ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

猫と犬(2)

2013年03月31日 19時49分26秒 | ペタンク爺さんの一日
私は1934年の犬年生まれ、もうこれだけでも犬とは縁があり親からも大きな期待をもって生れて来たと、この歳になってようやく解かって来ている。
両親と濃密な関係にあった満25歳まで、今にして思へばそんな自分の末完成の人格が厄を起こしいたことが良く判って来る、20歳代には自宅を利用し衣料品店を経営していて特に母親は耳新しい病氣の子宮ガンを患つていた、そんな事もあり密に私の嫁さんを探していたのだ、生きている間に愛する我が息子に嫁と孫を見たがった事が良く判る。
其れにしても素晴らしい連れ添いを探してくれた、大家族の長女で苦労して來ていたので姑小姑の家族の中に同じ満25歳で嫁いで来た、よく年に長男が生れ入院先の北大病院に見せに行ってい、翌年の孫が歩き始めたころ54歳で旅立つた。

母親が亡くなって間もなくして札幌に出ている、札幌に出て息子をの為にと生れてはじめて犬を飼った、その項は円山地域で釣具店を出しタクシードライバーも兼務していた。
神経的ストレスで十二指腸潰瘍を患い入院する、子供達に犬の飼方や扱い方を教育していなかった事が原因で、ストレスで犬が人をかじる樣になり、私が退院してからも治らず札幌市に引取ってもらつた。真黒で毛が長くコロと呼んでいた事を覚えている。
それ以後生き物を飼う事を辞めた、矢張私には犬猫とは縁が無さそうだ。

何気無い心使い

猫と犬

2013年03月30日 18時39分38秒 | ペタンク爺さんの一日
人間の身近な生活の中に大昔か関わてい動物に犬と猫がいる、幼年期から少年期に最大に関心を持っていた時期があるがその項は家の事情等で持てないでしまったが、その少年の不満を解消してくれる事があって少年の心は豊に育って行ったと思いる。
春三月か四月項と思われる時に家の前が銭湯であり路上でどこかの知ないおじさんがふ化したばかりの黄色い、それはそれは可愛いヒヨコを売ってぃたその項の金額で安かったと覚えているが、その怪しいおじさんの話ではこのヒヨコはメスなので大きくなったら卵を生むよに、それは少年の心を完全に掴まえていた。
それはまだ寒い時期から始まるので自分の布団の中まで入れていたと思う、幼稚園や、学校もあったので留守の間は母親に頼んではいるが、完璧とは云えない母親の仕事とがあるし私の下に2~3人の妹達もいた、家で商売もしている私の家では猫は飼っていなかつたがネズミ対作とて飼い猫はゴロゴロしていた時代で、易しい鶏鳥小屋ではあっさりと破られ猫の餌になっていた。
今から思ぃ出しても夏迄生きていた鶏はいなかったと思ってぃる。
そんな幼児体験もあり猫が大きらいになったことも頷ける。

東札幌病院の病室の南側に一日中陽が射している樣なロビーがある、テレビ、レンジ、タブレット、も置てあり喫茶コナーの様相もある、横の棚に本物と見違うぼどの猫がいるのが判っていた、問題は見た目では非常に可愛いく愛らしい表情に心を動かされ画像に残す。

人間も同じだが、可愛い奴は得をするのかな(゜〇゜;)?????


ドコモともおっき合いに

2013年03月29日 14時27分50秒 | ペタンク爺さんの一日
私の頭の中では携帯電話とPCが同じになるなと考へもお呼びもっかがなかったが、必要に駆られて一番最初にわが家の近くにある家電のヤマダに簡単に使えるものがあるのかどうかと下見行った話の中ではどうも私の希望とはかけ離れいる話にるなる、しきりにドコモさんの所でやっているとで終っていた。
次の段階で、いよいよ長期間の入院がまぼ決リ入院中の手術の前日に外出許可をもらって早朝から近くのドコモに顔とあす、その前にネットで調べると今月の13日に出たばかり、最も私のさがしていたものがあったのだ、思いがけないさとに一括払ぃて”なく月々の電話料金とー諸にと、少し長くなるが昔の携帯電話料ほとで済むことが判った、それに思ぃがけない2万円のキヤッシュバックがあった、良い買物をしたと思った。
其から大手術の当日も含め更続けている、術後始めて傷ついている、胃の中に.200ccの流動物を飲んだ、今の所異常ない、この日から食べることが仕事になる。
今日も屋上の温室に行って来る。


