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林業の崩壊 : 上勝町視察旅行の記録(13)

2008年12月27日 | 上勝町
引き続き場所は県立・ふれあい館、笠松町長による私たち視察メンバーへのご説明が続きます。

そのように上勝町をはじめ日本全体の林業が成り立たなくなった原因は、一言でいうと「市場原理主義」の横行にあると町長はおっしゃいます。
このことに詳しくなかった私たちにとっても、説明をお聞きし、確かにそのことは明白であると思われました。

なぜ林業が崩壊したか――それは貿易のいっそうの自由化により、アメリカ、カナダはじめフィリピン等東南アジア諸国など世界中から、外国産木材が現地で精密に加工されたうえで格安の価格で入ってきてしまい、木材の市場価格が大幅に下落してしまっていることに尽きる、とのことです。

それに対し国産の木材は人件費をはじめ経費が相対的に非常に高くついてしまうため、外国産木材にはほとんど太刀打ちできず、国内では20%しか利用されていません。




このように「林業はすでに産業として成立していない」のだそうです。

そしてそのような危機に、残念ながらわが国の政策はずっと無策といっていいほどのなげかわしい状況であったようです。

というよりも市場原理主義の線に沿って進められてきたこれまでの政府の政策そのものがこの状態を招いているのだとのこと。

つまり林業が国土保全のために果たしている山林の維持という公益的機能について、ほとんど考慮されないままずっと進められてきた、むき出しの貿易自由化の促進とグローバルな価格自由競争の放置、これこそが山林をここまで荒廃させた当の原因であると、町長は義憤を込めておっしゃいます。


林業がいかに衰退ないし崩壊してしまっているか、それによりいかに国土・森林が荒廃してしまっているかは、恥ずかしながらこのご説明を聞くまで私たち視察メンバーの多くがあまり意識していなかったことです。

たとえば、かつて最盛期には約600人を数えた上勝町の林業従事者は、現在ではわずか20名弱に減少してしまいました。
徳島県全県でも600人にまで減少してしまっているとのことです。
2005年の国勢調査では全国の林業従事者は47,000人、うち約30%が65歳以上の高齢者で、高齢化は急速に進んでいるそうです。

日本の広大な森林面積に対し林業従事者が今やわずかに47,000人ということですから、いかに日本の山林に人手が入らなくなってしまっているかが、この数字だけでもわかります。

日本は国内の需要を満たして余りある木材が毎年備蓄されていながら、木材の自給率はわずか2割という状況にあるのだそうです。
世界第3位の森林面積割合を誇るわが日本が、皮肉にもいまや世界最大の木材輸入国になってしまっているのです。

(日本の国土の森林面積割合は67%、1位・2位はこれまた皮肉にもスウェーデンとフィンランドだそうです)


私たち日本人は市場の価格競争でたしかに自由に安いモノを消費し享受できるようになりました。

しかしその半面で、その市場原理主義こそが国土保全の重要な機能を担う林業を崩壊させ森林を荒廃させてしまったこと、
そんな日本に木材を輸出する東南アジアでは急速な森林の減少が深刻な環境危機を現に招いていること、
さらに世界全体ではわずか一年で日本国土の1/3の面積の森林が減少していることなど……
そのご説明から町長の心からの慨嘆が私たちにも伝わってきます。

そのように、日本の森林の荒廃とは、単に一地方や国内の問題というにとどまらず、経済のグローバル化へと狂奔してきた世界の状況と、不可分につながった深刻な問題であるのだと感じます。



山林の危機 : 上勝町視察旅行の記録(12)

2008年12月24日 | 上勝町
やがて笠松町長が自家用車にてふれあい館に到着されました。

役場に寄ってからいらしたらしく、変わらずの背広姿で、たびたびかかってくる胸元の携帯電話に対応されておられました。やはりたいへんお忙しいのだと感じられます。
この日は日曜日(しかも3連休の中日)のはずですが・・・。

政治家の方の激務ぶりというのはうわさには聞いていましたが、まったくそのとおり(というかそれ以上)だと一同早くも深く納得した次第です。

にもかかわらず、町長みずから本日の視察に一部を除き同行していただけるとのことで、恐縮と同時に文字どおり何とも有り難いことだと感じました。


さて、挨拶もそこそこに町長が視察の第一のポイントについて説明してくださいました。

それは端的に、

○ 日本の林業はすでに経営が成立していないという意味で事実上崩壊しているといって過言でなく、
○ 林業の崩壊により日本全国の山林はいわば「緑の砂漠」状態にあり、
○ そこから起こる様々な問題で地方は現在非常な苦境の真っただ中にある、

