持続可能な国づくりを考える会

経済・福祉・環境の相互促進関係を!

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3・11によせて:永続可能な復興を

2014年03月10日 | 理念とビジョン

 運営委員長の岡野です。

 大震災からもう3年が経ってしまいました。 

 いまだに本当には収束もコントロールもされきっていない原発事故が、復興への道を複雑にし停滞させていると思われます。 

 農林水産業が主要産業である「地方」は日本全国どこを見てもほとんど、すでに疲弊しつつありました(これはますます深刻化していると思われます)。 

 そこにかぶせるように、基本的に農林水産業の地域だったところに、放射能汚染という農水産物のイメージを極端なまでにダウンさせる事故が起こったわけですから。 

 低線量被曝の危険まで考えると、現在の技術では放射能汚染に根本的な「除染」はありえないと思われます(一定程度までの軽減はできるにしても)。 

 したがって、農水産物のイメージ・ダウンは「風評被害」として片付けることのできないことではないでしょうか。 

 何度繰り返しても言い足りないくらい、原発は持続不可能なエネルギー技術であり、持続不可能な近代的生産様式の象徴です。 

 エネルギー源として原発を止めたくないという体質を持つ近代的生産様式を大前提としたままでは、持続可能な復興は実現どころかビジョンを描くことも困難です。 

 とはいえ、予想よりかなり長引くとしても、敗戦後でも阪神大震災でも見せた日本人の底力からすると、中期のいちおうの復興はやがてなんとかできるかもしれません。 

 また、そういう復興がまるで必要ないとも思いません。 東北の復興は心から願っています。

 しかし、私の知識の範囲で言えば、現状の方向は長期の持続可能な、超長期の永続可能な復興にはつながっていないように見えます。 

 せっかくの復興を、努力の相当部分が無駄になってしまうような持続困難な復興ではなく、永続可能な復興にぜひともレベルアップおよび進路変更してもらいたいものだと強く願っています。

 そのためには、場当たりの対処ではなく、どこを目指すのかという基本的な理念とビジョンが必要です。

 といっても、私たちの会の理念とビジョンが完全だとは思っているわけではありません。

 しかし、現状では「エコロジカルに持続可能な国」というビジョンは、根本的な方向としてはきわめて妥当なものではないかと自負もしています。

 心あるみなさんに、私たちの会の理念とビジョンに生産的検討や批判を加えていただき、ヴァージョンアップにご協力をいただきたいと思っています。

  目指すのなら、エコロジカルに永続可能な日本の一部としての永続可能な東北復興ではないでしょうか。


人類の転換ポイント

2013年05月19日 | 理念とビジョン

運営委員の森中定治です.

5月18日の毎日新聞に掲載された川柳です.

「生まれた地違っただけで敵味方」久喜 宮本 佳則 18.5.2013 仲畑流万能川柳

この句に,戦争のもつ理不尽がストレートに出ています.

異なった地に産まれたという縁によって殺しあうということは,戦争の絶対的な愚かさ,戦争のもつ真の意味を表しています.しかし,戦争の抑制,廃絶は他人への行為のなかにあるのではなく,自らのなかにある“物欲”との戦いでしょう.

 

「貧乏なひととは、少ししか ものを持っていない人ではなく、 無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

(ウルグアイ,ムヒカ大統領,7.2012のリオ会議(Rio+20)でのスピーチ)

http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/

 

ここに戦争の究極の意味があると私は思います.

戦争を無くす唯一の方法は,人間の物質的な欲をコントールすることです.

何をすればよいのかを認識できなければ,それは不可能でしょうが,人間が何をするかを明確に知れば,それは可能でしょう.人間はそれくらいの力を持っていると私は思います.

人類史の転換ポイントになります.

結婚式やその他いろんな式や記念に,様々の商品が満載のカタログをもらいます.欲しいものを自由に選ぶことができます.しかし,注文しようとしても本当に欲しい品物,心からこれだ!と思う品物はもうほとんどありません.狭い家で置く場所もありません.しょうがないので,消耗品でももらっておこうかということになります.
一方で,私は声楽(テノール)を習い始めて1年,この4月にコンクールで入賞しました.今日もアンネット先生のレッスンを頂きました.6月は再度コンクール,7月は発表会が2回あります.もういくらでも歌を覚えたい.こちらには無限の欲求があります.
生命をもつものとして安寧を保ち,次世代を育てそして人間らしい日々を送る.それ以上の物質的な欲望とはさよならし,資源とエネルギーを使用しない欲求にシフトする時が,そろそろ来ているのではないでしょうか.