一進一退

2013年03月28日 15時42分38秒 | ペタンク爺さんの一日
今朝あれほど元気だつたのに夕方は麻酔が切れて一時回復するまで苦しんでいた、兎に角病院内の時計の運きが物凄く遅いのが、しやくの種だ背中に痛み止めの薬が針打込まれ常時薬が入つて来る仕掛けでコントロールされている、薬がきかなくなったら薬を変え行く兎に角患者には負担を掛けさせない徹底さ、本当に有難いこと思っている。
その午前中の元気の問にこの病棟の屋上し可愛らい温室がありはじめて訪れた、用心をきして私は車椅子で妹が付きそって、これが看護婦さんの条件だったので、さもありなんと思つている。
そんなに元気印が今は酸素吸入付になっている、手術してまだ2日しか経っていないのだからと云えば無理からぬこと思える。

久しぶりに髭そりでさつぱり、日が落ちた後は元気になった。元気も不元気も紙一重、ほっておぃてもそりあ~無理だ、感謝あるのみ。


大王の 裁きが決まり 還される

2013年03月27日 16時42分07秒 | ペタンク爺さんの一日
昨日午後2時半に始った手術は予想に反して5時間ほどの長時間になつていた、後から聞かされた話でヘルニア手術の7時の匹敵するロングになつていた。其れにしても30年も経っていたので、医学の進歩には凄いと思った手術前の精神精神的サポート、痛みが全く無く、一番おそれていた手術後2・3日の苦しさと痛みは覚悟をしていたが痛み苦しさが全くなかつたキッネにばかされたかの様だった。
今曰は午前中トイレに行った沢山あった体からの管が今は4本くらいに減っていつた、中日は睡魔に襲われているが頑張って寝ないようにしている夜中に一人は寂しい。
想像していたより回復のが早い嬉しい限りだ。
今日同室の人が退院して行った私と同じ病名で退院迄にひと月と言っていた、短い間のおっきあいだったが様々な情報を教えてもらった、最悪期が過ぎたと思つている。
其れにしても胃の四分の三を切り取った、お腹が引っ込んでいるように感じる。

パウダースノーの魅力

2013年03月26日 09時05分52秒 | ペタンク爺さんの一日
今から4年前今回のように手術後の体力回復をかねて十勝岳直下にある吹上温泉に一週間ほど湯治に出かけた事がある、2月の寒い時で標高の高い所なので連日マイナス20度の世界で過した時に少し人生観が変ってしまった、子供達とスキー人生で過し、50歳で夫婦で始めたペタンクで雪の世界から遠ざかってが、また雪の世界に引き戻される、それはパウダースノーの魅力に他ならない、スキー人生は長いがゲレンデの圧雪整備された雪の上だつた、雪には自然の降つたままの雪がある気温さえ低ければパウダースノーのになってくる、その雪の中をスキーでが理想なのだが体力が落てしまったのと、用具を見に行ったら昔と様代わりしていて板も巾広く重く、それに一揃えとなると高額になり、もうそれだけの資本投下してもと諦める。
その時に思いついた橇、最初はボードの改良から今は色々と資材集めて手作り橇を作って滑走テストを繰り返した、ほぼ完成度に近ずいたので改良は加えていない。
そんな橇を持って山に通っている、其れにしても今年の札幌の雪質は悪かつた、パウダースノーの雪質は無かったと思う、ゴンドラで山を上れるのは藻岩山しかない他のスキー場では乘せてくれないしゲレンデの中も滑走禁止だ、そんな環境なのでスキー場はクローズ後に足で歩いて登り滑っているのが現状で、橇が一般的に理解されるまでにはもう少し時間かかりそうだ、藻岩山でも滑走禁止の林の中の北科面を利用している。

運良く手術が成功して退院出来ても4月も末になる、残るのはニセコアンヌプリだけだが直ぐには無理だ今年の橇シーズンも終のた。
来シーズン迄に体力を回復し橇文化の確立が最後に残つた私の使命と思っている。

