ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

1月最終練習日

2012年01月31日 18時26分57秒 | ペタンク爺さんの一日
オフシーズンに入ってから、2012年に向けて室内練習会場として暫く利用していなかった、琴似八軒にある農試公園室内のツインキャップを利用始めた、去年まで利用していた駒岡地区会館との距離から見ると、距離も遠くなるし如何しても市内の中心部を通り抜けなければならないので、時間がかかる。
それに冬期間は我々と同じで、色々なスポーツ競技団体が此処を利用する、土日は大きなイベントが入るので一般開放は平日になってしまう、此処の所がSoleilのまだ現役や学生等のスケジュールには合わず利用できないのが致命傷となっている。
出来れば、土日と平日のナイターで出来る室内練習場が絶対必要と思っている、冬期間の練習場としてそんな環境がいつ実現するか今のところは、全く見通し無いのが現状だ。
最低この辺の、環境が整わないと札幌のペタンクレベルは上がって行かない、日本全体を見ても一部のジュニアが成長し出しているが、全国的にみると矢張りシニアのペタンクと云うレッテルは剥がれていない、残念だがまだペタンクの良いところが若い世代に伝わっていないと思っている。

自分たちの楽しみも大事だが、持ち出しとなってしまうが先行投資で子供たちにペタンクの楽しさをインピュットして行くべきと思う。
この辺が、よほど工夫しないと成功しない、そんなところが全国のあっちこっちで出来て来るのは何時の事かと、今は思いめぐらすだけになってしまった。

今日も、12時早々定員を載せてツインキャップに、私一人だけ協会員の中に混じってプレーをする、到着すると1時になっているので何時も練習投球なしのぶっつけ本番のゲームになってしまう。
出来れば、30分ほどは個人練習したいところだが、郷に入らば郷に従えと、ゲームの中んで投球練習をやっている、勝負にはあまりこだわらないようにしているが4試合中三勝しているので、まずまずと評価している。



シニアダンス

2012年01月30日 15時59分18秒 | ペタンク爺さんの一日
日本人のリズム感は、戦前に生まれている人は苦手としているところと思う、その頃は音楽の授業はあったが童謡や唱歌と戦後の歌謡曲だった、リズム感と云うと盆踊りの太鼓があったが、太鼓だけでは音楽につながっていなかった、それに引き替えアフリカの太鼓リズム、ラテンのリズム感は、太鼓だけでも踊りにつながっている、文化や歴史の違いと云ってしまえばそれまでだが、大和民族のリズム感は貧弱と思う。

最近になって、小学校、中学校でもダンスの授業が取り入れられた、戦後民主主義が国民の中に浸透していったように、本来人間が持っている本能を引き出すかのように、時代変革がされていると感じる。
習い事は、早ければ早いほどいいと云われていて、出来れば此れをと思った時に始めることが望ましいと私も同じ考えだった、それを自分の人生設計に取り入れ、まだ未来がはっきり見えていない息子たちにアルペンスキーと云う道しるべを立てる、下の息子は小学校に入ったばかりと思う。

人間リタイヤしてからも生きてゆく時間も長くなってきている、体力、気力、記憶力も一時期のようなものは失われている、同じ事をやるにも時間もかかる、ただ忍耐力だけは強くなっていると思う。
あとは、耐用年数が来ている肉体の劣化や老化には付き物の癌が現れないことを願いながら生きてゆく、生かされて行くと云うところに落ち着く。

物覚えは、極端に悪くなっているがまだ向学心だけは残っている、今日のダンスサークルにワルツ、タンゴ、チャチャチャ、ルンバ、入ってくる、一通り教わったが、後から思い出そうとしても殆ど覚えていない、こんなことで踊れるようになるのかなと、少し不安になる。

越冬期の真っただ中、今日保存食の残りを確認する、竹の子水炊きは全滅だったがキノコだけは何とか食べれる状態だった、少しづつ取り出して食べようと思う。
ぼりぼり
らくよう
フキとニシンの煮物




