持続可能な国づくりを考える会

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学習会「スウェーデン型社会という解答」について (2)

2009年03月29日 | 学習会
ところで、この講義で最もポイントになっていたと思われるのは、私たちが「社会総体」の中で公共部門をどのように位置づけるか、すなわち福祉社会の要となる公共部門を支えるに足る「増税」を私たちがどのような意味で受け入れることができるか、ということだったと思われます。

とくにこの日本では、税金とはひたすら「とられるもの」であり、したがって「増税」とは単なる負担増であると、私たち国民は受けとりがちではないでしょうか。

そして無駄ばかりの「官」=公共部門を削減することに、今の日本はある種血眼になっているように見えます。
つまり私たちの社会においては「経済を活性化し持続可能な経済成長を実現するためには、国民や企業の負担はできるかぎり軽くなければならない」ということが、ほとんど空気のような常識=あたりまえになっているわけです。

だからこそこの点に関するいわば時代錯誤・大誤解を解くことがとりわけ必須なのだと藤井先生は力説されます。

経済的にも依然好調であるとされるスウェーデンでは、一方で実質的に国民の所得の実に75%、4分の3が公共部門に振り向けられているそうです!

これは日本の私たちから見るとたしかに「異常な高負担」に見えますが、じつはここに大きな誤解があったのです。
それは目先の負担というごく一部の側面を見たときの話に過ぎないのです。

ともかく、この高負担の社会が、安心の高度な福祉国家を実現しているばかりでなく、経済・産業的にも好調なパフォーマンスをこれまで維持し、経済のグローバル化や苛烈な国際競争に見事に対応し続けてきているという明白な事実があります。

さらにそのスウェーデンがそれらを踏まえエコロジカルにも持続可能な社会を着実に実現しつつあるのは驚くべきことです。
私たちが日本の将来を考えたときに、この事実には注目しないわけにはいきません。

この事実を見れば、高福祉→増税・高負担→社会の活力低下→国際競争力低下、という日本での常識的な考え方の枠組みは、実は「神話」にすぎなかったことがわかります。

藤井先生のお話によれば、スウェーデンの成功とは「高負担にも関わらず」ではなく「高負担の故にこそ」あった、とのことです。
この点がなにより重要であると思われました。

福祉国家レジームのうちで高福祉・高負担型の「社会民主主義レジーム」である北欧とりわけスウェーデンでは、格差を生みだし社会の持続性を損なう「市場の失敗」を調整する機能をもつものとして、公共部門の重視がひじょうに徹底しているそうです。

これはおおまかなイメージですが、いわば市場を成り立たせている「社会総体」の健全さを市場原理から守り保障するために、所得の再分配を行う強力な公共部門が築かれてきた、ということだと思われます。

このことは、上記のように経済成長を維持する「構造改革」と称して「官から民へ」という掛け声のもと、公共部門がどんどんそぎ落とされ劣化し、いまや社会的セーフティネットが機能不全ないし崩壊に陥っている不安いっぱいのわが日本にとって、きわめて示唆に富む議論ではないかと思われました。


さて、そんなスウェーデンの福祉国家実現の歴史的過程は、次のように大まかに4つのステージに分類できるそうです。

①第二次世界大戦のころの危機の時代
ときのハンソン首相は困難なかで中立政策を堅持し、暗く貧しかった時代にもかかわらず、先見の明のある福祉政策の枠組みを作りました。

②戦後の高度経済成長期
1960年ごろまで続きます。
このあたりは日本ともパラレルであったことがわかります。

③高福祉国家建設の時代
注目すべきはこの時代で、まさにここがこの講義のポイントでした。
70年代半ばまでに達成された高福祉国家の建設は、その間一貫した増税路線とともにあったことが注目されます。

④成熟期
現在の状況です。
いまやスウェーデンは高度な福祉国家のさらに先を行く「緑の福祉国家」を目指し実現しつつあるわけです。


このように、とくに持続可能な社会を目指した「③高福祉国家建設」の時期に、それを実現するための負担を国民が受け入れてきた、という事実には驚くべきものがあると思いました。

