持続可能な国づくりを考える会

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学習会「スウェーデン型社会という解答」について (5)

2009年05月16日 | 学習会
《お知らせ》

いよいよ明日となりましたが、5月17日(日)のパネルディスカッションについて、まだ若干席は空いているようですので、まだの方はぜひお申込みいただければ幸いです。




パネルディスカッション
なぜスウェーデンにそれができたのか
~人も自然も幸福な国~

≪パネリスト≫

岡野守也氏
(思想家、サングラハ教育・心理研究所主幹)

小澤徳太郎氏
(環境問題スペシャリスト、元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)

藤井威氏
(みずほコーポレート銀行顧問、元駐スウェーデン大使)

  ※西岡秀三氏は海外出張のため欠席となりましたので、ご承知おきください。

日時
2009.5.17(日)13:00 ~17:00

お申込み
受付フォームまで

受講料
一般の方 1,500円
会員の方 1,000円

当日のスケジュール(予定)
①当会運営委員・岡野守也氏による発題講演(約30 分)
②パネルディスカッション(約2時間)
③質疑応答その他(約1時間)

※お申し込みいただいた方には、事務局より①で使用する岡野守也氏によるレジュメ「なぜスウェーデンでそれが可能になったのか」をメールにてお送りしますので、当日ご持参ください。


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さて、それらスウェーデンの基礎自治体・コミューンでは、藤井先生によれば端的に「地方で議院内閣制をやっている」というかたちの政治体制がとられているとのことです。





このストックホルム・コミューンの代表的な例をとれば、行政組織(市役所)の各部局の上に各「コミッショナー」が置かれ、筆頭コミッショナーが市長となっています。
それらのコミッショナーは議会に属し、議会のトップである議長は「プレジデント」として市長とは別個に強力な権限を持っているそうです。

とくに注目すべきは、コミューン議会の議員の多くがレジャータイム議員ないしパートタイム議員といった、基本的にボランティアかそれに近い存在であり、常勤で給料を得ている議員は枢要に近い人々に限られているということです。

ボランティアかもしくは薄給で、しかも地方政治でありがちな利益誘導が一切ない体制になっているということですから、よほど「やる気」と「志」、つまり「高邁な人格」のある人でないと、まず勤まらないにちがいありません。

ハンソン以来、スウェーデン社民党出身の首相のほとんどが就任時に40歳代(カールソンの51歳が例外。それでも若い!)であることには驚くばかりです。
そして注目すべきことは、それらスウェーデンの指導者は、そういった地方政治への参加を通じて頭角を現してきた人たちであることです。

事例として社民党出身であるさきのパーション首相とアンナ・リンド外相が挙げられました。
いずれもきわめて若くして社民党に所属して政治活動を行ない、20代前半で早くもコミューン議会の議員となり、そこから30歳になるかならないかで国会議員に選出、さらに40歳そこそこで国務大臣を務めています。

(蛇足ですが、20代半ばの若きパーション氏が地方議会で目覚ましい活躍している最中の経歴に「兵役」があるのが目につきます。スウェーデンがいまでも永世中立を堅持している徴兵制の国であることに気付きます。またアンナ・リンド女史は保育士から弱冠20歳(!)にしていきなり地方議員となった人で、藤井先生いわく「ミニスカートの似合うかわいい子」だったとのことですが、きわめて優秀でかつ人格も兼ね備えていたという彼女は、残念ながら外相在任中の03年に暴漢に刺殺されてしまいました。)

このように若き指導者が輩出される背景には、まず年齢にかかわらず能力次第で政治的・行政的に活躍できるという地方政治の状況があります。
また政治家になるにあたり、票集めにかかわる諸々、俗に言う「どぶ板」が一切なく、地元への利益誘導も関係なく、選挙はすべて政策と能力と実績で決まるということも、やる気のある若手が伸びる大きな要因であるとのことです。

スウェーデンの政治の透明性がいかに確保されているかについては、たとえば高度な情報公開制などの制度的な側面がよく知られていますが、このように日本とはほとんどまるでといっていいほど違う政治的な状況・風土の中にもあるようです。



さて、最後にまとめとして藤井先生が強調されたことは、日本のこれからを考える上で、私たち日本人が「公」とそして「税」のふたつの意味をどのようにとらえるかが、今後きわめて重要となる、ということでした。