ということです。

結論を先にいうと、ともかく上勝町をはじめ日本の山林と林業が、ひいては日本の国土保全政策そのものが、すでに相当以前から大ピンチにあるということです。


上勝町長が第一に説明されたこと、つまりこの上勝町視察において最も知っておいてほしいことが、なにより山林と林業の現状であることが、私たちには意外でした。

意外に感じられたというのには、もちろん町長が説明されたような山林の危機状態を、都市に住む私たちがこれまであまりに意識してこなかったということもあります。

(たとえばそのことについての情報が、ネットをはじめちょっと調べればすぐにわかることであるにもかかわらず。しかもその情報をたとえ得たとしても、実感は湧かないかもしれません。想像力の欠如です。)

上勝町の視察のポイントとは、まず何よりよく知られている“葉っぱビジネス”の「いろどり」とか“ゼロウェイスト”などの画期的な取り組みにあるはずだ、と思っていました。
それがなぜ、まず第一に山林なのか?

しかしこの説明と実際の山林の視察で、それは実は意外でも何でもないことがすぐにわかりました。

それほど、「緑の砂漠」とは衝撃的な光景でした。
(私たちにとってそれはじつは見慣れた光景なのですが・・・説明を受けて初めてそれとわかる、とても恐ろしい事実です。)


笠松町長は「たとえば」と、立っておられる脇のふれあい館の柱を叩いて示され、おっしゃいました。
「この柱をはじめ建物全体が上勝産のスギ材でできているけれども、でも実際に日本でどのくらい国産のスギ材が使われているか、みなさん知っていますか?」

(実際には町長はすべて徳島弁そのままで語っておられます。残念ながら初めて徳島を訪れたわれわれメンバーには再現不能な部分もありますので、ご了解ください。この点、東京でお会いした際もまったく変わらず徳島弁で一貫しておられました。いわゆる「郷土愛」や「地方の矜持」を示されてのことと受け取れられるかもしれませんが、そういった気負いめいたものは感じられません。その語りには素朴な独特の魅力があります。)

――そう問われ、エコロジカルな持続可能性ということをずっと勉強してきたにも関わらず、現実の日本の森林のこと、林業のことを、(すくなくともこの記事の筆者は)ほとんど考えてこなかったことに思い当ります。

きっと杉が主体である人工林の山林が国土の多くを覆っているのだから、たくさん使われているに違いないし、緑・森林があることは良いことだと単純な発想でした。

読者皆様は「国産スギの使用状況」をおわかりでしょうか?







「実際には国産のスギ材は当の日本ではほぼまったく使われていない」のだそうです。

たとえば笠松町長は、町議会の正副議長が上京したとき両者に「東京で国産のスギ材がどの程度使われているのかを実際に見てきてください」とお願いをされたのですが、しかしどこにも見つけることができなかったそうです。

結局、きわめて皮肉なことに霞が関の農林水産省本省庁舎の玄関先にだけ、しかも申し訳程度に国産スギ材が使われているのを発見した、とのことです。
(しかも、農水省があえて使っているのは地方に気を使ってのことだろう、とのことです…)

さきにふれたように、上勝町は全域の85%が山林に覆われ、しかもそのうち83%が杉の人工林となっています。

かつて上勝では主産業の林業が栄え、この山間部にもかかわらず6000人を超える人口がありました。
そして林業の盛衰は上勝町の盛衰でもあったとのこと。

その林業が、なぜいま崩壊状態にあるのか?
そもそもなぜ国土を覆っているはずのスギ材が使われないのか? 
それがなぜ「緑の砂漠」状態をまねいてしまっているのか?


