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ねがうこと、ゆだねること

松岡正剛「説明責任」について

2011-04-25 | カルチャー
福島原発事故に関して、諸外国から日本政府や
東電は説明責任=アカウンタビリティを果たして
いないということをよく聞く。

それは信頼性に由来するのだと考えていた。
なんか隠し事しているのではないのかとか、
ちゃんとマネジメントできているのだろうか、
という意味なのかなと。

松岡正剛『日本数奇』(ちくま学芸文庫)を
読んでいたら、説明責任について書かれていた。



「今日の日本にはアカウンタビリティが
ないという」書き出しの「説明の庭」
(初出は密教メッセージ、1997年) 

リスポンジビリティとアカウンタビリティの
二つがそろって責任は果たされる。

日本人はリスポンジビリティについては
自殺までして責任をとろうとすることが
あるのに、事態の問題点を外部にむけて
説明する責任からはついつい逃れてしまう
傾向がある。
(中略)
・・とくに説明を一点にこだわりすぎて、
先に進められないという傾向がある。
説明する言葉にパースペクティブを
作らない。そこが日本の問題らしい。

パースペクティブ、構想力もしくはビジョンと
言い換えていいのかもしれない。

納得が行くような全体像が語られないと、
なかなか得心がいかない。

たとえば放射線量を例にとると
手書きでもいいから各地区の各放射線量が
どうなっていて、問題点がどこにあって
測定種類と測定箇所をどう増やしていくか
といったビジョンを語られる必要があるのかも。



松岡正剛はこの文章の後半で、
真言という言葉で説明する仏教を
創り上げる空海が「説明の天才」でも
あり、それは日本の風土文化に
おいては「相当な構想」だったとか。



もともとあ・うんの呼吸や
以心伝心を風土とする日本だから。
また空海をひもときたくなる。