唐突に戻ってまいりましたが、世の中に復帰できるのか、どうか、
かなり微妙な状況であることは、依然、変わりありません。
言ってみれば、かなり、大変。
久しぶりに、若い連中を「管理」する仕事をしているが、
(管理なんておこがましいけど)
昔に比べると、自分のことだが、
結構、余裕を保ちながら、やっていけているのが笑える。
年をとった証拠かもしれない。
その分、相手がどのように思っているのか、こればかりは、感覚でしかないが、
たぶん、大丈夫そうだ。
最近、メディアそのほかで、社会性の欠如、というお題目が盛んだが、
こういうくくりは、非常に捉えどころがなくて、議論が抽象がかってしまう。
若者の、理解できない行動なり、犯す犯罪など、
どのように議論を尽くそうとも、
それを一般化できるものもあれば、できないものもあるんだということ。
それを、様々な識者なり、事例を並べきって、
議論を尽くそうとしたり、
彼、彼女なりの「言動」を、愚にもつかないものを、
並べ立てて、プロファイリングしようとしたりして、
かえって、変な擁護にもつながるような始末にさえなりがちで、
ダメなものは、どんなに言を尽くそうが、事情を述べようが、
やってはいけないものは、やってはいけない。
若かろうが、年をとっていようが、
北海道開発局の、談合を唾棄する時と、同じような強い口調で、
ねぇ古舘さん、
やってはいけない、という強いメッセージこそが、
本当は、必要なことなんではないのかしら。
ただ、思ったことは、
相変わらず、人間関係は、そこそこ面倒くさいことは事実で、
その昔、悩みやストレスは、お金が解決してくれるもんだと、
そういう納得の仕方をしていた時期もあったが、
いやいや、お金なんて、そこそこの手段でしかなく、
根本は、やっぱり、とどのつまり、この人間関係でしか、
悩みもストレスも発生しない、なんてことを、
この時分、ようやく理解できた気がする。
当り前か。
自分が存在していく上で、自分を認識する上で、
「他人」は、絶対条件で必要なことで、
特に、集団でしか生存を維持できなかった人間としては、
案外、不可欠な歴史的、生物的限界もあったろうけど、
相手の存在を、縁も因果も含めて、理解しながら、
こっちの存在も、含めて理解をしていただく、
そういう共生関係の必然を、もう少し
当たり前のこととして、認識していかないと、
ああいう、おかまいなしの、「自分のことをわかってもらえない」
という一方的な考え方のモンスターを生んでしまう。
悪いけど、変な「オンリーワン」幻想が、
結果的に、自分を支えてくれもする、評価の「原泉」である他者を、
無残に踏みにじってしまう、
こういう馬鹿な顛末を引き起こすわけで、
まさに、ある意味、本末転倒なんだろうけど。
社会性とか、そんな大きすぎる枠組みで、思考しようとするよりも、
1対1から、複数を含めた、
小さい関係から、
その他人とのかかわりの、持つ、意味なり意義なり必然を、
実は、案外、おざなりにしてきてしまったような気がする。
そんな最近でございました。
自分の状況は、棚に上げて、ね。
かなり微妙な状況であることは、依然、変わりありません。
言ってみれば、かなり、大変。
久しぶりに、若い連中を「管理」する仕事をしているが、
(管理なんておこがましいけど)
昔に比べると、自分のことだが、
結構、余裕を保ちながら、やっていけているのが笑える。
年をとった証拠かもしれない。
その分、相手がどのように思っているのか、こればかりは、感覚でしかないが、
たぶん、大丈夫そうだ。
最近、メディアそのほかで、社会性の欠如、というお題目が盛んだが、
こういうくくりは、非常に捉えどころがなくて、議論が抽象がかってしまう。
若者の、理解できない行動なり、犯す犯罪など、
どのように議論を尽くそうとも、
それを一般化できるものもあれば、できないものもあるんだということ。
それを、様々な識者なり、事例を並べきって、
議論を尽くそうとしたり、
彼、彼女なりの「言動」を、愚にもつかないものを、
並べ立てて、プロファイリングしようとしたりして、
かえって、変な擁護にもつながるような始末にさえなりがちで、
ダメなものは、どんなに言を尽くそうが、事情を述べようが、
やってはいけないものは、やってはいけない。
若かろうが、年をとっていようが、
北海道開発局の、談合を唾棄する時と、同じような強い口調で、
ねぇ古舘さん、
やってはいけない、という強いメッセージこそが、
本当は、必要なことなんではないのかしら。
ただ、思ったことは、
相変わらず、人間関係は、そこそこ面倒くさいことは事実で、
その昔、悩みやストレスは、お金が解決してくれるもんだと、
そういう納得の仕方をしていた時期もあったが、
いやいや、お金なんて、そこそこの手段でしかなく、
根本は、やっぱり、とどのつまり、この人間関係でしか、
悩みもストレスも発生しない、なんてことを、
この時分、ようやく理解できた気がする。
当り前か。
自分が存在していく上で、自分を認識する上で、
「他人」は、絶対条件で必要なことで、
特に、集団でしか生存を維持できなかった人間としては、
案外、不可欠な歴史的、生物的限界もあったろうけど、
相手の存在を、縁も因果も含めて、理解しながら、
こっちの存在も、含めて理解をしていただく、
そういう共生関係の必然を、もう少し
当たり前のこととして、認識していかないと、
ああいう、おかまいなしの、「自分のことをわかってもらえない」
という一方的な考え方のモンスターを生んでしまう。
悪いけど、変な「オンリーワン」幻想が、
結果的に、自分を支えてくれもする、評価の「原泉」である他者を、
無残に踏みにじってしまう、
こういう馬鹿な顛末を引き起こすわけで、
まさに、ある意味、本末転倒なんだろうけど。
社会性とか、そんな大きすぎる枠組みで、思考しようとするよりも、
1対1から、複数を含めた、
小さい関係から、
その他人とのかかわりの、持つ、意味なり意義なり必然を、
実は、案外、おざなりにしてきてしまったような気がする。
そんな最近でございました。
自分の状況は、棚に上げて、ね。