その説明にあたり町長が示されたのが、「日本の経済連携協定(EPA)交渉―現状と課題―平成20年10月」という資料でした。
(外務省HPのhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fta/pdfs/kyotei_0703.pdf参照。視察メモよりこの資料にたどり着きました。EPAについて末尾に説明を載せています。)





いま日本政府にとって、アジア諸国を中心とした諸外国との外交方針の焦点となっている課題だそうですが、そのポイントはアジア諸国とのカネ・モノ・ヒト・サービスの交流をこれまでよりいっそう推し進め「自由化する」ということにあるとのことです。

これが上勝町のような地方自治体にとっては大問題であると。
なぜなら林業の崩壊を招いた最大の原因が、その「自由化」の流れそのものにあるから、というのです。



●EPAについて
経済連携協定(EPA:Economic Partnership Agreement)とは、2つ以上の国(又は地域)の間で、自由貿易協定(FTA:Free Trade Agreement)の要素(物品及びサービス貿易の自由化)に加え、貿易以外の分野、例えば人の移動や投資、政府調達、二国間協力等を含めて締結される包括的な協定をいいます。
(中略)
我が国は、WTOを中心とする多角的貿易体制を補完し、貿易自由化や経済活性化を図る上で、経済連携を推進することが重要であるという基本スタンスの下、東アジアを中心とした経済連携の推進に取り組んでいます。
(以上、財務省のHPより転載したものです)

県立・ふれあい館にて : 上勝町視察旅行の記録(11)

2008年12月17日 | 上勝町
朝の散歩のあと宿に戻り、健康的な山の素材の朝食をいただきました。

そこにはもちろん「いろどり」が付いていて(あの上勝町にきたのだと実感!)、こっそりとお土産に持ち帰る者もいました。

その後、約束していた時間(朝8:30)に笠松町長が来られるまで、すぐ隣にある「徳島県立 高丸山先年の森・ふれあい館」を見学しながら待つこととなりました。

ふれあい館では上勝町の森林や林業、とくに町内の高丸山のブナ原生林のことについて、教育目的から子どもたちにも分かりやすいよう、視覚的な展示がなされています。

詳しくは同館ホームページを。
http://www.1000nen.biz-awa.jp/



入口に三点ほどのチェーンソー・アートが飾られています。
上勝町に来られたアーティストの作品だそうです。それはみごとな作品です。







画像のとおりかなり大きなものですが、チェーンソーでもって一本の木からわずか1~2時間で切り出してしまうのだとか。
かなり細かく彫りこまれているのですが、しかし作り方をお聞きするとなんとも豪快なアートですね。


お土産の品には草鞋とか仏壇を履くほうきなどのほかに、なんと鹿の角が売っていました。
しかも可愛い角キーホルダーが並ぶ中、ひときわ目を引く大きな角キーホルダーが…!
鹿の角に小さなチェーンが付いたもので、誰が何の目的で使うのか、非常に不思議です。遊び心とのことでしたが…。
他にも2000円くらいで鹿の角まるまる一本売っていたりもします。これは、日本刀(!)を飾るのに最適なのだそうです(買っている人を見てみたいですね…)。

山らしいお土産でいいなと思う一方で、鹿を始め動物のことで町では大変苦労(というか苦闘)されていることを聞いていたので、ちょっと複雑な心境にもなりました。


ここで職員の若い女性の方から、お話を伺うことができました。
千葉県からいわゆるIターンをされたとのことで、一時の滞在のつもりが上勝の男性に「だまされた」とのお話でしたが、もちろん冗談で、決してそうではないご様子でした。

その日の朝はとても寒かったので、思わず「いつもこんなに寒いのですか」と尋ねてしまいました。
私たちは、四国は暖かいものだと想像していたからです。
北関東に住んでいた彼女も同じ思いだったようで、いざ住んでみると雪が降るほどに寒い土地で、その点も「だまされた」と笑っておられました。





上勝町のいいところを伺うと、いろいろある中でも、なにより地域の共同体があって生活に安心感があるところだそうです。

いっぽう一番の課題は若者への職がまだまだ提供できていないことだそうで、さまざまな地域おこしに成功し実績をあげている上勝町も、高齢化阻止・若者定住には課題を抱えているように思われました。


さて、館内のブナ林に関する展示を拝見して強く思ったことがあります。
都会に住んでいる私たちが、聞いていたようでいながら、実はほとんど意識していないと思ったのは、山の森林にはたくさん水をたくわえて潤してくれる水源地、いわば「緑のダム」という、重要な役割があることです。

森林のない山では水は水をたくわえることができず、すぐに川に流れだしてしまいます。
たとえばかつてブナ原生林の木が軍用機用のプロペラ材料として軍に徴用されかけたときには、地元の林業家の方が訴えて伐採を断念させたこともあったそうです。
昔の人にはこのことの大切さが意識されていたのだと思います。