繰り返しとなりますが、日本の経済・社会における感覚的な(つまり自明化された)常識とは、
「課税=負担は最低限に」
「公共部門=官は叩いて削って最小限に」
「民間の活力が復活する道はそれしかない」
ということではないでしょうか。

ようするに「税も役所も必要悪」にすぎず、「福祉は社会の活力を阻害するお荷物」にほかならない、という見方だと言っていいのではないでしょうか。

しかし、藤井先生がスウェーデンの実態を研究して明らかだとされていることは、「公共部門が増えて製造業が減ると産業の競争力が落ちる」という、私たちにとってほとんど当たり前と思える常識的な考え方は、はっきりいって思い込みにすぎないこと、それどころかじつは幻想・誤りなのではないか、ということです。


統計的にいっても、スウェーデンの新規雇用の多くをこれまで公共部門が生み出してきた実績があるのであり、現在では3割以上の雇用を公共部門が支えています。
しかも公共部門の就業者のうち、4分の3が福祉・教育部門で働いています(コミューンでの数字)。





そのように公共部門が相対的にひじょうに大きなウェイトを占めるスウェーデンの経済が依然好調とされ、財政状況も健全であることは、「公は必要悪」「福祉は経済のお荷物」どころか、市場経済の成長も含んだ社会総体の持続性の重要なポイントがじつは公共の担う福祉の実現にこそある、という21世紀社会の本質を示しているのではないか――その意味で公共部門と福祉とは経済社会を支える根幹であるとすら言える、と藤井先生はおっしゃいます。


それに加え、冒頭のお話のとおり、21世紀の世界において高度に工業化した国家が唯一持続可能性への希望を持ちうるのは、(スウェーデン型の「社会民主主義レジーム」だけでなく)タイプの違いこそあれ福祉国家実現を目指す道にほかならないということも強調しておられました。

いまだ福祉国家というにはきわめて不十分なまま、今後さらなる不安いっぱいが予測されてしまう私たちの日本は、これからスウェーデンをはじめとするいわば先輩・モデルに学びつつ、日本自身の「レジーム」を再確立しながら福祉国家を目指す必要があると、藤井先生は結論されました。

私たちの日本社会は先行きの見えない渦中にありますが、その中できわめて説得力と希望のある、そして何より現実的な方向性をお示しいただいた、私たちを勇気づけてくれるに足る力強い講義でした。



さて講義後、藤井先生と西岡秀三先生を囲み、総勢十数名で、まじめながらも(?)楽しい懇親会を持ちました。
飾らない雰囲気の場で大いに会話が弾みました。





ここでも藤井先生から、講義で紹介しきれなかったというスウェーデンの中学生の教科書の一部について解説をいただきました。

そこでは一つの問題についていくつかの典型的な考え方を生徒に示されています。
一例として子育てと保育園制度の役割についての選択肢が提示されていますが、その中に正解はありません。

これは生徒が自分で考え、意見を形成し、また自分と異なる意見をも受容するよう導く、という目的があるようです。行政制度に関わる話も、活発に意見交換される授業風景がイメージできます。
スウェーデン人がどのように次世代を育てようとしているか、その一端がうかがえます。


このたび藤井先生には、某銀行顧問としてご多忙な身ながら、当会の会員にもなっていただくことができました。
持続可能な国づくりを目指す私たちにとって、とても力強い味方ができました。



間近となりましたが、冒頭ご案内のとおり5/17(日)に、今回御講義いただいた藤井威先生がパネリストとして参加されるミニシンポジウムを、当会主催で行います。
皆様のご参加お待ちしております。



*なおこれまで掲載した要約は不十分な聴きとりによるものです。
講義DVDを頒布しておりますので、興味をもたれた方はぜひそちらをお求めください。

 >>持続可能な国づくりの会・頒布品受付フォーム

学習会「スウェーデン型社会という解答」について (4)

2009年05月14日 | 学習会
【お知らせ】

間近となりました5月17日(日)に開催予定の当会主催学習会について、皆様のご参加をお待ちしております。
(詳しくは画像をクリックしてください。)



お申込みは受付フォームまで

※なお西岡秀三氏(国立環境研究所特別客員研究員)は海外出張のため欠席となりました。あしからずご了解ください。


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さらに藤井先生は「統治」という概念について、スウェーデンの民主主義の成熟に関わって、私たち一般の日本人の認識とはかなり違うお話をして下さいました。



