私たちの理念が掲げる「調和と協力」、「公平と自由」、「安心と安全」という3つの目標は、いうまでもなく理想的なものです。
そして「理想的」とは一般に「現実的ではない」「観念論」というニュアンスを強く含んだ言葉だと思います。
しかし私たちはこの理念をひじょうに現実的なものだと捉えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/84/c9a33df78fd2ee336e5f8e4742a98ff0.png)
※ PDF102KB(画像をクリック)
目下私たちが見ている現実が中長期の可能性の中から実現してきたものであることは、誰が考えてみてもおそらく間違いのない「事実」と言っていいと思います。
そしてその可能性の理想により近いかたちでの実現をめざすことこそが政治という集団の営みの本質だとすれば、当面のもっとも究極的な目標を設定した「理念」とそこに至るための方向性を掲げた「ビジョン」を、それぞれ明確に文字化し共有することは、じつはきわめて重要なことであったはずです。
私たちもこの理念とビジョン試案を文章化するにあたり種々調べたのですが、このように政治的な理念とビジョンを、はっきりと日本語として成文化し掲げているものを発見することはできませんでした。
これはきわめて残念なことです。
(たとえば最近よく見受けられる政党・政治団体の「マニフェスト」とは、ここでいう「理念」「ビジョン」とは似て非なるものだと考えています。理由は本文を見ていただければ明白だと思います。)
この理念とビジョンの試案については、構想と文章化に深く関わってくださった環境問題スペシャリストの小澤徳太郎氏(元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)が、1月22日付のブログ「持続可能国づくりの会の理念とビジョン「協力社会で8つの安心!」が完成」で大きく紹介してくださっておりますので、そちらをぜひご覧いただきたいと思います。
ところで氏のブログ記事では、日本・スウェーデン両国の政治的な意思決定に関する常識そのものに、大きな落差があるというきわめて鋭い(日本人としては痛いくらいの)洞察が、体系的に一貫してなされています。
それらを読むと非常によくわかるのが、理念とビジョンを持って政治という営みをおこなうことの現実的な重要性です。
(たとえば最近の1月21日の記事「期待される 「日本の鳩山政権の21世紀ビジョン」 はどのようなものか?」参照)
同記事で指摘されているように、政治的な意思決定において日本がきわめて顕著な現状追認主義=「フォアキャスト」の国でありつづけてきたことは、これまでの歴史が証明してきたことだと思われます。
もちろん従来の経済拡大のひたすらなる追求をよしとしてきた時代には、それは一応有効に機能してきたと言えるのでしょう。
しかし現代のような全地球的な激動‐危機の時代に到って、そういうフォアキャストだけでは目先の状況対応に追われることとなってしまうのではないでしょうか。
現に日本がそれに終始してどんどん持続不可能(=破滅)な方向へと突き進む悪循環に陥っているのは明らかだと思われます。
社会にとって「現実的」という言葉が「健全かつ持続可能であること」を意味するとすれば、そういう意味で日本がとっている現在のフォアキャストな短期的状況対応、すなわちこれまでの「考えと行動」のあり方が「現実的」ではないことがどんどん明らかになってきているのが、私たちが見ている悲しむべき現状だと思われます。
それとは反対に、小澤氏が紹介されている北欧のスウェーデンが好個のモデルケースであるように、中長期的なあるべき目標を立てて、その地点から具体的に現在とるべき方向を考え行動する、という政治的「バックキャスト」こそが、これからのグローバルな危機と変化の時代にあってもっとも適応的・有効な行動原理であることは、ひじょうに明らかだと思われます。
言い換えれば、21世紀型の現実的な行動原理=バックキャストにおいて、「目標として私たちが立つ地点」とはまさに「理念」のことであり、「それが指し示す、現在において中長期的にとるべき方向性」とはすなわち「ビジョン」にほかなりません。
真に理想的であることが現実的となる――これからの時代において、政治的な所信として「理念」と「ビジョン」を抱き続けることがいかに現実的かつ重要かが、小澤氏が紹介されているスウェーデンのすがたから理解できるように思われます。
