ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

ゼビオでショッピング

2013年04月30日 19時19分13秒 | ペタンク爺さんの一日
洋服ダンスの中は袖を通さなくなった服がぶら下がっている、何年か前に古着買い取りの店に持ち込んだが酷い値段に査定されたが持ち帰る事もなゆく処分した。
此れならゴミで出した方が良いと思うほどの金額だったが、あれからもう何年も経っているその後一度も来ていない服が又も出ている、第一体重が減ってしまいズボンのウエストは細くなるばかりで、余りにダブダブ、服も同様でもうこれから太ることは無いと結論付けるしかない。
ふだん着ているものも、そこそこの品なのでまだまだ着れるシニア世代になってから息子達から御下がりやら買ってもらったものばかりで、滅多に高額の服は買うことは無かった、着るものは有るのだが、しかし普段気軽に着て歩くものが無いと思っていた、ゼビオにウインドショッピングで時たま出かけるが山専用のお店の前で、観て歩くだけでなかなか手の出るような値段でなかった、別段山登りする訳でないが山裾を歩くトレッキング服装が欲しかった。

お昼過ぎても冷たい雨は止みそうもなかった、思いついたように直ぐ近くにあるゼビオに顔を出すことにする、半分何時ものウインドショッビングだったが、5月の連休期間特別セールの開催中で処分品が溢れていた、どもも寄らす一番奥の山専門店に直行する、一番先にステッキ、トレッキングシューズを買った、ひょっとすると着るものも超激安商品があるかと店の隅々を見て歩くと、何年も売れ残りの超激安の上着とスラックスを発見し、してやったりとこの際まとめて買って帰る、久しぶりの買い物に満足する。

今日の札幌の桜開花予想が発表されたが満開は5月8日、連休中は花見が出来ないかもと危ぶまれている、それにしても本格的な春は何時になるのか、其の頃は今日用意したスタイルで直ぐ近くにある八紘学園の校内を歩き廻ってこようと今から楽しみにしている。

とうとう杖を用意する

;夕食メニュー昨日今日

2013年04月29日 19時24分54秒 | ペタンク爺さんの一日
退院して四夜過ごした、環境の変化だけで激変して行くと同時に食べることの如何に大事なことで有ることを改めて再認識させられた。
家に帰ってから食欲が戻った、ただ胃袋が小さくなったので食物は一気に食べることは出来ない、小さな胃袋に負担をかけないよう口の中に入れた食べ物をよくよく噛んで食べている、昔の早食いは封印しこのことを忠実に守っている、本当に食事を楽しんでいるように思っている。
朝8時の朝食、10時のおやつ、12時の昼食、15時の間食、18時の夕食とおさんどんのインターバル短い、世話をかけている妹に感謝するだけ。
昨夜の夕食と今夜の夕食を写真でアップする、今は全部食べ切れてはいないが見た目で食欲が湧いてくる。

今日は時折陽が差す、穴だらけのベランダ温室も気温は一気に20度を超える、ベランダから外のミニビニールハウスもびっしり汗をかいているのが見えた、ほう結構役立っていることが判る、問題は気温が高くなってくると天候、気温の見極めハウスのビニールを開け閉めする管理が必要となる、今年は我が家の専用園芸士になっているので完璧にホロー出来ると思っている。
ベランダ側は南東を向いている、今日も北西の冷たくて強風が吹いていたが建物が風よけになり太陽が顔さえ覗かせれば穏やかな環境になる、春になると温かい南風はベランダ側を吹き抜ける。
今日、団地のみんなの花壇を覗いて周る、冬じゅう積み上げられた雪が残っていて溶け出した雪解け水で花壇は水浸しだ、これでは花壇いじりはまだ出来ない、それでも乾き出した所から季節の花は忘れじと咲いていた。
今日は、亡妻の月命日花壇から水仙を切って来て飾る。
もう、仏壇のお花は我が家の花壇から採れだす。