市民運動を含んで超える必要?

2011年05月09日 | 理念とビジョン
 〔持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」
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 運営委員長の岡野です。


 昨日の記事で、うろ覚えで「かつて日本で行われた60年安保反対のデモ、70年安保の反対のデモでは、25万人どころではないもっと大規模のデモが行われました」と書いたのが気になったので、少し手近な資料を調べてみました。

 歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1993年)によれば、1960年6月4日「安保改定阻止第1次スト560万人参加」となっていました。

改めて調べてみて、本当に驚くべき数の国民・市民が動いたのですね。

 ウィキペディア「安保闘争」によれば、1960年6月15日の安保改定阻止第2次ストでは、「主催者発表で33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった」とありました。

 記事の一部を引用しておきますが、私の言いたいのは、たとえ最大規模560万人がストに参加して、首相(岸信介)を退陣に追いやったとしても、肝心の安保改定は阻止できず、自民党政権は崩壊しなかった、それどころか国民総体は池田勇人首相の「所得倍増計画」という言葉に乗って、市民運動は鎮静化―退潮してしまった、という歴史的事実を思い出しておく必要があるのではないか、ということです。

 私もその中で体験した70年安保闘争―大学闘争で、どのくらいの学生や市民が運動に参加したかは、まだ調べていませんが、60年安保闘争ほどの市民的な広がりはなかったのではないでしょうか。そして、もちろん鎮静化の後、日本は高度経済成長路線をひた走ってきて、今、その路線が完璧に行き詰まっている、と私には見えます。

 安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する労働者や学生、市民が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争であると同時に、火炎瓶や鉄パイプで暴力を振るう暴動・紛争という側面も持っていた。
〔1960年〕6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、警官隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという事件が発生する。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。……
条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。岸は辞任直前に暴漢に襲撃され重傷を負った。……
「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。
池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影は薄くなっていった。……

 もう1つ、市民運動は政権交代にまで結晶しないかぎり、鎮圧・鎮静化で終わるという歴史的事実は、職責上鎮静化する側である警視庁の「警備警察50年」を読むと、少し実感できるのではないでしょうか。

 だから市民運動はムダだといいたいのではありません。市民運動を含んで超える政治運動が必要ではないか、と思うのです。

 ご意見をお寄せください。


なぜ持続可能な「社会」ではなく持続可能な「国」づくりなのか

2011年05月08日 | 理念とビジョン
 「持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」
 ダイジェスト版
 全  文


 運営委員長の岡野です。
 以下は、運営委員会の最終的な統一見解ではありませんが、運営委員会のメンバーに諮り、いわばオープンな継続的討議の素材として、「運営委員長の個人的見解」というかたちでブログ掲載することを承認されたものです。
 どうぞ、ご意見をお寄せください。


 私たちの会についてしばしば出される質問・疑問の一つに、なぜ「持続可能な社会づくり」ではなく「持続可能な国づくり」なのかというものがあります。

 東日本大震災の本格的復興と福島原発事故の収束のめどがまだ立っておらず、特に原発事故による放射能汚染がどこまで広がるのか、どこで止まってくれるのか、はっきりとした見通しを持てない不安な状況のなかで、このご質問に私なりのお答えをしっかりとしておく必要があると思うようになりました。

 私たちは、日本も含む現代の先進国の経済システムは、資源とエネルギーの大量使用―大量生産―大量消費―大量廃棄、という構造になっており、入り口で地球の資源の有限性、出口で地球の自己浄化能力の有限性という構造的問題を抱えており、持続不可能であると考えていることは、繰り返しお伝えしてきたとおりです(この点は統一見解です)。

 そして、原発は入り口でのウランの有限性もさることながら、出口でのきわめて危険な放射性廃棄物(最終的に安全にして処理する方法がない)と大量の熱排水(海の熱汚染)という点で、持続不可能性の象徴的・代表的存在だと思われます(これもほぼ合意されています)。

 私たちも含め多くの人が、持続不可能性とその危険性という点から、原発を止めたいと強く思っていますが、止めるにはまず、誰が原発を推進する権限を持ってきたのか、誰が原発を止める権限を持っているのか、そのことをはっきり理解しなければ、その思いをかなえることはできない、と私は考えています。

 振り返ってみると、日本で原子力の開発が具体化したのは1955年からですが、それ以前から、開発を推進してきたのは言うまでもなく当時の日本国政府です。そしてそれ以来、現民主党政権(「民主党エネルギー基本政策」の「原子力の平和利用」参照)に至るまで、推進し続けてきたのも、日本国政府です。

