ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

今日から里塚温泉ゆとり

2015年03月27日 16時21分15秒 | 自叙伝

昨年秋にリニアルオープンした里塚温泉、日帰り温泉の先鞭をつけた所で隣りの清田区美しが丘の里塚霊園と隣り合していて、有明方面と滝野方面に繋がるルート沿いでもある、昨年から市民農園で借りている遠藤農園も直ぐ近くに位置している。

つきさむ温泉に通い出した初日は、入浴料は600円だったが二日目から750円になり、なんで高くなったのか判らずじまいだった、我家から近いのと早朝風呂だが安いと思い通い始めたが、少し話が違うなと、それなら少し遠くなるが昔から知っている里塚温泉を思いだし、今日から宗旨変えをする、リニアルしてから行っていなかったが兎に角開店時間の9時に合わせ出向く、回数券6回分で3.000円で一回分500円になった。

持ってゆくものは、かみそり、頭髪リキット、だけで石鹸類、タオル、バスタオル、着替上下、がセットで用意されていた、今日は内風呂2種と露天風呂、サウナに入り最後は岩盤湯にも入る、岩盤湯が効いたのか少し湯疲れする、明日は最初に時間を決めて岩盤湯に入り、少しローティションを早める事にした。

帰り道ホーマックに立ち寄る、園芸コーナーに入るとそろそろ準備が整いだした感があり、気になっている資材とか備品の確認をする、サカタのタネ屋さんで売り切れになっていた大和いもの種も入っていた、早速買ってもと思ったが植えるのは5月になる、それまで買ってどう保存するか考えてからと思ったが、兎に角早めに買っておかなければと思っている。

もう一つ、さつま芋の苗は清田JAで売り出すのではないかと待つ事にしている、矢張り地元の苗が一番と思っている、今年は長ネギを植えるが此の苗はJAで出てくるのを待つ事にしている。

 


3ヶ月振りの本格コヒー

2015年03月13日 16時50分02秒 | 自叙伝

昨年の12月以来本格的なコーヒーを飲んでいなかった、院内の売店の狭いスペースだが喫茶コーナーがある、軽食など のメニューもありここ数年で三回も入院していたので、時々喫茶コーナーを利用していた、この間自販機で今流行りの100円コーヒーを飲んでみたが不味くて飲めなかった、矢張リ体質が変わってしまったと思った、然し本当にそうなのかと退院を明日に控え、お世話になった売店の喫茶コーナーに思いきって訪ねる、本格的なドリップ式で目の前でコーヒーを落として出してくれる、所作を眺めて要るだけでも喫茶の雰囲気が伝わって来る、砂糖にもこだわっている、久し振りに飲む本格コヒーに、ドキドキしながら口に含んだ、一瞬旨いと分かった時は嬉しかった 。

ただ前回入院後、朝食は洋食のトーストとコーヒーだったが、朝のパン食が食べれなく成っていた、今日の昼食に始めてパンが出てきた、一口、二口食べたがそれ以上食べる事が出来なかった、自宅に戻っても朝から和食になる、今朝の回診でもう普通のご飯で大丈夫ですと告げられる、朝食は何時もの様に納豆と味噌汁か本格スープのセットになると想像出来る、この他にチーズと苦手なヨーグルトに蜂蜜を混ぜて食べる事にしている。

今回は同居している、妹にも大変世話に成った、面と向かって感謝の言葉を掛けられないはが、今年の8月2.3日の輪西稲荷神社大祭に故郷に一晩泊まりで帰省すると話している、何十年振りの里帰りと思っている、私の悪友だった一人が未だ健在と判って要るので、これも最後の再会と思っている、まず退院後輪西のさくらホテルに予約を入れておこうと決めている。

妹(えんどう)はこの輪西で生まれいる。

 

 

 


不運な遠藤を心配する遠藤。

2015年03月12日 20時15分00秒 | 自叙伝

大相撲名古屋場所が始まった、本場所は見た事はない、関取に一番接近出来るのは札幌場所が月寒ドームで開催する夏頃、直ぐ近くの月見湯が大相撲に貸し切りになる、場所が始まると月見湯玄関前で待ち構えていると、取組が終わった後に月見湯に必ずやって来る、関取の素顔を写真に撮る最高のチャンスです。