「統治」という言葉を聞くと、私たち多くの日本人は「上から」の「権力」による「管理‐支配」という印象を持つのではないでしょうか(そういう意味ではあまり印象が良くない言葉かもしれません)。 
これを図に示すと、単純ですがこのような感じではないかと思います。

  公共部門(=権力・お上・官)
      ↓
    市民(=下々・民)

しかし民主主義における「統治」とは本来、そのレベルにとどまるものではなく、むしろ次のような図式で成り立つべきものだということです。

   市民 ⇔ 公共部門

つまり政治・行政(公共部門)のほうからだけでなく、他方で市民の側からもまた公共部門に対する活発な働きかけがあり、そして両者の間の水平的な双方向のはたらきかけの過程こそが、民主主義における統治の本質であることを意味しています。

民意に敏感で機動的・柔軟に動く行政と、その行政に対し「わが町」「わが国」のこととして高い関心を持つ市民の間で、民主主義のよりいっそうの実現という同じ目標に向けた対話と協働が実行されている状態といえるでしょう。

そのような「公的部門の民主化」は民主主義という政治・行政のシステムがよく機能するために本来必要なものです。(もちろん「官から民へ」の民間移譲や民営化の話ではありません)
そしてその実現への努力こそが民主体制における政治・行政の本質そのものであるそうです。



ともかく重要なことは、藤井先生の見られるところ、そのような民主主義本来の仕組みがもっともよく機能していると思われる実際の事例が、まさにスウェーデンにほかならないということです。

一方、日本の民主主義であるはずの政治の状況は、残念ながらマスコミ等を通じてみなさんがよくご存知のとおりの、その本質からはずいぶんもとる実態があるようです。
同じ単語や概念を使っているようでも、そこに込められている意味合い・実質・本気さが、ずいぶん違うように思われます。

さて、20世紀前半以降、現在までのスウェーデンという国の形成に主導的役割を果たしてきたスウェーデン社会民主労働党ですが、そのもとで実現されてきた政治・行政のありかたとは、ひとことで言ってこの「統治の双方向性」を目指す線で一貫していたようです。

このスウェーデン社民党とは、もともと社会的な弱者とされる人々の支持が強い政党なのですが、にもかかわらず、税などの高負担は、富裕層だけでなく低・中所得者層にも皆、所得比例的に適用されているそうです。

ここでとても不思議に思うのは、そのような高負担路線の政策が国民に受け入れられたばかりでなく、なぜ現在まで高い支持を受け続けてこられたのかということです。

それにはまず何より、このような風通しのよい公と民の双方向の働きかけがあり、スウェーデン国民にとって政治・行政がわがこととして身近に感じられるものとなっていたこと、それにより「政治や行政とは自分たちが参加すべきものだ」という基本感覚が醸成されていったこと、つまり「公」にたいする積極的な関心と信頼感があったことが大きい、とのことです。

ところで、スウェーデンの政治・行政の先進性と透明性ということについては、例えば代表的には次のような各事例が個別にすぐれた制度として取り上げられることが多くあります。しかし、実態はそれにとどまるものではないようです。

●一院制議会への改革
(これは1969年のことですから、ちょうどさきの「③高度福祉国家建設期」の真っ最中に当たります。この一院制への移行は急激でかなり劇的なものだったそうです。)

●オンブズマン制や情報公開制度とその強化
(いずれも「政策が正しく運営されているかのチェック」のための制度であり、たとえば「官僚の交際費の領収書開示を求める」というような主旨のものではない、とのこと。)

●地方分権の徹底

重要なことは、これらはいずれもが上記の「公と民の民主主義的な双方向」を円滑に実現するための、一貫した流れにあるものとして位置付けることができる、ということです。

たとえばスウェーデンの議会選挙においては、80%~90%という高投票率がずっと維持されてきました。
私たち日本人からすると驚異的というほかないこの数字は、まさにこの民主主義の本質である「双方向性の統治」が相当程度まで実現し、これまで維持され機能してきた結果によるものと理解できます。

さて、そのように民意・ニーズに敏感に応え、身近な公共サービスを実施して受益感覚をもたらすことができ、また国民にとってわがこととして参加すべき・参加可能なものと実感させることができる公共部門とは、はたしてどこにあるでしょうか?