ここが私たち日本人にとってはなかなか実感的にわかりにくいところで、とくに会場の皆さんも興味をもって聴いておられたようです。

じつはスウェーデンも、福祉国家建設スタート、②の戦後の高度経済成長期におけるその時点での状況は、国民負担率という側面では日本とあまりかわるところはなかったようです。

その後のスウェーデンの顕著な増税路線は、1960年~70年代半ばごろまでのかなり短い期間での、税率・国民負担率の急激な伸びにあらわれています。



しかし、それは日本的な「痛みに耐え」というようなものではなかったことが重要だと思われました。

その背景には「負担」は「受益」を伴うものであることを国民が賢くしっかり計算・納得してきたこともあります。
また一方で増税にあたり政府が巧みに「受益感覚を植え付けてきた」という、両方の側面もあったとのことです。

一例として急カーブを描いて増加する子どもの保育施設数のグラフを示し、藤井先生は「これが受益です!」と力を込めて語っておられました。

つまり税金が上がる一方で、たとえば保育所がニーズのとおり地域にどんどんできるのを見れば、しかもそれが公費で賄われることでタダ同然で利用できるのであれば、「負担が結局はトク」と納得せざるを得ないでしょう。

面白いことに、というかじつは当たり前のことなのかもしれませんが、税をはじめ国民負担率が急激に伸びていた時期に、スウェーデンの国会選挙の投票率はずっと90%前後の超高率(!)を維持していました。

しかもこのような高負担・高福祉路線を主導した首相エランデルは、第二次大戦期の危機状況下の名宰相ハンソンと並んで、いまや「国民の父」と呼ばれているそうです。
「痛み」ならぬ「受益」をともなう高負担が、国民の高い関心と支持を得てきた証であると思われました。

ともかく、藤井先生が次々に提示されるこの国民負担率のグラフをはじめとする資料からは、よく引き合いに出されるスウェーデンの「高負担」というものが、高度福祉国家の建設という政府と国民の強い意志に裏付けられたものであったことが感じられました。

ところで、目下膨大な赤字財政を抱えている現在の日本の困難は、残念ながらエランデル時代のスウェーデンよりも相当厳しいものがあるそうです。

なぜなら、かりに高負担を私たちが甘受したとしても、現在進行形で累積しつづけている莫大な財政赤字を減らすために、それらの財源の大部分が使われざるを得ないからです。
しかし赤字減らすこともまた、若い世代、さらに将来の子どもたちの世代のためと私たちは今納得する必要があるとのことです。

財政赤字は現役世代が漫然と後の世代に押しつける未来の負担にほかならないのだから、その意味でもむしろ私たちは増税を求めて声をあげるべきであるとの、藤井先生のとくに若い世代へのメッセージは力強く新鮮に聞こえました。

ともかく、これは「増税」ということに対するとらえ方を根本から変えさせられるお話です。


さて、このように高負担に支えられたスウェーデンの高福祉はつとに有名なところですが、なかでも一体的な子育て・家族政策と女性解放政策がきわめて重要だと藤井先生はおっしゃいます。

その理由を以下に報告できればと思います。



学習会「スウェーデン型社会という解答」について (1)

2009年03月19日 | 学習会
ご紹介しておりましたとおり、去る3月15日に横浜市にあるNISSANスタジアム内の研修室にて、元・駐スウェーデン大使の藤井威先生の講義による学習会を開催しました。

少し遅くなりましたが、以下そのご報告をさせていただきたいと思います。

日曜の午後を使っての学習会、講師の藤井先生はひじょうにエネルギッシュな方で、時間ぎりぎりいっぱいまで講演をしていただきました。

終了時間を迎えてもまだまだ語り尽くせないというご様子で、そのきわめて豊富な情報量と、新しい社会モデルを伝えようとされる情熱には圧倒されました。
大変な知識量と洞察力ですが、にもかかわらず端々に笑いとユーモアを添えられ気さくなお人柄がにじみ、なによりこの国の将来を憂える本気の方だと感じました。