形見になった常備薬

2012年01月29日 17時04分06秒 | ペタンク爺さんの一日
夜中から寒さで目が覚める、寝付いたのは12時を過ぎていたが午前3時には寒さで目が覚めてしまい、そのまま起きてしまった、7時になったので朝食の支度をしパンとコーヒーを飲んだ、寒気がしていたが食べるものを食べてと済ませてしまったが、すぐお腹がくだりだし最後は水のような便になっていた。
こんな時と、我が家の常備薬を取り出す先日の下痢は病院が開いている時間だったので、我が家の罹り付けの東札幌病院のお世話になったが、今日は日曜日、超良く効く自家製の青梅の梅肉を飲んだ、先日の風邪と下痢には活躍しなかったが今回は朝一回飲んだら止まっていた。
瓶に書かれている効能は、平成13年の春に作っていた早10年も経っていることに時の流れを思い出している、女房の形見になってしまった、まだ瓶の底に見えているので私が死ぬまでは間に合うと、女房の先見の目に驚かされている。
今日はとうとうお昼を絶食する、それでもも病気に負けてなるものかと、合変わらず藻岩山の橇滑り二日目となった。
このあと、3日ほど山行けない。
昨日も今日も午後からは吹雪模様になる、新ルートは、橇に最高適していると一人で喜んでいる。

昨夜妹とは同じものを食べている、食べ合わせと考えるとお風呂の帰りかりんと100円を買ってきて一人で食べてしまったことだった、多分これが命取りになったと思っている、妹は全く正常だった。

今日も動画を編集し、YouTubeにアップし私のHP橇世界に載せる。
http://soridunka.skr.jp/
滑走安全を祈る
今日のスタート地点


新雪に誘われて

2012年01月28日 17時22分58秒 | ペタンク爺さんの一日
今日からW杯スキージャンプが始った、生憎昨夜から吹雪模様で朝までに20センチ近い雪が降り積もっていた、このところシベリア寒気団が居座っているので連日厳しい寒さが続いている、1月の末なら当たり前のことと思うが、出来れば一週間のうち寒くてもいいが太陽が顔を覗かせる日が2.3日あれば云うことないと私なりに思っているが、テレビに出てくる一週間のお天気予報では一日も太陽の顔が出てこない。

所が、今日は雪は降り積もっていたが午前中太陽が時々顔をだしていた、空を見上げると札幌の街の上は青空半分雲半分だった、それを見てこれなら藻岩のお尻滑りも可能と、たまらず山に向かう、久しぶりに山友達と出会う、まだまだ元気そうだ。

今日の昼飯は、途中サザエさんのおはぎを買って上がっていた、久しぶりに甘いものが食べたくなった、母親の遺伝子を引き受けているので良く判る、それに引き替え親父の酒の強さは伝わってこなかった。

2.3月頃になると、雪が絞まって固くなりツボ足でもどこでも歩けるようになるのだが、この時期はスノーシューでも履かないと新雪の中には入れない、山頂の登山山小屋で昼食を済ませ山頂からスキー場側に降りる登山路の脇を下りてゆく、今日は兎平横からお墓の方へ向うルートを開拓することにしていた、たった1回の滑走だったが雪の柔らかい季節は最も良いコースであることが判った。
降りてきたころは、予報通りの小さな吹雪模様に変りかけていた、咄嗟にスキージャンプ大会が行われている、風や雪の影響が飛ぶ選手の時間帯にぶつかり影響受けると選手のコンデーションを思いやった。
私も、ぎりぎりの時間帯の中で降りてきたと思った。

今日の動画を編集し、YouTubeにアップし私のHP橇世界に載せる。
http://soridunka.skr.jp/

藻岩神社前で
山友達
お昼はおはぎ


自称そば通

2012年01月27日 15時06分44秒 | ペタンク爺さんの一日
お米の代わりの主食として、昔からうどんそばが東西の横綱で西は讃岐のうどん、東は信州のそばがお決まりだった。
途中から支那蕎麦(ラーメン)とイタリアン(スパゲテー)が関脇や大関に上がってきたのではないかと思う、麺文化。日本の場合は、お米が採れない土地が麺文化になっている、人間は環境に順応しながら世代を交代しながら生き続けている、現在の食文化は自給自足の生活ではない、日本では有り余るような食品を自国ばかりでなく、外国からも買い入れて食べている、これでいいのかと時には考えさせられることもあるか、そんなことはすぐ忘れてしまっている。