 もちろん具体的な原子炉の設計・製作・運転・発電・送電などを推進してきたのは関係企業ですが、それを指示し認可し続けさせてきたのはその時その時の政府の政治的決断・意思だったと言うほかありません。その場合の政府の意思というのは、これまた言うまでもなく官僚と政治家の合意を意味しています。

 まとめていえば、原子力発電は戦後まもなくから今日まで一貫して、多くの政治家・官僚・企業人の合意に基づき政府=国が認め推進してきたものだということです。

 その手続は、議会制民主主義による法治国家である日本の法律に基づいて行なわれてきたものであり、そのかぎりにおいてまったく正当なものです。〔話をなるべく正確にするための資料として、末尾にウィキペディアの「日本の原子力発電所」(最終更新 2011年5月5日 (木) 01:06)の「歴史」の項目を引用しておきます(原子力基本法の成立時の内閣総理大臣を補足)。もちろんウィキペディアの記事をどこまで信用するかという問題は残りますから、資料・根拠をあげて批判・訂正をしていただくことは歓迎です。〕

 そこで、原発を本当に止めたいと思う――より広く言えば環境問題を本当に解決して持続可能な社会を作りたいと思う――市民というより国民がしっかりと心にとめておかなければいけないのは、原発は選挙によって選出された代議員が構成する政府=国が合法的手続きに基づいて推進してきたものだということです。

 法治国家においては、法的手続きによって決定されたことは、法的手続きによるほか覆す・変更することはできません(暴動・反乱・革命などによって、超法規的に廃止される場合は別ですが)。
 原発もまた、国によって合法的に推進されてきたものである以上、国によって合法的に廃止されるほか、実際に廃止されることはないと思われます。
 原発を推進する権限も廃止する権限も、基本的には政府=国が持っていることを、私たちはしっかり認識しておく必要があります。

 現に、スウェーデン(1980年)、イタリア(1987年)、ベルギー(1999年)、そしてドイツ(2000年)など、いずれも政府が法制化することによって脱原発が現実化の方向に向いつつあります(その後の紆余曲折はあります。特にスウェーデンについて脱原発政策が方針転換されたという誤解がありますが、これはまったく日本的な誤解だと思われます。小澤徳太郎氏のブログ参照)。

 政府が法制化することなしに、市民運動だけで原発が止まったという例を私は知りません。

 もちろん大きく盛り上がった市民運動が政治的圧力となって政府の法制化に影響を与えたというケースはあるでしょう。
 現にドイツのメルケル首相は、いったん前社会民主党政権の脱原発政策を見直すと言っていたのですが、今回の25万人にものぼる反原発デモの影響で、原発推進政策の見直しを考え始めているとのことです。
 しかしそれは、デモそのものの影響というよりは、デモの人数があまりにも多いので、このまま原発推進政策を続けると、次期の選挙で政権の座を降ろされることになるかもしれないという恐れを、メルケル首相が感じたことによると思われます。

 かつて日本で行われた60年安保反対のデモ、70年安保の反対のデモでは、25万人どころではないもっと大規模のデモが行われましたが、当時の自民党政府=国にとって次の選挙で政権から降ろされる脅威には感じられなかったために、警察機動隊を使って排除収束させれば済むことであって、日米安保条約の変更あるいは廃棄を検討する必要はまったくないと判断され強行されたわけです。
 もし、あの時のデモが次の選挙によって自民党が政権の座から降ろされる脅威を感じさせるものだったら、自民党政府の対応や決定はもっと別のものになっていたことでしょう。

 そうした歴史的な実例が示しているように、何十万人という大規模デモでさえ、政権を脅かさない限りは政府の政策決定に影響を与えないのですから、まして署名活動などの市民運動がもっと影響力がないのは、残念ながら当然と言わざるをえません。

 誤解していただきたくないのは、今盛り上がりはじめている脱原発のためのデモや署名活動や講演会なども「結局意味がないからやめたほうがいい」と言いたいのではないということです。
 私自身、何としてもなるべく早く原発を廃止したいと強く願っていますから、そうした活動には意味も共感も感じています。また、やれることは何でもやったほうがいいと思いますし、できる範囲で協力・参加していますし、これからもするつもりです。

 しかし、願うことと実現することは別のことです。願うことは実現することの第一歩ですが、終着点ではありません。どれほど強く願っても、実現できる手続きを踏まないかぎり、願いは願いのままに終わるでしょう。

 私たちが、「子供や孫たちの世代のためにあまりにも危険な原発はなくしたい」と本気で思うのなら、願いを願いにとどめず手続きを踏んで実現する必要があるのです。
 その手続とは、端的に「私たちの願いを主権政党・政府の政治的意思にする」ということです。