いよいよ昼から手術が始まる、夕べから下剤と朝には浣腸等で最後の準備を終えている。
100パーセント成功はないと思うけれど、自分の運命信じるしかない。


丸腰で戦場へ

2013年03月25日 17時36分04秒 | ペタンク爺さんの一日
今曰で入院8日目になる、今日は朝から絶食と胃カメラ検査と点滴と紐付き状態夕方近く明日に備えてお風呂に入る。
昨日一日外出許可をもらって自宅まで戻っていたが、帰りがけに月見湯に入つてからと思ったが人ごみの中に入り風邪でももらつたら大変と辞めていた、主術前には決まったセレモニーて"これ迄に4回も経験している慣れると言うことはない。
戦国時代に先鋒、精鋭、旗本も全部出払い本陣だけになった今川義元のなのが、ただ近代戦最後の砦の現代医学が味方がついている、そんなことをぼんやり考えながら明日の決戦の曰を迎える昨日慌ただしく揃えたドコモのタブレット即席操作でブログの更新が出来そう、ひと月は鎖に繋がれた状態この間に操作勉強ができる。

何日後に発信出来るか。

障害物競争になる

2013年03月24日 08時24分06秒 | ペタンク爺さんの一日
2002年PCを手にしてから11年も経っているのに気が付く、直ぐHPを作って来ていたが何回か作り直しを繰り返し最近の「ヤッチャンの生きざま」に変わってからも2年は過ぎようとしていた、そのトップページの中に簡単な年表を作ってあり、2013年の今年で79歳に来年の10月の誕生日には満80歳に到達する、ここで親父の歳を超えたことになる、そして目の前の目標は2015年の親父の三十三回忌があった、しかし目標は希望であるが卒寿にあった。
しかし思いがけない大障害物が待ち構えていた、もう4年にもなるが採ってきた雑きのこを食べた夜腹痛になり、早朝病院に行き胃カメラで検査したが異常なくその裏にある胆嚢に大きな石が溜まり動きだしてしまったことにあった、摘出手術入院10日ほどで退院できていた、この時点では胃に異常は全く見られなかった、今回は10日ほど前から胃のむかつき異常を感じ始め胃酸を飲んで済ませていた、そろそろ春も近づき山菜シーズンも来るので人間ドックの気軽さでカルテの残っている東札幌病院に行く、午前中ダンスサークルで午後からの診察だったので、翌日の3月15日胃カメラ検査になる検査後潰瘍が見つかりそのあと、検査が色々あるので短期入院してはと云うことになり週明けの18日の入院と云うことになった。
入院1日目(レントゲン、心電図、肺活量検査、MRI)2日目(エコ検査、心電図)3日目(大腸検査)4日目ポリープ三個摘出、点滴3本。5日目検査結果と今後の治療方法(進行性胃癌と発表し、胃の四分の三を摘出が決まる)手術日が26日と決まる。6日目(外科病棟に移る)レントゲン検査。
24日の入院7日目身辺整理の為外出許可をもらい帰宅、久しぶりにブログ更新。(東札幌病院外科病棟701)

今日最大の外出目的は、PCタブレットを手に入れることだった、最後の最後まで信号を発信し続けることを目指したいと思っている。
手術後何日目になるかサインを出すのを楽しみにしている。
朝早くから外出していて、朝は久しぶりに自宅にてパン食、昼は近くの蕎麦やで、夕食は妹が作った普段のご飯を食べた後病院に戻る。

お昼はお蕎麦
留守役は五月人形



藻岩レーンシグ爺&爺会

2013年03月17日 18時21分50秒 | ペタンク爺さんの一日
藻岩レーシング父母会メンバーの中心的な会員であった阿部氏、久しぶりに旧交を温める、私が少し早かったがA氏も連れ添いに先立たれて2年は過ぎていた、比較的住まいも近いので近くの銭湯月見湯で遇うことが多かった、春の山菜採りは同じ趣味をもっていたので其のうち二人ずれで山に入ろうとも話し合っていた、先日矢張り月見湯での再会じにクロカンスキーが手に入ったので時々常設コースを歩きに行っているとの話が出た。
私も最近は冬のスポーツは、橇滑りの方に力が入っていてクロカンスキーは年に1回程度で今年も札幌国際スキーマラソンの本番前のコース解放に便乗し10キロコースを歩いて来ただけだった。
スキーをかたずける前に、20日でクローズする白旗山に行こうと決めていた、阿部氏との約束もあり日曜日の今日が久しぶりの好天との予報を信じ10時に白旗山駐車場で落ち合うことにしていた。
シーズン初めと違って、駐車場はガラガラ近かった、やはり今頃になるとスキーで走り回る人が少なくなると実感した、何せ5キロほどのコースだが昨夜から朝方にかけて降った雪も圧雪されクラシカル用にカッターが全コースに引かれていた、選手にしてみれば本当に有り難い施設と思う。
走り終わって、シャワー室も完備されていて国内でもトップ施設であることは間違いない、そんな立派な施設が無料で利用できるのでもう少しクロカンスキーを始めてくれる若者が増えそうと思うが、何年たっても変わらぬところが寂しい。
数年前から、コースが短縮されて今は4.7キロしかない、それでも遊びながら歩いて来たので1時間30分はかかっていた、二人でおしゃべりしながらのお散歩だったのか楽々と廻れ楽しいクロカンスキーだった。

