持続可能な国づくりを考える会

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新刊紹介:小出裕章『原発の真実』

2011年09月23日 | 原発の持続不可能性

 運営委員長の岡野です。


 頭に「知りたくないけれど、知っておかなければならない」というサブタイトルのついた『原発の真実』を、読みたくないけれど、読みました。

 3月以降、原発と放射能に関する本をかなりの数集中的に読んできました。

 その結果、もうまったく疑問の余地がないところまで、原発の危険性・持続不可能性がわかったという気がしていました。

 知ってみると、「地震列島に54基の原発」というのは他のどんなメリット(例えば経済的な利益)も引換えにできないくらい致命的に危険なことです。

 「脱原発依存」とか「卒原発」などというゆるいことを言っていないで、できるだけ早く「脱原発」する必要があると思います。

 しかし、日本国民全体の雰囲気を見ていると、政府とメディアの報道の範囲で考えていて、いまだに首相から始まって「原子力の平和利用」「原発とうまく共存すること」が可能であるかのような錯覚を持ち続けている人も多数いるようです(特に政治的、経済的リーダーのみなさん)。

 そういう方たちは、私の読んだような本は読んでいないのでしょうか。読んでも、理解できない・理解しないのでしょうか。半ば無意識的に読みたくないので読まないのでしょうか。

 反対派の専門家がいくら本を書いても、そういう方たちのところには知識・認識が届かないのだとすれば、素人の私がブログで少々発言しても届かないのは、当たり前といえば当たり前のことかもしれません。

 自分が納得するためにはもう充分に読んだ。私がいくら読んでも、書いても、知ってほしい方々には届かない。

 それならば、これ以上私が時間とお金を使って読んでも、知っても、あまり有効性がないかな、原発関係の本を読みあさる必要はないかな、と思っていました。

 それでも状況は気になるので、小出氏などの発言はある程度追いかけていました。

 そういうなかで、もちろん小出氏の新著の刊行のことも知っていましたが、買って読むのをためらっていました。

 しかしやっぱり気になるので、あまり読みたくもないけど読まなければならないかなと、アマゾンで注文し昨日1日大学への往復電車の中で一気に読みました。

 知識としては一応知っていることがほとんどでしたが、改めて心に甚(いた)く・痛く響くことがいくつもありました。

 特に以下に引用したところ、「3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった」という言葉がきつく心に刺さりました。

 もうかなりの程度悪い方向に変わってしまった世界と日本をこれ以上悪くしないで、なんとか次の世代に残していきたい、そのために今後もできることをやっていこう、と改めて当たり前のような決心を堅くしています。


Q:佐賀県にある松の葉からセシウムが検出された、というニュースに驚きました。福島からおよそ1100キロも離れた場所で、なぜ検出されたのでしょうか。 6月14日

A:研究者である私から見れば、当たり前のことです。1100キロなど大した距離ではありません。米国にも福島第一原子力発電所の放射能が届いていますし、ヨーロッパにも届いています。
 今回の事故の放射性物質は、残念ながらもう全地球を汚染しているというほどに広がってしまっています。
 そういうなかで私たちが生きざるを得ない、生きのびていかなくてはならないというところまで、追い込まれてしまっているのです。3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった、ということみなさんによくよく知ってもらわなければならないのです。
 福島県のもちろん、もはや日本は同じ日本ではなく、地球は同じ地球ではありません。
 1986年にチェルノブイリで事故が起きたときも、8200キロ離れた日本にも、もちろん放射能は飛んできました。そのときも、全地球に放射能汚染が広がっています。



知りたくないけれど、知っておかねばならない 原発の真実
小出 裕章
幻冬舎



民主党-野田政権は原発を再稼動する

2011年09月22日 | 原発の持続不可能性

 雲影委員長の岡野です。


 下記のニュース(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版)によれば、野田首相は、前日に3万人規模の反原発デモがあったにもかかわらず、来年夏までに原発に再稼動すると国際的な場で発言しています。

 「地震列島に54基の原発」という現実の意味を理解した上での発言とは思えません。

 これはつまり、民主党―野田内閣に国政を任せているかぎり、原発は再稼動する、つまり早期の脱原発はできない、ということです。

 こういう状況の中で、一日も早く原発を止めたい私たちには、何ができるのでしょう? どうすればいいのでしょう?

