やまねこマッサージ

ねがうこと、ゆだねること

シュルレアリスム展(つづき)

2011-02-28 | art
昨日はシュルレアリスムの始まりくらいしか
書けなかったので、今日は中身について。

ブルトン達詩人からアーティストに
広がっていったシュルレアリスムも
当初は内輪だけで盛り上がってたにすぎない。

それを広める役割をになったのは
パリの画廊だったことに驚く。

1925年ピエール画廊が最初の
シュルレアリスム展覧会を開催。
1926年その名もシュルレアリスム画廊が
マン・レイの個展によってスタート。
1929年カミーユ・ゲーマンスの画廊は
オープニングがダリの個展。
1937年になるとブルトンが支配人の
グラティバ画廊が回廊するといった具合。

1930年代後半になると大規模な企画展になる;
1935年最初の国際展がスペイン・カナリア諸島
1936年ニューヨーク近代美術館と美術館が顔をだすが
1936年ロンドン・バーリントン画廊(400点!)
1937年『みづゑ』主催で東京、京都、大阪、名古屋の
巡回してたのも画廊だった。そのポスター;


そして頂点を迎える。
1938年パリ・ボザール画廊(かのジョルジュ・
ウィルデンシュタインが経営)の展覧会
「第3回シュルレアリスム国際展」だった。


独創的な会場構成が広く人々に影響を
与えた衝撃をまのあたりにして、フランスの
パブリックな美術館は2つの作品を始めて
コレクションに加える;

a)ジュ・ド・ポーム美術館がダリの
「ピアノに現出したレーニンの六つの幻覚」

b)リュクサンブール美術館がイヴ・タンギーの
「緩慢な日」


この企画構成は、自身はシュルレアリスム
ではなかったが、彼らの絵も人も大好きで親交が
深かったマルセル・デュシャンだった。

「私はシュルレアリスムたちによって
普通の世界から借りてこられたのです。
彼らはとても私を好いてくれました。」
-『デュシャンは語る』(ちくま学芸文庫)

今回彼のレディメイドの最初「瓶掛け」を
見れたのは感慨ひとしおだった。1914年の
作品(選定品?);


その後たびたび開催された「シュルレアリスム国際展」
1942年 第5回 ニューヨーク ホワイトロウ・リード館
1947年 第6回 パリ マーグ画廊
1959年 第8回 パリ ダニエル・コルディエ画廊
においてデュシャンはブルトンと協力しあっている。

「シュルレアリスム」の始まり

2011-02-27 | art
シュールという日本語はシュルレアリスムの
畸形であることを思い起こされる。

「超現実」という意味は失われ「奇抜」「不条理」
「不可解」といった意味へと独特に変化し、
「シュールは多様な意味で使われており、
和製フランス語で他国語にできない」(wikipedia)。

シュルレアリスムは何だったのか?
それを再認識するには、うってつけの
展示会が開催されている。
シュルレアリスム展
新国立美術館で、5/9まで。



1924年28歳の詩人アンドレ・ブルトンが
刊行した書籍『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』が
始めのコーナーに展示されている。

同年開設された「シュルレアリスム研究所」
っていうのがあったそうで、
所員の写真が引き伸ばされている。

同じくメンバーだった
マン・レイの撮影!
意外にスーツ姿;



後列左より シャルル・バロン、レーモン・クノー、
ピエール・ナヴィル、アンドレ・ブルトン、
J-A・ボワファール、ジョルジオ・デ・キリコ、
ロジェ・ヴィトラック、ポール・エリュアール、
フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ルイ・アラゴン
前列左より シモーヌ・ブルトン、マックス・モリーズ、ミック・スーポー

そんな研究所さえ知らなかったけど、
彼等によって『シュルレアリスム革命』
という雑誌が創刊されたってことも驚き。
1929年12号まで出たそうだ。



第一次大戦によって打ちのめされたヨーロッパを
全否定したダダを紹介から始まり、やがて
ダダ運動の終焉からシュールレアリズムの誕生した
あたりが丁寧に紹介されている。

第一次世界大戦の失敗は、人類が光の部分を
大事にし過ぎ、自らの内に潜む醜い部分から
目を背けていたためだと主張し始めたわけだ。
両方を見ようって。ざくっとは語りきれないが。