今夜の夕食
花壇の花01
花壇の花02
花壇の花03
我が家の水仙

5月に入っても雪が残りそう

2013年04月28日 16時44分39秒 | ペタンク爺さんの一日
朝から冷たい雨が降っている、昨夜は朝方まだ眠れづ病院からもらってきた睡眠誘導剤を飲む、それでもしばらくは眠れなかったので昨日の作業の無理が祟ったかとと思った、今朝朝食時間ギリギリに起こされる、熟睡していて頭の上で食事作りしている妹の動きにも全く分からないで寝ていたことになる、起きても眠気が抜けず窓から覗く表の気配は冷たい雨が降り続く景色に今日の園芸士の仕事は無いと思うと、気力が抜け夕方近くまでデスクワークをやっていた、それでも園芸士魂が湧き上がり昨日作ったミニビニールハウスの最後の仕上げと、入院前に植えていたニラ、みつば、明日葉のポットを此れもミニの方に移動させる。
寒くて成長の遅い、小松菜と菜花もこちらに移動する、これで少しベランダの方はすっきりしてきた、こちらはポット植えしたものが170個ほどになっている、芽出しは5月連休明けになりそうな気配だ、兎に角低温が続く今年の陽気に頭を悩ましているのは私ばかりではないと思っている。

我が団地裏の公園も、どうやら雪が全くなくなる日は5月に入ってしまうとこととなりそうだ、表側の雪をかき集め裏の公園敷地に高さ3.4メートルの雪山が所狭しと積み上げられていた、当団地に入居してから初めての経験だった、ただ、除雪体制が整っていて玄関側と駐車場は全く雪をためることは無かった、見事に雪の始末をやってのけていた。

ただ、稼働が増えたので燃料費が予算以上にかかった、先日行われた自治会の総会で除雪費用とて1年間1戸あたり車の所有者から千円とその他は500円を徴収する事が決まった。
毎年毎年、頭を悩ますのが除雪対策でこれで暫くは安心できると思っている。

狭いハウスにぴっちりと
花壇全景

ミニビニールハウス完成

2013年04月27日 18時34分38秒 | ペタンク爺さんの一日
今年のゴールデンウィークは始ってしまった、残念ながら低温が続いているのと太陽が顔を出す日が極端に少ない、こんな年も珍しい、早い年なら竹の子も顔を出すが山の林道は雪が残っていてまだ車では入れないと思う。
朝から小雨が降り続いていた、自宅で妹の献身的な食事作りに目に見えるように体力は回復している、まだまだエンジンがかかっただけ、全く余裕はない。
花の種が残っていたので、ポットに種を植え付ける結構な量になってきた、今日は2回ホーマックに買い物に出かける、午後からは雨が上がったのでミニハウス用のビニールを買いに行ってくる、菊作り2年目の菊鉢の新芽が顔を出し始めている、低温日が続く予報にもうビニールハウスが必要と組み立てることにする、ビニールだけ新しくして夕方近くまで掛かり完成させる。

ベランダの野菜ポットもこちらに移動させようと思っている、5月連休明けくらいには今年もトマトとえんどうを組み合わせたプランタンを置くようになるので、花ポットも何時までもベランダに居られなくなるミニビニールハウスの活躍に期待する。
何時もは花壇いじりで賑わう団地裏公園も、まだ雪が残っているので人影は全くない、この29日が全国的に晴れマークが付いているのと少し気温が上がって来るので団地の花壇に人影も出てくると思っている。

裏でハウス作りをしていると、当団地の山友達が今年の初物だよとアイヌネギを持って来てくれた、友達は富良野出身で事あるごとに春の山菜秋のきのこと足しげく通っている、自衛隊の演習地まで入り込んでいるみたいだが、この場所は羆の棲家で時には遭遇しているらしい、危険な場所と遠方なので誘われても行ったことは無い、山に行けないのを見越し春一番のギョウジャニンニク、強烈なにおいと共に我が家に到着する。