また、後で「棚田百選」に選ばれた樫原の棚田に行ってきたことをご紹介しますが、そのように山間部にあって地形が急峻な上勝町ではいたるところに棚田があり、今もいくつかの地区で大切に保存されています。





画像はふれあい館展示のうちの棚田(上勝町内の八重地地区のもの)を示す江戸時代・文化10(1813)年の絵図です。
はっきりと写っていないので残念ですが、水系を中心にかなり正確に描かれています。

棚田はこのように昔から、遠くの水源から水を引き、用水を張り巡らせ、畦には石を積んで、まさに世代を超えて営々と築かれてきたものです。





ごらんのとおり昔はこのような(!)棚田が、いっぱいあったのですね。

そのような景観は実際には国の政策にもとづく圃場整備等で、現状では一部を除きあまり残っていないのが、何とも残念です。

今の視点で思えば、それはほんとうに損失であったと思われます。

上勝で迎える朝2 : 上勝町視察旅行の記録(10)

2008年12月15日 | 上勝町
さて、宿「あさひ」の裏は勝浦川の支流・旭川の河原となっていました。
上勝町は後でご紹介する「棚田百選」の“樫原の棚田”など、山腹に切り開かれた見事な棚田でも有名ですが、この河原も両側にちょっとした棚田が段をなしています。







小さくかわいらしいと見える一枚一枚の田んぼにも、たくさんの石が積み上げられています。それは文字通り積年にわたるこの地の代々のご先祖様たちが汗した労苦が込められているはずです。

川は山からそのまま流れてきたような清流で、足を浸すにはちょっと冷たそうです。
清流とのどかな山・田畑の風景は私たちを懐かしい気持ちへと誘います。

ただ、あえて言いますとその風景について若干残念に感じたこともあります。

これは上勝町に限らず言えることかもしれませんが、眺めた山や田んぼの風景にすこし荒廃した感じをおぼえたのも確かです。

たとえばあぜ道のわきや河原に放置されたクルマのパーツやゴミがあったり、手入れされずに伸びた雑草、荒地となった休耕田などがあったり…

とりわけ青ビニールや新建材など自然に還元されることのない人口素材のモノが風景の中に目につくのは、それが当たり前といはいえ残念です。

やはり自然に調和しない風景の中のモノは私たちの目には異物として違和感をもって映し出されるようです。

また人の手が充分に入っていない里山は荒涼とした印象を与えます。

そういう点で、感動を誘う心のふる里の風景というには、たぶん何かが足りない感じがします。

日本人の心の原点である、そういう里山の風景そのものが重要な観光資源なのだとすれば、地域おこしの点で日本の文字通り最先端の実績を持つこの町でさえも、そこまで手が回っていないということかもしれません。

もちろんそこには人口や予算といった、のっぴきならない事情も絡んでいるのでしょう。外野からものを言うのは安易すぎるくらい簡単なことですが。

しかし上勝町のことを礼賛するのがここでの目的ではありません。
あえて見て感じた通りの結果を書いておきたいと思います。

(このあとは有名となった上勝のいろいろな取組みを実際に見て、驚きと褒め言葉ばかりになりそうですから !)


上勝で迎える朝1 : 上勝町視察旅行の記録(9)

2008年12月13日 | 上勝町
翌日朝7:30に起床、遅くまで話し込んでいた上に、同宿していた2時間ドラマの撮影隊の方々がまだ暗いうちから出動する物音で、メンバー一同あまり眠れませんでした。
(TBSのドラマ「おふくろ先生診療日記」シリーズの第二弾は、上勝町を題材にしたものです。どんなドラマになるのか、いまから楽しみです。)

そういうわけで寝不足の眼を覚ますため、朝食までの間に皆で朝の空気を吸いにちょっと散歩ということになりました。
この日は朝は少々曇っていましたが、日中は天気予報どおりの快晴、気持ちのいい視察日和となりました。





清冽なすがすがしい空気。やはり首都圏の工業地帯などとはちがって、朝の冷たい空気がおいしいと感じられます。
残念ながら紅葉にはちょっと遅かったようですが、一部の木々は真っ赤に色づいていてきれいでした。

