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なぜ持続可能な「社会」ではなく持続可能な「国」づくりなのか

2011年05月08日 | 理念とビジョン
 「持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」
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 運営委員長の岡野です。
 以下は、運営委員会の最終的な統一見解ではありませんが、運営委員会のメンバーに諮り、いわばオープンな継続的討議の素材として、「運営委員長の個人的見解」というかたちでブログ掲載することを承認されたものです。
 どうぞ、ご意見をお寄せください。


 私たちの会についてしばしば出される質問・疑問の一つに、なぜ「持続可能な社会づくり」ではなく「持続可能な国づくり」なのかというものがあります。

 東日本大震災の本格的復興と福島原発事故の収束のめどがまだ立っておらず、特に原発事故による放射能汚染がどこまで広がるのか、どこで止まってくれるのか、はっきりとした見通しを持てない不安な状況のなかで、このご質問に私なりのお答えをしっかりとしておく必要があると思うようになりました。

 私たちは、日本も含む現代の先進国の経済システムは、資源とエネルギーの大量使用―大量生産―大量消費―大量廃棄、という構造になっており、入り口で地球の資源の有限性、出口で地球の自己浄化能力の有限性という構造的問題を抱えており、持続不可能であると考えていることは、繰り返しお伝えしてきたとおりです(この点は統一見解です)。

 そして、原発は入り口でのウランの有限性もさることながら、出口でのきわめて危険な放射性廃棄物(最終的に安全にして処理する方法がない)と大量の熱排水(海の熱汚染)という点で、持続不可能性の象徴的・代表的存在だと思われます(これもほぼ合意されています)。

 私たちも含め多くの人が、持続不可能性とその危険性という点から、原発を止めたいと強く思っていますが、止めるにはまず、誰が原発を推進する権限を持ってきたのか、誰が原発を止める権限を持っているのか、そのことをはっきり理解しなければ、その思いをかなえることはできない、と私は考えています。

 振り返ってみると、日本で原子力の開発が具体化したのは1955年からですが、それ以前から、開発を推進してきたのは言うまでもなく当時の日本国政府です。そしてそれ以来、現民主党政権(「民主党エネルギー基本政策」の「原子力の平和利用」参照)に至るまで、推進し続けてきたのも、日本国政府です。

 もちろん具体的な原子炉の設計・製作・運転・発電・送電などを推進してきたのは関係企業ですが、それを指示し認可し続けさせてきたのはその時その時の政府の政治的決断・意思だったと言うほかありません。その場合の政府の意思というのは、これまた言うまでもなく官僚と政治家の合意を意味しています。

 まとめていえば、原子力発電は戦後まもなくから今日まで一貫して、多くの政治家・官僚・企業人の合意に基づき政府=国が認め推進してきたものだということです。

 その手続は、議会制民主主義による法治国家である日本の法律に基づいて行なわれてきたものであり、そのかぎりにおいてまったく正当なものです。〔話をなるべく正確にするための資料として、末尾にウィキペディアの「日本の原子力発電所」(最終更新 2011年5月5日 (木) 01:06)の「歴史」の項目を引用しておきます(原子力基本法の成立時の内閣総理大臣を補足)。もちろんウィキペディアの記事をどこまで信用するかという問題は残りますから、資料・根拠をあげて批判・訂正をしていただくことは歓迎です。〕

 そこで、原発を本当に止めたいと思う――より広く言えば環境問題を本当に解決して持続可能な社会を作りたいと思う――市民というより国民がしっかりと心にとめておかなければいけないのは、原発は選挙によって選出された代議員が構成する政府=国が合法的手続きに基づいて推進してきたものだということです。

 法治国家においては、法的手続きによって決定されたことは、法的手続きによるほか覆す・変更することはできません(暴動・反乱・革命などによって、超法規的に廃止される場合は別ですが)。
 原発もまた、国によって合法的に推進されてきたものである以上、国によって合法的に廃止されるほか、実際に廃止されることはないと思われます。
 原発を推進する権限も廃止する権限も、基本的には政府=国が持っていることを、私たちはしっかり認識しておく必要があります。