また今回は会場配布のために複数の資料をご用意いただきました。
手書きのレジュメと内外の最新の統計データからなる分厚い資料は、ともかく大変説得力のあるものです。







藤井先生のスウェーデン論は、最近 新聞・テレビ等のメディアで注目を集めましたので、ご存じの方も多いかと思います。

今回はそのエッセンスをじかに語っていただき、私たちがこれからの最有力の国家的ビジョンであると考えるスウェーデン・モデルとは、具体的には何を意味し、なぜ目標でありうるのかをあらためて学ぶ場となりました。

短い時間ながら、語られた情報量は膨大ですべてを伝えられないのが歯がゆく残念です。

そこで当会では、次の通り当日の講義のDVDと録音CDを頒布いたします。
ぜひご利用いただければ幸いです。


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【頒布品のご案内】
・動画DVDは2,500円、音声CDは2,000円となります。
・お申し込みは以下のフォームからお願いします。
・詳しくは返信メールにてお知らせします。

 >>持続可能な国づくりの会・頒布品受付フォーム

*編集・発送作業等の事情により、
 お手元に届くのが若干遅くなるかもしれませんが
 その際はなにとぞご容赦ください。

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ともあれ、どれほど伝えきれているかは心もとないところですが、それでも要約的にいくつかのポイントに沿ってご紹介できればと思います。



まず総論として、日本では漠然としたイメージで捉えられがちな「福祉国家」の定義とはそもそも何なのかが語られました。

私たち日本人の常識と違って、世界的には自由競争・優勝劣敗(=低福祉)のアメリカ型モデルはもともと「グローバル・スタンダード」ではないようです。
そしてそのアメリカ型モデルをかついで追随しているのは、先進国では現在日本だけという事実があるとのことです。
みなさんはお気づきだったでしょうか。

比較対象がないと気付かない事かもしれませんが、講義において国際比較や統計のお話を伺うとそれはたしかに事実としか言いようがないと感じました。
そのことは、たとえば社会保障関係の支出割合の低さが、いわゆる先進国の中で日米だけが際立っていることからも明らかに思われます。

藤井先生は、アメリカ型モデルの凋落が著しい今、日本はモデル・方向を見失って大変な危機状態にあると指摘されています。
そしてこれから何を目指すべきかと考えたときに、まず重要なのは、そもそも米国もそして日本も、「福祉国家」ではないという事実を気づくことであると仰っていました。

これまで日本が米国をモデルとしていたときに、ヨーロッパの先進国では「福祉国家」を目指して国策が図られてきました。
これからも間違いなくそうであり続けるだろうと見られています。

そして米国モデルに対して、それらヨーロッパ型福祉国家のほうがあきらかにうまく社会が回っているということが、以下こうした議論に詳らかでない一般人にも分かりやすく明快に語られていきました。


さて、ヨーロッパ諸国が実現してきた福祉国家には、

①スウェーデンはじめ北欧型の「社会民主主義」(公共部門重視)
②ドイツやフランスといった大陸系の「保守主義」(コミュニティ重視・家族主義)
③イギリス系統の「自由主義」(個人主義)

という3つのタイプがあるものの、いずれも市場を重視しながら福祉国家を目指していることに違いはないそうです。

これに対して市場を重視していないものが計画経済の「共産主義」です。①の社会民主主義が「社会」「主義」となっていて一見誤解されがちですが、この点は決定的な違いであるとのことでした。

この3タイプ類型は現状の各種データからも、なるほどと思わず頷かされるもので、福祉制度があるからには福祉国家だ、だから日本もりっぱな福祉国家だ、という見方では見過ごされてきた枠組みではないかと思います。

さらにこの三類型は単に社会制度的な枠組みだけの話ではなく、歴史や国民性に根差す政治思想とぴったり一致しています。
藤井先生は、いわば内面的な裏付け・方向付け、システムの背景をも含んでいるという意味で「レジーム」と表現されていました。

たしかに上記の社会民主主義レジーム、保守主義レジーム、自由主義レジームのいずれも、各国の文化が表現・反映されているように見えますし、その三類型にははっきりとした根拠があるようです。