 みなさんは、どうお考えですか。私の考えは、何度も書いているとおりですが。


 【東京】野田佳彦首相は20日、ウォール・ストリート・ジャーナル/ダウ・ジョーンズ経済通信とのインタビューで、現在停止中の原子力発電所を来年夏までに再稼動していく考えを示した。国民の間では反原発の機運が高まっているが、原発を再稼動しないことや、すぐに原発を廃止することは 「あり得ない」と述べた。
 首相は原発政策について、「例えばゼロにするとすれば、他の代替エネルギーの開発が相当進んでいなければいけない。そこまで行けるかどうかも含め、いま予断をもって言える段階ではない」と答えた。
 3月の福島第1原発事故以来、かつては広く原発を支持していた国民の間で反原発の声が高まっている。こうした現状を踏まえ、脱原発をどこまで、また、どれだけ早く進めるかが野田新政権にとって最も困難で意見の分かれる問題となっている。
 インタビュー前日には、警察推計で約3万人の国民が集まって反原発集会が行われた。これは原発事故以来最大級の集会で、政治問題に対するデモとしても長年例のなかった規模だ。
 原発事故以降、定期点検のため停止中の原発の再稼働が国内各地で拒否されている。現在稼働している原子炉は国内にある全54基中、10基程度に過ぎない。政府が原発再開に向けて地元自治体を説得できなければ来年には全国すべての原子炉の稼働が停止し、事実上の脱原発となる。
 野田首相は、「再稼動できるものは再稼動していかないと、 まさに電力不足になった場合には、日本経済の足を引っ張るということになる」と述べた。
 しかし反原発派は、今年夏のピーク時にも、いくつかの原発停止にもかかわらず大きな電力不足がなかったことを指摘し、停止中の原発を再稼動しなくても来年の夏も乗り切ることができるのではないかとみている。これに対し、野田首相は、「そういういうことはあり得ない」として、原発なしには来年の夏は電力不足に陥るとの見方を示した。
 少なくとも当面は原発を維持するという野田首相の姿勢は、菅直人前首相とは対照的だ。前首相はかつて原発を強く推進していたが、福島第1原発事故後は反原発に方向転換した。前首相は、原発事故対応を誤ったとみなされたことも一因となり、約1年で首相の座を去った。


鉢呂経済産業大臣の辞任

2011年09月20日 | 社会問題
運営委員の森中定治です.

岡野委員長の記事,西岡秀三先生の書籍のご紹介にありましたが,私も一度考える場をもつことに賛成です.西岡先生は,人間が処理できない廃棄物を産み出す現在の原発も一定程度は必要だとおっしゃっていたように記憶しています.福島第一原発の事故以降,お考えが変わったのかどうか,西岡先生をお呼びして学習会を開いてもよいのではないかと思います.直接の関係のない一般人ではなく,国政につながる専門家がどのように考えるのか,大変興味があります.

鉢呂経産大臣はたったの9日間の大臣でしたが,辞任の直前にどのような仕事をしようとしていたのか,ご存知の方もいらっしゃると思いますが,マスコミがあまり報道しないので,情報としてご案内します.

鉢呂大臣は,今後の国のエネルギー政策を決める「総合資源エネルギー調査会」のメンバーが,経産省事務方の提案では脱原発派3人・原発推進派12人という人選であったので,これを問題視して、脱原発の人を9人追加しようとしていました.

もし私が,脱原発派としてこの3人の1人として出ろと言われたら,いやですね.言っても言っても賽の河原のごとく徒労に終わるだろうから,自分自身を損ねてしまうでしょう.病気になるかもしれません.以前,九大副学長の吉岡斉氏がこんなようなことを仰っていたことを思い出しました.