今場所は、もっぱら病院内のロビーフロアにあるテレビの前で観戦している、フアンは本名を名乗っている遠藤で、残ばら髪でテビューした時からで、今場所も大銀杏を結うまで髪は伸びていなかった、本名は遠藤聖大で1990年生まれの23歳で日大時代にアマチヤー横綱のタイトルを取っている、大卒後朝青龍の誘いで角界に入ったと云われている、結局日大先輩の元大翔山の追手風部屋からデビユーしている。

遠藤の目標力士は能登半島出身の元横綱輪島さんで、彼の出身地は石川県輪島の近くの穴水町が故郷です。

同性なので先祖を遡ると縁が繋がっているかもと想像を逞しくしている。

今日のテレビ座敷の目の前で不自然な転び方をした、彼の最悪の日にならない事を祈らずにはいられない、明日のニユースが待ち通しい。

院内テレビ座敷も明日一日で終わる。

 

 

 


春のお彼岸近づく

2015年03月11日 14時46分15秒 | 自叙伝

等々退院の日が決まった、大晦日に担ぎ込まれて55日目になる3月14日(土)に決まる、正直最後の傷口はまだ完全に閉じていない、最初は大きな傷口が開いていて中の腸が見えていた、私には若者同様とは行かないまでも回復力が早かった、毎日治療手当てをしていたが、傷口の大きさが日々小さく成っていたのが不思議にも思えるくらいだった、傷口の中からも肉が盛り上がって来ると同じに傷口も小さく成って行った。

子供が転んで膝に大きな傷を付けてしまった、大人が直ぐ水で傷口を洗い消毒液 で洗い、その後赤チンキでも塗っておけば自力回復力が早くて元気な子どもなどは、その後かさびたになり、見る見る内にそのかさびたも小さくなりいつの間に完治している、傷口は残っも大人になると跡形も無くなっていることも多い。

ただ70歳を過ぎてから切腹を立て続けに三回も、自分ながら良く持ちこたえたと親から貰った体に感謝している。.

この歳になると傷口は残ったまま、切腹跡が痛々しい。

今年は春のお彼岸にはスコツプを持って雪割りをしながらでも父母と愛妻が眠る墓参りに行き、未だ生かされている事に感謝と退院報告をしに行って来ます、お袋の大好きだつた牡丹餅、親父には多聞酒を持参する事にしている。

今年のお彼岸は彼岸の入りが3月18日で彼岸の中日が21日で彼岸明けが3月24日に成っている。

牡丹餅はサザエさんに決めている、今日トマトを買いにダイエー迄行ってくる、往復一時間休まず帰院してくる、途中休むほどの疲労も出なかったのは、矢張自主トレが効果をあげていると思った、ここでの自主トレも今日を入れてあと3日となる。

 

 

 

 


遠藤農園2年目~~

2015年03月10日 15時46分33秒 | 自叙伝

今年も5月から直ぐ隣の清田区の真栄の佐々木市民農園を続ける事にしている、昨年と同じ所で近くまで車で行けるのと水道まで、完備され春の荒起こしはやっており本当に俄百姓には有難い、昨年使ったネットや竹材など、これまた近くの小屋に保管してもらっている。

退院後、直ぐ秋に確保ていた落ち葉に米糠など混ぜて堆肥擬きを作る作業を始める事にしている、仮設温室と発泡スチロール箱を利用する事で、完璧では無いが堆肥擬きが出来ると思っている、橇作り用に集めていた箱が沢山あるので、今年は農園作業の方に利用変更する事にしている 。

4月に入ってからでも間に合うと思っているが、種まきをして苗作りをサンルームを解体する前に、作る作業も始めていなければ、5月迄準備のための農作業の多いこと、これも又楽しみのひとつです。