自動筆記やコラージュなど偶然性の
強い手法も用いて、主観や自意識を排した作品制作。

日常生活などの現実に隣接した
裏側や内側にある「むき出しの現実」、
「超現実(シュルレエル)」を露呈させようとした。

アンドレ・マッソン
「オートマティスムによるデッサン」


「”世界を変える”とマルクスは言っていました。
”人生を変える”とランボーは言っていました。
わたしたちにとってこのふたつのスローガンは
同じものなのです。」アンドレ・ブルトン

初!麦踏み

2011-02-26 | 農・生物
生まれて初めて、麦踏みをさせてもらった。

踏み残しがないように小麦を
長靴で踏みしめて行く。



いくら小麦のためによいって聞いても、
最初はどこかにためらいがある。

小麦の分節を促し足腰を鍛え、
霜柱などで浮いた土を抑えて活性化になるそうだ。
せっかく数センチに伸びていた若芽を踏むと、
ぺしゃんこで立ち上がれないまま。



百獣の王ライオンが、幼いライオンを崖の下に
落とすような心境みたい(とは言ったものの、
ライオンはほんまにそんなことするんやろか)。

狭い日本ならやれるかもしれないけど、
アメリカなどの小麦の広大な穀倉地帯でも、
麦踏みをするんだろうかって農家の方が言ってた。
トラクターみたいなのでローラー作戦でも
するんやろうか?



この歳になっての「初」って貴重だと思う。
なかなか初って出会わなくなる。

それと同時に今日って言う日も初だし、
同じ様に見えるすべてのものも
昨日とは違うんやけどね。

違って見ることも、同じだって
感じることも可能だ。
・・モノは考えようだなぁって思う。

初麦踏みで、普段使わない肉体や
頭が刺激さて、いいことを思い起こす。

花かつおの味噌汁

2011-02-25 | 
ご飯と味噌汁は大好きで
三度々々食べてもきっと
飽きないと思う。

でも朝はパン。
たまに残念って思うけど、
忙しいから仕方ない。
美味しいパンに紅茶かコーヒー
っていうのも結構いいしね。



味噌汁のだしは変遷が大きい。
昔はだしパックが主流。

猫を飼いだすと、それをゴミ箱まで
あさるんだね。なのでパックから
顆粒タイプへ変更を余儀なくされる。

それがここのところはかつお節だ。
やっぱりかつお節が美味しい気がするw
削ってある、いわゆる花かつおを使う。



鍋に花かつおを放り込むとちょっと
豪快で気持ちがいいけど、掬うのが
ちょいと手間だ。

なのでだしパックにいれて
使っていた。

猫たちも年をとって趣向が変わり、
かつお節の入っただしパックを
捨てても見向きもしない。

それがだしパックは鍋の中での
広がりが少ないので、ふと味噌こしを
使うことを思い立つ。



かつお節が香りたち、
味噌汁を作るときもいい感じ。

出版社編集長のパーティー

2011-02-24 | その他
毎年恒例なんだけど、今年も250人以上と大盛況。
店のスタッフですら、こんなに人が集まる会は
少ないって感心してた。

何人かと話していると、好きな仕事を
やってる方々が多かった。



とある出版社のNさんと話していて、
・魅力的なチームを構成すること
・論理的な正しさを優先しないこと
・プロアマ参画型にすることの大切さで
盛り上がる。

ライト兄弟は飛行機事業を独占
しようたしたために、支持を失い、
みんなに広く手を求めたフォードは
飛行機においても、次々事業を
成功させたことを教わる。



ライト兄弟の発明は特許により
数十年保護されるけど、それが
実用化の進展を阻害し、特許切れに
なってから開花したって話しで応える。

ライト兄弟は特許に関して係争や
裁判に巻き込まれ苦労する。
各メーカーに課したライセンス料が高かったから、
航空界全体を敵に回したらしい。

ライト兄は晩年そのフォードに対して、
飛行機を発明した事を悔いる内容の
手紙を送っている。



ミュージカル俳優の歌、マジシャンの
クローズアップマジック、景品大会と
お楽しみも充実してるのも、例年通り。

意外に日本製の電気製品

2011-02-23 | その他
この冬に買った電気製品が
たまたま日本製だった

BlueRayレコーダー(松下)
電気シェーバー(松下)
アイロン(東芝)
デスクトップPC(HP)