大臣や国会議員は,それぞれの専門の役所の人が公式に調査会を設け,賛成反対両方を交えて真面目な討議を経て,結論を出せばそれを自分の一存でひっくり返すのは容易なことではないそうです.それはそうでしょう.

それゆえ,鉢呂大臣は賛否の人数を概ね半分ずつにして徹底して真剣な議論をし,その結果平行線となれば,脱原発のメリットとデメリット,原発維持のメリットとデメリット,両論を併記して報告書として提出することを考えていたようです.これだと,大臣も判断できる余地が生じるし,大臣や国会が生きてきますね.

こういうことを考えていたようです.これをこのまま枝野大臣が引き継いでいるようです.どうなるでしょうか.

新刊紹介:『低炭素社会のデザイン』

2011年09月13日 | 社会問題
低炭素社会のデザイン――ゼロ排出は可能か (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店



 運営委員長の岡野です。

 「持続可能な国づくりの会」の賛同者のお一人の西岡秀三先生から新著を送っていただきました。

 読むと、低炭素社会そして持続可能な社会が、ただの綺麗事・現実性のない理想論・実現不可能な夢物語ではなく、しっかりデザインできシナリオが書けるもの――したがってやればできること――であることが明快に理解できます。

 率直なところ、たくさんのテーマについて数字の裏づけをしながら広く見渡しているという感じの本で、そういう意味では「面白い本」ではありません。読むこと、理解することに一定の努力が必要です。

 しかし、その努力は、しっかりとした数字と理論に裏づけられた希望――例えば「原発に頼らなくても低炭素化は可能だ」――が見えるという意味で、必ず報いられる本でもあります。

 
 以下、「はじめに」を引用・紹介しておきます。

 一緒に読んで、一緒に考える機会があるといいですね。

                    *


 はじめに

 東日本大震災では、地震や津波という自然の働きについてわれわれはなんと無知であったかを思い知った。引き続いて起こった原子力発電所事故では、自然の中では封じ込まれていた核反応を人問が操作することの限界を目のあたりにした。しかし同じ自然を相手にするのでも、じわじわ忍び寄る気候変動に対しては、自然からの警告を肌で感じながらも、それを無視するかのように、ものやエネルギーを大量に消費する生活を拡大し続けている。人間は自然への畏敬の念を忘れてはならない。自然の存在を忘れ、身の丈以上に高望みすると、自然は自然の論理で対応するからだ。
 「安定な気候」は生態系を維持し、食料を生みだし、人々の日常を守る、すべての命の源である。あまりにも普通すぎてその存在さえ忘れられている。失われてみてはじめてその価値に気が付くものの一つであろう。いま地球規模での急激な温度上昇が観測されている。そしてその原因が、人間活動から排出される二酸化炭素など温室効果ガスの増加にあることが確認されつつある。一瞬にして起こる地震と違って、世界全体に広く不可逆的で甚大な影響がゆっくりと進む。さらに、南極の巨大棚氷の崩壊のように、一挙に数メートルの海水面上昇を世界にもたらす突発的で重大な変化も懸念されている。
 世界の気候安定化への取り組みは、一九八○年代から始まった。「気候変勤に関する政府間パネル(IPCC)によりなされた科学的な認識をもとに、気候変動枠組条約(UNFCCC)での国際的な合意にもとづき、いまでは先進国・途上国とも「低炭素社会」に向けて大きく舵を切り始めた。