 昨年と違った野菜に今年は、さつま芋とやまといもを作る、さつま芋は北海道で作り出した所が出てきて気候的に芋が甘くなると云われている、作り方もどちらかと云うと素人でも作れる野菜に入ると云われている、兎に角実験的に別畝にこの二種をと考えいる、この他に 昨年作ったトーモロコシ、枝豆、ししとう、馬鈴薯、トマト、いんげん豆、きゅうり、大根、ニンジン、カブ、キヤベツと欲張ったた畑作です、虫避けにシソ類とハーブを植える事にしている。

 想像しただけで、育つ過程が楽しみです、今年は2年生になるので多分遠藤農園も進歩していると確信している。

今年も竹内キサ先生のサポートを受けながらやる事にしている。

 

 


ペタンク爺さん自主トレ再開

2015年03月09日 14時15分11秒 | 自叙伝

2月27曰から先の先を考えまだ食事も始まってもいないのに、プロ野球のオープン戦を前にした様 な、自主トレをこっそり始めていた、自歩行 マシーンと、60段の階段の上り下りと、これくらいならと開始し5日間ほど続けていた、まだ臍の横に開けた穴がふさがっていない状態でのトレーニングは、矢張少し早かった、この後食事が出てきて体調が狂う、お粥から3分粥から5分粥、今は7分粥に今週中には普通のご飯と言う所まで来ている、医院食以外に栄養の高い副食も取っている、朝風呂も毎日一週間も過ぎた30分は掛かっている、結構体力も必要で湯治が始まっていると思っている。

今日の回診で間もなく普通食事にと告げられる、此で決心が付きあ5日間休んでいた自主トレを開始する、今日は軽く80階段の上り下り1セットで終わる。

退院まで続く、今朝から牛乳を付けて貰う事にして貰う。

今年も5月には、自家用の竹の子くくらいは採れると確信している、夢は膨らむばかりだ。

 

 

 


日曜日の外来~~~

2015年03月08日 18時56分42秒 | 自叙伝

今日も日曜日がやって来た、本州と北海道を結ぶ海底トンネルは可なり早くから出来上がっていた、そのトンネル内を往復する北海道新幹線の列車も函館まで到着し、只今試験運転で東京函館間をテスト走行中、札幌迄延びて来るのは先の話だが、取り合えず函館をスタートにして営業を始める、当初より一年早く来年から北海道新幹線が走り出す、万全を期しての準備が進行中、日本の国力をかけでの一大事業 、函館迄行けば利用出来るので生きている内に乗車可能と成った。

夢が現実になる瞬間を確めようとしている、長生きはするもんだと夢が膨らむ。

今回も染谷先生に助けられる、今回は仏の顔も三度目に成っている、此で最後と肝に命じ老人らしく生きて行こうと決心する。

大腸の一部を切断し縫い合わせたと簡単に云えるが、担当医は順序よく確認しながら経過を見守っているのが伝わって来ていた。

縫合した所が完全に繋がり、普通に便が通り抜けられるか、開通を待った所が三日間も便秘が続く、昨日座薬で一番列車が通過する、お粥しか食べて居なかったのにかたい硬便だった、朝から柔らかくする薬を飲みすぎて今度は下痢気味、夕食から薬を最低量に切り替える事にしている、兎に角我が海底トンネルは完全に出来上がった。

体調も食事が始まってから1k増えて46k台に乗る、普通食事が出てくるのも時間の問題でもう足りない分は補食で上乗せする、毎朝牛乳も出て来る、暖めて砂糖を少々それにエレンタールを混ぜて飲み出した、朝からコーヒー代わりになり始めている。

一番飲みやすい方法を発見する、北海道新幹線よりひと足お先に我が体内の海底トンネルを利用し営業運転を開始した。

 

 

 

 

 

 

 


朝ドラを見て

2015年03月07日 13時42分22秒 | 自叙伝

NHKの朝ドラのマツサンを見ている、故郷の輪西の町からも大勢の人達が赤紙一枚で戦地に引きづり出されていた、一家の大黒柱を引っこ抜いて持っていかれた残った家族は惨めなものだと今にして思う事だが、少年の頃は洗脳されていたので勇ましさだけ焼き付いていた、戦争も後半になり玉砕のニユースが流れる様に成っても、必ず神風が吹き戦況が好転すると信じていた少年の1人だった。