白旗山常設コースを一回り ←動画

明日から4~5日別荘に行ってくるので、ベランダ菜園の種蒔きもする、三つ葉、にら、明日葉をポット植えに、雪が消えたら花壇の隅にでも定置植えにすることにしている。
三つ葉、ニラ、明日葉の種蒔き

(ブログ暫く休みます)

山鼻温泉に浸かりに

2013年03月16日 19時07分06秒 | ペタンク爺さんの一日
札幌市中央区南9条西8丁目にある温泉銭湯です。
当初は普通の銭湯として昭和39年に開業している、私も平成2年頃まで山鼻23条に住んでいたので時たまその前を通っていて、銭湯の裏庭に高い櫓が建っていたことを記憶している、その年に温泉が出たということを後で知った。
平成2年に温泉を掘り当ててからは、温泉銭湯と名乗っている。昔ながらの商店街が残る「山鼻東屯田通り」から路地に少し入った場所にあり歓楽街ススキノにほど近く、必然的に入れ墨者も多いが近頃はめっきり減っている。

久しぶりに山鼻温泉屯田湯に出向く、開業時間が早まったのか午後1時30分にはオープンしていた、温泉は循環式で加熱しているが少し温めなので長風呂になる、お蔭で湯冷めがしない、何時までもぽかぽかしている。
銭湯内の壁に貼ってあるポスターに目が届く、札幌市内の銭湯のスタンプラリーのポスターで毎年開催されているらしい、私の知人で30年も前にそれを実践している人がいた、ポスターを見てその人のことを思い出させていただいた。
この銭湯は建ててからもう50年にもなっている、手入れはしているが基本的なものは昔のままなので昭和の歴史そのものでレトロな所は捨てがたい所もあるが少し時代離れも否めない。
今のオーナーは二代目なので、このまま存続するのか改装するのか外野席がとやかく云うこともないはず。

先日から連絡していたが、何時も留守だったA氏留守電にメッセージを入れておいたが漸く連絡が取れる、今年最初て最後になるクロカンスキーへの誘いに参加しますの返事が取れる、10時に現地集合に決める。
明日は久しぶりに穏やかな日曜日旧交を深める。

銭湯スタンプラリー

春は種蒔きから始まる。

2013年03月15日 16時52分33秒 | ペタンク爺さんの一日
三月も半ばが過ぎようとしているのに、街中の道路の雪山はもう目に余る存在になりつつある、今日は朝から特に温かくなってきているのが肌で感じられる日だった、窓越しなら眠気が差してくる陽気に太陽も南風を持って来ているように感じた。
この時期は、短靴では道路を歩くには雪融けの水溜りを避けて歩かなければならない、防寒靴の他に長靴が必要になるのがこの時期で、真冬でも防寒靴を兼ねた長靴が出回っている、私もそれを冬靴にしていて、予ほどのことがない限りその長靴で間に合っていた、此れは国産品なので安い、山に用意ている冬靴は相当前から秀岳荘から狩猟などで使われているSOREL・カナダ製の靴を履き続けていた、スノーモービルにはこの靴が最も適していた。
札幌市の除雪予算は使い果たしたのか、幹線道路は除雪が行き届いているが普通生活道路は車が一台通れるだけの幅だけで両側は雪の山と云う所が多い。
あと一週間も経過すると街の様子もガラッと変わってくると想像している、此処まで来るともう雪解けが早いはず。

4月になると、ほぼ決まった二十日前後に当団地の総会が予定されている、少し前から若い会長に22日頃役員会開催の案内を出すように云われていた、タイミングを計って出すつもりでいたが、今日朝からの胃カメラ検査で腫瘍が見つかってしまった、4年前の検査では綺麗だったが、とうとう心配していた事態が起きそうになってきた、見た目では大した大きさではなく一部を摘出して検査待ち状態になってしまった、今日はその他にCT検査も済ます、その他の検査もあるとのことで週明けの月曜から短期検査入院することにして帰ってくる、検査が終わらないと今後の治療方法も決まらない。
病院を出ると丁度12時その足で、豊平の更科そばを食べに行く、朝から何も食べていなかったので美味しかった。
帰宅後、そんなわけで、自治会の役員会は予定通り開催できないことを会長に伝えると、それては緊急役員会と云うことで明後日の17日の日曜の夜私の家で開催に変更し、急遽役員5役に通知を出す。・・・やれやれ

此れさえ終わらしおけば、私がいなくても仕事は進んでいると思っている。
種蒔きはこれを見て参考にしている

防寒靴狩猟用
冬用長靴



元気良すぎる病人か?