到着が夜だったので気づきませんでしたが、「自然の宿・あさひ」の玄関先には小さな水車とともに「旭幼稚園・小学校偲碑」が立っています。

かつてこの町で林業が栄え、6,000人をも超える人口がいたこと、そして、子どもたちが元気いっぱい学校に通っていたこと。この場所のそうした記憶がしのばれます。

超高齢化を迎えた今もなお、町の多くの方にとって、この場所はいまだに思い出の学び舎なのではないでしょうか。





碑に埋め込まれている小学校校歌の歌詞には
「古き歴史と新しき 望みに満ちてうちたつは 魂磨かん わが母校」
「勝浦川は千載に 仰ぐ校旗の紅を 血潮とうけしこの胸に ほまれを流せ 国の果て」などとあります。

いつの時代かはっきりわかりませんが、おそらく敗戦から高度成長期にかけての戦後、まだ地域社会が健全に生きていて、この国と将来への希望が素直に抱かれていた、そんな時代精神が託され高らかに歌い上げられているようです。

しかしそんな思いとは裏腹に、上勝町はじめ日本の農村・山村は、経済のグローバル化と単一的な都市化・工業化のため、疲弊を余儀なくされる時代となりました。

その悲痛な訴えは、さきにご紹介した本でも多くの事実やデータとともに紹介されていますので、ぜひそちらをお読みください。
子どもたちに託された時代の希望、そこから私たちはずいぶん遠くに来てしまったように感じます。

だからこそ、その逆境から巧みな知恵で立ち上がった上勝町の町おこしは感動的なのです!

山の楽校・自然の宿あさひ : 上勝町視察旅行の記録(8)

2008年12月12日 | 上勝町
さて、ごあいさつを終えて、この日は町役場を後にして宿に向かうこととなりましたが、すでに外は真っ暗。

慣れない道でもありカーナビもあるとはいえ若干心配だったところ、何と笠松町長が宿まで案内すると申し出てくださいました。
お忙しいところ恐縮でしたが、大変助かりました。

一同、町長の車を先頭に宿まで向かいます。
大きい声ではいえませんがカーブの多い夜道ではちょっと速くてついていくのが難しいくらい…。
あとでお聞きすると「これが地元の道ではふつう」とのこと。

なお町長はごく普通の国産小型車に乗っておられます。
実用以外のグレードとかというような虚名にはほとんど無縁と思われる町長のお人柄を、いみじくも表わしているように感じられました。

さて、わたしたち視察メンバーの二日間の宿、上勝町旭地区にある「山の楽校(がっこう)・自然の宿あさひ」にようやく到着しました。





廃校となった幼稚園併設の小学校を改築した宿泊施設で、建物の外見にその名残があります。
内部は学校時代の面影はほとんどなく、木を主体にしたさっぱりとした内装で、二日とも気持ちよく過ごさせていただくことができました。
町長は宿に着くなり、人数分のスリッパをさっと並べ、私たちを招き入れてくれました。

そして宿のご主人に我々を紹介してくださった上で、また翌朝ということで帰られました。

以降のことでもたびたび書くことになると思いますが、笠松町長の走るのもいとわぬ行動力と、一方の気さくなおもてなしにあらわれたごく自然な真心には、ほんとうに一同脱帽してしまいました。

ご多忙の中(しかも土曜日)、遅くまで本当にありがとうございました。
明日もよろしくお願いします!

さて、「山の楽校」のご主人の田上(たのうえ)さんは、会社勤めのあと他の地方から当地に移られ、スローライフの実践と山の自然の癒しの力を子どもや若者に伝えるため、この宿を営んでおられるとのことです。
またそれだけに、後で述べるような山の荒廃ぶりには人一倍心を痛めておられるご様子でした。

さらに、滞在中ゆっくりお話をうかがう機会があったのですが、山が人を癒す不思議な力の実例を見、またご自身体験もしておられるそうで、お話に引き込まれてしまいました。
場の力というのはほんとうにあるのかもしれないと思いました。

「自然の宿あさひ」とご主人田上さんについては次を参照のこと。

http://asahi.ina-ka.com/index02.html
http://our.pref.tokushima.jp/tatsujin/bbsbr.php?s=51&b=7059

なお「あさひ」では子どもや団塊世代を対象にした里山体験教室のほか(参加者からご主人あての手紙がたくさん廊下にかかっていました)、上勝町が富山県氷見市、広島市との共同事業として行っている十代ボランティアの地域参加型相互交流でも会場となっているとのことです。
(上のサイトの写真参照。子どもたちがとても楽しそうです)

ところで「あさひ」入り口近くにあるピースしているこの像、何なのかおわかりでしょうか?





