これはどういう位置づけかといいますと、有事の際に北海道に配置されている四個師団だけではソ連軍の最大規模の進行を阻止する事は出来ないと考えられており、南九州や西日本と中部地方に東北地方の師団を緊急展開する構想がありました。

戦車は、本州の師団装備の中でももとも重量があるものでして、旧式の61式戦車だけは車幅が3m未満に冴えられた関係で国鉄狭軌貨物輸送車両限界内に収められていた事から鉄道輸送にて一挙多数を緊急展開させることが可能ですが、大柄な74式戦車では無理でした。

北転事業とは、この輸送の難しさを念頭に建前の一つに最初から北海道に戦車中隊を配置しておきまして、充分な訓練環境とともに訓練を積ませる事で、有事の際には携行できる装備だけで北海道に展開させた本土師団を戦車で武装させ戦闘団を編成させるという狙い。

移動重視の構図は一軒説得力を持たせたように見えますが、陸上自衛隊全体の戦車縮小が決定すると最初に廃止されたのは北海道に馴染みのない後から展開した300番台の戦車部隊でした。恰も不況の時代に派遣社員が調整されるが如く、派遣先の北海道でそのまま。

2006年に陸上自衛隊は第2混成団を第14旅団へと拡大改編を行います。旅団改編の概要は団本部中隊を解体し改編する形で分割し旅団司令部と同付隊に本部の津新機能を拡充し第14通信中隊とし、情報小隊を強化し第14偵察隊へ再編、87式偵察警戒車も配備される。

第15普通科連隊は師団普通科連隊としての重厚な編成でしたが、旅団普通科連隊へと改編すると共に第15普通科連隊と第50普通科連隊に分割し第50普通科連隊は移設された高知駐屯地へ移駐しました。高知県では悲願の普通科連隊とあって、歓呼の声で迎えられます。

第2混成団後方支援中隊は大幅に増強改編され第14後方支援隊となる。第2混成団音楽隊は人員規模そのままに第14音楽隊へ。第2混成団特科大隊は増強改編の形で第14特科隊と第14高射特科中隊へ改編され、第2混成団施設隊は微減し第14施設中隊となります。

第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、新たに74式戦車が戦車中隊とし戻ってきた。

第50普通科連隊は高知駐屯地に駐屯しますが、実は混成団時代に在った高知県沿岸部の高知駐屯地は陸上自衛隊有数の手狭な駐屯地となっていまして、高台に新しい駐屯地を建設する事となりました。しかし、2006年の旅団改編時にはまだ庁舎が完成していなかった。

連隊新編は第15普通科連隊を分割する事で実施されましたが、なにしろ装備品を増強した為、善通寺時代と比較して二つの連隊の合計はかなり大型になっていまして、高知駐屯地新駐屯地が完成するまでの期間は善通寺にプレハブ隊舎を並べて凌いでいたともいいます。

高知県は悲願の普通科連隊駐屯地誘致成功でした。そして驚く事に駐屯地が完成する前に県内の運動公園に高知県が第50普通科連隊を招いて、高知駐屯地祭を行った程でもありました。市民公園中央に並ぶ高機動車と軽装甲機動車、行事写真が資料館に残っていますね。

北徳島分屯地は2010年完成、多用途ヘリコプター2機と観測ヘリコプター2機が置かれるだけの第14飛行隊の分屯地ですが、新たに海上自衛隊徳島航空基地に隣接し建設されています。八尾駐屯地にて第14飛行隊準備隊を新編しまして、そのまま四国移駐させる方式で。

東日本大震災はこの改編を完了させた翌年の2011年に発生しました。第14旅団も最大規模の災害派遣を実施し、旅団規模は2500名規模なのですが実に1500名を派遣しています。これは四国を防衛警備隊区とする、つまり留守部隊を残さなければならない状況で、です。

東日本大震災災害派遣の際に痛感したのは、普通科連隊の現役要員は旅団普通科連隊定数の650名規模でよいから、220名規模の即応予備自衛官中隊、師団普通科連隊隷下の普通科中隊規模の予備役部隊を編成に加え、留守部隊を予備役に任せられる体制が必要だ、と。