それは地元、つまり地方行政にほかなりません。
そのためにこそ、スウェーデンではきわめて徹底的な地方分権が図られてきたようです。


歴史的にいうと、一部の自由都市を除き、もともとスウェーデンの伝統的な自治体とはイコール教会の教区のことだったそうです。

ちょっと脇道ですが、スウェーデンの「福祉国家レジーム」の基礎にあったのは、国教でもあったルター派のプロテスタント・キリスト教の精神だったと思われます。それは「国民の家」や「自立と連帯」といったモットーとして今も表現されています。
そしてまた、同じプロテスタンティズムがこれら自治体が生まれた背景にはっきりとあるわけです。
伝統的な土壌というものが、その国の現在の文化だけでなく政治体制・社会制度にも及ぼす強い影響力を垣間見る思いがします。

そのスウェーデンにおける地方自治制度は、早くもすでに1862年の勅令に始まっていたそうです。
日本は幕末・維新の動乱の真っただ中という時代ですから、ほかの諸制度と同様、その始まりがきわめて早かったことが注目されます。

その後スウェーデンの地方自治制度は改正・拡大を続けてきましたが、2500ほどであったコミューン(基礎自治体の名称。市町村に相当します)の数はほとんど変わることはありませんでした。
しかし、ちょうど「②戦後成長期」と「③高福祉国家建設期」のそれぞれに行われた2度の大統合の末、コミューンはおよそ300弱にまで統合され、それがいまのスウェーデンを構成しています。





その後現在に至るまでに、自治体の財政力の強化拡大のため、税制の大きな改革が数度にわたり実施されています。

そうしたスウェーデンの地方自治制度の特色は、国・県(ランスティング)・コミューンの間で、社会保障制度の実施においてきわめて明確な役割分担・機能特化があることです。
この事情については「手当・給付は国、医療は県、その他はすべてコミューンで」という藤井先生の端的な要約がよく表していると思います。



(「スウェーデン型社会という解答」中央公論09年1月、125頁より)


また教育においても、大学以上の高等教育は国、専門教育は県、そのほかはすべてコミューンが担っています。
(もちろん私立学校も多く存在し、公立学校との間には健全な競争があるそうです。学費は有名なように私立も含め無料! 「高負担」はしっかりと国民の暮らしに還元されているわけです。)

これらのことからも、スウェーデンにおける地方自治の実施主体はまずコミューンにあることがわかります。

そのように、身近なコミューンが主体となりサービスの実施を行うことでニーズに機敏に応え、住民にとって納税の「目に見え実感できる受益」を示すことができたようです。
こうして高度福祉国家の建設とそれを実現するための増税路線が成功していきました。

ここには、たとえ課税等の負担が増えても、自分たちの声を反映した社会保障サービスが身近で目に見える形で実現し、それによって安心感が増していけば、いわゆる「高負担」にも納得できるという国民感情の成熟があるようです。

それに関して、日本ではずっと「スウェーデンは小国だから」「日本とはまるで人口規模が違うから」といったステレオタイプ的な懐疑的反論がなされてきています。
そのこともあってスウェーデン型モデルは、米国一辺倒であり続けてきた日本の主流においてはほとんど無視されてきたという状況を、さきの小澤徳太郎先生の講義でも気づかせていただきました。

しかし藤井先生は、「人口規模の論義に逃げるべきではない」とおっしゃいます。

面白いことに、上記のような統合・強化の過程を経たスウェーデンのコミューンと、いわゆる「平成の大合併」を経た日本の市町村という両国の基礎自治体の人口規模は、現在ちょうど平均して8000人程度と、ほぼ同じ大きさなのだそうです。

そのように、両国間に横たわる差というのは、国全体の人口規模などではなく、むしろ地方自治に代表される社会の仕組み・システムがいかによく機能しているかの違いにあるのではないでしょうか。

つまり、政治・行政とそれが担う社会保障のシステムに関して言えば、

・どれだけ地方に権限を与え任せて国民のニーズをくみ取ることができているか
・公共部門の民主化を通じた、政治・行政への国民の信頼があるかどうか
・高度な社会保障を実現するための相応の負担への支持を得ることができているか
・それらのことを通じてどこまで安心の協力社会を実現することができているか

――そこにこそ違いの本質があるようです。

このように、同じ地方分権ということにも、その背後にある思想と、それが目指す目的には、日本とスウェーデンの間には相当な違いがあるようです。
(一日本人としてはきわめて残念なことですが。)

藤井先生は政府高官として80~90年代の日本の行財政の枢要を担ってこられたのですが、その方が「地方に任せればいいのです」と確信をもって語っておられました。
そのことが私たちにとってはとても新鮮に、印象的に聞こえました。

(以下続く)