2013年03月14日 18時05分50秒 | ダンスモード
数日前から少しお腹が空いてくると、胃がもたれ何か判らないが意識しざろうえない状態になっていた、決して痛いと云う訳で無いので、いつもの自己診断で軽い胃炎を起こしていると結論付け、買え置きの太田胃酸を何回か飲んで済ましていた、これは内科の分類に入ると思うが、その他に私が今抱えている老人病は、緑内障は別格として、相当前から前立腺肥大の兆候も出て来ていた最近ますます小便の出が悪いのと夜中の小便回数が多くなっていたのは確かだった、それに今年に入りドライマウスで朝起きると舌までカラカラになっていた、これくらいなら老人になれば誰でもひとつや二つ持病として持ち合わせていると思っている、それゆえ先の見える病気などと、とことんまで医者に掛からないつもりでいたが、今回の胃の不具合は少し気になりだしていた。

今日午前中ダンスレッスンがあり補習まで受けて帰った、もうお昼を過ぎる時間だったのでお腹が空っぽになっていた、この際思い切って病院での診察を受けようと咄嗟に思い付き、診療記録が残っている東札幌病院にのこのこ出かける、もう二年くらい顔を出していなかったが、矢張り行きつけた病院は落ち着く、初めての女医だったが希望診察の胃、前立腺、ドライマウスの事を話す、何となく可笑しくさえある患者と思うが、昔の故郷の町医のことを思い出されてきた、幾らなんでも問診診察だけで判ることなど知れている。
それから、尿検査、血液検査が行われたが、糖尿の気配は無く、血圧もほぼ正常で結局胃の方は翌日カメラを飲むことで診察を終える、薬は明日胃の検査が終わってからと診察料は1,230円で終わった。
来年の10月の誕生日に満80歳になる、この時親父の生きた年を超える、それまでは兎に角元気で生きてゆきたいと生に執着している自分がある、越えた時にどんな心境になるのかその日まで楽しみにしている。

そんな訳で、明日の午前中予約して来た胃の検査に行ってくることにしている。


今日はホワイトデーダンスレッスンでご相伴になる。


月寒公園再整備の5つの目標

2013年03月13日 21時56分47秒 | ペタンク爺さんの一日
(1)様々な人が集う、豊かな活動が繰り広げられる「都市の庭」
(2)魅力ある多様な環境、景観が楽しめる「身近な景勝地」
(3)子供が生き生きと遊び、学べる「環境公園」
(4)公園や地域の歴史、魅力を生かし、伝えて行く「博物園」
(5)だれも安心して利用できる「安全な公園」

今夜第4回月寒公園利活用・管理運営検討会議が午後6時過ぎに月寒公民館で開催された、参加者は20名ほどだが毎回同じ顔ぶれが集まっていた、今日の議題は次年度からの市民協議会の組織作りと進め方だった、公園が完成するころには管理棟も完成し公園管理業者も決まってくる、市民からの窓口組織作りが我々に課せられた大きな仕事で、今日だけでまとめ結論が出る話ではない、いろいろ多様な意見も出た、意見も出尽くした所で今日は終わる。
会議は、全部録画しているので後で今日の話のまとめをして、ひとつの方向が次回示されると思う。
この12月がまとめとなっているが、その前に概要がまとまると思っている。

それにしても、今日は明るいうちは真冬の雨降りだった、ベランダ外の雪山も1m以上も減っているように見えた、こんな日はと昼から「きたえ~る」に出かけていた道路は雪山だが傘を差さなければ歩けなかった、トレーニング室の利用には高校生でも300円一般は500円も払って利用している、シニアだけは無料と恵まれた環境にシニアの利用者も多いのに頷ける、此処に通うのに車は動かさず地下鉄を利用しているが、これも70歳を超えると1万円の乗車優待券を千円で買っている、その1枚のパス券は間もなく年度替わりになるので乗れなくなるが。今日利用した分を入れても3千円ほどしか使っていない、殆んど自家用車が私の足になっていることが良く判る。