 一九八○年代に成熟期に入った日本は、挑戦という言葉を忘れたかのように守りに入った。それ以来、将来を語らず、世界の動きを先取りすることもなくなった。築き上げた体制に安住し、改革に目を背けてきた。気侯の安定化に向けて産業社会を変えてゆこうとする世界の大きな流れを目の前にしても、将来ビジョンを語ることなく、目先の経済運営に終始している。変化に背を向ける人たちの、地球温暖化は嘘だ、二酸化炭素の排出削減はできない、やると損する、という大合唱が挑戦の足を引っ張ってきた。
 しかし、もはや低炭素時代の到来は必至である。ならば、覚悟を決めてそこに乗り込んで行き、新たな時代の産業で国を興すしかない。日本は高齢化・人口減の国として世界の先頭を切っている。成長期で必要とされた、経済や産業における供給力主体の運営から、成熟期に入って、真の豊かさ、安全安心を保障する社会へと、生活者主体の運営に変わらなければならない時期にある。二一世紀の新しいモデルとして、自信と誇りをもって国を運営してゆくありさまを世界に示す絶好の機会でもある。
 「低炭素社会」は日本が世界に発信した概念で、広く社会や個人の行動や考えの変革までを含めている。日本とイギリスの共同研究で提案されていた「低炭素経済」という表現では、この変革の意味を十分に表わせないのではないかということで、「低炭素社会」と言ったのである。
 「低炭素」という言い方は物理的に響く。また「持続可能社会」や「グリーン成長」とどう違うのだという批判もある。しかし、気候の安定化を目指す仕会の目標は、やはり二酸化炭素を主とする温室効果ガスを排出しない世界を作るところにある。そこから目をそらせないためにも「低炭素」という言葉が欠かせない。気候を安定化せずに社会は持続可能ではないし、グリーン成長の中核は低炭素化にある。
この言葉は幸いにして多くの人たちの引用で世界に浸透し、いまや世界中で使われるまでにいたっている。

 本書は、低炭素社会の具体的なビジョンとそこへの到達手順を示し、日本社会が大きくその方向に一歩を進める道筋を示したものである。
 第1章では、科学的知見と世界政策の両面から、世界が低炭素社会へ向かう必然性を示した。その直こうには、さらに大きな挑戦となる持続可能な「ゼロ排出」の世界が待ち受けている。
 第2章では、二〇五〇年までに二酸化炭素の排出を七〇%削減するという目標を達成するシナリオを描いている。このシナリオは、エネルギー需要はおよそ半分程度に削減可能だという見通しと、エネルギー供給側の大幅な低炭素化とによって実現可能になる。
 エネルギー供給システムは、福島原発事故によって国民的議論の的になった。本書に関連したポイントは二つある。一つは、原発に頼らなくても低炭素化は可能だということ(第3章)。もう一つは、安全で安定したエネルギー供給システムの選択肢はさまざまにあるということである(第4章)。国民がその選択の貢任を負っている。
第3章では、省エネルギー・低炭素化に向けて、生活や生産の場でどのような技術が有望かを示している。低炭素社会への転換は、自然資源をより効率的に利用するよう知恵を絞ることでしか達成できない。
 第4章では、低炭素社会に向けて企業や社会がどう変わらなければならないかを考える。低炭素社会は、人任せではできない改革である。すべての構成員がそれぞれの持ち場でなすべきことがあり、互いに働きかけて大きな流れを作らないとそこへは到達できない。
 第5章では、そうした動きを推進するための政策の基本と、各国の戦略について述べる。気候の安定化がどのような形で可能になるのかには多くの論議があり、万能薬はない。個人の行動がものと時間の消費を通じて産業を変え、政治を動かし、インフラを新たにする。時間がかかる仕事である。だから長期目標を共有し、確かな道筋を見極め、徐々にそして確実に変えてゆく辛抱強さが必要である。

 本書の内容は、二〇〇四年から二〇〇九年にかけて、環境省地球環境研究総合推進費による六〇名の研究者が参加した「二〇五〇日本低炭素社会シナリオ」チームの研究成果にもとづいている。本書の二酸化炭素削減シナリオは、国立環境研究所・京都大学・みずほ情報総研が開発した、気候変動政策のためのアジア太平洋気候続合評価モデル(AIM)によって裏打ちされているものである。(後略)


中国人の公共マナー

2011年09月11日 | 社会問題
運営委員の森中定治です.

前回,元産經新聞の特派員で長く中国に滞在され,現在はフリージャーナリストの福島香織氏の講演から,中国の新聞報道における「天窓を開ける」について考えてみました.

