持続可能な国づくりを考える会

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ポイント⑧ 「人間の生存条件の劣化」(その2)

2010年09月26日 | 理念とビジョン
更新滞ってしまい失礼いたしました。

異常な暑さの夏がうそのように涼しくなり、時間がたったことを実感します。
間を置いたため、『理念とビジョン』の当該個所について再掲します。



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【人間の生存条件の劣化】
 さらに人間は生物の一種である以上、安全な食べ物となってくれる健康な動植物、安全な温度や湿度や気圧、安全な太陽の光、安全な空気や水といった生物としての生存条件が悪化すると、生き延びること自体が困難になります。すなわち、生命レベルで持続不可能になってしまうのです。
 そしてきわめて憂うべきことに、人間の生存条件はまちがいなく劣化の一途をたどっています(図4参照)。
 経済活動の担い手は人間ですから、生態系が劣化し、人間の生存条件が劣化し、生存が持続不可能になっても、経済だけは持続可能であるということはありえません。どこかで聞いた言い回しを借りれば、「環境なくして人間なし。人間なくして経済なし」なのです。
 その点をはっきり認識すれば、「経済と環境はトレード・オフの関係にある」という言い方が、いかに目先のことしか考えていない短絡的な発想であるかもわかってきます。長い目で―といってもわずかここ二、三〇年のことだけでも―見ると、「経済と環境のバランスを実現する社会システム」が絶対に不可欠であることは明らかだと思われます。

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「安全な食べ物となってくれる健康な動植物、安全な温度や湿度や気圧、安全な太陽の光、安全な空気や水」――思考実験をしてみるとすぐにわかりますが、たしかにこれらの条件のたった一つでもどれかが満たされなくなれば、私たち人間の生存は持続不可能になります。
(持続以前に、即座に命が危険にさらされます。)

つまり、生態系の場合と同じく、「とても微妙な無数の条件のバランスの上に私たちは生きている」という事実が、まず大前提としてあることになります。

たとえば「安全な太陽の光」というのはあまり使われない表現なのでイメージしにくいようですが、私たちのまさにこの数十キロ上空にあって地球を覆っているオゾンの薄い層が破壊されてしまえば、太陽光の中の有害な紫外線を防ぐものはなくなってしまい、私たちの生存は妨げられます。

そのオゾン層とは、ご存じの通り、27~28億年前からの厖大な時間をかけて、海中の光合成微生物が用意してくれてきたものであるとのことです。(岡野守也著『生きる自信の心理学』PHP新書)
その気の遠くなるほどの長きにわたる積み重ねによって初めて地球上に豊かな生態系が実現し、それをベースに私たち人間は進化史上創発することができたのですが、その人間はわずかここ数十年(進化史上の文字通り一瞬)の経済活動による蕩尽でそれを破壊し、自分自身の生存条件を破壊しようとしているわけです。

また、たとえば大気中の二酸化炭素濃度が「わずかに」上がり、そのことにより大気の温度が「わずかに」変化しただけで、地球の気候システムがここまで大きく変動してしまうことを、すでにこの夏、私たち日本人は実感的に経験しました。
(すぐに寒くなっていて「水に流しやすい」国民である私たちはそのことを忘れそうですが、思えばこの急変自体が異常にほかならないのでした。)

そうした事態が今後ますます破局的に進行し、さらなる急激な危機にいずれかの時点で陥るだろうという科学的な予測も、きわめて残念ながら疑いえないと思われます。
おおむね2020~35年頃に(つまり私たちの大多数の「目が黒いうちに」!)そうした事態が起こるだろうことが、環境問題に真摯に取り組む皆さんの共通認識となっているようです。

そのことを端的に示すのが次の図だと思われます。



※『持続可能な国家のビジョン』(2008年、当会)所収、
  西岡秀三氏「低炭素社会は持続可能な国づくりへの一歩」掲載図


このように、今や環境危機の原因も結果もかなりはっきりしているといって間違いないと思われますが、にもかかわらず私たちがいま乗っていて誰かが運転しているはずの「産業社会」という名のバスは、そうしたエコロジカルな自滅という崖っぷちに向けて(いくらか方向を変えつつも)まっしぐらに驀進していると見えます。

戯画的にいえば、現行の「現代産業文明」を必死に営んでいる私たちの姿とは、自分の腰かけている木の枝を嬉々として切り落とそうとしている悲しくも滑稽なサルによく似ていると言っても、あながち言い過ぎではないでしょう。