今夜はアイヌネギの卵とじだが?
生卵禁止で写真のごとき。

ギョウジャニンニク届く
料理する

残りはギョウジャニンニク正油作りに使う。


6年ぶりに内風呂解禁

2013年04月26日 19時02分05秒 | ペタンク爺さんの一日
我が家には入居当時から内風呂があった、市が北ガスとタイアップしていて風呂釜&浴槽を個人的に買ってもらうか、さもなくればリースで使ってもらうと二者択一を迫られたことがあった、無論簡単にりースで使うようにしたが毎月二千円何がしのリース代とガス使用料を払っていた、何時のころから近くの銭湯月見湯に通いだしてから、風呂場は物置に変わってしまっていた其頃浴槽がステンレス製と新しくなっていたが一度も入らずじまいだった、それが今日銭湯に行くのは負担が大きいと内風呂を解禁したが、物置だったこともあり妹の後片づけには二日ほど掛かって今日に間に合わせてくれた。
ところが何年も使っていなかったので風呂の沸かし方をすっかり忘れてしまっていた、こうなると同じ団地内の友達の助けを呼ぶ、すっかり復習を受けガス風呂の使用が出来るようになる、私は気が付かなかったが我が家のベランダはビニールハウスになっているので空気穴を開けるように指導を受ける、最もだと後で気が付く。やれやれ

久しぶりに買い出しのお供をする、帰りしな八紘学園に立ち寄る、今年は畑起しはまだ始まっていなかった、一番奥にあるリンゴ畑の入口に堆肥が山積みされていた、この堆肥をばら撒きした後に畑起しが始まるリンゴ畑の中で学生さんたちがトラックターに乗って作業の真っ最中だった、動き出したばかりの農作業と観てとった。

我が家でも、午前中花壇に先日買ってあった堆肥と肥料を撒き終える、今夜雨になるので土の中に浸透する、その上2.3日後に起こと春の花壇の準備が整う。

昨年挿し木から、鉢植えしていた殆んどの菊も新芽が顔を出し始めていた、此処にも堆肥を撒く、様子を見て肥料も追加することにしている。

堆肥の山
学園内のじんぎすかんクラブ
ヒヤシンス花開く

本日娑婆に舞い戻りました

2013年04月25日 16時53分30秒 | ペタンク爺さんの一日
手術してから丁度ひと月後に退院出来る、入院時聞いていた平均の入院日数だったことが判る、外科で悪い所を取ってしまったからそれで終わりではない、その後ホローで再発を防ぐため抗がん剤治療が始っている、患者の個人差もあるので手術後の、治療内容や治療テンポも変わってくる。
私の場合は、手術後間もなく抗がん剤治療が始まった、途端にいくつかの副作用か現われて苦しんだ最後は体がアレルギー体質になり体中湿疹が出てしまい、抗がん剤治療は其処で中断し湿疹治療に当った、今は間もなく終息すると思っているがその治療薬を飲み続けている。
5月に入って間もなく抗がん剤治療が再開される、入院時の患者の抵抗力を見て薬の量を減らして始めるとのことで、この程度なら外来で処置出来るとの判断で今日の隊員に繋がっている。
癌患者の宿命で抗がん剤治療は避けられない処置になっている、40数年も前に母親が子宮がんで北大で放射線治療をやっていたことを鮮明に覚えている、副作用で苦しんでいた姿は悲しかった。
それでも、7年間命が繋がり孫(私の長男)の顔を見て逝った、たった一つ親孝行ができたかなと思う。

今日から、本格的にと云っても体力との相談でテレビのらくらく園芸の河村さんを先生に2013年の園芸士が再開された、公園の真ん中にはまだ雪が残っている、雪割する力は無いので自然に任す、一回り花壇を覗いて周る地温が低いので植物の成長が遅い、花作りは此れから、ヒャシンスの紫と白の蕾を切り取ってくる、間もなく男の節句がやってくる留守居役をやってくれた武者人形に花を添える。
亡妻が嫁入り道具として持参したもので、父親の形見とも云っていた。
出来れば孫に引き継ぎたいと思っている。