BlueRayレコーダーを買う時は
ここにも書いた様に同価格なら
日本製が品質がいいと思った。



電気シェーバーとアイロンは
後から調べてみるとたまたま
日本製だったクチ。



デスクトップPCはここにも
書いたけど、日本製って意外で
しかも近くの拝島で作られた
っていうのはちょっと嬉しかった。



農産物はできるだけ地産地消が
いいなぁと思ってる。それが
おいしさの源だし、エコだし。

工業製品だって近くで
作られた方がエコだし、
モノづくりを応援したいって
気持ちがある。

工場が海外に移転するより
日本で作られることを
ささやかながらサポートしたい
って思う。



近所の酒屋にいくと
府中の武蔵野工場製造の
プレミアム・モルツ ビール (サントリー)って
表記してある。

東京で作られるビールって
それこそちょっと贅沢。
缶を開けて乾杯!

リビア Gaddafi大佐への靴投げ

2011-02-22 | 
リビアが大揺れだ。
チュニジアとエジプトに挟まれた
リビアでも独裁政権へのNOという
動きが大詰めだ。

41年間リーダーであり続けた
Gaddafi大佐が辞任要求に対して
2時間近い演説を、国営放送通じて
行ったことをアルジェジーラが
報道している;



演説が、天井高の低い建物の地下で
掃除もされていない場所で行われている。

かなり追い込まれていることは確か。
「退出しない、殉教者として死ぬ覚悟」とか
言ってるが、身の安全を図ろうとしているのが
透けて見える。

この放送に対して、いろんな反応
反発はあるのだろうが、屋外スクリーンに
向かってたくさんの靴を投げつけている映像が
アルジェジーラにあった;



他人の体や頭に靴をぶつけたり、
靴を履いた足で踏みつける行為は
イスラーム世界では最大級の侮辱。

2008年12月にイラクを電撃訪問した
ブッシュ大統領(当時)が、バグダッドでの
記者会見の際に、イラク人記者
から「靴を投げつけられる」という事件が
あったね。あれでアラブ人における靴の
意味を知った。

今回も靴を投げつけ、意気揚々と
裸足で(いろんなモノが散乱して
痛いのかも)闊歩するのが目に浮かぶ。



今回中東で起りつつある事象に
ぼくができることは、興味関心を
持ち続けること。

ネット環境の進展を報道でも感じる。
アルジェジーラは24時間生放送の
英語版がみれるし、CNN
BBCもサイトがぐんと進んでいる。
動画が中心になってきたのでは。

NYTIMESのサイトも充実だけど、
アプリにいたっては動画もすばらしく、
放送局と引けをとらない。

圧倒的な本気力と報道力を
感じる。それにひきかえ日本は・・
ほとんどが日本人向けで、
それも短い紹介しかなさそうだ。

映画『GONZO』

2011-02-21 | 映画
日曜日にドキュメンタリー映画
『GONZO』を観に行った。

「ならず者ジャーナリスト」と言われた
ハンター・S・トンプソンの生涯を
追った物だ。この日2月20日は彼の命日。



2005年に68歳で拳銃自殺したトンプソンは、
ゴンゾージャーナリズムという独自のスタイルを
築きあげた。

ジョニー・デップ主演の映画
『ラスベガスをやっつけろ』
"Fear And Loathing In Las Vegas"
の原作者といったらわかる人がいるかも。

こちらは英語版の予告しかなさそう;