 (一昨日、ひとまず幸いにして、菅総理が浜岡原発を停止する要請を出し、昨日、中部電力が受け容れたとのことですが、今朝のNHKの番組で仙石副官房長官が、他の原発について質問されたの対し、「これまでのエネルギー政策(原発を含む)を堅持する」と発言していました。つまり、きわめて残念ながら、現時点では、浜岡原発だけが一時停止されるのであって、政府の政治的意思がすべての原発の廃止=「脱原発」に転換したわけではありません。)

 私たちみんなの願いを実現するために必須だと思われるので率直に言いますが、今、日本の心ある市民がより明確に自覚することが望まれるのは、日本は代議制民主主義の国であり、国民の過半数の意思によりいかなる暴力的な混乱もなく、主権政党を交代させることのできる国であるということの意味だと思われます(投票率を見ていると、場合によっては、50%の50%強くらい、つまりたった25%強の得票で、「政治を変える」ことは可能なようです)。
 しかし、統一地方選挙の結果を見ると、とりあえず自公政権から民主党政権への「政権交代」が現実のものとなった後でさえ、国民にはまだそうした自覚が不十分なように私には見えます。

 けれども、脱原発という願いを実現したいのなら、さらなる政権交代によって「脱原発」を明快な政治的意思として持っている政党を国の主権政党にするほかないのではないでしょうか。その他に、脱原発が実現するシナリオがありうるでしょうか。

 といっても、ここで私は、「だから、脱原発を主張している既成政党を押し上げて政権の座に据えよう」と言いたいのではありません。
 それは、きわめて残念ながら、私の知るかぎり既成のどの党にも脱原発を含む「持続可能な国づくり」の「理念とビジョン」があるようには見えないからです。

 しかし、これから日本という国が、資源とエネルギーの大量使用(原発はその代表的なものです)―大量生産―大量消費―大量廃棄(放射性廃棄物と熱排水はその代表的なものです)という持続不可能な社会システムを持続可能な社会システムに方向転換するためには、明快な方向指示としての「理念とビジョン」が不可欠だと思われます。

 原発はエネルギーの大量使用による経済成長を前提として進められてきたエネルギー政策の一環ですから、従来のエネルギーの大量使用を前提とした社会・産業システムは変わらないまま脱原発だけが実現するというシナリオは想定できません。

 持続可能な国づくりの理念とビジョンを自らの政治的意思としてしっかりと持った政党が主権政党として国を担うことがないかぎり、他のどのような善意の努力の積み重ねによっても日本社会が「持続可能な社会」になることはない、日本が持続不可能になってしまえば、それまでのあらゆる善意と努力は水の泡と消えることになってしまう、と私は推論・シミュレーションしています。

 善意と努力を実らせるには、主権政党と政府という意味での「国」を変え、そのことによって国民と国土という意味での「国」を「持続可能な国」へと変えることが必須ではないでしょうか。
 脱原発も、持続可能性を目指す国の政策全体の重要不可欠な、しかしその一部として実現されるほかありません。

 (環境問題・持続可能性の問題は全地球的・グローバルなものであり、解決・持続可能性も最終的にはグローバルでなければなりませんが、一挙にグローバルな解決を図る道筋はないと思われますので、まずは個々の国――私たちの場合は日本国――から手をつけるほかない、と私は考えています。この点については、また後日述べたいと思います。)

 だからこそ、あえて私たちの会は、一般的な印象がある持続可能な「社会」づくりではなく、より具体的目標を定めた持続可能な「国」づくりの会としたのです。

 もちろん、この「理念とビジョン」が唯一絶対でも最高でも完全でもないと考えており、ぜひ生産的な批判や修正提案をいただき、よりよいもの、妥当性の高い、説得力のあるものにしたいと思っています。

 そういうわけで、これ、というより、こうした「理念とビジョン」を自らの政治的意思として日本という国の方向転換をしてくれる、新しいリーダー、新しい党が誕生するための、いわば揺りかごとなるべく、私たちの会は微力を尽くしています。
 もし、「理念とビジョン」に可能性を感じていただけたら、ぜひ私たちの会にお集まりください。あるいは、組織は別であっても生産的な連携をしましょう。私たちは、いつも、メンバー、スタッフ、新しいリーダー候補生を募集していますし、方向性を共有できる連携先を求めています。
 ご一緒に、「持続可能な国づくり」ができる、新しいリーダーと新しい党の誕生の下準備をしていきませんか(まだただちに新党結成できる・する社会的条件は調っていないと思われますが、原発事故再発の切迫した危険性からして、一日も早い、可及的速やかな結成が強く望まれます)。


