我が家から贅沢にも城が2つ見える。
『パルメラ城』F50
一つはセトゥーバルのサン・フィリッペ城。ポルトガルがスペインに併合されていた時代(1580-1640)、当時のスペイン王フェリペ2世の命により建てられた。イギリスからの脅威に備えた砦でサド湾を見下ろしている。
我が家のベランダから『夕焼けのサン・フィリッペ城とトロイア半島』F30
天正時代日本から遣欧少年使節団がリスボンに到着した時1584年には未だサン・フィリッペ城はなかった。或いは丁度工事中だったと思われる。完成は天正遣欧少年使節団が帰国した時と重なり1590年になる。
サン・フィリッペ城は我が家の南西方向直線距離で1,5キロ、台所の窓からと、居間のベランダから見ることが出来る。スケッチは何枚もしているが、100号と50号など多くの油彩にもなっている。
そしてもう一つはパルメラ城。我が家の真北にあり、アトリエの窓から直線距離3~4キロだろうか?丘の上に見ることが出来、両方とも夜にはライティングがされていて美しい。
パルメラ城はサン・フィリッペ城より遥かに古く、礎石はイスラム時代(711-1139)モーロ人によって建造された。テージョ川とサド川の河口とその間の広大な地域を支配するには戦略的に重要であったのであろう。イスラム教徒とキリスト教徒で激しい戦いが幾度となく繰り返された後、12世紀、レコンキスタ、キリスト教徒の国土回復が達成され、14世紀~18世紀にかけ徐々に整備がすすめられ今の姿となった。
城の一番高い塔に隣接してサンタ・マリア・ド・カステロ教会などが建てられたが1755年のポルトガル大震災で崩壊したままの形を今に留めている。人類史上最大の被害を出した大震災である。東北地震と同程度のマグニチュード9と言われているが人的被害は最悪であった。リスボンだけで地震による即死者は2万人、洪水でさらわれた人は1万人と言われている。リスボンの洪水は15メーターに達したそうであるが、アルガルベの洪水はそれを遥かに凌ぐ30メーターだと言われている。勿論その間に位置する、セトゥーバル、パルメラの被害は甚大なものであっただろうと想像できる。
パルメラ城内に1470年、サンチアゴ修道会本部として建造されたサンチアゴ修道院とサンチアゴ教会は地震には耐えたのであろう。修道院はポウサーダ(国営城ホテル)として現在も使われている。名前の通りサンチアゴの巡礼道にあり、教会入り口にはその目印となるホタテ貝のレリーフが施されている。
パルメラ市の紋章にもホタテ貝が施されているが紋章で注目をしなければならないのはパルメイラ、ヤシの木である。パルメラ市の名前の由来にもなっているパルメイラが中心に描かれているがそれを手が支えている。でもその意味は判らない。
地域のお祭りの時、家の門の両側にまるで日本の門松の様に大きなヤシの葉が左右一本ずつ取り付けられていたりする。宗教的な意味合いがあるのだろうが何か関連がありそうだ。
以前のスケッチを見てみると役場隣のサン・ペドロ教会の前に3本のヤシの木が植えられていた。カナリーヤシである。でも今はない。側面に枯れた1本の幹が3メーターほどの所で切られ残されていて、ここにヤシの木があったことが判るが、いまは1本もない。今、パルメラの町を歩いてもあまりヤシの木は見当たらない。中心部で3本を見ただけである。それもカナリーヤシではなく、別の種類である。
実は10年程前になるが、ポルトガル北から南まで植えられていたカナリーヤシの木に害虫でも付いたのだろうか。或いは同時期に寿命を迎えたのだろうか?次から次に枯れてしまったのを目の当たりにした。日本ではフェニックス、不死鳥と呼ばれている大型の丈夫なヤシであるが、それに天敵の害虫が付いたのだろうと思う。他種類のヤシは大丈夫の様だ。