 現に、スウェーデン(1980年)、イタリア(1987年)、ベルギー(1999年)、そしてドイツ(2000年)など、いずれも政府が法制化することによって脱原発が現実化の方向に向いつつあります(その後の紆余曲折はあります。特にスウェーデンについて脱原発政策が方針転換されたという誤解がありますが、これはまったく日本的な誤解だと思われます。小澤徳太郎氏のブログ参照)。

 政府が法制化することなしに、市民運動だけで原発が止まったという例を私は知りません。

 もちろん大きく盛り上がった市民運動が政治的圧力となって政府の法制化に影響を与えたというケースはあるでしょう。
 現にドイツのメルケル首相は、いったん前社会民主党政権の脱原発政策を見直すと言っていたのですが、今回の25万人にものぼる反原発デモの影響で、原発推進政策の見直しを考え始めているとのことです。
 しかしそれは、デモそのものの影響というよりは、デモの人数があまりにも多いので、このまま原発推進政策を続けると、次期の選挙で政権の座を降ろされることになるかもしれないという恐れを、メルケル首相が感じたことによると思われます。

 かつて日本で行われた60年安保反対のデモ、70年安保の反対のデモでは、25万人どころではないもっと大規模のデモが行われましたが、当時の自民党政府=国にとって次の選挙で政権から降ろされる脅威には感じられなかったために、警察機動隊を使って排除収束させれば済むことであって、日米安保条約の変更あるいは廃棄を検討する必要はまったくないと判断され強行されたわけです。
 もし、あの時のデモが次の選挙によって自民党が政権の座から降ろされる脅威を感じさせるものだったら、自民党政府の対応や決定はもっと別のものになっていたことでしょう。

 そうした歴史的な実例が示しているように、何十万人という大規模デモでさえ、政権を脅かさない限りは政府の政策決定に影響を与えないのですから、まして署名活動などの市民運動がもっと影響力がないのは、残念ながら当然と言わざるをえません。

 誤解していただきたくないのは、今盛り上がりはじめている脱原発のためのデモや署名活動や講演会なども「結局意味がないからやめたほうがいい」と言いたいのではないということです。
 私自身、何としてもなるべく早く原発を廃止したいと強く願っていますから、そうした活動には意味も共感も感じています。また、やれることは何でもやったほうがいいと思いますし、できる範囲で協力・参加していますし、これからもするつもりです。

 しかし、願うことと実現することは別のことです。願うことは実現することの第一歩ですが、終着点ではありません。どれほど強く願っても、実現できる手続きを踏まないかぎり、願いは願いのままに終わるでしょう。

 私たちが、「子供や孫たちの世代のためにあまりにも危険な原発はなくしたい」と本気で思うのなら、願いを願いにとどめず手続きを踏んで実現する必要があるのです。
 その手続とは、端的に「私たちの願いを主権政党・政府の政治的意思にする」ということです。

 (一昨日、ひとまず幸いにして、菅総理が浜岡原発を停止する要請を出し、昨日、中部電力が受け容れたとのことですが、今朝のNHKの番組で仙石副官房長官が、他の原発について質問されたの対し、「これまでのエネルギー政策(原発を含む)を堅持する」と発言していました。つまり、きわめて残念ながら、現時点では、浜岡原発だけが一時停止されるのであって、政府の政治的意思がすべての原発の廃止=「脱原発」に転換したわけではありません。)

 私たちみんなの願いを実現するために必須だと思われるので率直に言いますが、今、日本の心ある市民がより明確に自覚することが望まれるのは、日本は代議制民主主義の国であり、国民の過半数の意思によりいかなる暴力的な混乱もなく、主権政党を交代させることのできる国であるということの意味だと思われます(投票率を見ていると、場合によっては、50%の50%強くらい、つまりたった25%強の得票で、「政治を変える」ことは可能なようです)。
 しかし、統一地方選挙の結果を見ると、とりあえず自公政権から民主党政権への「政権交代」が現実のものとなった後でさえ、国民にはまだそうした自覚が不十分なように私には見えます。

 けれども、脱原発という願いを実現したいのなら、さらなる政権交代によって「脱原発」を明快な政治的意思として持っている政党を国の主権政党にするほかないのではないでしょうか。その他に、脱原発が実現するシナリオがありうるでしょうか。

 といっても、ここで私は、「だから、脱原発を主張している既成政党を押し上げて政権の座に据えよう」と言いたいのではありません。
 それは、きわめて残念ながら、私の知るかぎり既成のどの党にも脱原発を含む「持続可能な国づくり」の「理念とビジョン」があるようには見えないからです。

