古代近江国府は現在の大津市瀬田地区にあったと推定されてます。
8世紀中頃~10世紀末に存在したと言われる
太線で囲んだ四角内が国府。
国府は国の政治の中心地で現在なら県庁所在地。
滋賀県なら大津市ですな。
その国府の中でも政庁(現在なら県庁舎)があった場所が図の□の位置。
至草津
琵 | 東海道線##/R1号線
琶 / JR ### /∥
湖|##### ┏━/━∥━━━┓
-----R1号┃/ ∥東 ┃近
瀬|~ /┃ ∥山 ┃江
| |~┃ ∥道 ┃国
| /~┃ 国庁□∥ ┃府
唐橋 ̄建部┗━━━∥━━━┛
| 大社 ~~ ∥
=|=東山道======∥
| ~高橋川
川|
########新幹線###########
|
|
現在の国道1号線はバイパスです。
旧1号線は瀬田地区で瀬田唐橋へ向かい瀬田川を越えて石山・膳所へ向かってました。
ほぼ近世の東海道です。
古代東山道は瀬田唐橋より少し南側をまっすぐ東へ向かい
国庁の南で直角に北上、国府の南門に突き当たると、
東へ折れて国府の東側に沿って北上し、再び国庁からまっすぐ北上します
東山道が国庁で東に折れ曲がってるのがちょっと不思議ですね。
古代の官道は真っ直ぐが基本で、途中に山があろうが、川があろうが、曲がらずにひたすら真っ直ぐ通ってました。
この古代東山道を歩いてみたが、坂を登ったり下ったりの連続でした。
瀬田地区は谷地形で段差ばかりです。
で、坂の登った高台に役所の施設を築いたことが遺跡の発掘で確認されてます。
国府域を監視できる位置なんですわ。
普通、平城京・長岡京・平安宮などでは宮のある中心地は
北側に偏ってる。
京都御所は京都市の北にありますね。
しかし、近江国府では役場がある国庁が国府の南側に偏ってる。
なんか、変だと思いませんか?
でも、これは不思議ではない。
地方の役場は地の利が絶対の条件なんです。
京(奈良や京都)に少しでも近く、官道沿いにある。
これが、国府及び国庁設置の地理的条件。
国の政策を伝えやすく年貢を徴収しやすい場所がいいんだろうね。
近江国府は太線で囲んだ四角内と推定されてるが、
これはあくまでも歴史地理学者が地図を見て設定したものです。
南西角に建部大社がある。
本来は東近江市八日市地区にあったが、なぜか瀬田に移設された。
近江一の宮です。
国府設置のために移されたと考えたいが、残念ながら関連性は無いと言われてます。
一の宮は京に近い場所にあるべき、ということでここに移されたのかも?
高橋川はこの建部大社横で直角に方向を変えてる。
これがまず、国府南西隅推定の根拠となった。
さらに、国府の北西隅にも神社がある。
北東隅・南東隅には神社がないが、祠などそれらしき神社の痕跡が確認されてるそうです。
つまり四隅を神社で固めてる境界にした、というわけです。
ふーん?
ですな。
考古学的には瀬田地域を断続的に発掘調査をしてるので
将来、国府及び国庁・東山道の位置関係について新発見があるかもしれない。
楽しみですな。
『近江国庁政庁』
(正殿)
┃ ┏━━━━┓ ┃
築┃ ┃ 後殿 ┃ ┃築
地┃ ┗━┓┏━┛ ┃地
┃ ┏┓┏━┛┗━┓┏┓ ┃
┃西┃┣┫ 前殿 ┣┫┃東┃
┃脇┃┃┗━━━━┛┃┃脇┃
┃殿┃┃ ┃┃殿┃
┃ ┃┃ ┃┃ ┃
┃ ┗┛ ┗┛ ┃
┗━━━━━ ━━━━┛
築地
正殿は前殿と後殿の二つに分かれ、
前殿の横には縦に細長い東西脇殿があり、
廊下で繋がる。
瓦積基壇の上に建てられ、屋根には飛雲紋瓦
外側は築地塀で囲まれていた。
Φ(*^ひ^*)Φ
メルモから強制廃刊にする!
という通告が来たので
とりあえず、慌てて一年ぶりに配信しました。
難しい考察で理解できない人も多いと思うが
申し訳ない。
NHKのぶらタモリで瀬田地区を歩いてもらえれば
今回の考察も分かりやすくなると思うのだが…。
では、またいつか!