今日は花壇一回りだけ




釣りと親父

2013年04月24日 15時57分01秒 | ペタンク爺さんの一日
魚釣りを始めたのは小学校2~3年生頃と思い出している、その項は輪西町で親父は大工を辞めて百貨店から始まり釣具店を始めていた項と思っているが、小さな輪西の町の少し離れた所に田んぼの様な四角い池があった、一人でのべ竿を持ちその他に米研ぎざるとバケツを持参して、本命の鮒釣りをやっていた飽きると今度は岸の浅い水草の辺りの闘魚すくい、其も飽きると池に浮かんでいる角材を集めて縄で繋ぎイカダ作りをして遊んでいた西に日が傾くと、慌てて帰っていた事を覚えている、商売忙しさと子沢山なので、その項は子供達と遊んでいる時間は無かったと思う、母のイメージは何時も背中に赤子を背負っている姿が目に焼き付いている。
親父に魚釣りに連れられ行ったのは、白老沼の鮒釣りだった帰りには山蕗を採って帰った事を鮮明に覚えている、その後竹蒲、萩野、社台、などの川へヤマベ釣り、海は専ら大平洋海岸で南は長万部近くまで東は曰高の奥まで足を伸ばしていた、近くでは本輪西の防波提でのハモの夜釣リ、それに親父が開拓したスズキの夜釣で良くお供をして歩いている。

その後札幌に出て来てからは、もう私の魚釣は独立していた、それでも数えるだけだが今度は曰本海の海釣にー諸に行ってる。
親父は最後は石狩の防波堤迄タクシーの送り迎えで通っていた、本当に魚釣が好きだつたと思う、居間には必ず囲炉裏が切ってあり釣って來た魚を串刺しに、食べきれないものはワラに炉囲裏の上に吊るしていた、それは親父の晩酌の魚であった。
漫画の世界の星一徹のような親父でもあった、私はとうとう釣り名人にはなれなかった。

一月以上に及ぶ入院も明日で終る、一週間後今度は外來で治療が始まる、曰噌に体力が回復して來ている、少しは抵抗力もついて來ていると思っている。


静と動

2013年04月23日 18時45分03秒 | ペタンク爺さんの一日
昨日そろそろ曰が西に傾きかけた時刻、いつものペタンク爺さんのブログ更新をタブレットを使い病室の横のフロアーでやっていた、間もなく完成に近づいた項病院白衣を着た大柄な男の先生が沖縄の三線を抱えてフロアーにやって來た、その日はたまたまこの外科のフロアーで予定されていたイベントだったのに、私が知らないだけのこと、そのままタブレットを抱えて椅子に座ったままだった、その内病室から動ける患者さんも集り出し狭いフロアーは一杯になった、沖縄音楽を間近に接しるのは初めて、そのまま居座ると何とも言えない三線の音色に合わせ歌い出した、安里屋ゆんた、花、ふるさと、涙そうそう、知床旅情と最後は童神で終わったが途中皆で合唱する歌もあり、思いがけなく心を洗われ感をした。

私の中の静の部分は、子供の項に我流で覚えたハーモニカで同じ項冒険だん吉、のらくろから入り江戸川乱歩小説や猿飛佐助、塚原卜伝、宮本武蔵、鞍馬天狗、三国志、など剣豪ものを友達の回し読みで楽しんでいた、学校の本などは家に帰ってからは開く事は無かった、少し年齢が進むと太閤記、徳川家康など長編小説だった。
大人になると作家を選んで読む様になって行った、好きな人は司馬遼太郎だった、青年、壮年時代は靜は鳴りを沈め専ら考へるより先に動き回るるのが私の行動パターンになっていった、今でも変らないが数年前創造学園在籍の項俳句に興味を持ちサークルに入会した、少し句会の楽しみが分かりかけて來た時に、突然会が活動を辞めてしまった、残念だったがその先の続きは無かった。