そして「理想的」とは一般に「現実的ではない」「観念論」というニュアンスを強く含んだ言葉だと思います。
しかし私たちはこの理念をひじょうに現実的なものだと捉えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/84/c9a33df78fd2ee336e5f8e4742a98ff0.png)
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目下私たちが見ている現実が中長期の可能性の中から実現してきたものであることは、誰が考えてみてもおそらく間違いのない「事実」と言っていいと思います。
そしてその可能性の理想により近いかたちでの実現をめざすことこそが政治という集団の営みの本質だとすれば、当面のもっとも究極的な目標を設定した「理念」とそこに至るための方向性を掲げた「ビジョン」を、それぞれ明確に文字化し共有することは、じつはきわめて重要なことであったはずです。
私たちもこの理念とビジョン試案を文章化するにあたり種々調べたのですが、このように政治的な理念とビジョンを、はっきりと日本語として成文化し掲げているものを発見することはできませんでした。
これはきわめて残念なことです。
(たとえば最近よく見受けられる政党・政治団体の「マニフェスト」とは、ここでいう「理念」「ビジョン」とは似て非なるものだと考えています。理由は本文を見ていただければ明白だと思います。)
この理念とビジョンの試案については、構想と文章化に深く関わってくださった環境問題スペシャリストの小澤徳太郎氏(元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)が、1月22日付のブログ「持続可能国づくりの会の理念とビジョン「協力社会で8つの安心!」が完成」で大きく紹介してくださっておりますので、そちらをぜひご覧いただきたいと思います。
ところで氏のブログ記事では、日本・スウェーデン両国の政治的な意思決定に関する常識そのものに、大きな落差があるというきわめて鋭い(日本人としては痛いくらいの)洞察が、体系的に一貫してなされています。
それらを読むと非常によくわかるのが、理念とビジョンを持って政治という営みをおこなうことの現実的な重要性です。
(たとえば最近の1月21日の記事「期待される 「日本の鳩山政権の21世紀ビジョン」 はどのようなものか?」参照)
同記事で指摘されているように、政治的な意思決定において日本がきわめて顕著な現状追認主義=「フォアキャスト」の国でありつづけてきたことは、これまでの歴史が証明してきたことだと思われます。
もちろん従来の経済拡大のひたすらなる追求をよしとしてきた時代には、それは一応有効に機能してきたと言えるのでしょう。
しかし現代のような全地球的な激動‐危機の時代に到って、そういうフォアキャストだけでは目先の状況対応に追われることとなってしまうのではないでしょうか。
現に日本がそれに終始してどんどん持続不可能(=破滅)な方向へと突き進む悪循環に陥っているのは明らかだと思われます。
社会にとって「現実的」という言葉が「健全かつ持続可能であること」を意味するとすれば、そういう意味で日本がとっている現在のフォアキャストな短期的状況対応、すなわちこれまでの「考えと行動」のあり方が「現実的」ではないことがどんどん明らかになってきているのが、私たちが見ている悲しむべき現状だと思われます。
それとは反対に、小澤氏が紹介されている北欧のスウェーデンが好個のモデルケースであるように、中長期的なあるべき目標を立てて、その地点から具体的に現在とるべき方向を考え行動する、という政治的「バックキャスト」こそが、これからのグローバルな危機と変化の時代にあってもっとも適応的・有効な行動原理であることは、ひじょうに明らかだと思われます。
言い換えれば、21世紀型の現実的な行動原理=バックキャストにおいて、「目標として私たちが立つ地点」とはまさに「理念」のことであり、「それが指し示す、現在において中長期的にとるべき方向性」とはすなわち「ビジョン」にほかなりません。
真に理想的であることが現実的となる――これからの時代において、政治的な所信として「理念」と「ビジョン」を抱き続けることがいかに現実的かつ重要かが、小澤氏が紹介されているスウェーデンのすがたから理解できるように思われます。