翌日視察から帰って、ああそういえばなるほど、とわかりました。

この日の夕食は豆乳ベースの牛肉鍋。火鉢とともに疲れた体をあっためることができました。





火鉢と言えば、この日は11月下旬にしてはずいぶん寒かったのですが、お聞きしてみるとやはり徳島ではこの時期異例の寒さとのことです。
12月に入ってからは積雪となったとのこと。

夕食後は翌日視察に備えて速やかに睡眠…というべきところですが、メンバー久しぶりの集合ということで、ずいぶん遅くまで語り(飲み?)明かしてしまいました。とくに時節柄、若い人はいろいろ大変そうです。

それはともかく、噂に聞き本に読み、各人いろいろイメージを膨らませてきた上勝町の現地についに来ました。

明日からの体験への期待を胸に一同床につきました。

阿波晩茶と林檎: 上勝町視察旅行の記録(7)

2008年12月10日 | 上勝町
前の記事でご紹介したように、町長は、私たちが役場にて着くなり早速大きなビジョンのお話をしてくださったわけですが、その一方で、長旅で疲れた私たち九人のため、自ら現地の「阿波晩茶」を淹れてくださいました。

薄い山吹色で、渋いというか酸いというか、味わいのあるヘルシーな感じのお茶でした。
ご説明によるとこの地区特産の、発酵させためずらしい製法のお茶であるとのことです。
(*この「阿波晩茶」については末尾参照)

それだけでなく、直前に上勝町に視察に来られたという某県の自治体の方が残された、蜜たっぷりの林檎(芯だけではなく果肉全体に蜜!)を、手ずから剥いてくださいました。
ごちそうさまでした!

さて、この林檎のことがちょうど示していますが、今回私たちの2日目の視察が新潟県上越市牧区総合事務所の職員有志のみなさんとご一緒だったように(後述)、上勝町は外部からの視察者がひじょうに多いことでも有名です。

さきにあげたようにH19年度には4449人(397件)が視察見学者として訪れているとのこと。
いただいた資料では以前からずっと増加傾向ですから、今後、更に増えていくことでしょう。

人口の倍以上(!)が、視察やってくる自治体は、日本全国この上勝町だけでなないでしょうか(他にあったら、お教えください)。
まさに驚異的だと感じます。

資料にはそれ自体が「視察産業」として表現されており、それも納得できる、というかせざるをえない、たいへんな実績です。
それだけ上勝町の取り組みは全国で評価されているということなのでしょう(外国からの視察も多いとのこと)。

あとでご紹介するように、たとえばリサイクル販売品を作って売っている「くるくる工房」のおばあちゃんたちも、視察の方への対応や説明という「仕事」が、とても心理的な張りと生きがいになっているとのことです。

エネルギッシュな町長を先頭に、ひじょうに良い循環を廻らすことに成功している元気な地域社会、それがこの上勝町なのだと思います。

明日からの視察では私たちもこの好循環の町から、なかでも笑顔のすばらしいおばあちゃんたちから、元気がもらえそうで楽しみです!





●いただいた資料

①「滞在型観光による交流拡大から移住定住へ」《徳島県上勝町 笠松 和市》(「地域力創造」全国市町村サミット2008in鹿児島(2008.11.19)第一分科会資料)

②かみかつイラストマップ

③「大橋照枝の環境EYE――持続可能なまちづくり“いっきゅうと彩の里・かみかつ”(徳島県上勝町)」「環境装置の最近の動向と今後の展望」「廃棄物処理対策の動向」(いずれも『産業と環境』2008.1の抜粋コピー)

④「新時代――一緒に考えましょう、国会等の移転 vol.66」(国土交通省 平成20年10月)のコピー

⑤08.11.11付「日本経済新聞」第一面の抜粋(「道州制論議前倒し――次期国会に基本法」)

⑥08.11.8付「毎日新聞」記事抜粋(マニフェスト大賞受賞について)


*資料のうち、とくに④と⑤は目下議論の進んでいる「道州制」など国土の将来像に関する国会や政府の動向を説明したものです。道州制について町長は、「知事を見たこともない人ばかりの住民に縁遠い地方行政になってしまう」等との強い問題意識を語っておられました。広域連合に乗らなかったという上勝町の危機感を示しているのだと思います。


*「阿波晩茶」について
後で気づいたのですが、これは「晩茶」であって「番茶」ではないのです。
調べたところ上勝町はこの阿波晩茶の発祥の地だそうで、世界でも珍しい製法(後発酵)で作られている、阿波の国では昔から広く常飲されていたお茶であるのことです。(「上勝の晩茶使用・阿波の晩茶酎」の説明書きより)
上勝町は阿波晩茶で「全国香り風景100選」(環境省)にも選ばれているのでした。
それでこのお茶だったのですね!