 しかし、これから日本という国が、資源とエネルギーの大量使用(原発はその代表的なものです)―大量生産―大量消費―大量廃棄(放射性廃棄物と熱排水はその代表的なものです)という持続不可能な社会システムを持続可能な社会システムに方向転換するためには、明快な方向指示としての「理念とビジョン」が不可欠だと思われます。

 原発はエネルギーの大量使用による経済成長を前提として進められてきたエネルギー政策の一環ですから、従来のエネルギーの大量使用を前提とした社会・産業システムは変わらないまま脱原発だけが実現するというシナリオは想定できません。

 持続可能な国づくりの理念とビジョンを自らの政治的意思としてしっかりと持った政党が主権政党として国を担うことがないかぎり、他のどのような善意の努力の積み重ねによっても日本社会が「持続可能な社会」になることはない、日本が持続不可能になってしまえば、それまでのあらゆる善意と努力は水の泡と消えることになってしまう、と私は推論・シミュレーションしています。

 善意と努力を実らせるには、主権政党と政府という意味での「国」を変え、そのことによって国民と国土という意味での「国」を「持続可能な国」へと変えることが必須ではないでしょうか。
 脱原発も、持続可能性を目指す国の政策全体の重要不可欠な、しかしその一部として実現されるほかありません。

 (環境問題・持続可能性の問題は全地球的・グローバルなものであり、解決・持続可能性も最終的にはグローバルでなければなりませんが、一挙にグローバルな解決を図る道筋はないと思われますので、まずは個々の国――私たちの場合は日本国――から手をつけるほかない、と私は考えています。この点については、また後日述べたいと思います。)

 だからこそ、あえて私たちの会は、一般的な印象がある持続可能な「社会」づくりではなく、より具体的目標を定めた持続可能な「国」づくりの会としたのです。

 もちろん、この「理念とビジョン」が唯一絶対でも最高でも完全でもないと考えており、ぜひ生産的な批判や修正提案をいただき、よりよいもの、妥当性の高い、説得力のあるものにしたいと思っています。

 そういうわけで、これ、というより、こうした「理念とビジョン」を自らの政治的意思として日本という国の方向転換をしてくれる、新しいリーダー、新しい党が誕生するための、いわば揺りかごとなるべく、私たちの会は微力を尽くしています。
 もし、「理念とビジョン」に可能性を感じていただけたら、ぜひ私たちの会にお集まりください。あるいは、組織は別であっても生産的な連携をしましょう。私たちは、いつも、メンバー、スタッフ、新しいリーダー候補生を募集していますし、方向性を共有できる連携先を求めています。
 ご一緒に、「持続可能な国づくり」ができる、新しいリーダーと新しい党の誕生の下準備をしていきませんか(まだただちに新党結成できる・する社会的条件は調っていないと思われますが、原発事故再発の切迫した危険性からして、一日も早い、可及的速やかな結成が強く望まれます)。


*ウィキペディアの記事より

1945年8月、第二次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった[1]。
日本における原子力発電は、1954年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった[2]。
1955年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた(補足:内閣総理大臣は自由民主党総裁の鳩山一郎)。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった[3]。そして基本法成立を受けて1956年1月1日に原子力委員会が設置された[4]。初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎である[5]。正力は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。このことから正力は、日本の「原子力の父」とも呼ばれている。
1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された[6]。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。
1957年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された[7]。
日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年10月26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている[8]。
日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。しかし経済性等の問題[9]によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。
近年は老朽化で運転を終える原子力発電所の廃炉処置の困難さの問題に加えて二酸化炭素排出削減策として、既存原子力発電所の延命方針が打ち出された。しかし、2011年に東日本大震災による福島第1原発事故が発生し、重大な放射能被害を近隣住民に及ぼした。 今後は、2010年3月に営業運転期間が40年以上に達した敦賀発電所1号機をはじめとして、長期運転を行う原子炉が増加する見込みである事から、これらの長期稼働原子炉の安全性が議論となっている[10]。
なお、福島第一原子力発電所の原子炉6基は、2011年3月の東日本大震災の被害で6基とも廃炉になる可能性がある[11]。