大戦が終わったころは、小学校の5年生だった国からの配給もなく、それでいて日本の国民は自給自足でその日その日の食料を確保し家族の食生活を続けて行かねばならない時代だった、わが家では町はずれの山の一部を買って畑を始めていた、家族全員で鍬やスコップで耕して、主にごしょいもを植えていたことを覚えている、その他の食物にトーモロコシを植えていて、まるっきり出来は良くなかったが、本当に美味しく食べた記憶がある。
傾斜のある畑で、何と言ってもごしょいもの収穫が結構ありお米の代わりの主食になっていたと記憶している、家はその頃釣り具の卸商を再開しお金だけは有ったのか、闇でお米を買っていたのも覚えている、どこかのおばさんが近郊の農家から、お金か品物の物々交換で仕入れ、買ってくれる家々に売っていた時代で、需要と供給で経済が成り立っていた、お金より物が上位に位置していた時代だった。
その頃、小麦粉が手に入るとうどんを作って食べさせてくれていた、無論自分たちで作るのだが良く足で踏む所を手伝わされていた、そば粉は滅多に手に入らず、蕎麦にまでならず蕎麦練を食べた記憶がある。

今は、飽食時代それに年齢が高くなり胃袋も小さくなってきている、少量で満腹になってしまう、お昼までご飯にしてしまうと過食になると、うどんと、そばが必然的に多くなる、普段は冷凍うどんが一番多い、家ではそばは殆ど作らない、それゆえ外食の昼は蕎麦が多くなる、自称そば通はもりかかけが主流で、そばの味を楽しんでいる。

最近、安くて美味しい蕎麦屋を発見、白石南郷の信州庵のもり399円が、安くて旨い札幌一かと思っている。

今日から9月オープンのカーリングを目指しトレーニング開始、ストーン20キロ振り回せるか?
ひと足早い春

二月のツインキャップ日程

2012年01月26日 18時01分06秒 | ペタンク爺さんの一日
2月6日から12日迄札幌雪まつりが始まる、ここ何年も雪まつりの会場には出向いたことは無く、いつも出来あがる数日前に南大通りから北大通りを車で通過し、車からは下りずに車中から覗いているだけ、それからお祭りが終わって雪像が取り壊しが始まる頃、矢張り車で素通りしながら雰囲気を想像しながら楽しむこの頃でした。

寒い日が続いているので雪像作りも順調に進んでいる様子がテレビに出ているのを見て、市民の一人として安堵の気持ちが湧いてくる、たいしたイベントに発展していったものだとつくづく感心させられている。

今年の雪事情は例年と少し違っていた、札幌市内は何時もの雪の量で推移していたが、シベリアから振り下ろすような寒波が隣々町の岩見沢を狙う討ちするがごとく、記録的な雪が積もった、過去の私の記憶にはない出来事だった。
雪も適当に降ってもらわないと非常に困ることも多く、だからと言って今年の岩見沢ごときは雪の処理で市の財政破たんは目に見えている。

今日、1月のツインキャップ練習会に参加する、午後1時近くに到着したが解放されているペタンクコーナに、もう結構な人達がたむろし早いところでは練習試合が開始されていた、札幌ペタンク協会のいいところはリタイヤしたシニアが多く平日でも何の気兼ねもしないで参加出来ること、これが最大の利点でもあり、もう少し角度を変えてみると、あと5年過ぎると何人残っているのかと、非常に心配な所もあり、これが欠点にもなってるとも思う。

ペタンクに若い世代が飛びついてくれる、何かを探し出さなければペタンクの発展は無い。
そんな環境作りは、シニアでも出来る、と思うのは私だけか。

2月のSolilの練習日

平成24年2月
7日(火)13:00~16:00
16日(木)・・・・同上
21日(火)・・・・同上

讃岐のうどんか、信州そばか

2012年01月25日 13時53分19秒 | ペタンク爺さんの一日
世界レベルのウインタースポーツには、日本人のレベルは一向に接近してゆかない、ジャンプとクロカンスキーがトップシードに出たことがあったが、近頃どちらも一時の勢いはなくなっている、スキーのアルペン競技は猪谷千春選手がメダルを取っただけで、その後トップレベルで活躍する選手は現れていない、若いころ我が子を通して私が取り組んできたアルペンスキーだが、身体能力のせいなのか、選手の置かれている環境のせいなのか、ヨーロッパの選手には敵わないと感じていて、結局私には判らずじまいだった。

野球が、大リーグで活躍する選手も現れだしたがついこの頃のことで、純日本人となるとテレビで見ていても、少し見劣りがするのはいがめない。
ただ近頃サッカーで国際的に活躍する選手を見ていると、体の大きさばかりではないと教えられる、身体能力の差を何処で補うか、これは脳細胞の差で詰めて行くしかないと思う。
若い人たちには、自分の能力の限界を自分で決めてしまわず、命を懸ける気持ちで挑戦してほしいものだと、自分で出来なかったことを望む情けない爺さんなのか。