記憶が残り始めた3.4歳の項は室蘭の市立病院の近くにあった魚屋さんの二階に間借りしていた、越後人が通った後には草も生えないと云われていた時代、北海道に渡って二年間くらいの間に蓄財したのか、製鉄所の城下町の輪西の中心地の一角の角地に我が家を確保する、初めは大工を平行させていたと思うが、自宅を店舗に自ら改装し遠藤百貨店店を開業する、ここから商人及び実業家へと変身して行く、育った環境から大工に成ったが、夢は別な所にあったと思う親父だった、と理解している、実家の母親とあわず家督を次男に渡して未開の地の北海道に来て北海直の土になった。

親父のただ一つの欠点は、物凄く短気な所で、趣味は魚釣りだけだった、趣味がが高じて釣具屋になったのも頷ける、落語に出てくる短気な釣り人のことを思い出す。

学歴は無いが、頭が良かった勘も鋭く先を見越 す力があり、聞き上手でもあり耳学問で知識を蓄え、それに人を使うのが本当に上手でもあった、私の10人以上いた兄弟の中で親父の性格を受けついだのが直ぐ下の妹だった、高校卒業式で優等生総代を務め学校からも大学に進学させ医師の道にとの誘いもあった、ただ本人には別な夢があり、それを断ち切るために家出をする、と言っても東京で大工の棟梁をやっていた母親の弟の所に転がり込んで行った、ほとぼりが冷めた頃戻っていたのを思い出す。

親父は妹が女で生まれたことを、悔しがっていた、親の意に従い半民半官の職場に勤めていた人の所に嫁ぐ、義父は法務関係の裁判官も務めた人で並の家系ではなかった、残念な事にどちらも頭の良い同士、男の子二人出来たが破局が来る、最後は夫が自殺してしまっている、悲しい結末に成った、二人の男の子は立派に育った、次男は結婚したが矢張自殺している、しかし三河のど真ん中に建つマンシヨンを残して行った、そのマンションに長男と二人で住み二年位、残った長男は「アスペルガー」で専門の先生のサポートを受けながら母親が信者だった、ユホバの証人の組織の人々の援助を受けながら生活している、甥子の頭の良さは小学生の頃大学の問題でも解ったし、アインシュタインの法則まで理解していたと言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


入院も三ヶ月目に入る。

2015年03月06日 15時55分43秒 | 自叙伝

いささか月日の過ぎ去って行く感じも、医院の窓から見る風景でも感じて来ている、今はじっと耐えるだけ、今朝の回診でも順調に経過しているとの言葉が飛び出す。

同部屋の患者さん達から見ると、本当に親から貰った体に感謝しています、80歳にしてこの間に二度の手術を受けて、現在回復中、並の体力でなかった生命力が残っていたと自分ながら驚いている、私には大望は残っていないが、まだやり残した事があり未だに生かされていると思う様に成っている、大事に使って往生したいと思う。

 我が家の祖先の事は前にも書いた事があるが、今から900年も遡るが1193~1276年に活躍期に有った、遠藤正遠 (遠藤左衛門尉藤原正遠)がかなり高齢だったが鎌倉幕府の役人で日蓮上人の佐渡への島流しに同行していた、佐渡迄の途中で日蓮上人に諭され改宗する、更に幕府の士官を辞めて佐渡に留まる。

1274年日蓮上人が赦されて鎌倉に帰る時は正遠は81歳の高齢と老衰だつた。

その後子孫は佐渡に留まり11代目の時に対岸の角田は先祖改宗の聖地となリ、隣村五ケ浜に移住している、特に晩年親父は酒が入ると子供達の前で話して聞かしていた、最後に此れを辿って行くと藤原鎌足に行き付き家紋ロは藤原家の下がり藤と耳にタコが出来るほどだった、今はなっかしい思い出と成っている。

