2015年8月7日、神山の権現台場を訪ねた後、陣川にある北海道東照宮に向かった。
この神社は函館戦争のゆかりでもるが、幕府から配礼されたという由緒高い神社。
社殿の前にある「御由緒」には詳細に説明されている。
概要は
『御祭神は 源 家康公
江戸時代、文化十一年(御宮日記には寛政年間とある)外敵退散、鎮護国家、蝦夷地繁栄の願をかけられ、江戸輪王寺御門跡、光格天皇御嫡子、一品舜仁親王御 筆の信号を賜り、日高の様似等澍院に山王 実神道に祀られた後、幕府五稜郭築城の時、其の鬼門に四神相応の勝地をトして規模宏大、壮麗な社殿を建立。
元冶元年、様により此の地に奉遷、蝦夷地守護の大社として十万石の格式をもって鎮め奉った。(この地は亀田の上山というところで、神様が来たというので「神山」となった。神山町 町名由来である。
あけて元冶二年(慶應元年)の四月十四日、畏くも杖三宮一品慈性親王五御宸筆の「東照宮」の勅額を賜った。・・・(略)・・・』その後、わずか五年足らずで、函館戦争が起こり、四稜郭と共に東照宮も土塁が築かれたが明治二年五月、不幸兵火に罹り社殿、宝物など悉く灰になり、現存するのはご神体、宝物、華表のみ。
また、更に函館区谷地頭町に五千坪の社地を賜ったが、昭和九年の函館大火があり、ご神体や宝物等は湯の川神社へ避難した。
昭和三十三年新社殿が、草創の地である神山奥、陣川に神城を定め移遷したという経緯がある。また「平成四年一月より、本宗とあおぐ「日光東照宮」より社名を「北海道神宮」と改めた。
東照宮鳥居
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/c0/17173ad7c123374d441c9c69a83372c1.jpg)
お賽銭箱にも葵の御紋・社殿奥に歴史ある「東照宮」の額が置かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ec/3096b5631827a101c59557aa7c48ed60.jpg)
本殿と狛犬
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/82/5b95c0843ddfc075caeab856529f0c20.jpg)
手水石
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/96/fcf52ec5add8a9657a92b5842860129f.jpg)
手水石台の函館戦争時の弾丸跡(○囲)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/18/3cde31e90b30f1e838e942e7fe7bbef0.jpg)
手水台座には「明治四十九年、十一月五日神山村より運搬した「三番組中 よ組」と刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/6a/be3af9f69594390123918b56e5fdd1f2.jpg)
純忠碧血神社 由緒
『戊辰・巴巴の役では、各戦場で戦闘後の東軍諸兵の遺体は遺棄されたままで、埋葬することも西軍によって禁じられた。』とのこと。義憤に思う各地有志達の手によって犠牲強いられながらも東軍将兵の遺体を回収し、慰霊された。函館でも柳川熊吉と実業時住職等の有志が東軍将兵たちの遺体を埋葬した。
平成十九年、東照宮陣川町鎮座十五周年記念事業として、純忠碧血神社を奉斉した。義を掲げ戦い利あらずして賊の汚名を受けざるをえなかった東軍将兵達の無念を悼んで、その魂 をこの杜に対案し護国の神として諸兵の御霊を慰める・・・ということが説明されていた。
御祭神として、幕臣の近藤勇・沖田総司など数名の新撰組の名がある。
純碧血神社
この神社は函館戦争のゆかりでもるが、幕府から配礼されたという由緒高い神社。
社殿の前にある「御由緒」には詳細に説明されている。
概要は
『御祭神は 源 家康公
江戸時代、文化十一年(御宮日記には寛政年間とある)外敵退散、鎮護国家、蝦夷地繁栄の願をかけられ、江戸輪王寺御門跡、光格天皇御嫡子、一品舜仁親王御 筆の信号を賜り、日高の様似等澍院に山王 実神道に祀られた後、幕府五稜郭築城の時、其の鬼門に四神相応の勝地をトして規模宏大、壮麗な社殿を建立。
元冶元年、様により此の地に奉遷、蝦夷地守護の大社として十万石の格式をもって鎮め奉った。(この地は亀田の上山というところで、神様が来たというので「神山」となった。神山町 町名由来である。
あけて元冶二年(慶應元年)の四月十四日、畏くも杖三宮一品慈性親王五御宸筆の「東照宮」の勅額を賜った。・・・(略)・・・』その後、わずか五年足らずで、函館戦争が起こり、四稜郭と共に東照宮も土塁が築かれたが明治二年五月、不幸兵火に罹り社殿、宝物など悉く灰になり、現存するのはご神体、宝物、華表のみ。
また、更に函館区谷地頭町に五千坪の社地を賜ったが、昭和九年の函館大火があり、ご神体や宝物等は湯の川神社へ避難した。
昭和三十三年新社殿が、草創の地である神山奥、陣川に神城を定め移遷したという経緯がある。また「平成四年一月より、本宗とあおぐ「日光東照宮」より社名を「北海道神宮」と改めた。
東照宮鳥居
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/c0/17173ad7c123374d441c9c69a83372c1.jpg)
お賽銭箱にも葵の御紋・社殿奥に歴史ある「東照宮」の額が置かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ec/3096b5631827a101c59557aa7c48ed60.jpg)
本殿と狛犬
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手水石
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手水石台の函館戦争時の弾丸跡(○囲)
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手水台座には「明治四十九年、十一月五日神山村より運搬した「三番組中 よ組」と刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/6a/be3af9f69594390123918b56e5fdd1f2.jpg)
純忠碧血神社 由緒
『戊辰・巴巴の役では、各戦場で戦闘後の東軍諸兵の遺体は遺棄されたままで、埋葬することも西軍によって禁じられた。』とのこと。義憤に思う各地有志達の手によって犠牲強いられながらも東軍将兵の遺体を回収し、慰霊された。函館でも柳川熊吉と実業時住職等の有志が東軍将兵たちの遺体を埋葬した。
平成十九年、東照宮陣川町鎮座十五周年記念事業として、純忠碧血神社を奉斉した。義を掲げ戦い利あらずして賊の汚名を受けざるをえなかった東軍将兵達の無念を悼んで、その魂 をこの杜に対案し護国の神として諸兵の御霊を慰める・・・ということが説明されていた。
御祭神として、幕臣の近藤勇・沖田総司など数名の新撰組の名がある。
純碧血神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/6a/628099033f8d4939505d4fab2d86da50.jpg)
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