退院後は靜と動は半分くらいが良いと思っている。
週末には退院出来そうだが、外来で治療が続くことになりそうだ。



素人園芸士動き出す

2013年04月22日 17時21分28秒 | ペタンク爺さんの一日
昨日久しぶりで我か家で一夜を明かす、睡眠は5時間ほどぐっす寝込んでしまった、何時の項から妹が韓国時代劇テレビのファンでテレビを占領していた、その内も見るようになり仲良くは二人でファンになっていた、昨夜は毎日曜日の午後11時から1時間放映される曰で寝付いたのは翌日になっている。
曰本の時代劇の様に面白くなっているこの頃だが、放映賄間が遅いのが玉に傷この所NHKが放送している「トイン」を観てから寝るのがお決まりになっていた。

目覚めると共に昨夜遅くまでポットに種まき用の士を入れ合計80個ほど作っていたものへ種蒔きを始めた、何せ小さな種なので結構神経を使う、早起きはシニアのの特技なので8時の朝食迄に今年の花壇やプランタンに植える苗作り出来上った、今年は気候が遅れているので定着植えは連休明けくらいと思っているが、今朝我が家を出る時に簡易ハウスの中の温度は30度を指していた、発芽は2O度を超えていなければならない条件が整って來ている事を感じ取った、それ故サッポロの春も例年並に戻るかもと期待はしている。

病人にしては昨日の作業が余程きっかったのか、病院に帰っでからお昼過ぎ迄ベットに横たわりうとうととしてしまった、来週の木曜から抗がん剤治療が量を半分にして再開する、経過を見守りながら治療が続くことになる。


今日はロビーで音楽治療が始った少し元気になると楽しみがふえて来る、また楽しからずや。


戦いの合間に

2013年04月21日 17時15分16秒 | ペタンク爺さんの一日
ひと月以上ベットに繋がれている状態が続いた、本当に一進一退の状態が続いていたが少し良くなったら、今年のらくらく農園の実践に取りかかろうと其れが闘病生活の中での希望の灯だった、手術後体力が回復しないまま抗がん剤治療が始まり週半で薬の副作用が出て来て、数日前から湿疹が出始め体全体に回り始めた、抗がん剤治療も一週間ほどで一時中断し体力回復と湿疹の治療にあたっている、薬のせいか体質が変わってしまっている、一番困ることは極端な偏食になってしまったことだ。
胃袋も小さくなり大した食べれもしないのに、と思いながら体が受け付けてくれる食べ物を探し続けなければならないかと、本当に情けなく思うこともある、健康時の食生活が思い出され、今までの半分でもいいから食べるものか美味しくなってほしいと思っている。

家に帰り今日一番にやった事は、PCのメール処理とスタンドでの車のタイヤ交換、オイル交換、それに燃料を満タンにする、それで午前中かかってしまった、昼食を食べ終わり気にしていた園芸士を再開する、ホーマックに出向き、赤玉、堆肥、肥料、種蒔き土と付随資材を調達する、殆んどは五月連休のころに使うものだが気がはやり揃えてしまった、必要な物だけ車から降ろし後は車に積んだままにしておいた、タイヤ交換を含め今日だけは妹と男女の役は反対になった、なんぼ頑張っても今日は男役には成れなかった、この24日に電子オーブンが到着する、その台もホーマックで買い込んできたが組み立ても妹に任せてしまった。
自分ながら情けないと思っているが、じっと我慢する。
明日の朝、10時までに病院に帰ればいいのでサカタのタネ屋さんから届いている花の種のポット蒔きを完成して行こうと思っている。
我が家の早咲きの花も顔を出し始めた、毎年毎年必ず芽をだし花をつける、人間はこうはいかないなと自然の摂理を知らされる。