*ウィキペディアの記事より

1945年8月、第二次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった[1]。
日本における原子力発電は、1954年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった[2]。
1955年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた(補足:内閣総理大臣は自由民主党総裁の鳩山一郎)。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった[3]。そして基本法成立を受けて1956年1月1日に原子力委員会が設置された[4]。初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎である[5]。正力は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。このことから正力は、日本の「原子力の父」とも呼ばれている。
1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された[6]。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。
1957年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された[7]。
日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年10月26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている[8]。
日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。しかし経済性等の問題[9]によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。
近年は老朽化で運転を終える原子力発電所の廃炉処置の困難さの問題に加えて二酸化炭素排出削減策として、既存原子力発電所の延命方針が打ち出された。しかし、2011年に東日本大震災による福島第1原発事故が発生し、重大な放射能被害を近隣住民に及ぼした。 今後は、2010年3月に営業運転期間が40年以上に達した敦賀発電所1号機をはじめとして、長期運転を行う原子炉が増加する見込みである事から、これらの長期稼働原子炉の安全性が議論となっている[10]。
なお、福島第一原子力発電所の原子炉6基は、2011年3月の東日本大震災の被害で6基とも廃炉になる可能性がある[11]。

『原子炉時限爆弾』の信憑性の確認 続

2011年05月07日 | 理念とビジョン

 運営委員長の岡野です。


 原発について学びを続けていますが、アマゾンの原発関係の本のレビュー(書評)を見ていて、ハンドルネーム:ワッフルさんの『原子炉時限爆弾』に対する次のような批評を見つけました。学びのための参考資料としてご紹介しておきます。


原子力発電が危険であることに異論はありません, 2011/3/20

原子力発電が危険であることに異論はありません。ですが、この本には問題があると思います。

1. 内容に新しさがないこと。
既に原子力発電の危険性を指摘してきた本が数多くあります。浜岡原発が地震多発地帯に立地していること、それを過去の地震の記録やプレートテクトニクスの理論で説明すること、原子力発電所が地震や津波に弱いこと、様々な利権があること、電力会社側にデータの改竄や隠蔽があったこと、プルトニウムを使うプルサーマルの危険性。今まで科学者が指摘してきたことを引き写すだけなら当って当然です。

2. 非科学的な説明が多いこと。
科学者の本や科学者の監修を受けた本を著者が相当勉強したことは伺えます。ですが、科学的な理解力が十分でないためか、本を売るために誇張したのか、初歩的な間違いが随所にあります。これでは推進派やこれから推進派になる理系の学生に「原子力発電に反対するのは科学的に無知な人の妄想」という誤った印象を与えてしまいます。
 (中略)
以下に非科学的な例をいくつか挙げます。この本をお持ちでない方が大部分でしょうから、「なか見!検索」の部分を見ていきます。

2.1 マグニチュード8クラスというのは、予想ですからその程度の数値でしかありません。著者はなぜか8.0という値に書き直し、関東大震災の7.9という値と比較して1.4倍のエネルギーと書いています。有効数字の意味を分かっていません。この比較はナンセンスです。正確な8.0という値が得られたとしても、関東大震災のときのマグニチュードの定義が同じか、測定精度はどうかという問題があります。このあとの章でも江戸時代の地震のマグニチュードの数字を使って議論しています。地震計がなかった時代のものは推測でしかありません。不確かな根拠の上で数字を厳密に論じても意味がありません。

2.2. 関東大震災の被害の大きさを強調するために死者数を挙げていますが、被害の多くは火災によるものです。マグニチュードが被害の大きさの決定要因ではありません。マグニチュードは地震のエネルギー(を表そうとしたもの)であって力ではありません。破壊力と書いていますが、建物などを破壊する力は揺れの加速を表すGalという単位を使っています。ですが、それをエネルギーと言っています。

2.3. 87%だから確実に起こると断言できる、という記述はトンデモです。87%は100%ではありません。あるモデルに従って確率を計算したら87%であるというのが科学的な理解です。そのモデルが正しいかどうかも分かりません。

2.4. 地下深くではどこが切れ目かわからない複雑なからみあいをしている、という記述も何を言いたいのかよく分かりません。プレートがマントルの中に溶け込むことを言いたいのでしょうか。著者はプレートテクトニクスをどこまで理解しているか疑問です。ですが、その後の章では図入りで詳細に説明し、地球の磁場はマントル対流の結果とする新説を述べています。さらには地震の前は磁場が微妙に変化するので生物が反応するのだそうです。