この映画からの引用も多くあって
ジョニー・デップのトンプソンぶりが
楽しめる。

デップは彼を尊敬していて
この映画のナレーション役も行い、
彼の小説“The Rum Diary”の
映画化(今年だそうだ)でも主演
といういれこみよう。



とはいえ日本では忘れられた存在。

翻訳書も数冊あえるけど、その多くは絶版。
酒とドラッグと女とガンに溺れるって
典型的肉食系だしね。

無茶苦茶、破天荒な人生。
でも文章が立つんだなぁ。



ローリングストーンズ誌を
舞台に大活躍したそうで、
その編集者たちが愛情をこめて
彼を回想する。

2月20日自殺した後すぐに、
3月24日号で追悼特集を組んだ。



カーター大統領、マグナム大統領候補
といった彼が応援した政治家たち。

カーター曰く
「私にとって、30年間以上に渡り、
ハンター・トンプソンはいつも予測できない、
楽しくて忘れられない友人だった」

彼が罵倒するくらい嫌いだった
ニクソンサイドの選挙参謀も面白いやつだったと
みなスクリーンに登場する。

離婚した夫人、息子、そして
2番目の夫人もみないろんな
側面から彼に迫ろうとする。



政治的活動が多い。
ちいさい町の保安官の選挙に立候補して
保守層のおそれから僅差で負ける。

その時の親指が2本ある拳がサボテンを
握っている選挙ポスターの図は、
彼のシンボルマークになる。



ジョージ・マクガバン大統領候補を応援するも
再選するニクソンに負ける。

民主党カーターの応援の時は
カーターより握手を求める人が
多かったと。

60年代~70年代の差別闘争、
ベトナム戦争で揺れ動いた
アメリカに切り込んでいる
彼も、この映画も。

「ハーブとドロシー」打上げ

2011-02-20 | 映画
映画「ハーブとドロシー」は
おかげでまだまだ続いてる。
異例の大ヒット。パチパチ。

だいたい8週間続けばいいほうって
話のなかで、14週間を過ぎた!
NYが17週間やから背中がみえて来たね。

渋谷イメージフォーラムは先週末から
1日4回上映に減っていたのを5回に復活。

全国でも50映画館での上映が決まっていて、
先週末は一気に4映画館でも封切られました。

まだ見てらっしゃらない方、
ぜひ足を運んでください。



ヒットの感謝をしたいって
佐々木監督が打上げを開いた。
配給チームを中心にお世話に
なった方々が集まった。

代々木上原のメゾンサンカントサンク
という屋根裏部屋のような
アットホームないい感じの店。

成功したら開けようってとっといた、
モエ・エ・シャンドン協賛でいただいた
マグナムシャンパンをあける。



佐々木さんと初めて話したのは
電話で去年の2月7日

その最初の電話口で、配給プロデュース
やっていただけないかという相談が
あった。

映画はやったことがありませんからと
言えば、私も映画は始めてだったから
大丈夫と。

現代アートの大御所を知らないから
ちょっと無理だと思いますってその時は
お断りしたんだ。

それがちょうど一年前。
それがこんなに成功する日々が
来ようとは。人生面白いね。



ちょうど佐々木監督の誕生日。
ケーキにキャンドルをともして
ハッピーバースデーを歌う。

とてもあたたかな、
楽しい打ち上げやった。

彫刻家 ブランクーシの生誕日

2011-02-19 | art
Googleのトップページを
ひょいとみたら彫刻物で
Googleの字を表現していた。



ぱっと見はGoogleってわからないのも
ミニマル・アートの先駆者だからかw

彫刻をクリックすると今日がブランクーシの
生誕日だってことがわかった瞬間、wikipedia
飛んだ。



ブランクーシにちゃんと向き合ったのは
パリのポンピドゥーセンターの
中庭に面した低層階の建物に
彼のアトリエでだ。

全体を設計した、レンゾ=ピアノが
彼のアトリエも設計したので
話題になった。かなり再現した筈だ。



ルーマニア出身のブランクーシは
パリの美術学校をでると、生涯を
パリで過ごす。

家賃の安い、天井高のあるアトリエが
気に入って、ずっと使っていたんじゃ
なかったか。

死後も保存してあったんだけど
建物の取り壊しで、移設計画が
持ち上がって、ポンピドゥーセンターへ
移設となった。



作品もいっぱい飾られていたけど、
道具もきちんと並べられていた。
イサム・ノグチの高知のアトリエも
整然としていたなぁ。

イサム・ノグチは「パリでブランクーシの
助手となることで抽象彫刻家としての
キャリアに方向性を見出した」と
wikipediaにはあった。そういう
つながりがあったことを思い出させてくれた。