即応予備自衛官は方面混成団の隷下に統合されていますが、教育訓練の合理化を考えれば納得は行く編成ではあるものの、警備隊区を任されている普通科連隊にこそ、留守部隊を常設し後顧の憂いを省き機動運用させる枠組み作りが必要ではないか、と思いましたね。

徳島駐屯地が南部の阿南市に完成したのは2012年、もともとは高知県沿岸部に所在した高知駐屯地の第14施設中隊を第14施設隊へ拡大改編した上で移駐させています。ちなみに、北徳島分屯地と徳島駐屯地は名前が似ていますが60kmほど離れているので要注意です。

2012年の旅団改編では第14通信中隊が第14通信隊へ拡大改編されていまして、旅団機能は年々増強されていました。続いて2016年の旅団改編では第14化学防護隊が第14特殊武器防護隊へ改編され、核兵器や放射性兵器と生物兵器への四国初の対処部隊が完成します。

即応機動旅団への改編は、この行事の翌年に明示されました。その改編計画が明示された当時は第15普通科連隊が即応機動連隊へ改編されるという情報と共に戦車中隊と特科隊の機能が機動戦闘車隊と火力支援中隊へ集約されると聞き、第50連隊の去就を考えてしまう。

2012年当時の第14旅団編制は、即応機動連隊のような装甲部隊の編制はありませんが戦車中隊も置かれ、思えば中央即応集団に水陸機動団等に人員を抽出され5000名台となった肩肘張った師団より、旅団と方面混成団を併せて師団とした方が自然と思ったりもします。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
1:第4師団が3月に「地域配備師団」に再編されましたが、情報を集めてみて、やはり師団を廃止すべきであるとの思いを新たにしました。
師団定員はどなたかわかりますでしょうか?
3個普通科連隊(定員で~1100人、実員だと800-900人でしょうか?)に、偵察戦闘大隊、高射特科大隊、飛行隊、施設大隊、後方支援連隊、通信大隊ほかです。特科連隊もなく、6000人に達しないのではないかと危惧いたします。このような小さな部隊を「師団」と呼び、中将をもって司令とするなど、陸軍として破綻しているとしか言えないと思います。ましてや、肩を並べて戦うはずの米国陸軍は4000-5000人の旅団を准将が、1.5-2万人の師団を少将が、そして中将といえば5-10万人規模の軍団を指揮する立場ですよね?
はるなさんもご提案されている、「全部隊を旅団化する」というのが現実的と思います。
2: 一方で、機動連隊をみていると諸兵科混合部隊であり、昔の連隊戦闘団が常設されたような印象を持ちます(かなり小型ですが)。
そこでこれを発展させて1500人規模の連隊戦闘団に相当する、「機甲連隊」、「軽装甲機動連隊」(今の機動連隊)、「自動車化機動連隊」などを編成しても良いかもしれないと思いました。2-3個連隊で1個旅団とし、各方面隊に2-4個旅団と、戦域の指揮をとる「師団司令部」1個を配備する、とかですかね。。。
#連隊戦闘団は昔は「小さすぎる旅団」でしたが、昨今の流れを受けて、今の典型的な大きさの「混成大隊戦闘群」として復活するイメージです。
なお、官僚的な意味で階級が必要であれば、「地域密着型の司令・連絡部隊」を編成し、50-100名の部隊に中将を充てて、災害派遣の中核や有事の民間防衛の任=「高度に政治的」な職務に当たらせれば良いかと。代わりに戦闘部隊の健全性を保つべきでしょう。
実は似たような案としまして、先月、こんなお話を
harunakurama.blog10.fc2.com/blog-entry-8530.html
「官僚的な意味で階級が必要であれば、「地域密着型の司令・連絡部隊」を編成し、50-100名の部隊に中将を充てて、災害派遣の中核や有事の民間防衛の任=「高度に政治的」な職務に当たらせれば良い」と考えているのですが、どうでしょう?