今日でも、毎年4月28日 日蓮上人からいただいた判を遠藤家より角田妙光寺に、開扉結縁をおこ 成っている、「御判さま」と呼ばれ全国から信者が集まって来る、私は参加したことは無い。

還暦の時に始めて角田妙光寺を訪ね某かお布施を納めて来ている。

 

 


温暖期に入ったか地球

2015年03月05日 15時41分49秒 | 自叙伝

今年の北海道の平均気温は上がっている、更に海水温まであがって南海の魚まで北上し農作物の米でも何処でも作れる周期に成ってしまった、簡単に喜んでも要られない。北極圏も冬でも航路を開いたり、エベレストきゅうの氷河が大量に溶け出したり、北海道の雪質も新潟辺りの水分の多い雪に変わったり、積雪が少ない道北や道東が、この湿雪に大きな被害を受けている。

この年齢に成ってしまったせいか、様々な結果に成ろうが、良いときばかりは無いと同時に悪い時ばかりも無い、と少し達観し物事を視る眼も少しは大人に成ったかなと思っている。

主治医の回診は早い8時間には決まっていた、11時少し過ぎるとお風呂の準備が整いましたとお呼びがかかる、一番風呂で今日は貸し切りだった、病院に入院中から湯治が始まった感もある、完全に絆口が塞がっていないがお風呂に入っても痛くも無い、長湯すると疲れるので30分程度に止めている。

自主トレも中断しているので、午後からの時間が長く感じられる様になる、体調も順調に経緯している、家ではやらない読書を始めようとしたが老眼鏡だけでは字が読めず、妹にルーペを頼んでいたが、間違って虫めがねを持て来ていた、今日は別件もあり昼からひよっこり顔を出す、欲しかったルーペも持参してくれて役者が揃う、俄読書家に時々変身する事になる。

まだ函館迄だが、北海道新幹線が一年早く開業する、冥土の土産に乗車する夢が一つ増える。

 

 

 

 

 

 


起床6時朝風呂毎日睡眠午後10時

2015年03月04日 17時05分42秒 | 自叙伝

規則正しいスケジユールが守られ るようにと限られた環境の中で、頑張る日が続く、今日も朝風呂から出て来ると昼ご飯が届いている、朝は具無し味噌汁だったが昼はスープが主だった、味に梅味噌、昼に鯛味噌が付いていた、鯛味噌は内緒で食事が始まった時には買って用意して程で病人の常食と思っている、普段から常人の一人前は食べられない胃袋に成っていたので今回の食事も出ているもの全部は食べれない、家に居るときは間食用に栄養価値の高いお菓子類を中心に数点買い置きをしておくのが習慣に成っていた。

今回の入院前半には昔お菓子類を用意し時々つまんでいた、今は其処まで回復していない、固形物が食べれる様になったら外出許可をもらって近くのタイエイまで、副食 を探しに行こうと思っている、楽しい時間が過ごせそうですね。

26日に二時間の外出許可をもらってダイエイまで行った翌日から、自主トレ特別メニューを始めていた、体の回復に影響があると暫く中断を決意する。

まだ完全に絆口は塞がっていない状態では、当たり前と思っている自分も居ることに気が付く、我慢のし所と冷静に考えている。

農業への伝導者

物心付いた頃から親父の背中を見て育つていたので自然に将来は商人になるべきと刷り込まれていたと思う、しかし私のもうひとつの夢は帯広に有った帯広畜産大学に入学したいと大きな夢も有った、酪農に関わる仕事は多岐にわたるが、その頃は漠然としていたが私の学力程度で入学試験を合格するとは考えられないと断念していた、北海道の広大の牧場や畑に馬や牛を相手にする仕事は、性格的にも適して要ると自分を理解していたことを思い出す、・・・高校入試の時商人を目指すか大学に進む道を選ぶかで高校を選択する段階で、この時普通高校は無試験で入学出来ていた、この時すでに商人を志して商業高校の入試を受けていた倍率は1,5倍の競争率で、自信は無かったが合格発表の日に学校まで見に行ったことを覚えている、何となく誇らしく感じる。