(画像は勝浦川沿いの県道から眺めた夕日)

町役場にて――笠松町長のお話 : 上勝町視察旅行の記録(6)

2008年12月07日 | 上勝町
応接室にてごあいさつののち、しばらく町長との歓談の時間となりました。

この際いただいた町長のお名刺はポスターの裏紙! そのほかカレンダーの裏紙の名刺をもらった人もいます。(たくさんもらって、組み立ててみたい!という願望が芽生えます…)

いただいた資料がおさめられた上勝町役場の公用封筒も、下部を切り取ると定型内封筒として再利用できるようになっています。
とにかく徹底されています。



(画像は封筒裏面。観光ガイドにも使えます!)


笠松町長は席に着くや開口一番という感じでさっそく、混迷に突き進む日本の政界の、間近に迫った危機・選挙後の混乱と、それに対する地方行政の立場からの懸念を口にされました。

東京でお会いした際にもおっしゃっていたことですが、町長は、すっかり有名になった上勝町の現状に満足してとどまっておられないばかりか、さらに現状への強い危機感をお持ちなのだと、今回改めて感じました。

そしてさらに、

○ 毎年1億人人口が増えているこの地球で(この言葉を以降の日程でも何回かお聞きしました)、次世代にどうすればよりよい地域・世の中を残すことができるか。

○ そのための「持続可能性な地域社会」を目指すという課題は、グローバルな市場原理主義の経済構造に組み込まれてしまった上勝町をはじめ地方にとって、日本と世界が持続可能かどうかにかかっている。

といったお話を、徳島弁による持前の早口で、熱っぽく語っておられました。
(方言と笠松町長の迫力に慣れていない私たちには、それがときどき聞き取れないのがまことに残念でした!)

首長・リーダーご自身が一つの町にとどまることのないこういう長大な射程の視点をお持ちだからこそ、上勝町にはさきにご紹介したような数々の驚異的な取り組みや実績があるのだなと、さっそく感じられました。


町役場に到着:上勝町視察旅行の記録(5)

2008年12月06日 | 上勝町
11月22日視察旅行初日、私たちメンバーはあたりもすっかり暗くなった17時過ぎにようやく上勝町役場に到着しました。



歴史の古い町であり、しかもいまや有名な上勝町ということで、きっと古い庁舎を個性的に有効利用されているのだろうと勝手に想像していました。
しかし町役場庁舎はさきに画像でも示しましたようにレンガ造り風のさっぱりとした近代的な建築です。

休日ということですでに庁舎の灯りも大部分落ちていましたが、こちらにお越しくださいとのお話でしたので、そのまま上がらせていただきました。

内部は役所にありがちな並ぶベンチの待合スペースと画然と隔てられた窓口カウンター、という配置ではなく、入口すぐに待合スペースや執務スペースがあり、フラットになっているという印象的があります。

入口すぐ脇の町長室(?)から、土曜の閉庁日遅くにもかかわらず、笠松和市町長が背広姿で出てこられ、仕事中の数人(三人?)の職員の方と共に温かく出迎えてくださいました。休日出勤でしょうか? おつかれさまです。

お役所ではふつう町長室や役職者の机は一番奥の上座にあるものです。しかし上勝町役場では、町長室や役職の方のものと思われるデスクがやはり入口すぐ脇のあたりに配置されているのは珍しいのではないかと思います。

私たちは、さっそくその隣の応接室に通していただきました。
応接室には、歴代町長の写真の額と、大きな上勝町全域の航空写真が飾ってありました。テーブルには、すでに私たちのために人数分の配布資料を用意されています。