2.5. テレビの「ニュースの深層」で水を掛けるのは意味がないと発言していますが、あのとき冷やしていなければ燃料棒の鞘のZr合金が溶解して、化学的活性な表面が現れ水分子を還元し水素を発生させます。また、電源を回復させて冷却水を循環させろとも言っていますが、この本では地震にあえば配管が寸断されると述べています。著者は他の本を引き写すだけで内容を理解していなかったから忘れてしまったのでしょうか。

2.6. この本でも『危険な話』から引き継いだ逆二乗則の誤解を続けています。放射線の強さが距離の二乗に反比例するのは真空中で電場も磁場もないときです。アルファ線は紙一枚も透過できません。放射線が物質中で散乱されてエネルギーを失うことを理解していません。それでは何故生体に危険かも分からないはずです。著者の科学的知識は他の本の記事をそのまま引き写すような表面的なものであって、その現象が起こる理由を理解していないように感じます。
(以下略)


 なるほど、コメントで東の回廊さんが指摘していたのはこういうことかな、と思いました。

 確かに、原発推進派の専門家から「反原発派は非科学的だ」という批判を受けないためには、専門科学的にもできるだけ正確であるに越したことはないと思います。

 しかし、福島原発事故は、推進派の「専門家」が「科学的」だとして言い募ってきた「原発安全神話」が事実として完全に崩壊したことを意味しており――事実が科学的(?)理論を超えてしまった――「地震列島日本に54基もの原発を造ったことそのものがまちがいだったのではないか」という死活的に重要な論点を、市民に啓蒙し警告し脱原発の行動に向けてアジテーションするという意味では、『原子炉時限爆弾』の大筋はきわめて良識的であり有効・妥当だった、と筆者は評価します。

 別の言葉で言えば、個別・専門科学的にやや不正確なところがあったとしても、他の反原発派の専門家の本よりも大衆性・インパクトがあって、社会的な良識という面での有効・妥当性がある、ということです。

 (理系の若者に「反原発は非科学的?」という印象を与えたというマイナス面も確かにあるのかもしれませんが、それを差し引いても社会的価値があると思います。)

 私は、70年前後の学生時代以来、科学のための科学――これは時としてしばしば特定科学者の地位や名誉や利益と結びついた「科学主義」の口実になりがちです――よりも、人間のための科学・社会のための科学がより重要だと考えてきています。

 科学者には、「科学」者である以前に科学「者」つまり「人間」としての社会的責任があるのではないか、ということです。

 みなさんは、どうお考えですか。


*なお、ワッフルさんがより科学的なものとして推薦している、以下のような情報は、とても有益でした。

石橋克彦「原発に頼れない日本列島」

高木仁三郎「核施設と非常事態」


いまさらながら「地震列島に54基の原発」の恐怖

2011年04月25日 | 理念とビジョン

 運営委員長の岡野です。


 福島の原発事故が起こってから、いかに原発や放射能について知らなかったか、憤りや悔しさと共に「不明を恥じる」という気持ちになった方が多いようですが、正直に言えば私もその一人です。

 持続可能な国づくりの会の運営委員会では、これまでも、「持続可能な国にすることと脱原発は当然セットだ」という大まかな合意があったと思います。

 しかし、事故以前には、原発問題は激しい賛否両論の状態で、本格的に論争に加わるには専門的知識が必要なので、まず持続可能な社会の「理念とビジョン」をまとめることを先行させ、原発問題に取り組むのはもう少し先の段階でいいのではないか、と私は考えていたのです。

 それが、不明も不明、大変な不明であったことを、原発以後、ネットで調べて、NHK他の大きなメディアに登場しない脱原発に取り組んでこられた方々の発言を聞いてから、痛切に感じさせられています。

 特に震災の後、ネット注文しても品切れだった広瀬隆氏の『原子炉時限爆弾――大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)がようやく届き、大急ぎで読了して、「原発問題の緊急性に気づいていなかったなあ」と痛恨の思いです。

 私は、社会的発言にはきわめて慎重な性質で、いろいろ調べてほぼ確実だと思うまでは結論を出さず対外的には「判断留保」ということにしておくのを鉄則にしていましたが、今回はそれを破って原発本を数十冊読むまで発言しないというやり方をしないことにしました。

 それは、言われてみればいろいろ文献を漁るまでもなく、日本は大変な「地震列島」なのですから、それだけも原発を建設することは危険であり、さらに地震には「津波」が付き物であり、例外なく海際に建てられている日本の原発が津波にきわめて弱いことにも例外がないことは、常識でもわかるはずのことだった、と思うからです。

