武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

215. 完全帰国 Retorno completo ao Japão

2024-09-01 | 独言(ひとりごと)

 そうなんです。完全帰国です。

 今月、2024年9月23日、月曜日、早朝6:15リスボン発ミュンヘン経由羽田行きの便で完全帰国です。そして帰国先は宮崎市内城ケ崎です。

武本比登志油彩「エルヴァスの家並」F20-油彩画像と文章は関係ありません。

 34年前の1990年9月19日、水曜日、モスクワ経由リスボン着。「快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。」と書き記しています。その3日後からセトゥーバルに住み始めて34年もの歳月が過ぎてしまいました。

 34年もの歳月ですから、当時、私たちも若かったのです。40歳代の前半でした。

 これ程長く住むとは思いもしなかったのですが、トランク一つでやってきました。

 その前々年にバリ島で買った水牛皮のトランクです。

 最初は1~2年も住めれば良いかな。と思っていました。

 それが、5年が10年、10年が20年。そして34年です。

 絵が描きたくなって、その目的のためにやって来ました。そして猛烈に絵は描きました。

 枚数だけは誰にも引けをとらないと思っています。

 絵を描くことが目的ですから、他には何も考えませんでした。

 ポルトガル語を勉強して世間に溶け込もうなどとは一切思いませんでした。

 それは最初に住んだスウェーデンの教訓からです。

 1971年、未だ20歳代の前半にストックホルムで4年余りを暮しました。

 語学学校に通い、ストックホルム大学でも語学を学びました。予習復習を怠りなく、一生懸命にスウェーデン語を勉強しました。その4年余りは全くのスウェーデン語浸けでした。

 でもストックホルムから一歩離れるとスウェーデン語は殆ど忘れてしまいました。語学の才能が全くないのを身に染みて感じました。でもそれはそれでとても充実した4年半で、私たちの人生において重要な位置を占めていることに違いはありません。

 絵を描きたいと思ってやってきたポルトガルでは最初からポルトガル語を学ぶということは敬遠していました。

 絵を描くことに時間を費やしたいと思ってやって来たのです。ポルトガルにとっては失礼な話ですが、絵だけ描くことが出来ればそれでよいと思っていました。

 そしてその通りにやって来ました。モティーフを求めてポルトガル全国を歩きました。エスキースを描き、それを油彩にしてきました。膨大な数に上りました。

 34年間には、日本全国で数えきれない程の個展を催して頂きました。パリの公募展にもポルトガルをモティーフにした絵を出品してきました。

 34年より以前、ストックホルムからニューヨークに暮らし、ポルトガルに住み始める前は宮崎県の山の中で13年を過ごしました。

 山の中と言っても国道10号線が走っているその沿道でしたが、四季折々、山の美しさを感じることが出来る場所でした。水源林としての照葉樹に覆われた山で、照葉樹の間には野性の山桜、藤、藪椿、そして香り高い白花沈丁花。エビネランの名産地でもありました。

 国道10号線沿いですので長距離トラックも走りますし、宮崎市と都城市の丁度中間でしたのでクルマは多く走っていました。

 でも一旦、クルマが途切れると、猪は庭を横切りますし、山猿の群れが飼い犬にちょっかいを出しに来ます。遠くで鹿の声も耳にしました。アカショウビンは我が家のガラス窓に激突し気絶する姿も2度ほどありましたし、庭を取り巻くせせらぎではカジカガエルがいい喉を聞かせてくれました。季節には蛍の乱舞もありました。

 それはそれでとても気に入ってはいたのですが、ポルトガルに住むと言う段になって、それとは正反対の場所を望んでいました。

 出来ればリゾート地ではない港町。大きすぎず、小さすぎず、生活臭のある庶民的な町。クルマがなくても何でもできる街なか。と漠然と思っていたのです。第1候補にセトゥーバルを考えていました。

 そしてその第1候補地ですぐに部屋が見つかったのです。それも下町の小さな広場に面した、アーチ窓のある、天井の高いレトロな建物で、台所には太ったサンタクロースでも列をなして入って来られそうな大きな煙突が被さっていました。私たちには理想的でした。