今日はダンス教室、スタンダードのブルース、ラテン・アメリカンのジルバとマンボ、の三種だけはまだまだ情けないような踊りだが初心者としてのワンステップは終わったかなと思っている。
今年1年かけて、タンゴ、ワルツ、ルンバ、チヤ・チャ・チャの四つを身に着けたいと思っているが、極端に物覚えが悪くなっているので疑問視が残る。

団地隣の建売住宅が真冬でも建設工事は止まらない、本当に狭い敷地に4軒のコンクリート住宅を建てているが正月休みをのぞき工事は続行中、今日はコンクリートの流し込みをやっていた。

リースのバケットひと月中、稼働日数は10日以上になっていると思う。
お昼は、讃岐うどん前の信州そばのかけそば399円を食べる、美味しかったが量を減らして少し値段を下げてほしいと思った。、、、年寄りには量が多い。

かけそば399
工事続行中
リースのバケット






ヤッチャン歴史の狭間に立ち会う

2012年01月24日 20時02分31秒 | ペタンク爺さんの一日
目と鼻の先に札幌ドームがあり、ベランダからも銀屋根が見えそうな位置に住んでいる、もう根っからのつきさっぷ人のつもりている、ドームが完成しても滅多に寄り付くこともなく、日ハムが日本一になろうとコンサドーレがJ1になったかとて、お金を払って見に行ったことはない、しかしどちらもファンなのだが何時もはテレビ観戦で済ませている、日ハムが北海道に来て新庄が最初の宣伝マンになり、それと同時に第1次黄金時代だったのか日本一にもなった、その間高卒のダルビュシュが日本を代表するピッチャーに育っていった。

彼は、まだ若い日本で収まるのうなものでなく、まだまだ伸びる素質を秘めていると思う、彼の今の心境は複雑だろうが目標を高く挑戦していってもらいたいと思っていた、もう直接彼を見ることは無いと私なりにメデア紛いに、札幌ドームに出かける。

入場開始時間が午後3時で、会見は4時からとなっていたが自宅から出た時間は12時を半分ほど過ぎた時間だった、歩いてせいぜい2Kくらいの距離30分もあればついてしまう、途中山田電機に引っ掛かったりヨーカドーで時間をつぶしながら歩いたが、二時間余りも前に着いてしまったが、朝7時から並んでいたファンが館内には入れ切れずドームの外に並んでいた。

目立つテレビのメデァを始め、日本中の報道関係者が今日の会見に集まっている、それを確認できるスタッフで殺気立っていたように感じていた。
私は、野次馬根性丸出しのおかしな爺さん、メデア並みに動画を撮ってYou Tubeにアップしhpヤッチャンの生きざま貼り付ける。

写真を撮るために、一般観客席の一番前まで下りて行きそれなりの写真を撮る。
まだ、学園時代の新聞部の感覚が残っている。

会見模様
記者気分で


切手シート1枚

2012年01月23日 13時54分25秒 | ペタンク爺さんの一日
豊平区と白石区はすぐ隣り合わせの区で、今は同化していると思っている私が住む月寒は豊平区の北東はずれに近く、白石区の下白石神社には同区の人達より近距離に位置する。
私の住む団地から豊平区役所と、白石区役所との距離はほぼ同距離の感覚でいる、区民センターなど区を越えて利用できるサークルは別と、今度利用させてもらった、私に合いそうな社交ダンスサークルがあり入部してから丁度ひと月は越した、少し皆さんの顔をも覚えだし少し落ち着けるようになって来ている。

今日、教室があり始まる前に新人三人紹介されたが何れも何処かでやられていた方々で、私の様に全く素人ではない人達だった、高齢者のサークルなので新人が入ってこないと衰退するので皆さんも新人勧誘をお願いしますと、北沢先生は説明していた、・・・・その通りと納得する。

どちらの区も、明治4年、今から140年も前に開拓の鍬が入っている、月寒は岩手県民が月寒中央通り辺りに、白石は宮城県仙台藩片倉家臣が咸臨丸で向っていたが途中座礁してしまった歴史が残っている、兎に角当時は苦労の連続だったろうという事が想像される。
そんな人たちの子孫の住民たちと思うと、北海道の歴史の浅さが親近感を覚えてくる。

