運営委員長の岡野です。
去年の原発事故以降、泥縄式に原発・放射能関係の文献を相当多数読んできた中で、なぜ日本が原発を推進してきたのかについては、吉岡斉『原子力の社会史:その日本的展開』(朝日選書、1999年)でほぼ流れがつかめたと思っていました。
しかし、3・11からちょうど1年目の学習会に向けて、念のためにと思い、まだ読んでいなかった、山岡淳一郎『原発と権力--戦後からたどる支配者の系譜』(ちくま新書、2011年9月刊)を読みました。
読んでみると、『原子力の社会史』には十分書かれてなかった、「日本崩壊の黒幕!」(帯のコピー)の部分もみごとに暴かれていて、改めて事の深刻さに頭を抱える思いでした。
著者はノンフィクション作家だとのことですが、戦後史の裏と表に関するしっかりとした資料の裏付けを持って書いていることが感じられ――個々の細部の事実については判断する力が筆者にはありませんが――全体の流れの把握に関しては信頼できると思いました。
原発はここまで深く権力と結びついているのであり、したがってもし本当に原発を止めたいのなら、政治・権力の問題を避けて通ることができない、という当たり前のことを強く再認識させられる、本当に原発を止めたい人必読の文献であると思われました。
以下は、カバーそでの広告文と「はじめに」の一部です(行空けは筆者)。
原子力発電、それは戦後日本にとっては最高の電力システムだった。
再軍備ともつながるその魅力に多くの政治家は飛びついた。
いち早く原子力予算を成立させ、日本を原発大国にした中曽根康弘。
CIAと結びつき、総理の座を狙うために原子力を利用した正力松太郎。
ウランを外交戦略の要に据え、東奔西走した田中角栄。
権力者は原子の力をわがものにし、こんにちの日本を形作った。
戦後から連綿と続く忘れさられた歴史をいま解き明かす。(カバーそでの広告文)
放射能に生活を破壊された福島県へ足を運ぶたびに、なぜ、制御不能の原子力発電を日本は「国策」として進めてきたのか、と幾度も自問した。避難所を訪ね、家を奪われた人びとの悲憤を受け止めるにつれて、疑問はますます大きくなった。……
「低コスト」「高い安全性」「温暖化防止」という理由づけの曖昧さは、多くの識者が指摘している。東日本大震災で安全神話は打ち砕かれ、危機管理の脆弱さだけがさらけ出された。『原子力村』の安全神話の人たちが警鐘を鳴らす人を背徳者のように敵視し、排除してきた結果である。原発推進の核心は、おためごかしの理屈のなかにはない。
「原発のための原発」が作られてきたのだ。自己目的化こそが核心であろう。その原動力は、政界、官界、財界の「鉄のトライアングル」に学会、メディアを加えた五角形の「ペンタゴン」体制、それ自身だった。組織は組織の存続と成長を自らの目的とする。そのために右肩上がりで一直線の「原子力利用五ヵ年計画」を立て続け、目標に向かって突き進んだ。国家による計画経済の図式である。合理性や経済性の追求は、ペンタゴンの装飾に使われたにすぎない。
現代の科学技術は、真理の探究というナイーブな段階を終え、巨大な産業と結びついて自己増殖していく。科学技術も資本主義の枠内で生き長らえる。政・官・財・学・報のペンタゴンは、そこに同調して利権を膨らませたともいえるだろう。
では、さらに問おう。誰が、巨大なペンタゴン体制のレールを敷き、自己増殖の種をまいたのか。原発建造が壁にぶち当たると、どうして技術的にも経済的にも見通しの立たない「核燃料サイクル」に組織の延命が託されたのか。なぜ、無理を承知でプルサーマルを進めようとするのか。いま、この瞬間もたまりつづける使用済み核燃料の処理について、どうして議論が止められてしまうのか……。と、キャベツの皮をむくようにひとつ、ひとつの疑問を剥がしていくと、最後には堅くてザラザラしたものにいきつく。
それは権力という岩盤の欠片だ。権力は原子力を好むのである。
原子力利用と核兵器開発は、連結双生児のようにつながっている。……発電のための「ウラン濃縮」や「使用済み核燃料の再処理」によるプルトニウム抽出は、核オプションに連なる。だから権力は原子力に長い手を伸ばそうとする。
この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない。
原子力は権力によって動かされる。日本政府が原子力発電に着手したのは、冷戦が、東西両陣営が核武装に狂奔している最中だった。……(「はじめに」より、1行空けは筆者)
「この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない」だけでなく、どうしたら原発を止められるかも、見えてこないと思われます。
ひとりひとりの市民の手には余る、あまりにも重い冷厳な事実ですが、ひとりではできないことでもみんな=市民多数の意思によって実現できるはずなのが「民主主義社会」であり、日本は少なくとも建前的・憲法的にはまぎれもなく「民主主義社会」であるはずです。
民主主義社会の市民のひとりとして、みなさんと一緒にどうすればいいか考えつづけていきたいと思っています。
どうぞ学習会にお出かけ下さい。
去年の原発事故以降、泥縄式に原発・放射能関係の文献を相当多数読んできた中で、なぜ日本が原発を推進してきたのかについては、吉岡斉『原子力の社会史:その日本的展開』(朝日選書、1999年)でほぼ流れがつかめたと思っていました。