きたえ~るのロビーの壁にオリンピックで活躍した北海道出身のアスリート達の写真が飾られている、凄い事をやった人たちだなと時々眺めている。

北のアスリート
北のアスリート02

ウインタースポーツシーズンも終盤

2013年03月12日 18時28分51秒 | 橇爺(そりじい)モード
今シーズンのウインタースポーツの環境は、最悪とまでは行かないが酷い気象条件に左右されたと思う、私の北海道内の過去のアルペン競技の運営環境で全日本レベルの大会でも、当日の朝になって中止及び順延になった場面にスタッフで参加していたこともあった。
アルペンの場合は、よほどでないとないと普通は決行していたと思う、めまぐるしく天候が変わる競技会で、競技が始まり数十人滑ったあと俄かにコースが雲に覆われることもある、後から滑る選手はコースが荒れてくるのでこんな時は最悪なコース条件になる、良いタイムが出るわけがない、それと反対に競技中盤から雲に覆われていたコースが青空か顔をだし晴れあがると、コースが多少荒れていても力がある選手は好タイムを出す。
運不運は、世の常で実力だけで勝てないことも多い。
先日の女子ジャンプ大会でも、天候が悪化し一本だけで競技が終了してしまったこともある、2本目に挽回を期していた選手には最悪だが、運よく1本目に良い成績を上げていた選手には棚からぼたもちと思う。
アルペンのスラロームなどは、2本トータルなので精神的なプレッシャーは相当と思う、完璧に滑りを完成させられるのは滅多にない事だ。

3月いっぱいで藻岩山の橇シーズンも終了してしまう、スキー場がクローズ後ゲレンデ側のコースを滑りも予定に入れている、其のあと手稲山のクローズに合わせ4月は手稲山へのバックカントリー&そり滑りに変わってくる、結構降雪量が多かったが溶け出すとあっという間に消えて行くと思っている。

5月に入ると山菜採りが一枚加わるが、ニセコアンヌプリだけは、天候を見ながら橇シーズンをしめくくることにしている。

2013藻岩山橇滑り ←動画

激動の少年期だった

2013年03月11日 20時10分22秒 | ペタンク爺さんの一日
私が小学校に入学した年は、日本が国連を脱退し英米へ向けて戦線布告した年であった、資源のない日本は経済制裁を受け我慢に我慢を強いられてきていた、特に日本の陸軍が朝鮮は愚か中国を席捲していた、その頃の地図には日本の国の領土には台湾、朝鮮も赤く塗られ日本国になっていた、中国には傀儡政府の満州国を作り中国の蒋介石軍と対峙していた。
その頃も、外に向けて手を広め過ぎた感のある現状と近頃日本の企業が外国に軸足を置いているのと同じでないかと疑問を感じることもあるが、動きが取れなくなっていった状況は日本の軍隊が大きく関わっていた、何と言っても近世の歴史には大国ロシアと戦った日本海海戦がある、その頃は諜報戦も未熟だったこともあり大勝利を収めている、そんな時代背景で英米と対峙した、しかしもうその頃は諜報が発達していて、真珠湾から開戦のことは知られてい、その頃のアメリカの大統領のルーズベルトは国民の厭戦を一気に覆すために、日本の作戦を見逃していた、そしてそれを目のあたりにした国民に向かって戦争追行に導いた恐ろしい男と評価されている所もある。・・・・後年色々な資料が公開されるようになって明らかになってきたと云われている。
この話は、戦時中でも一部の人たちにはささやかれていたとも云われている。

そんな、日本の過去の歴史を見るごとくアメリカを中心にした国々から様々な制裁を受け窮地に立っている国が直ぐそばにある、現在の平和な日本から見ると一般国民生活は日本の明治時代の農民にも似ている、人間の人権は無いも同然、されば他国の人間など動物的感情で接してもおかしくない、教育とは恐ろしいものとつくづく思う、
小学1年の12月真珠湾攻撃の宣戦布告で提灯行列、翌年の2月シンガポール陥落、紀元二千六百年祭と記憶に残る出来事だった。
20年の8月無条件降伏したあと、樺太から引き揚げてきた一般市民が乗っていた貨物船がロシアの潜水艦に魚雷を打つこまれ多数の犠牲者が海に沈んだ、目の鼻の先の疎開先の増毛で大勢の水死体を収容していたことも忘れられない出来事で、ロシアを嫌いになったのはこれが原因と思う。

今日最後に残っていた竹の子の瓶詰を開けおでんの材料に入れる、5月になれは新鮮な物が収穫できる。