今朝、年賀はがきの当選番号が新聞で発表されていた、現役を退き時間が経っているので出すものも受け取るこのも少なくなっている。
過去に切手以外当たったことは無いと記憶している、全く一枚もなかったと云うこともなかったが其れなりに楽しいものと感じていたが、今年もたった1枚だけ切手シートが当たっていた、他の支払いもあったので近くの郵便局で交換してくる。

お昼は、白石区南郷通りにあるはなまるうどんきつねうどん294円になる、ここも出来てから5年くらいに成るかなと思っている。
はなまるうどん
きつねうどん294



真っ白い世界へ

2012年01月22日 16時44分06秒 | ペタンク爺さんの一日
前回行ってからひと月は経過していたと思う、食事とコーヒーとだけに使っていた有明名水が無くなっていた、出来ればお天気の良い青空が出ている日にと思っていたが、今回は生憎悪天候の中の水汲みだった。
国道から清田滝野線に入ると、もう極端に交通量が少なくなる今日の日中はプラス気温だが湿った雪が横風を受けて車のフロントガラスにぶっかって来ていた、幹線道路なのに道路に雪がたまり広い轍が延々と続く、周りに街並みも無くなり畑や原野の中の道路降りしきる雪で視界が霞む、時々道路の境が迷路のように見えなくなる、前から車が時たますれ違うので道路の確認が出来ていた。

有明小学校あたりと見当をつけて、有明名水小路にハンドルを切る急に深雪のわだちの道路になる降りしきる雪で真っ白い風景の中の道路は、道路の境を消してしまっていた、極端にスピードを落として進んでいたが左の前輪を道路脇の深雪へ突っ込み動けなくなってしまった、バックもならず生憎スコップも車に積んでいなく、一瞬しまったと思ったが。
今日は日曜日のせいで、水汲みに来る車も次々と現れ、そのうちの一台の若者の後押しを受け脱出する。
やれやれ、スコップくらいは常備するべきと思い知らされる。

水汲みを済ませ、今日は滝野すずらん公園に向かう、駐車料として400円を払い一番奥の駐車場にたどり着く、最悪のような天候にも関わらず日曜日なので可也の人で賑わっていた、用意してきたスキーを持ち出し、ファミリーゲレンデの降り場辺りに出る、ここはには小さな子供を連れたファミリー家族が殆どでないかと思うくらい、若いカップルと子供たちであふれていた。

そんな家族を見ていると、40年も前の自分の家族の事を思い出していた、年代は同じでも顔立ちは日本人と変わらないが、中国語の家族もいて冬の観光スポットにもなっていることを知らされる、お昼はここのレストランで野菜カレー960円を食べる。

昼ごはん後、まだ吹雪いている中、此処で一番高い展望台までスキーで歩いてくる、スポーツインジャパン時代ポッカ杯スキー大会主管で、此処のコースをモービルで走っていてことを思い出していた。

レストランでカレーを
コース途中の橇コースを上から
吹雪の中で元気な子供たち
滝野展望台です






竹の子瓶詰今年も失敗

2012年01月21日 16時07分07秒 | ペタンク爺さんの一日
年が明け毎日厳しい寒さに見舞われているこの頃、何十年続けて来ていた春の山菜の代表のフキと竹の子を塩蔵保存を、この季節になると少しづつ出してきては二、三日水を取り替え取り替え塩出しをして、煮つけやおでんの材料として冬の間の、主要なおかずの原料として来ていた、多分多い少ないは有ったが必ずと言ってやってきた。

この間から、塩蔵フキを二度ほど出して塩出しをして身欠きニシンと一緒に煮つけにして食べていた、北海道の山菜の代表と云ってもいい、少しぐらい食べ過ぎても余り支障もないし、癖がなく冬に食べても美味しい。
その次に挙げられるのは、根曲り竹の竹の子だが、フキと違って採取に苦労と後の保存まで入れると少し手間がかかる代物だ。
数年前までは、フキの保存と一緒で大量の塩を使っての塩蔵保存だった、これは途中で失敗することは無かった、塩抜きに三日ほど水に晒せば美味しく食べられていた。
三年ほど前から竹の子の瓶詰を始めたが、今年で三年目だが、結局失敗してしまった、雑菌が入っているのか形は残っているが、取り出すと崩れるようになっている。
毎年毎年、苦労しているが完成品は出来ていない。