直売所も開く
咲き出した花達




届いていた苗

ベランダの外は

外出ならぬ外泊外許可おりる

2013年04月20日 16時42分50秒 | ペタンク爺さんの一日
入院したのは3月18日だった、今年に限り豪雪と云って良いくらい雪の山がそちこちに溢れていた、今日は4月20日とうとう一月を越してしまった三曰寝込むとしばし正常に戻るにも努力がいると云われている、入院当初は秘かに階段の上り降りをやっていたが、手術後何日か休んでいる間に其も出来なくなっていた、抗がん剤治療が始まると幾つかの副作用が出て来て、更に体力を奪われた、今も続いているが湿疹が体のあちこちに現れて悩まされる、抗がん剤治療も今は中止し体力回復と副作用の治療で点滴で補っている。
それでも先が見えて來たのか外出ならぬ外泊の許可までおりる、そろそろ社会復帰への準備が始まったと思っている、私自身今迄の様に自信がないが明日を信じて進むだけと決意を新たにする。
問題は今回の入院で体質が子供の項に戻ったのではないかと考えている、高校生半ば迄アレルギー体質で、いつも湿疹に悩まされていたがその後嘘の様に出て來る事は無かった。
それが治療途中から私を悩ませている、それに甘いものが大好きだったのに体が受っけなくなり、おかずでも甘味が入っていると私の意志に反して体が拒止する様になった、それ故食事作りは大変になってしまうと今から心配している、妹にはこれから大変迷惑をかけると心を傷めている。

此を機会に、前から欲しかった最新の電子オーブンを買う事にする、何せ食べれる量が少いので栄養化の高いもので食れるものを探し出して行かねば、早くから注文していた花の種と苗が届いている、手初めに少しでも何とかしなければならないが5月の連休明けくらい迄に出来れはと思っている。

明日は、朝食を食べてから我家へ向かう。
ニ・三日春らしい札幌になるようだ、心も春に向かっている。

春の足音だけは聞こえて来る

2013年04月19日 17時30分22秒 | ペタンク爺さんの一日
気温10度を超えるると真冬から解放された感じになる、それよりほんの少し高い気温で15度ほどになり、その上風がなく太陽が顔を出していれさえすれば、もう春本番に重なる様に桜が吹きだすと、もうこの辺りになると冬将軍が引きかえす事はない。
桜の開花は北海道は4月末で松前か函館の五稜郭公園から始まっている、札幌の花見のメッカ円山公園の花見は、五月の連休がほぼ定着している、大通り20丁目に住まいしていた項は円山公園は無論の事一山越えた盤渓地域迄が我家の活動範囲に入っていて、事ある事に遊びまわっていた、それ故二人の息子の故郷は札幌円山地域と思っている、円山小学校と向陵中学は二人とも同じだったが、長男は光星高校へ次男は南高の夜学にかよった、次男の為に円山から山鼻地域に釣具店てたたんで移り住んだのもこの項だった。

山鼻地域には長男が30歳を目の前にした頃まで住んでいて、子離れ親離れしたのこの山鼻だった、夫婦二人だけで月寒の市営団地に移り住んで間もなく子供達二人は相次いで結婚した。

月寒の住人になってから花見の会場が変わった、札幌市が運営している平岡の樹木園が我家の二人だけの花見会場となって行った、広さはさほど広くもなく鞋車場があて無料であると共に、樹木が主体に一年を通して楽しませてくれた。
ここの桜は吉野桜の大木が何本かあり、桜の木の下でお弁当を広げると花びらがお弁当の中に落ちて來る、下は整備された芝生、寝転んで桜の木を仰ぎ見ると青い空をバックにした枝先から舞落ちる花弁が顔に落ちてくる、今でも想像出来るひとこまだ。

もうひとつ、此所には桜の遅咲きの八重桜のトンネルが出来る、それ故花見は二回になることもある。・・・いつも亡婁と來ていた思い出の公園です。
今年は妹と行こうと思っている。