 その下町の家で2年間を過ごしました。そして今の丘の上の家に引っ越してきて32年で併せて34年です。住めば都と言いますが、よくぞいいところを選んだものだと思っています。住めば住むほど気に入っていると言っても過言ではありません。

 ポルトガルでの34年を一言では括れません。時代も代わりました。通貨もエスクードからユーロです。スペインとの国境線は1,215キロメートルだそうですが、その検問所は全てなくなりました。趣はなくなった、と思われがちですが、それ以上に便利になりました。

 時代に惑わされず、その時代その時代で最善の選択をして来たつもりです。こうしておけば良かった、などと言う後悔は一切ありません。

 地域に溶け込もうなどとは思っていなかった。ポルトガル語を学ぶことは敬遠していたと言っても地域の人達とのカタコトのポルトガル語での挨拶は怠りませんでした。

 コロナ禍になって、私たちも老人と言われる年齢になって、セトゥーバルの人々の親切を身に染みて感じています。セトゥーバルで良かったなと改めて思います。

 それに天気が良い。高温多湿の日本とは違って、乾燥しているので気温が高くても爽やかなのです。エアコンも要りません。海の見えるところに住みましたので尚更です。

 定年退職後5年間の限定で日本人ご夫妻がリスボン郊外に住んで居られました。5年が来るのを待ち遠しくしておられたのが印象的でしたが、帰国する間際に「天気だけは持って帰りたい」と名言を吐かれました。本当にその通りだと思います。

 我が家は、それに加えて部屋は南向きなので夏は涼しく冬温かい。

 私たちは天気だけではありません。このセトゥーバルの生活を、ここに来て増々気に入っているのです。その一番気に入っている生活を方向転換して完全帰国です。一番いい時に完全帰国です。

 この選択も最善のものになるのだと確信しています。

 あと22日。精々楽しみたいと思っています。

 長い間、本当にありがとうございました。

 と書く前の8月26日未明5:10地震で目が覚めました。震源はセトゥーバル県シネス沖60キロ。シネスのお城の岸壁のところにはヴァスコ・ダ・ガマの立派な銅像が建っています。そして遥か沖合を見晴るかしていますが、その辺りが震源です。マグニチュード5,3。我が家では震度2程度かの横揺れが2秒ほど。恐らくポルトガルに来て初めて?の経験です。幸い物が落ちるなどの被害はありませんでした。

 日本は地震列島。少し前8月8日には日南市で震度6弱の地震。南海トラフとの関連が叫ばれています。ポルトガルの震度2程度などは笑ってしまう。と言う人が居るかもしれませんが、人類史上被害が最も大きかったのは1755年11月1日に起こったリスボン大地震です。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡したと言われています。

 日本列島を襲うのは地震だけではありません。今度は8月28日、台風10号による竜巻と思われる突風が宮崎市の城ケ崎で屋根瓦を飛ばし、多くの家のガラスが割れ、電柱が倒れ電線が垂れ下がり停電の被害をもたらしたと言うニュース。

 宮崎市城ケ崎は私たちの帰国地です。まさにピンポイントのニュースです。

 インタネットのニュースを見ると何やら見覚えのある町並、そして見覚えのある看板。グーグルマップで検索してみると、わが家から直線距離100メートルの赤江大橋南詰め交差点の映像です。

 宮崎の我が家は鉄筋コンクリート2階建てなので風には強いはずですが、窓を広く取っていますのでガラス窓が割れていないかが心配で祈るばかりです。その後、義妹から「窓ガラスは大丈夫でした。外から見える限りでは被害は無かった様だ。」と電話がありました。

 被害は無かったとは言え、そんな災害列島ニッポンにあと22日で完全帰国です。

 それでも宮崎市での今後の生活がどのようなものになるのか、今からが楽しみです。温泉も楽しみなのですが、勿論、絵は描き続けたいと思っています。

武本比登志

 

 実は10年前にも同じような文章を書いています。良かったらご参考までに。

132. 1990 年 9 月 19 日、水曜日から 25 年

 

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