実際問題として、役所に軍事の専門家はおらず、民間防衛は非常に心もとないものです。一方で、警察も消防も、そして消防団や町内会も機能していますので、組織そのものもはあるわけです。
市町村や県レベルで、適切な軍事的アドバイス、および自衛隊との太いコネクションがあることは、実は大切な気がします。
戦闘部隊の将官ポストの適切化と合わせて、一石二鳥かと。。。
官僚的な将官、素朴な疑問なのですが、現時点で地本本部長に将官乃至1佐を補職していまして、この機構を陸海空持ち回りで行なっている訳ですが、ご指摘の官僚的な将官方式、民間防衛を陸上自衛隊の将官だけが独占する構図に、なってしまわないでしょうか
ただ、地域密着型の司令部、という方式は、例えば対馬警備隊型の1佐を指揮官とする300名規模の部隊を普通科連隊に代えて置き、警備隊以外の部隊を機動運用にあて、警備隊を集約した、警備隊群、なにか海自さん的名称ですが、この部隊を地域師団の代わりに当てる、という方式は、選択肢として妥当性をもつのかな、と
「第5広域師団が欠番になっている」のですが
何か理由があるのでしょうか?
ここで帯広の第五旅団を師団司令部に改編しますと、旭川第二師団の隷下部隊がなくなってしまいます。旭川の隷下部隊に帯広の第五旅団と東千歳の第七師団を置く代わりに、帯広に司令部を置き、隷下部隊に神町と青森を置く方式、第五広域師団隷下に東北を担当させる方式も考えましたが、流石に司令部と隷下部隊が離れすぎています
現時点で第五師団も第五旅団になっており、この編成案としました。ただ、欠番は確かに気になり、例えば矢臼別演習場や上陸訓練を行う浜大樹訓練場を管内に持つ第五旅団、荒唐無稽ですが富士学校の移設で教育部隊の司令部として第五師団の形を残す、運用乖離ですが水陸機動団をロシアを刺激しない範囲内で佐世保相浦から帯広に移すなど何か良い提案があれば、こちらで議論できれば幸いです
広域師団は第1師団から第5師団
旅団は第1旅団から第10旅団に再編すれば済む話では?
(現に第1師団と第1空挺団は同時に存在してますし)
それに現在の師団と装甲機動旅団や航空機動旅団は部隊の性格自体が異なるみたいですし
昨年に第8師団と第14旅団が即応機動師団と即応機動旅団と成りましたが、unknown様の指摘では、改編順に戦略階梯番号まで改めるとしますと、第8師団は第1即応機動師団、第14旅団は第1即応機動旅団とし、第12旅団も第1空中機動旅団とするべき、となるのでしょうか?
そもそも京阪神を受け持つ第三師団からして平成だけで、甲師団、政経中枢師団、即応近代化師団と改編され、近く地域配備師団となります。改編順に改名したらば、第三甲師団、第二政経中枢師団、第六即応近代化師団、第二地域配備師団、ところころかわるようになります、それで管理といいますか、理解できるのでしょうか、毎年15個の戦略階梯番号が一つ一ついれかわり、やたら第一から第三まだが多く、大綱改訂とともに用語が全部入れ替わる、完全に把握するのは当方には無理そうです
少し違う観点から、私も部隊の固有番号は残すべきかと思います。部隊には部隊の伝統があると思うので、それは出来る限り継承していった方がいいかな?と感じます。
現在のように、新編の西部方面戦車隊とか、普通科連隊が50番台突入とか、、、。それなら、第一戦車群や第9普通科連隊の再編の方が、単純に馴染むというか、、、。
伝統、それも大きいのですよね。OB会や歴代指揮官を含め歴史は有形無形の財産です。知人に第3特科連隊第5大隊のOBの方が居ますが、もう遥か前、連隊の解散と駐屯地の撤収は本当に残念に思われて居ました
逆に部隊名とその伝統歴史を残す、というものも、この広域師団構想の要諦の一つであったりします