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ねがうこと、ゆだねること

数学の宮原繁先生を悼む

2015-03-18 | 
高校の数学の宮原繁先生がこの3月15日に亡くなられる。
享年96歳。幾何学、数学を教わった日々の断片を思い出
すが、甘酸っぱい香りはせず、息苦しく寂しい。


卒業文集から引用

宮原先生に教わって、数学の才能がないっていうか理科
系ではないなって悟る。

授業で理解できんことが多々あったけど、それを同級生
がすらすら解いていくシーンを何度も目にすると、さっ
さと諦めた。

考え方が変わったのは卒業してから。周囲よりは数学と
いうか数学的な考え方ができることにだんだんと気づい
ていく。

宮原先生のおかげと心のなかで何度も呟いた。ありがと
うございました。



能がご趣味で、独特の語り口でお話下さったことも、あ
まり理解できておらず、遠い話の様に聞くだけだった。

初めて知ったんだけど、JR芦屋駅のそばに山村サロン
いう音楽ホールがあって、その一角に宮原文庫があるら
しい;



宮原繁氏の能・狂言に関する蔵書を集めた私設の
資料室です。各種雑誌と諸方からの寄贈図書など
約1,000冊が収められています。

いまだに能がわかっていない。これもトライしなさいね、
と先生に言われている気がする。安らかなご冥福をお祈りします。

帰ってきた匙屋 in 黄色い鳥器店

2015-01-30 | 
地元で8年間「匙屋」というギャラリーをやってて、岡山の
牛窓へ引っ越した、あつしさんとかよさんのお二人。昨春
遊びに行ったことはここに書いたけど、国立の黄色い鳥器
店で「匙屋 さかいあつし」展を開催している。2/8まで。



初日は雪が積もって散々なスタートかと思いきや、たくさ
んの人でお店は混んでいた。あつしさんに挨拶がてら、

「雪を連れてきたらあかんやんw」
「よくいい聞かせたんですが、ついて来ちゃいましたw」

と相変わらずひょうひょうと受けてくれる。匙を買って、
3階にあがると、牛窓の物産展。こちらは2/1まで。



現地でも買ったので懐かしいパスタペースト、ドイツ天
然酵母パン、うどん、そしてマッシュルームなどを買う。

かよさんがマッシュルームは生でも美味しいですよ、と
実演販売をしたので、即完売w ほどなく匙も完売し、
初日にして売物がなくなる?!



夜には立食パーティーが3階で開催され、立ちかわりいろ
んな人達が訪ねたみたい。その場で紹介された河本えり子
さんのfbから写真を借りるね;


懐かしい顔ぶれが揃い、匙屋でのパーティを思い出す。

牛窓での生活にも慣れるどころかノビノビやってて、今
年はドイツやあちこち行って忙しくするみたい。匙など
も工房スタジオが広くなったので、より多く作れるよう
になったそうだ。

高校同窓生の新年会

2015-01-16 | 
毎年1回集まっている高校の同窓会は忘年会だったり、
新年会になったり。今年は新年会で日本橋の「居酒屋
なみへい」に集まる。

東京から町おこしをテーマに、月替りで地方料理を提
供する面白いお店。今年は熊本県の宇土市と福井県越
前市。


来月の料理の試食会の様子。写真はこちら

美味しかったけど、一番印象に残ったのがトマト鍋。
熊本県はトマトの生産日本一だそうで、なかでも宇土
市はトマト農家が多いとか。



20数名が集まったんだけど、顔がわからない人がいて
困る。Kがわかんない、とこぼすと、全然変らないよ
ってみなに言われて凹むw

町田に住む二人の理系の教授と話すことがたまたま多
かった。二人とも民間企業の経験を経て、大学の教授
となったからか、話があうというか面白い。

つくば市がつくばエクスプレス開通後も人口が増えて
ないという話も興味深かった。国や大学の研究機関が
集まったんだけど、民間があまり集まらなかったとか。



町田の未開発の森山は、富士山山系につながっている
のではという話(仮設?)も面白かったなぁ。けもの
道もあって、行き来しているのではと。狸や熊なども
よく出没するらしい。