今回は,彼らの公共マナーについて考えてみます.私の知り合いで,昆虫の収集と販売でしょっちゅう東南アジアへ出かけている人がいます.その人から昨日手紙が来ました.その手紙によれば,「溢れかえる中国人」と題して,バリのショッピングセンターに大型バスで乗り込み,大声を上げながら闊歩する.クアラルンプールのお土産屋に大勢で押しかけ,何時間も値切る.また,入国審査の列などでも隙あらば割り込もうとするなどと出ています.

福島氏のお話を聴いてから,中国人に関心をもつようになり,今,加藤嘉一著「中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか」を読んでいます.また読み出したばかりですが.この著作によれば,日本人と中国人は全く逆さまだそうです.

日本人は,社会では他人の目を気にし,その場の空気を第一に考え,一歩引いた態度を取ります.一方家庭では,はめを外しくつろいで過ごします.独り住まいの独身男性など,部屋では下着一丁でくつろぎ,部屋が散らかり,ゴミが放置してあっても気にもしません.これは,社会で自分を殺して過ごすために貯まるストレスを,自宅で解消するためのようです.中国人は逆さまです.公共の場は奪い合いになります.逆に自宅は,自分だけの城で,大変きれいにするようです.これは,単にどちらが良い悪いということではなくて,長い歴史が,双方の社会における人間のあり方を培っていたと考えます.

マイケル・サンデル教授の国際白熱教室で,福島の人々が病院で避難の一夜を過ごした状況が紹介され,一夜を明かす人々が誰の指示や強制もなく整然と通路や階段の真ん中を開けて,縁で静かに休んでいた動画を見た中国の学生が,感嘆しました.このことから,中国人は,現在は日本人と逆さまではあるけれども,自分たちのやり方を正しいと,それを理想と考えていないことが分かります.

私は,どちらも一長一短だと思います.日本のやり方だけが全面的に良いとは思いません.大事なことは,自分と異質なものを頭から拒絶するのではなくて,理解することが大事だと思います.そこから,双方がより良いものに歩み寄っていけるのではないかと思います.


中国の新聞

2011年09月04日 | 社会問題
運営委員の森中です.

昨日台風のなか,興味深い講演を聴きました.
主な内容は,7月23日に起きた中国の高速鉄道の衝突事故の報道についてでしたが,国(党)から非常に強い規制がかかったとき,皆さんは,中国の報道はどうなると思いますか.逆らえば命にも関わる厳しい統制です.

例えば1面,2面とでかでかとその記事を組んでいた.急にそれを記事にすることが不可能になった.
このとき中国の新聞はどうするか.

別の記事に差し替えることもありますが,なんと空白でそのまま出します.「天窓を開ける」というのだそうですが,ここに本来何が書かれるか,読者自身が想像しろというのです.空白のまま,まさに天窓ですが,日本では考えられませんね.
これが基本で,ひねったアドリブもたくさんあります.
例えば現地に来て,供花を前に深い祈りを捧げた温家宝首相の写真とD301, D3115(衝突した列車の番号)と,ほとんどが空白の真ん中に小さく入れてある.これは,記事の文章がなくこれだけでは何か分からないので(建前では)記事ではありません.この写真から想像しろと読者に迫るのです.
これでは,当局は通達に背いた訳ではないので,記者,新聞社を罰することができません.新聞社は当局と頭脳プレーで戦い,同時に読者(国民)ともやはり頭脳プレーを行います.政府もこれは一本取られたと感じると,敵ながらあっぱれ,それ以上陰湿なことはしないようです.何という強さ,したたかさ,そして生き生きとした躍動感でしょうか.ツィッターの代わりの微博(ウェイボー)があるので,事実は既に皆薄々知っているという前提があるからできるのですが,この話を聴いて,日本人,日本のメディア,政治家,総てに,この強さ,したたかさ,そして頭を使うこと,これが欠けていると,私は感じました.