多摩平和イベント実行委員会

多摩の市民グループが「戦後60年」を契機に地域の視点から、「戦後」「平和」「民主主義」を考える

第1回 作道さんの戦争体験を聞く会 報告

2007-04-29 22:40:43 | 戦争体験
 ここのところ、個人的にもいろいろなことがあり、多摩平和イベントのブログを更新する元気がなく、日にちがたってしまいましたが、昨日、91歳になられる作道さんのお話を伺い、これではダメだ、今、一人でも多くの方に伝える努力をしなければと、再び、発奮する勇気をもらいました。

作道さんの戦争体験を聞く会の報告

 作道さんは、1917(大正4)年12月、愛媛県に生まれました。当時は長男が家督を継ぐ、という、いわゆる家父長制の時代でした。作道さんは次男。兄貴は、旧制中学、旧制高校への道が開けていたようでしたが、作道さんは、親の指示により、商業学校への進学となったそうです。小学校から、野球をはじめスポーツは万能で、体には自信があったようですが、20歳の時に受けた徴兵検査では、乙種合格だったそうです。
 当時の日本は、中国の蒋介石政府と戦闘状態にありましたが、盧溝橋事件以降、近衛内閣は、不拡大路線とはいえ、軍部の独走を抑えられず、宣戦布告なき中国での戦闘は、激しさを増していく、という時代背景の只中でした。
 作道さんは、1937(昭和12)年7月、愛媛県善通寺市の第11師団に教育召集されます。
 その後、中国大陸に渡り、揚子江の中流域にある武漢攻略戦に参加。歩兵連隊の山砲射撃手として戦闘に参加します。当初は、蒋介石率いる国民党軍と交戦。華北省に転戦してからは、毛沢東率いる八路軍が敵方となります。この八路軍は、中国の農民からの信頼も厚く、軍の士気も高く、相当、苦しめられたそうです。
 戦争とは、人間を狂気に巻き込む魔力を持っているといいます。敵を殺さなければ自分が殺される、そうした中で、敵味方入り混じる白兵戦では、中国兵を軍刀で刺し殺すこともありました。投降しようとする敵軍を機関銃で射撃し、全員を殺す、という場面を目撃したこともあったそうです。
 宣戦布告なき戦闘は、ジュネーブ条約など国際条約に違反しているわけですが、これら条約は、何の抑えにもならなりませんでした。一方で、八路軍の迫撃砲は、地の利もあってか、とても正確で、弾着のたびに味方が負傷したそうです。
 死ぬ間際に、よく「天皇陛下万歳」あるいは「お母さん」とか、と叫んだといいますが、実際は、「苦しい、早く殺してくれ」という叫びだったそうです。
 兵站が長くなり、食料補給も続かず、そのようなときは、民家に押し入り食料を調達しようとしたそうです。しかし、食料らしきものは、すべて隠されるか廃棄されていたとか。時に残された民家に女性がいた時、悲惨な場面となったこともあったそうです。嫌がる女性を強姦し、時には証拠を残さないため、その女性を殺したという、こともありました。
 いわゆる従軍慰安所、というものは、満州の新京など、当時としては治安が落ち着いたところにしかなく、将官がいっていたそうです。
 
 ※ またまだ話は続きますが、作道さんの戦争体験を聞く会・第2回会合は、5月10日(木)午後6時30分からベルブ永山講座室で開催されます。




 

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