中央アルプスでも熊が増えてるっていう写真家の宮崎
学さんの話(ここに書く)を伝えて、富士山を中心と
した生態系の広がりや繋がりを想像する。

先出のKは山登りが好きで、丹沢もよく登るとか。富
士の樹海、丹沢、町田と繋がっている気がすると言う
ので、話がつながる。

水道橋博士『藝人春秋』☆稲川淳二

2014-09-29 | 
昨日に引き続き、水道橋博士さん著作『藝人春秋』のこと。
藝人と銘打ってるけど、芸人だけでなく、いわゆる芸能界で
活躍している、例えばホリエモンこと堀江貴文さんも入って
いる。

ロックバンド=ブルーハーツの甲本ヒロシさんも、芸能界で
はないんだけど、なんと中学時代同じ学校の同学年っていう
よしみで2回取り上げてたりする。

草野仁さんともう一人印象的だった稲川淳二さんのこと。世
の中的にはよく知られた話かもしれないけど、ボクには初め
のことが多い。



桑沢デザイン研究所卒業で、 「工業デザイナーとして、レー
シング用のシートや浜名湖マリーナなどを手がけ」たそうだ
し、バーコードリーダー、新幹線の「検札機」などを手がけ
たとは驚き。

「 友人に頼まれた結婚式の司会をしている時に、 天性の座持
ちの良さを偶然同席していた放送作家に見初められスカウトさ
れ」た異色も異色のキャリアなんだね。

芸能活動とともに「再びデザイナー業に力を入れており、19
96年には『車止め』のデザインで通産省選定グッドデザイン
賞を受賞」にはホンマかねんって驚く!



彼がデザインした『車止め』の写真を探していたら、「怪談で
おなじみ稲川淳二の意外な過去 「グッドデザイン賞」受賞し
た工業デザイナーだった」というニュースが最近9/8付で流れて
いた。

NHK・Eテレで9/6に放送された「SWITCHインタビュー達人達」
で、漫画家の楳図かずおさんとの対談が行われたそうで、その
中で、工業デザイナーの側面が語られたとか。



それ以前にもネット上ではけっこう見かけるし、NAVERのまとめ
にも「知られざる一面」があるくらいだけど、このニュースを書い
た記者もまだ「意外な過去」と見出しにうてると踏んだんだね。



水道橋博士さんの本に戻ると、彼が出演している「マスクマン」と
いう番組でゲストが稲川淳二さんだったことがあったそうだ。200
2年8/15のこと。下調べで資料を集めていると、意外な事実を知る
ことになる;

稲川さんには男のお子さんが2人いるが、結婚9年目にして生まれた
次男、由輝くんは、 クリムゾン猫という難病中の難病を生まれた時
から患っていたのだった。

なので、テレビのお笑いの仕事をやめることにしたそうだ。水道水
さんが2012年5/15朝日新聞のインタビュー記事「障害者が生きる」
から抜粋してはる;

芸能人というのは、身内に不幸があっても笑って泣いてならない。
もう、やかましいぐらいよくしゃべって、あんた「明るいねぇ」
なんて言われていましたね。

でももうやめました。 自分を殺してまで笑いの仕事をするのは
やめよう、と。 今は怪談のほか、バリアフリーの講演とか、 街
頭で役で障害者に対する理解を訴えたり、応援したりしています。

どんな仕事も大変だけど、それもつらそうだ。お笑いの仕事が
やめても怪談などで人気があるから大したもの。彼のサイト
みると、なんと9/20公開の映画が上映中だとか。



さすが怪談モノ。劇場版「稲川版怪談 かたりべ」。ホラーもの
って好きでないから、行かないかもしれないけど、番宣みたいな
ブログになったねw

水道橋博士『藝人春秋』☆草野仁

2014-09-28 | 
2012年に文藝春秋から発行された水道橋博士さん著作『藝人春秋』
が面白かった。2011年に分冊で電子書籍で発売されたものを、単
行本としてまとめはったもの。