あれから60数年農業への導きはSTVの桃栗三年の河村通夫の動画がきっかけになった、彼も札幌から遠からぬ所で実践農家をやっていて、年に数回動画投稿もやってくれている、氏の講義は易しい、畳一枚で何が作れるかと解説も素人向き。

お陰で昨年の5月から15坪(畳30枚)の市民農園を借りて始まった農業実践、楽しかった思わぬ収穫もあったり、何が一番かと云うと毎日とは行かないが畑通いで病後の回復に大きく貢献出来た事とだった、無論今年も継続契約もしていて、5月になるのを楽しみにしている。

              


南国沖縄名物のポンカンを食べる。

2015年03月03日 20時29分01秒 | 自叙伝

今朝から等々食事が出て来た、いよいよ口からも生きる為の素材、原料がも入って来る、90パーゼント 水分で噛む物はひと欠片も入つていない、少年の頃に障子紙張りに使っていたお米で作っていた糊を想像する、其れを水を足して増やしたご飯、米粒は何処にも見当たらない、此れで自前の肛門から出て来るのかといぶかる、今日も昼ご飯前に入浴時間がセットされていて長湯は出来ないが、シヤーワから始まり頭から足の先まで洗い流す、上がり際首までお風呂に浸かるフエリーの風呂施設に良く似た感じ、兎に角一週間休み無しのスケジュールが決まっていた、湯上がり後昼食がセットされていた、朝食と殆んど変わらない、美味しいから食べると言う類いではない、体内の内燃機関を動かす燃料と思うと、頑張って食べれる所まで頑張ろうと自分を叱咤激励する。

出たものを完食にはほど遠いが、78割は食べた、食事の他に栄養剤ドリンクの300Lが

がある水見たいものだが飲みにくく、工夫をしながら 最低のノルマを達成している、お昼頃妹が頼んでいた物を持って来てくれる、久し振りに二人で食事を共にする、 先日沖縄に住む末の妹夫婦の所から送って来てくれでいた名物の果物のポンカンを 食べれる様になったら早速食べようと待ち構えていた、そのまま生で食べるのが一番と思っていたが現在の食事に仲間入りも出来ないが、液体にしてしまえば食べれると気が付きレモン絞りを持参してもらう、目的は経腸栄養剤粉末80を300にして飲まなければならないのだが、兎に角飲みにくいので工夫しなければならない、ポンカンなら相性が良いと咄嗟に思い付き、レモン絞りを頼んでいた、早速一回分 を作る予想以上のものに仕上がり冷蔵庫に入れる一回分でポンカン二個が飲み易かった。

今日の自主トレ特別メニュー…階段登り60段~降り60段

自歩行マシン・500歩~2セット

 

 

 

 


二ヶ月振りのお風呂に浸かる。

2015年03月02日 16時35分33秒 | 自叙伝

今だに一日の小便の回数は変わっていない、体に入るものは点滴で1,000cc、液体栄養剤300ccそれにリンゴ100パセントのジュースが400ccが入って来る、全部小便の材料となる、1曰12~13回はトイレに通っている、それも点滴の台を引きづりながら、昨日から点滴も夜10時項から朝7時項まで解放されるが夜中の小便の回数は変わらない4回位に及ぶので朝3時過ぎに起こされると、そのあと寝っけず明るくなるまで起きてしまう事も度々なっている、おかげでブログ草案を書いている事が多い。

破れた腸を体外に出し其を人工肛門にして終わった一次手術から、完全に終わる間に第二次手術で、一度作った人工肛門の上下数センチづつ切り取り破れている腸を外し縫合する手術を一気にやってしまった、体力が回復していなければ出来ない所、今回の手術で4キロ程の減量で済んで居るので、まだ若さが残っていた事が判った。