今年の竹の子は、昔に戻り半分は塩蔵保存に戻して行くつもりでいる、何処が悪いのか今年も挑戦を続けるつもりでいる。

山菜のコゴメの水炊き瓶詰を空けたが、こちらは完成していた、ただ激辛南蛮を入れすぎ三日ほど水に晒し、今日あぶらげと一緒に油いためし味を調えた。
今晩の惣菜の一品となる。

簡易温室のベランダで、お昼の焼き芋作りをする、久しぶりにダッチオーブンを使う、いつも七輪と炭を使っている。
結局今日はうちの中から一歩も外に出ることは無かった。
明日は、白旗山のクロカンスキーにでも行こうなとぼんやり考えている。
コゴメは完成品
コゴメとあぶらげの煮つけ
ダッチオーブン
お昼は焼き芋

手稲から恵庭岳(パノラマ)

2012年01月20日 17時29分37秒 | ペタンク爺さんの一日
先週から今日一番の歯の治療が組み込まれていた、朝方になり二度寝してしまい起こされる、時計を見ると8時15分になっていた、慌てて歯磨きと朝食のパンとコーヒーを駐車場を35分に出る、久しぶりに慌ただしい朝だった山鼻11条にある朝日歯科まで9時の受付に、ぎりぎり滑り込んだ、虫歯に成りかけた歯があり今ならすぐ治療で間に合うとの診断を受けていたので、残り少ない歯を大事にと云うことになっていた。

30分程度で、治療は終了し、先生の方から子供たちの話題が出てきてお互いに同じ親同士の気持ちを察しあった、一人息子の尚彦君も今年で43歳になっているが独り身でいると、彼は横浜で外資系の会社に勤めていて海外を飛び回っていると云っていた。
彼の小学生時代の可愛い顔を思い出しているが、成長した彼には会っていない、街ですれ違っても気が付かないと思っている。

彼にもきっと何処かに、赤い糸で繋がるひとがいると信じている。

今日の昼飯は早めしだった、11時のロープウエーで上がったので昼ごはんには早いと思ったが途中ほかほか弁当を買い込んで行ったので、冷たくならないうちにと、今日は登山小屋に入って食べた。
何時もは、満席の小屋の中も早めしのお蔭でゆったりとした昼時となった。
昼飯後、何時ものスタート地点まで、先回来た時に確認しておいたルートで何方かツボ足でも埋まらない歩くルートを辿った。

今日は、あまりのお天気の良さに恵庭岳から手稲山までのパノラマ写真を作った、写真の中に人工物が入ってしまい、まだまだプロにはなれないと悟る。
動画も、今シーズンに入って何本か撮っているが全く満足した作品は出来ていない。
今日の作品もアップしているが駄作と思っている。やれやれ
藻岩登山小屋






2012ペタンク初投げ

2012年01月19日 18時56分57秒 | ペタンク・練習
今年もどうやらペタンクのボールが投げられる肉体が健在でいられるのに感謝している。
三年ほど前から、肉体的な衰えよりも、今まで考えてもみていなかった目の傷害が突然の様に私の行く手を阻んだという感じだった、目は特別悪いとは夢にも思うこともなかったが、雪山の林間コースを橇で滑っていて、上から木の枝が垂れているのが見えていなかった、眼球に傷をつけたことで眼科医院に治療に行った時に、医者から言われたことは、傷はすぐ治るがあなたの目は緑内障になっていて、視野が狭くなっているから木の枝が迫ってきても見えていない、と。
それ以来、この病気は治すてだてはなく、これ以上悪くなるのを防ぐため毎日一生目薬を指し続けなければと、引導を渡された。
可也ショックを受けたが、全然見えないわけでないので、平静を装う様にしている、ただ運転だけは可なり慎重に運転するようになった。

1月は、ツインキャップのペタンク練習日が前半に組まれていなく、結局今日の19日が初投げ練習会になった、自宅を12時20分ごろスタートし途中仲間も同乗させツインキャップには丁度13:00には到着していた、藤野から斉藤氏が来ていた、それに手稲の藤川さんが仲間を8人ほど連れて来て、私たちが着いた時にはもう練習試合を始めていた。

今日は、スタート時ペタンクボールを投げるのが二回目の学友の小林さんに、斉藤氏を助っ人にチームに入ってもらいバランス良いチームを作ったと、始まる前から計算していた。