 私の世代(団塊の世代)は、戦後、「原子力の平和利用」という言葉を教師やマスコミからずっと聞かされ、いつの間にか「原発安全神話」をどこか信じさせられていたのでしょう。

 田中三彦氏のような信頼できる知人から原発の危険さを知らされても、どこか安全神話の影響でそのきわめて緊迫した緊急性にまで思いが到りませんでした。

 常識も警告も心の中で機能しなかったのです。本当に痛恨の思いです。

 日本には弱い地盤の上にしかも海際に54基の原発が存在している。しかも、その立地の地図を元に50キロ圏、100キロ圏の円を描いてみると、日本には本格的な原発事故による放射能汚染から逃れる場所などどこにもなさそうだ、ということに気づきました。

 それだけでもぞっとする事実です。

 さらに、東海地震が予想されているその場所に静岡・浜岡原発があり、我が家はその50キロ圏にあり、ところが、調べてみると、福島の事故以後も中部電力は30メートル級(今回の地震では最高38メートル強)の津波への対策はしていません(25メートルのところに非常用電源を2基準備するあるいはしたとのこと。25メートルは30メートルより低いのですが)。

 自然をなめている、安全コストをけちっている、としか思えません。

 後の世代のためにももちろんですが、自分の生きている間に来る可能性の高い危機を未然に防止するためにも、浜岡原発はなんとかしなければならない(早急にコストにしばられない本格的安全対策、続いてできるだけ早い廃炉)と考えます。

 これまでの電力会社の態度を見ていると、できるかどうか、どうすればできるかという大きな問題があるのですが、まずこれは「坐して死を待つ」のでないのならば、「ねばならない」ことだという認識を持つ必要があるように思います。

 ふたたび、「原発依存を転換する政治的意思と力を!」と書いておきたいと思います。

 みなさんのお気持ち、ご意見をお寄せください。



方向転換が始まった

2011年04月16日 | 理念とビジョン

 運営委員長の岡野です。


 今朝、ドイツのメルケル首相が原発推進政策を転換することを明らかにしたというニュースを見ました。

 もともとドイツは前政権が「脱原発」を法制化していたのを、メルケル政権がひっくりかえしたのですが、今回の福島の原発事故によって、原発の危険さが目に見えるかたちで実感されたからでしょう。

 日本の政権も、はっきりと今までの原発推進政策が誤りであったことを率直に認め、方向転換の声明を出してほしいものです。

 もし、持続不可能から持続可能へと社会の方向転換を行なう大きなきっかけにできれば、今回の災害、特に原発事故も、マイナスをプラスに転じることになると思われます。

 しかし、それにしても、目に見えるかたちになるまで――人によって見えるかたちになっても――方向転換をできない・しないというのは悲しい無明の姿だ、と私に見えます。

 今こそ、人類規模で、無明――自分と他者や自然が分離しているという錯覚――から縁起――すべてはつながっていて究極は1つという事実――に目覚めるべき時がやってきているといってまちがいないのではないでしょうか。

 みなさんのご意見をお聞かせください。


大逆転への先行投資を!

2011年04月10日 | 理念とビジョン
 「持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」
 ダイジェスト版
 全  文


 岡野です。運営委員長の個人的見解を続けて書いていきます。



 私たちの会は、基本的に、日本も含め世界のほとんど国がこれまでの経済・産業のシステムのままでは「持続不可能」であるという認識を持っています。

 それは、もっとも代表的には2001年に公表された国際自然保護連合(IUCN)の未来予測「国家の持続可能性ランキング」という報告などに基づいています。

 その報告では、驚くべきことに世界180カ国の中で「持続可能性あり」と評価された国は皆無でした。

 IUCNはもとは国連の機関であり、後に独立機関となったもので、その報告の科学的信頼性は高いと思われますが、私たちはもちろんただ1つの機関の研究―報告を鵜呑みにしているわけではなく、他のできるだけ多くの研究―報告を参照する努力は続けています。

 そして、今私たちの知りえた情報の範囲では、日本も含め「エコロジカルに持続可能な国」はないと考えてまちがいない、と思われます。

 しかし、「持続可能性ランキング」では持続可能にもっとも近づいている国としてスウェーデンが1位にあげられており、スウェーデンはすでに1996年国家の方針として「緑の福祉国家=エコロジカルに持続可能な福祉国家の実現」を掲げ、着々と実行―実現しつつある、ということも学んできました(もっとも重要な資料は、私たちの会のメンバーである小澤徳太郎「スウェーデンに学ぶ『持続可能な社会』」(朝日新聞社)です)。