ポルトガルに住み始めて1年目、1991年に明治生まれで80歳になったばかりの父がポルトガルの我が家を訪ねてくれた。僕も未だ40歳代の前半であった。その頃は今のマンションではなく下町の古い集合住宅のフラットを間借りしていた。クルマも未だ持ってはいなかったのでどこに行くにも公共交通機関のバスや列車であった。クルマどころか洗濯機も掃除機もなかった。勿論、パソコンもなかった。小さな古い冷蔵庫だけは備えられていて助かったが、冷蔵庫の扉を開けるたびに製氷室の扉もカタっと外れた。テレビもあったが、モノクロテレビで映りはすこぶる悪くて殆ど見なかった。
父は僕がパリのサロン・ドートンヌに入選した作品を観るためと、ついでにポルトガルでの生活も見てみたかったのだろう。ホテルに泊まるつもりだと言っていたが無理やり同居させ、1か月の滞在であった。でも少し前にバスルームの天井が落ち、大家さんが修繕をしてくれていて、足場が組まれたままで、父は「戦争中を思い出す」などと言っていた。僕たちも住み始めてそれ程は経っていなかったのと、旅行をすれば快適に風呂にも入れると思い、あちこちとスケッチ旅行をした。
最初にパルメラにも出掛けた。路線バスである。バスターミナルに着いて早速スケッチを開始した。目の前に良い形のパルメラ城が横たわっている。絶好のスケッチアングルだ。父もスケッチブックを広げているが、ふと見るとあらぬ方向を描いている。「城を描かないのだろうか」と思っていた。後でスケッチブックを見てみるとちゃんと城も描かれていた。僕もスケッチは早い方だが、父のスケッチは僕以上に早く本当にメモ程度なのだ。そういえば戦争中のスケッチも多く、ポストカードサイズの小さいものだが複数のスケッチブックが残されている。今の中国でのスケッチだがよくそんな余裕があったものだと思う。
父は100歳まで生きた人だ。94歳に病気をした。それまでは毎日絵を描いていた。80歳でポルトガルに1か月来て、日本に帰ってからは主にポルトガルを油彩にしてグループ展などに出品していた様だ。94歳の頃、最後に描いていたのは確かに『パルメラ城』であった。
父と一緒にスケッチし1991年に描いた『パルメラ城』F10の油彩
父がポルトガルに来た頃にはフェニックスヤシは至る所に植えられていて不死鳥の如く葉を広げていた。
パルメラ城もサン・フィリッペ城もあまりにも身近にあるので、いつでも描けると思っていたからだろうか?案外と絵にしていない。それがコロナ禍でどこへも行かれない環境が続き「ああ、パルメラ城を描こう」と思い至ったのである。
セトゥーバルのサン・フィリッペ城は東側にはセトゥーバルの町が広がっているが南側はサド湾、西側にはアラビダ山脈が視界を阻み、描くことが出来るのは東側からと我が家がある北東側のせいぜい100度程だろうか?それも街中に入ると建物に阻まれ城は見えないし、東側にも北側にも丘がありそれを超えるともう城は見えない。
『サン・フィリッペ城とセトゥーバル漁港』F10
それに対しパルメラ城は小高い丘の上に建っているので360度から描くことが出来る。そして近寄っても、遠ざかっても無限にモチーフを提供してくれる。
何しろアトリエからも描くことが出来るのだ。そしてスーパーに買い物に行くついでにちょっと寄り道をすればスケッチブックを広げることが出来る。セトゥーバルはスーパーの激戦区なのだろう。食品、商品によって我が家では9軒ものスーパーを使い分けている。その道すがらどこからでもパルメラ城を見ることができる。
『ポルトガル淡彩スケッチ』も間もなく3000景に達する。その内何枚の『パルメラ城』を絵にしているのだろうと数えてみた。番号の入っている絵は77枚であった。そして未だ番号を入れていない絵が20枚。合計97枚。100景に王手といったところだが、3000景の内たったの100景である。この先、未だまだ描けそうに思う。
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