テレビで活躍する芸人たちのことを、もともと2000年代前半にあち
こちに書いたものだから、芸人たちのその後も書かれている。時あせ
ず読ませる。

芸能界って知らないし、テレビで見る芸人たちは番組での役割や台
本がある程度ある中で演じているのだとすると、本書は仕事や番組
で一緒になった水道橋さんならではの視点で、16人の断面を愛情を
こめて語っていく。



それぞれの芸人で1冊になろうと思われる濃厚な凝縮力。みな知られ
た話が多いのだろうけど、ボクには初めての話が多かった。最も空
白というか、ボクが知らなかったのが草野仁さんのこと。

”草の人”という草食系の名前からは想像できない、肉食系の
「最強伝説」の数々の逸話  (p.70)

高校生は陸上部で100メートルを11秒2!それを数学教師の父親が
勉強しろと退部させられる。大会にでていたら、優勝レベル。

実際、後に調べたのだが・・当時のインターハイの優勝タイムが
11秒2であった (p.81)

東大学生時代、相撲部でもないのに故郷長崎の相撲県大会で団体戦を
主将で優勝し、国体出場を決める(国体は卒論の締め切りが近いため
辞退)とか。

NHKに入社した後、モントリオール・オリンピックのアナウンサーに
最年少で抜擢。レスリングも担当だったので、取材にいくと、実際に
試合をするように国際審判員から勧められ、学生レスラーと試合をし
フォール勝ちをおさめたとか。


格闘家ぶりも発揮してはるのだろう。似顔絵で検索してもたくさんでてくる

仮に勝てると思っても、本気でやらないのがサラリーマンの常。
しかし、生来の格闘家の血が真剣勝負を辞さないのだ。(p.80)

2004年浅草キッド(水道橋博士さんと玉袋筋太郎さんのお笑いコン
ビ名)の深夜特番のゲストでお招きした草野さん。格闘家としての
一面を世間に知らしめたそうだ。



それが縁で、彼らはタッグを組み「草野☆キッド」という深夜番組
を2005年から4年半続けたというから、人生わからない。その番組
の存在さえ知らなかったけど、いつか見てみたい。

父の四十九日

2014-08-20 | 
父の四十九日を親類縁者で行う。あれから、そんなに日がたって
ないような気もするし、はるか遠い昔のことのように感じたりも
する。

自宅で葬儀をあげた時、来ていただいたご住職の長生寺で法事を
行う。本堂の中央には阿弥陀如来様が安置されている。左右の蓮
の襖絵や天井の曼荼羅絵図は村田林蔵画伯(1954-)といって、平
山郁夫に師事した方が近年描いたもの。



長生寺は古いお寺さんで、もとは真言宗で無量院と言い、釜利谷の
小泉の谷戸にあったのが、1361年に現在の近所に移る。1532年に浄
土真宗に改宗し開山。長生寺と改め、寛永年間に現在の地に移築。



手元の本を開きながら、お経をご住職と唱和しながら、ご焼香をす
る。それからご住職のお話。浄土真宗にとってのお盆のとらえ方。



宗派によっては、お盆の期間中、故人の霊魂があの世とこの世を行
き来するという考えもあるが、浄土真宗はそうは考えない。

生前は死ぬ瞬間まで、阿弥陀様に見守られていて、死後は永遠の命
をさずかり阿弥陀様のもとで、生前ご縁のあった人をお守りつとめ
ていると、考えるそうだ。

父の遺影を眺めながら、そばにいてくれてる、って思うと少し暖か
くなり、悲しみも薄れる気がする。



そのまま、納骨の儀。横浜市のお墓を生前、父母が購入していたとこ
ろへ、ご住職はじめ、みなで移動する。

暑い日。熱中症などに気をつけましょ、と冷たいお茶をみなで飲み
ながら、墓地に向かう。お墓にもたっぷりお水をかけて、ご住職に
読経をあげていただきながら、ご焼香。



雲ひとつない夏の日。父のいろんなことに感謝。合掌。

超自然的なるものと小泉八雲

2014-07-16 | 
写真家・渡邉博史さんの『怪談』撮影に参加させて
いただき、小泉八雲ことラフガディオ・ハーンの人
となりを読んでいたら、知らないことだらけ。