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
センバツ高校野球、
滋賀学園、最初ボロ勝ちか、
と思ったが、
さすがにそれは考えが甘かった
とりあえず、初戦突破できて良かったなし…。
β《#^ひ^#》でヒヒーン
8世紀中頃~10世紀末に存在したと言われる
太線で囲んだ四角内が国府。
国府は国の政治の中心地で現在なら県庁所在地。
滋賀県なら大津市ですな。
その国府の中でも政庁(現在なら県庁舎)があった場所が図の□の位置。
至草津
琵 | 東海道線##/R1号線
琶 / JR ### /∥
湖|##### ┏━/━∥━━━┓
-----R1号┃/ ∥東 ┃近
瀬|~ /┃ ∥山 ┃江
| |~┃ ∥道 ┃国
| /~┃ 国庁□∥ ┃府
唐橋 ̄建部┗━━━∥━━━┛
| 大社 ~~ ∥
=|=東山道======∥
| ~高橋川
川|
########新幹線###########
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現在の国道1号線はバイパスです。
旧1号線は瀬田地区で瀬田唐橋へ向かい瀬田川を越えて石山・膳所へ向かってました。
ほぼ近世の東海道です。
古代東山道は瀬田唐橋より少し南側をまっすぐ東へ向かい
国庁の南で直角に北上、国府の南門に突き当たると、
東へ折れて国府の東側に沿って北上し、再び国庁からまっすぐ北上します
東山道が国庁で東に折れ曲がってるのがちょっと不思議ですね。
古代の官道は真っ直ぐが基本で、途中に山があろうが、川があろうが、曲がらずにひたすら真っ直ぐ通ってました。
この古代東山道を歩いてみたが、坂を登ったり下ったりの連続でした。
瀬田地区は谷地形で段差ばかりです。
で、坂の登った高台に役所の施設を築いたことが遺跡の発掘で確認されてます。
国府域を監視できる位置なんですわ。
普通、平城京・長岡京・平安宮などでは宮のある中心地は
北側に偏ってる。
京都御所は京都市の北にありますね。
しかし、近江国府では役場がある国庁が国府の南側に偏ってる。
なんか、変だと思いませんか?
でも、これは不思議ではない。
地方の役場は地の利が絶対の条件なんです。
京(奈良や京都)に少しでも近く、官道沿いにある。
これが、国府及び国庁設置の地理的条件。
国の政策を伝えやすく年貢を徴収しやすい場所がいいんだろうね。
近江国府は太線で囲んだ四角内と推定されてるが、
これはあくまでも歴史地理学者が地図を見て設定したものです。
南西角に建部大社がある。
本来は東近江市八日市地区にあったが、なぜか瀬田に移設された。
近江一の宮です。
国府設置のために移されたと考えたいが、残念ながら関連性は無いと言われてます。
一の宮は京に近い場所にあるべき、ということでここに移されたのかも?
高橋川はこの建部大社横で直角に方向を変えてる。
これがまず、国府南西隅推定の根拠となった。
さらに、国府の北西隅にも神社がある。
北東隅・南東隅には神社がないが、祠などそれらしき神社の痕跡が確認されてるそうです。
つまり四隅を神社で固めてる境界にした、というわけです。
ふーん?
ですな。
考古学的には瀬田地域を断続的に発掘調査をしてるので
将来、国府及び国庁・東山道の位置関係について新発見があるかもしれない。
楽しみですな。
『近江国庁政庁』
(正殿)
┃ ┏━━━━┓ ┃
築┃ ┃ 後殿 ┃ ┃築
地┃ ┗━┓┏━┛ ┃地
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┃西┃┣┫ 前殿 ┣┫┃東┃
┃脇┃┃┗━━━━┛┃┃脇┃
┃殿┃┃ ┃┃殿┃
┃ ┃┃ ┃┃ ┃
┃ ┗┛ ┗┛ ┃
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築地
正殿は前殿と後殿の二つに分かれ、
前殿の横には縦に細長い東西脇殿があり、
廊下で繋がる。
瓦積基壇の上に建てられ、屋根には飛雲紋瓦
外側は築地塀で囲まれていた。
Φ(*^ひ^*)Φ
メルモから強制廃刊にする!
という通告が来たので
とりあえず、慌てて一年ぶりに配信しました。
難しい考察で理解できない人も多いと思うが
申し訳ない。
NHKのぶらタモリで瀬田地区を歩いてもらえれば
今回の考察も分かりやすくなると思うのだが…。
では、またいつか!
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
センバツ高校野球、
滋賀学園、最初ボロ勝ちか、
と思ったが、
さすがにそれは考えが甘かった
とりあえず、初戦突破できて良かったなし…。
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