これらの資料は広い視野で戦略的に行動する上勝町の、その問題意識をひじょうによく示していると思われます。後に一覧で示しますのでご参照ください。

笠松町長と私たち視察メンバーのほとんどは初対面ではなく、さきに上京された際の、私たち持続可能な国づくりの会との会合でお目にかかっています。
相変わらずストラップにマスコット付きの携帯を左胸に、お話しいただいている最中にもどんどん連絡が入ってくるような状態で、とにかくたいへんお忙しそうです。

この連休中も私たちの視察への同行などに加え、町で開催された芸術文化祭への主席やドラマ出演者・撮影隊との顔合わせがおありでした。また私たちが到着したわずか前の11月19日には鹿児島での「『地域力創造』全国市町村サミット2008」の分科会に参加されていたとのことでした。

まさに東奔西走を地でゆくご活躍で、体力的・精神的にひじょうにタフな方なのだという印象を受けました。

また、ここでたびたびご紹介することになると思いますが、笠松町長はそのようにたいへんエネルギッシュであるばかりでなく、地域・日本・世界を思う長大な視野と熱い志をお持ちです。
恐らく、誰もがお会いして話を伺うと、すぐにそう感じられるのではないでしょうか。

翌日一日ちかく視察に同行してくださったのですが、今回ますますその思いを強くしました。

現地到着:上勝町視察旅行の記録(4)

2008年12月04日 | 上勝町
私たち視察メンバーは東京周辺在住のため、新横浜駅にて集合し、
朝8:30過ぎの新幹線に乗車、陸路徳島に向かいました。
連休初日ともあって、指定席にまで人があふれてきて
車内は移動も困難な大変な混雑でした。

天気は快晴。途中の静岡では、くっきり富士山が見えました。




昼前に岡山に到着、途中瀬戸大橋から瀬戸内海のパノラマを満喫。



その後、高松を経てJR高徳線にて途中弘法大師の生誕の地や、
古戦場で名高い「屋島」を通過。
徳島駅に到着したのは14時過ぎとなりました。

当然とはいえ、やはり東京からは四国は遠いという印象です。

そういうわけで若干旅疲れしたメンバーを、
徳島駅前にてなんと虹が出迎えてくれていました。




好天とともに幸先のいいスタートとなりました!

さて、徳島駅前からは、レンタカーに分乗。
上勝町まではおよそ1時間強の道のりとなります。

徳島市より南に向けて走り、残念ながら日本全国一様な
郊外型店舗の林立する国道沿いの風景を抜けていきます。
そして、緑豊かな勝浦川ぞいの山間部の県道を西に向かい、
やがてトンネルを越えると、いよいよ上勝町に入ります。

地図でわかるとおり上勝町は四方の境界が山の尾根となっている山間部の町です。



上勝町は四方の境界が山の尾根となっている山間部の町で、町を東西に貫く勝浦川とダム湖(美愁湖)に沿って走る県道を中心に、集落が開けています。

お隣の勝浦町の風景がそのまま続く感じで、
当たり前のようですが、道沿いの看板でそれと気づくまで、
上勝町に入ったことには気づきませんでした。

ダム湖と山々の景色のすばらしい、こぢんまりとした
日本の典型的な山間部の静かな町村といった風景です。

よく見ると道の両脇にはこの地の特徴である棚田が目につきます。
また、道から見える山がだいたい一様に人工林らしい針葉樹であることから、
ここがかつて林業で栄えた町だったということが納得されます。

やがて湖沿いの道で、笠松町長の著書『持続可能なまちは小さく、美しい』本で私たちにとってすでにおなじみとなっていたプレハブの日比ヶ谷ゴミステーションを見かけました。
あらためて有名な上勝町に来たのだと実感しました。


夕方でしたが町の方がゴミを持参してきている様子でした。

後でご紹介するように、上勝町ではごみの収集がなく、
住民の方がこの一か所のゴミステーションに持参することになっています。
そのため、てっきり町の中心の、多くの人が歩いて来られるような場所にあるものだと思い込んでいました。

しかし、町はひじょうに広く、また集落は道路に沿って広く散在しているため、ほとんどすべての方は車がないとゴミステーションを利用できないと思われます。
しかも高齢者の方が多いというこの町で、住民持込みの方式に転換することはかなり大変な決断だったのではないかと感じられました。

やがて目的地の上勝町役場に到着するころには陽は山の向こうに没し、あたりはすでに暗くなっていました。
ようやくゴール!目的地に到着です。

そして視察の旅はいよいよこれからです。