今年は小泉八雲(1850 - 1904)没後110年目で、
様々な記念プログラムがある。その一つが、生誕の
地、ギリシャのレフカダ島のカルチャーセンターの
中に、ハーンに関する展示施設がオープンしたこと。



ヨーロッパで初めての展示施設だそうだ。そしても
う終わったけど、そのレフカダ島で7/4~7/6にハー
ンに関する国際シンポジウム
が開催されていた。そ
のテーマは;

母方の古代ギリシャの多神教世界や、父方のケルト
の霊的世界に学び親しむ幼年時のハーンの姿勢によ
って形成

アメリカ、マルティニーク、日本へと旅したことで、
よりオープン・マインドな精神性へと発展・熟成

     

したことだったそうだ。松岡正剛は、ハーンを「再話文学
者」という視点から解読したベンチョン・ユー著作『神々
の猿』
を俎上にあげる;

(ハーンの)再話領域は日本のみならず、欧米諸地域・
西インド諸島・その他の中国をふくむ非西欧圏におよ
んでいて、かつ集中的だった。

こうしてハーンの再話はいきおい根元に向かっていっ
たのである。日本を見る目は根元に向かう目だったの
である。



日本人に帰化したハーンは節子と結婚、4人の子どもに恵まれる

西田幾太郎はは田部隆次著『小泉八雲』伝記序文で

万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神
秘思想を抱いた文学者であつた。かれは我々の単純な
る感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じた
のみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世
の霊の活動を見た。

と、ハーンの神秘主義を指摘しているそうだ。

松江、熊本、神戸を転々としたハーンが晩年の10年間
居をおちつけた東京。8年間講師をしていた東京帝国大
学文学部での講義で学生たちに語っている(岩波文庫
『怪談』平井呈一・解説)

超自然の物語など、すぐれた文学の中ではすでに時代
遅れのものだと考えるのは、大きな誤りだと私は申し
たい。

遅まきながら、『怪談』だけでなくハーンを読みたくなる。

(敬称略)

ニュージーランドへ移住した友人

2014-07-13 | 
昨年の1月にニュージーランドへ移住した友人の
ことはここに書いたけど、一時帰国するとの連絡
がある。ゆっくりしたかったので、自宅に泊まっ
てもらう。

大きい方の南島のいなかに住み、専門学校のワイ
ン学科に通って1年半が過ぎる。少人数のクラス
で、ニュージーランド人とオーストラリア人が殆
どで、中国人と日本人が1人だけ。

そりゃ羨ましいけど、けっこうハードそうやなと
思ったら実技中心だからなんとかなるとか。中国
人が生徒にいることに驚くと、移住したい国の上
位にNZが入ってるそうな。


彼の専門学校のワイン実習より

無農薬というか有機栽培のイメージがあるけど、
かの国でも少数とか。ビオワインの醸造所にイン
ターンで行きたいと思っても、狭き門らしい。少
数派の上に、小規模生産やからね。



いろんなことを教えてもらう。たとえば、ニュー
ジーランド人はとてもフレンドリーなんだけども、
日本人の様なかゆいところまで、届くサービスは
あんまりないらしい。

ニュージーランドの季節は冬。摘みたてオリーブ
のお土産ももらう。ヌーヴォー・オリーブは11月
だなぁと思い込んでたから、南半球のオリーブは5
月6月に収穫だから、ヌーヴォーは2度あることに
気づく。


お土産のオリーブの畑や生産工程

このオリーブの畑はわりと近所で生産者も知って
るとは豊か。というか自然に近い生活をおくって
いるから羨ましい話が多いw

父の発明「燗番娘」

2014-07-09 | 
父が亡くなったことについて、メールやfbでのコメント、
ありがとうございました。もうひとつ父のこと。

陸上で活躍していた父は、高校の体育の先生を2年で辞め
(校長と喧嘩したとか言ってた)、旭化成に入社。ベンベ
ルグ、ダイナマイト、プラスチックといった事業を担当。

1978年頃子会社の東洋醸造へ出向、お酒の販売を担当。
ボクが高校3年生の頃。富久娘というブランドを中心に
展開していたけど、当時清酒は成熟市場。

酒の営業は面白くない、とこぼしていた。他社より回数
多く酒屋、居酒屋へ行くかどうかが勝負と言って、営業
強化を図っていた。そんななか、ヒット商品「燗番娘」
の開発に成功する。1985年の話。