体外に露出させていた、人工肛門が無くなったのでポッカリと穴が開き腸内が見えていた、その後その穴は縫合する訳でなく自然肉が盛上って来るのを待つ状態で、その間大量の点滴で援護するので傷口は日ぴ小さくなっているのが判る、多分老人にしてはまだ若さが残っている方と自負している。

今日から毎日お風呂の許可も出る、無論ドップリと首まで浸かり、漸く人並みの生活が戻って来る'、それに明日がらは食事がセツトされた、最初は重湯とスープだが、ここまで来たら退院も見えてくる、明日は雛祭り記憶に残る日に成りそうだ。

食事が始まれば点滴は無くなる。

自主トレ特別メニュー◎自主歩行マシン~500歩×2セット自主トレにも気合いが入る。

 

 

 

 

 


朝鮮人との悪いイメージはガキの頃に逆のぼる

2015年03月01日 19時24分54秒 | 自叙伝

故郷の小さな輪西の町の一角に朝鮮人一家が住みついていた、私より少し年長の少年で一緒に遊ぶ事はなかった、ただ道端で出会うと決まって悪口を吐いていた、この言葉がこの歳になっても脳裏から消えない、未だに言葉の意味も解らないまま70年も過ぎてしまった、現在の隣国の韓国大統領の態度に、戦慄を覚えるのは私ばかりかと思う供に、最後は供に未来思考で解決出来ればと結論付けでいる。

さて子供の喧嘩の啖呵は次のセリフ「ニキビシバラカシナコノモジヘタウマチョンデナー」と囃すと片言の日本語で言葉の反撃に出ていた、「朝鮮、朝鮮とバカニスナ同じ人間ドコチガウピンノカケラデブタタクド」の応酬があったが、何時も口喧嘩で 治まっていた。

戦争が終わると私の故郷も一変した、大きな製鉄所の城下町、強制的に労働の一角を担う為に中国人が大勢いた、終戦と共に中国人がグループを作り大手を振って闊歩していた、中国と日本は対戦国だが、朝鮮は日本の植民地になったこともあり、恨み骨髄に達していた、戦後間もなく治安もままならなない環境のなかの出来事で中国人グループは朝鮮人を見っけると殴る蹴るの乱暴狼藉が毎日の様に町のあちこちで起きていた、兄が中学卒業の年に久し振りに帰宅途中、朝鮮人と間違われ大怪我を負う。

後日中国人代表が我が家迄、謝罪に来て持参の鶏を使って中国料理を作り皆で食べたことを覚えている。

20代後半に衣料品店の経営に行き詰まり、債権者達が様々な対応をしてくる、その中の一人で直接債権者でもないのに、日本刀を持ち込み勝手に泊まり込んでしまつた、その人は朝鮮人で戦中の仕返しをしていた、中国人が帰還すると今度は朝鮮人が台頭して来る'最初は日本 が手を出さなかったパチンコ屋で成功していってる。

自主トレ特別メニュー三日目

自走歩行マシン~~3/1~500歩

 

 

 

 

 

 

 


反転攻撃体制整う

2015年02月28日 14時51分39秒 | 自叙伝

入院前51キロあつた体重も一月後の二次手術の段階で50キロを保つていた、当初の考えでは4月頃に再入院し人工肛門を取る事に考えていたらしくその手はずも伝えて来ていた、一月後の回復力を見た主治医は2月9日に早めてしまった、外見と体力の余力は計る事は難しいと思うが、思いきってやってくれた、後悔はしていない男の我慢のしどころと自分を褒めて要るところもある、術後20 日間大量のエルネオパ2が頸動脈から投与した、計算すると23,500ccが私の体を支えた、それが今日で終わった。代わって普通点滴が一日二本、それに昨日から始まった、経腸栄養剤エレンタール加わった、そのせいか何日振りに便が出た、この分なら来週からは食事も始まると思うが、暫くは重湯とスープからだが力強い一歩が始まると希望は広がるばかりだ、明日から彌生三月我が家の手製の雛人形も飾られて要るとの事 、今年は雛まっりに参加出もないのが寂しさがのこる、せめて散らし寿司が食べれれはと愚痴が出る、今朝の体重は46キロなり。