しかし、3・11からちょうど1年目の学習会に向けて、念のためにと思い、まだ読んでいなかった、山岡淳一郎『原発と権力--戦後からたどる支配者の系譜』(ちくま新書、2011年9月刊)を読みました。
読んでみると、『原子力の社会史』には十分書かれてなかった、「日本崩壊の黒幕!」(帯のコピー)の部分もみごとに暴かれていて、改めて事の深刻さに頭を抱える思いでした。
著者はノンフィクション作家だとのことですが、戦後史の裏と表に関するしっかりとした資料の裏付けを持って書いていることが感じられ――個々の細部の事実については判断する力が筆者にはありませんが――全体の流れの把握に関しては信頼できると思いました。
原発はここまで深く権力と結びついているのであり、したがってもし本当に原発を止めたいのなら、政治・権力の問題を避けて通ることができない、という当たり前のことを強く再認識させられる、本当に原発を止めたい人必読の文献であると思われました。
以下は、カバーそでの広告文と「はじめに」の一部です(行空けは筆者)。
原子力発電、それは戦後日本にとっては最高の電力システムだった。
再軍備ともつながるその魅力に多くの政治家は飛びついた。
いち早く原子力予算を成立させ、日本を原発大国にした中曽根康弘。
CIAと結びつき、総理の座を狙うために原子力を利用した正力松太郎。
ウランを外交戦略の要に据え、東奔西走した田中角栄。
権力者は原子の力をわがものにし、こんにちの日本を形作った。
戦後から連綿と続く忘れさられた歴史をいま解き明かす。(カバーそでの広告文)
放射能に生活を破壊された福島県へ足を運ぶたびに、なぜ、制御不能の原子力発電を日本は「国策」として進めてきたのか、と幾度も自問した。避難所を訪ね、家を奪われた人びとの悲憤を受け止めるにつれて、疑問はますます大きくなった。……
「低コスト」「高い安全性」「温暖化防止」という理由づけの曖昧さは、多くの識者が指摘している。東日本大震災で安全神話は打ち砕かれ、危機管理の脆弱さだけがさらけ出された。『原子力村』の安全神話の人たちが警鐘を鳴らす人を背徳者のように敵視し、排除してきた結果である。原発推進の核心は、おためごかしの理屈のなかにはない。
「原発のための原発」が作られてきたのだ。自己目的化こそが核心であろう。その原動力は、政界、官界、財界の「鉄のトライアングル」に学会、メディアを加えた五角形の「ペンタゴン」体制、それ自身だった。組織は組織の存続と成長を自らの目的とする。そのために右肩上がりで一直線の「原子力利用五ヵ年計画」を立て続け、目標に向かって突き進んだ。国家による計画経済の図式である。合理性や経済性の追求は、ペンタゴンの装飾に使われたにすぎない。
現代の科学技術は、真理の探究というナイーブな段階を終え、巨大な産業と結びついて自己増殖していく。科学技術も資本主義の枠内で生き長らえる。政・官・財・学・報のペンタゴンは、そこに同調して利権を膨らませたともいえるだろう。
では、さらに問おう。誰が、巨大なペンタゴン体制のレールを敷き、自己増殖の種をまいたのか。原発建造が壁にぶち当たると、どうして技術的にも経済的にも見通しの立たない「核燃料サイクル」に組織の延命が託されたのか。なぜ、無理を承知でプルサーマルを進めようとするのか。いま、この瞬間もたまりつづける使用済み核燃料の処理について、どうして議論が止められてしまうのか……。と、キャベツの皮をむくようにひとつ、ひとつの疑問を剥がしていくと、最後には堅くてザラザラしたものにいきつく。
それは権力という岩盤の欠片だ。権力は原子力を好むのである。
原子力利用と核兵器開発は、連結双生児のようにつながっている。……発電のための「ウラン濃縮」や「使用済み核燃料の再処理」によるプルトニウム抽出は、核オプションに連なる。だから権力は原子力に長い手を伸ばそうとする。
この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない。
原子力は権力によって動かされる。日本政府が原子力発電に着手したのは、冷戦が、東西両陣営が核武装に狂奔している最中だった。……(「はじめに」より、1行空けは筆者)
「この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない」だけでなく、どうしたら原発を止められるかも、見えてこないと思われます。
ひとりひとりの市民の手には余る、あまりにも重い冷厳な事実ですが、ひとりではできないことでもみんな=市民多数の意思によって実現できるはずなのが「民主主義社会」であり、日本は少なくとも建前的・憲法的にはまぎれもなく「民主主義社会」であるはずです。
民主主義社会の市民のひとりとして、みなさんと一緒にどうすればいいか考えつづけていきたいと思っています。
どうぞ学習会にお出かけ下さい。
原発と権力: 戦後から辿る支配者の系譜 (ちくま新書) | |
山岡 淳一郎 | |
筑摩書房 |
新版 原子力の社会史 その日本的展開 (朝日選書) | |
吉岡 斉 | |
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