お燗機能付きの缶入り日本酒。そんな商品なかったんだ
ね。アウトドア用を睨んで開発したら、単身赴任者にも
広がり、累計4000万本を超えているとか。

父の本棚にある『ザベストオブジャパン 日経・優秀製
品賞<’86~82年度>(講談社)』に父が紹介されてい
て、開発経緯が載っている;

かつての同僚、旭化成薬事業部の浜崎正文と2人で商
品開発に取り組んだ

新しいものを作るのが趣味といい、勤務時間外や日曜
日を研究時間に当てた



父へお供えに「燗番娘」を探したけど、季節外れだか
らか見当たらない。製缶メーカーが311で被災して倒
産して生産中止という観測がネットに載ってる。

もうどうなってるのか聞ける人がいない。父の引退後、
東洋醸造は旭化成と対等合併で消滅(1992)、清酒事
業もオエノングループへ売却(2003)。父達の遺伝子
が受け継がれているのだろう。

父の葬儀

2014-07-08 | 
父の死から2日後、7月9日に葬儀を家族だけで執り行う。
近所のお寺さん「長生寺」へ行くと、住職夫婦が相談に
のって下さる。

葬儀と火葬をまず行うこと、四十九日の頃にお別れの会を
兼ねた納骨の儀を長生寺で行うこと、となりちょっとほっ
とする。葬儀屋もご紹介いただだく。



晴れた午後、住職が自宅に来て下さり、まず法名を教えて
くださる、「釋浄邦」。お釈迦様の尊称「釋尊」から一文
字頂くそうで、お浄土の意味合いと父の名前「邦彦」から。



お経をあげられる。「南無阿弥陀仏」のところでは自然と
唱和して呟いていた。焼香が済むと、僕たちに向き直して
お話もしてくださり、浄土真宗なのでその考え方。

曰く、阿弥陀如来様は
・亡くなる寸前まで私たちを見守って下さっていて、
・亡くなると必ずみ仏にさせて頂き、
・お浄土から阿弥陀様と現世を見守っている
おいそれとはまとめられないけど、核心はこんな感じか。

父もあの世から見守ってくれてる・・でも目の前の棺の中
に安置されている父の姿の存在感は大きく、聞きたかった
こと、話したかったことが山ほど残っていることに気付か
される。



出棺の時間となり、重い棺を葬儀屋さんが3人がかりで、
霊柩車に運んでくださると、外には近所の方々が十数人
見送りに来てくださったのには、驚き、ありがたく思う。

横浜市南部斎場は自宅から十数分の近さ。朝比奈インタ
ーチェンジのそばで、横浜市金沢動物園や自然観察の森
といった山の一角を切り開いたところ。

20年前にできた比較的新しい斎場で、建設前には近隣の
反対にあったと聞かされる。



住職にお経をあげていただいた後、最後のお別れと言わ
れる。もうここには魂はないっていうのは、浄土真宗の
教えでなくても、なんかそんな気がする。でも火葬炉に
納められる時は悲しくて哀しくて。

骨上げをして、骨壷に入れて下さる。職員泣かせのお骨
だそうで、骨壷に入りきれないほど、父の骨は大きいそ
うだ。若い時から鍛えてたし、背も高かったし、迫力が
あったのも骨の支えがあったからこそかもしれない。

最近の20代、30代の若い方の中には、骨壷の半分とか
3分の1にも満たない人も多くなってるとか。



自宅に帰って、骨壷を安置し焼香をあげる。庭の芝生が
青く映えるけど、紫陽花が枯れ始めている。

ゆっくり休んでいるのかもしれないけど、身軽になった
ので、新しい環境で精力的動き回っている気もする。
合掌。