ここで重要なことは、タイプこそ違え、ヨーロッパ先進国がいずれも明らかに「福祉国家」という共通の目的を目指しているという点だと思いました。

福祉というと倫理的な「あるべき論」、さらには産業社会のいわば「お荷物」ととらえられがちです。

しかし日米以外の先進国で「福祉国家レジーム」がまちがいなく主流になっているという事実は、人間的な福祉を実現することが、市場経済が成り立つ基盤を保持するため、国や社会の持続性を実現するため、要するに社会をうまくやっていくために、結局そうならざるを得ないという21世紀社会のリアリティを示しているのだと思われます。

そして弱者に厳しい日本の現状は福祉国家のレジームにあてはまっていないということに、私たちが気づく必要があるとお話しくださいました。

藤井先生はご専門の国際福祉論から、日本の社会保障は米英やカナダのような自由主義レジーム(米国の実態はひじょうにあやしいとのことですが)ですらなく、思想のない場当たり的なパッチワーク(良いところどり)と化していると説明されました。

このような世界の福祉国家と日本の現状を認識したうえで、藤井先生は福祉国家レジームの三つの類型のなかで、とりわけスウェーデンをはじめ北欧諸国の「社会民主主義レジーム」が現状もっともすぐれていると評価されます。

そもそも藤井先生は若き官僚時代にスウェーデンの福祉国家確立期の大政治家であるエランデル首相に出会い、その弁舌に圧倒され、それ以来スウェーデン・モデルにほれ込んできたそうで、そのエピソードも大変興味深いものでした。

しかしそうした思い入れだけでなく、スウェーデン型社会が現状世界の中でいかに目指すべき「優等生」であるかが、内外の多くの統計データを根拠にきわめて説得力をもって伝えて下さいました。





日本ではヨーロッパ諸国のような思想的・歴史的な積み重ねがなされてこず、「福祉国家レジーム」をいまだ形成しえていないということでは、歴史的にいって仕方がないというところもあると思います。

しかし、だからこそ今から私たちは学びなおすことができるのではないでしょうか。

アメリカ型モデルしか見てこず、「これが当たり前」「それが世の現実」だと思って、つい最近までその実現に狂奔してきた新自由主義的競争の(残酷な)格差社会が、じつは国際常識的には当たり前ではなかったということ、目を向ければ現実にモデルも希望もあることに気づかせてくれる名講義でした。


以下、もう少し具体的に述べていきたいと思います。

治山治水の意味: 上勝町視察旅行の記録(18)

2009年03月08日 | 上勝町

さて、笠松町長の先導のもと、私たち視察メンバーは途中の渓流にかかる橋(?)をこわごわ渡りました。





ちょうどその橋を渡りきったところで斜面を見上げた画像です。

放置されたままになっている木々が、なんとも寒々しい印象を与える場所です。
ここで町長からの御説明がありました。







過剰な植林は、上記のようにもともと計画的な間伐を前提としていたのですが、林業が崩壊し生業として成り立たなくなってしまった今では、間伐ひとつ行なうにも国の補助が必要になってしまっているそうです。

しかし山林のほとんどが私有林である上勝町は、国の補助では管理ができないという事情もあるとのことです。

さらに、現在林業従事者は、徳島では600人にまで急減し(国土の7割を山林が占めるこの日本でわずか4万7千人)、しかも高齢化が急速に進行していて人手そのものが足りません。

山に入ってからずっと見かけている、画像のように放置されている多数の木々が気になっていたのですが、これらは倒木や間伐材が運び出せないまま、また運び出せても販路がないため、やむを得ず放置されたものです。

なんと表現したらいいのでしょう。ともかく荒れ果てた感じがします。

このように倒れたり伐採されたまま放置された木材が、現地ではとても問題になっているのだそうです。
そこがよくわからなかったので町長に質問しました。
放置された木材の何が問題なのでしょう?





これら放置された倒木が、土石流のような土砂災害の温床となってしまうのが、なにより大問題だとの笠松町長のお答えでした。

倒木が土石流を起こす…?
レジャー以外山に縁がない私たちの多くが初めて聞く話でした。





放置された木材は、やがて台風や集中豪雨で大量に谷川に流入することとなり、土石流を引き起こす原因となるとのことです。

川の土砂がいわばダムのようにいったんせき止められ、いっぱいになってから決壊するのをイメージするとわかりやすいと思います。
つまり、放置された木材は土砂災害を引き起こしかねない危険物なのです。

実際、自然現象だと一般に思われている土砂災害の多くが、このような原因によって引き起こされていることを御存知でしょうか?