 そして、2006年以来、もっとも中心的にはスウェーデンに学びつつ(最近では、会の協力者に加わってくださった立教大学の福島清彦氏からEU全体が「持続可能な社会」に向かって歩を進めていることも学んでいます)、日本を持続可能な社会にするための指針として「理念とビジョン」をまとめてきました。

 そうした私たちの視点からすると、日本全体もその一部である東日本も、これまでどおりでは中長期について持続不可能だと考えざるをえません。

 そういう意味で、被災地の方々の「元の生活に戻りたい」というお気持ちは痛いほどわかりながらも、今後の問題解決のための社会システムとしては「元に戻る」のではなく「まったく新しく創る」ほかないのではないでしょうか、と申し上げざるをえません(3月31日の記事、「東北は「復興」というより全面的に「新興」してほしい」参照)。

 そういう私たちの視点からの、東北の新興についての提案は、知識産業――とりわけ再生可能なエネルギー・システムを中心とした環境技術――に焦点を絞った「グリーン・ニューディール」先進地域と大型公共事業としての「持続可能な農林水産業」の実験地域にできるといいのではないか、ということです。

 もちろん、それによって大量の雇用が創出されるはずです。

 そうすることで、地震―津波によるゼロというよりマイナスからのスタートによってむしろ持続可能な日本の最先進地域になるというプラスへの大逆転を遂げることができるだろう、とシミュレーションしています。

 そのための財源は、すでに提案した「国民皆災害共済保険年金」(これは、これからも大型地震が予想される状況にあって、すべての国民にとって「明日は我が身」の保険です)に、十分な説明責任が果たされた上ならば「社会連帯税」や「復興(新興)国債」を加えることで十分まかなえるのではないか、と推測します。

 新しい産業の新興→地域経済の復興→日本全体の景気の回復→税収の回復→やがてまちがいなく財政の健全化、というきわめて望ましい好循環が想定できるのではないでしょうか(この好循環のパターンの現実的有効性は、スウェーデンで不況の度に取られた政策の成功によって実証されているといってもいいのではないか、と思われます)。

 そのために、政府は短期での財政赤字の増大を恐れることなく、きわめて希望のある先行投資として思い切った財政出動をしてほしいと思います。

 もし現政府にそれができないのなら、それができる新しい政府が必要だ、と私は思っているのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。


朝日新聞社説が「持続可能な暮らし求めて」

2011年04月05日 | 理念とビジョン

 運営委員長の岡野です。

 今日は4日の朝日の社説について書こうと思いましたが、このブログはまだ大きな画像を掲載できるようにしていなかったので、社説の画像コピーも含め個人ブログに掲載し、リンクすることにしました。


 昨日の朝日新聞朝刊の社説は、「岐路に立つ電力文明 持続可能な暮らし求めて」でした。

 正直なところ、「え? 前からそうだったっけ?」という感じですが、「空気」が変わったということなのかもしれません。

 メディア全体の「空気」も変わってきているようです。

 今週末に出来る『サングラハ』第116号の連載「十七条憲法と緑の福祉国家」の最終回に、次のように書きました。


 日本は、明治維新の時を見ても、敗戦の時を見ても、方向転換・変わり身は早い国民です。もう変わるとなったらパッと昨日までの軍国主義を語っていた先生が今日から民主主義の授業をするという、そういう恐ろしく変わり身の早い国です。

 「変わり身が早い」というと聞こえがよくありませんが、それはプラスマイナス両方の面があるので、マイナス面ばかり見ないほうがいいと思います。日本人はある意味で驚くほど方向転換能力・自己変革能力があるということもできます。ですから、変わる時には変われると思います。

 スウェーデンは、条件を整えて長い時間をかけてこういうところ(エコロジカルに持続可能な国家・緑の福祉国家)に到達できたんですが、日本は、山本七平さんのいう「空気」で方向性が決まってしまえば、そこにみんながわっと乗っかってくるという形で、あっと言う間に短期間で変わる可能性はあると思います。多くの方が、スウェーデンの話をすると「スウェーデンはすばらしい。でもそれは日本には条件がないから無理だ」とおっしゃるんですが、日本には「空気で動く」という別の条件がありますので、可能性はある、と私は思っているわけです。


 (ちなみに、第116号には小澤徳太郎氏の「スウェーデンの新たな挑戦――緑の福祉国家」の連載もあり、ちょうどスウェーデンのエネルギー政策が論じられています。)


 「空気で動く日本人」がいい方向に動くことを祈るばかりです。