今日の私の出来は、70パーセントだったが、初心者の小林さんを上手に指導して戦力にしたお蔭で、なんと三戦三勝の成績で初投げ練習会が終わる。

大通りの雪像作り

月寒のカーリング場も姿を見せる



懐かしいものふたつ

2012年01月18日 14時05分33秒 | ペタンク爺さんの一日
今日は北沢スキースクールの個人レッスン日で、初めて飛び込んだときからこちらの先生の奥さんがお相手してくれていた。
私が思うには、この齢になってよく来てくれたが何時まで続くか危ぶんでみてたと思っている。
私の生涯で音楽との接点は、子供時代のハーモニカだけで、歌を聴くのも無論歌うのも無縁で過ごしてきているので、突然正式にダンス音楽を聞いても体は同調する訳もなく、苦労して始まっている、齢相応に体力には自信があったが、ダンスで必要とされる動きは今までにない体の動きに戸惑い、自分の鈍さに改めて認識させられたダンス入門だった。

スクールでのレッスンは、30分程度の短い時間だったが始めてから二か月以上経過している、週2回くらいから、今は週1回になっているが、今日のレッスンで無意識に踊れるところも出てきて、楽しさも感じられた日になった。
先生も少しは上達していると感じていると思っている。・・・やれうれし。

帰りは自然食品のまほろばに顔を出す、鮮魚コーナーを見ると真冬が旬の海草のふのりが売られていたが、食べ方を知らないのか売れ残っていて三割引きの値札がついていた。
一気に時間が遡り、春のホッケ釣りやカレー釣りに磯に行ったときは岩についている海草を採って帰っていた、その中にふのりも入っていた、食べ方は殆ど味噌汁にはなし具として磯の香りを楽しんでいたことを思いだし、買って帰る。
レジの前に、また懐かしい飴を見つける、子供の頃甘いものの代表格だったと記憶している。
名前は、大甞飴で北海道の栗山で谷田製菓が作っていたものだが、戦後間もない頃は近くの八百屋の親父さんが此れと同じような飴を手作りし、形は丸棒飴で木箱にでん粉を轢き並べて売っていた、それが量産出来る製菓業になったと想像している。
海草採りも磯釣りから足を洗ってから久しい、どちらも久しぶりに懐かしいものに出くわした。

懐かしい飴

偕老会の新年会

2012年01月17日 18時16分04秒 | ペタンク爺さんの一日
外つ国へ偕老秋の雲に入る・・・・伊藤愛子の俳句で季語は秋の雲になっている。
私もほんの少し俳句を志したことがあったが、縁がなかったのか身に着かないでしまった、自分の内面を見つめる意味においても、続けたかったが会が無くなってしまったのがきっかけとなってしまった。
二年間通ったシニア大学の卒業式が2010年3月11日で、午後からススキノにある第一ホテルで同期会の解散と新しい組織の偕老会の発足日だった、会も終わりに近づいたころ天井のシャンデリアがゆらゆらと揺れだした、ホテル側がやった演出かと最初は思っていたが、各ドアーが開かれ、地震だということになっていた、東日本災害の日と重なり、忘れられない出来事となってしまった。
偕老(《老いを偕(とも)にする意》夫婦が、年をとるまで仲よく一緒に暮らすこと)の本当の意味とは少し違うかな、と思いつつも夫婦組も何組かいるのでこれでいいのだと、直ぐ妥協してしまう遠藤爺、会長夫婦は傍から見ても羨むようなご夫婦、まだまだ二人とも元気な様子に全うしてもらいたいと思っている。

新年会の最後は、この会だった残念ながらペタンククラブに籍を置いていてくれた学友が、齢を取ると誰もが恐れる病に取りつかれてしまった、女房と同種の病気で現在闘病生活の日々を送っている、私も他人ごとではないと思うこの頃だが、その時が来ればと思うしかない。

今日の新年会も第1ホテルだった、この会の皆さんは芸達者が多く歌もみんな上手で私など太刀打ちは出来ないが、この頃は下手は下手なりにと平気で歌うことにしている、歌える歌は何曲しかない、今日も18番の千晶夫歌う北国の春を歌う、普通に歌うのは芸がないので、見よう見まねで覚えた、秋田弁、津軽弁ともつかない北海道弁と思う言葉で歌いまくった。
会長の挨拶