たとえば徳島県では上記のような土石流、山林と土壌の劣化による山崩れ、山の保水力低下による河川の氾濫や水害が、近年とみに多発しているそうです。

「治山治水」という言葉がありますが、その意味がはじめて実感されます。

山林の木々を適宜伐採するという、かつて林業に従事した人々が当たり前のこととして行ってきた営みが、山を保全し水源を維持し、そして自然災害を防止するために、とても重要で不可欠な意味を持っていたことがわかります。

山の異常事態: 上勝町視察旅行の記録(17)

2009年03月05日 | 上勝町
なぜ上勝の山林は、このように不自然・不健全な「線香林」になってしまったのでしょうか?

笠松町長によれば、山林がこのように貧弱な状態に陥ったのは、なにより産業としての林業の衰退・崩壊で山に人の手が入らなくなったためであるとのことです。

もともと樹木が混み合ってきた森林では、樹木の生育を促し維持するために、枝打ちをするだけでなく、木々を適宜間引く伐採をする必要があります。(「間伐」といいます)
もちろん人為的に過密に植林された木々はなおさらでしょう。

本来はこのような人工林を生んだ国の政策である植林計画でも、定期的な間伐が予定されていたそうですが。

そのように間伐することによって、林の下層や地面にまで日光が届くようになり、全体の木々は健全に生長することができます。

しかし、すでにご説明したことの繰り返しとなりますが、一時期の需要見通しで過剰な造林をおこなったにもかかわらず、その後国は政策を変え、規制緩和・輸入自由化で優良な外国産木材が安価に輸入されるようになり、木材の市場価格は暴落してしまいました。
これでは単価と人件費が相対的に高くならざるをえない国産木材は売れなくなってしまいます。

かつては間伐のように木材を切り出すことで林業家は収入を得る事ができたわけですが、こうして生業そのものが成り立たなくなってしまったのでした。

国策に沿って多大な労力とお金をかけて造林しながら、国の政策転換によってそれが無駄になるばかりか、適切に管理することができなくなったために、山林はこのような無残な姿になってしまったわけです。

戦後、山林と山村はずっと国の政策に翻弄され続けてきたといっていいでしょう。

また、人工的に過密に植林されながら適切な間伐が行なわれなくなった山林では、日光が地面に届かなくなったことにより、下草も生えないようなきわめて貧弱な下層植生になってしまいました。

その状態は画像でも容易に見て取れるでしょう。
落ちた杉の枝だけが散乱しているこの森からは、たしかにとても荒涼とした異様な印象を受けます。





誇張ではなく、これは確かに森の異常事態だという感じがします。
「緑の砂漠」という表現が、そう言われてみるとなるほどぴったりです。

これでは森の動物たちがエサを得られず人里に下りて来ざるをえないというのもよくわかります。
そんな動物たちが傷つけたものと思われる、木の幹や若木の画像です。





あたりを見回しても、動物たちの口が届く範囲に下草など食糧になるような植物はほとんど見当たりません。
動物たちは飢えて当たりかまわず牙を立てているのでしょう。
その跡が痛々しく感じられます。

「緑の砂漠」は、じつは生き物たちの生存そのものを脅かしているようです。

一見森は緑が豊かに見えます。
しかし単調に密集して生えたもやしのような木々と、その足元の植生のあまりの貧弱さ…生物多様性を保つどころではありません。

今回御説明を受けてはじめて気づいたのですが、たしかに「緑の砂漠」とはこのようにまぎれもない事実なのだと見えます。


さらに問題は、線香のように木々が貧弱になり下草も生えなくなった状態の山林では、土壌の保水力が低下してしまうことです。
そのため、多少の風雨で表土が簡単に流出してしまいます。

そしていったん土砂流出が発生すると、その回復には何百年、さらに千年単位もの時間が必要となるのだそうなのです。
つまり少なくとも何百年もかけないと、いったん破壊された山の自然は回復しないということでしょう。

このような「不自然な」森で、いまや非常に危機的な事態が進行しているのだと知って、とても怖くなりました。