春の香りが届く

2013年04月18日 15時44分24秒 | ペタンク爺さんの一日
隣同士に住んでいたT氏と別れてから20年以上経っているのに歳月の早さをつくづく感じている、思いがけなくT氏がひよっこりお見舞いに現われた、私より幾つか若いはず、彼の顔の皺の深さを見ていると、自分もこれ以上に年輪が顔に現れているのかと自分の内面を見っめている、この度の病院入で頭の髪の毛がめっきり白くなっているのに気が付く、退院したら染めて見ようかとも思っているが、いやいや自然の方が正しいと考へ直してもいる。
今項は雪の下がら顔を出したばかりの蕗の薹を収穫して来て、味噌和えにして春を味わっていた、しかし今年に限り諦めていた春の行事だったが、彼が手土産として採れたばかりの蕗の薹で作った味噌和えを届けてくれた。
思ってもいない贈り物に、旧友の心の暖かさを思い知らされる、彼とは職場の同僚でスキー部創設に始めから加わり、藻岩山スキー場でスキーパトロールもー諸にやって来た友人だった、その頃勤めながら円山で釣具店もやっていて店番は専ら女房に任せ、ー諸に魚釣ばかり、寝るのを削ってまで遊んでいた仲間だった、その項から春の山菜取り仲間でもあった、今は楽しい思い出として残っている。

その彼も魚釣は殆ど止めてしまい、それでも山菜採りで山歩きは続けているとの事で、私も今年は駄目だが来春はー諸にと約束をする。

友遠方より來る、また楽しからずや。




ペタンクに出合って25年経った

2013年04月17日 16時04分52秒 | ペタンク爺さんの一日
1987年にペタンクに出合って25年も過ぎてしまった、創設間もない日本ペタング協会が北海道まで晉及活動に來てくれた、夏も過ぎ秋項と思っているが函館の五稜郭公園での講習会で口髭がトレードマークの北林氏の華麗なテクニックを目の当たりにして、これは年老いても出来るスポーツだと閃き、と、同時に女房ともー諸に出来ると確証得たのもこの時の出合がきっかけになる、翌年の札幌ペタンク恊会創設にむけて忙しい冬を過ごした、当時は友人と始めたスポーツイベント会社の役員をやっていたので、本業の仕事をこなしながら、春には札幌ペタンク協会の設立までこぎっけた、今迄の顧ねを振るに活用すると共に会社の中の私のデスクが恊会事務所となった。

会社を色々利用しいたが、その内会社にもプラスにと思い恊会の企画、運営は私が切り盛りしていた、その項親しくしていた北海道新聞の事業副部長に世の中に善人ばかりでないよと忠告を受けた事があったが、私の過去の中では善意だけの付き合いだったのて"よもやとは思っていたが、忠告が当たってしまった、現在は当時の関係者は殆ど残っていないが、私が直接指導した人達も数えるだけになっている。
創設から7年目くらいに札幌ペタンククラブに、その後恊会を離れて日本ペタングリーグに参加し北海道ペタンクリーグを立ち上げる、途中JPBUに名前が代わり会長を努めていたが女房に先立たれ、一線から身を引く、数年前日本のペタンク組織一本化を進める為にもと日本ペタンク恊会に復帰する、若い後継者も育ってもう私の役目も終わったと思っている。

全国的にはまだ組織の一本化になっていないのが気がかりです。

プランタンのチューリップ日に日に大きくなる。


活動大写真

2013年04月16日 15時22分48秒 | ペタンク爺さんの一日
子供時代で一番印象に残っている映画は漫画映画の桃太郎の真珠湾戦争を描いたものだった、学校ごと見に行ったと記憶している、子供だけで入れる時代ではなかった。
大平洋戦争の開戦間もなくの項で、戦争を高揚させる事が目的の映画だったが子供達はこんな所から洗脳されて行った、同じ項アメリカではカラーのデズニーの長編映画が作られていたと後で知るが、こんな所にも國カの違いは慄然としていた。
日本映画のカラー化戦後になるが、当時は白黒映画で時には無声映画も上映されることもあった。
古い俳優では高瀬みのる、古川ロツパ、エノケン、岸田けんいち、当、喜劇俳優とよばれていた戦時中は専ら戦争映画が多かったと覚えている、小さな故郷の町輪西でも大盛館と大国館の二軒の映画舘があった、映画が始まるとニュース映画が上映され南方方面で活躍している曰本軍の勝ち戦の動画が多かった、それでも後半になると白い遺骨を首から下げて帰還する姿もニュース映画の中にも流れるようになり、玉砕、玉砕と続くようになった、それでも本土決戦と婦人部隊が結成され竹ヤリを持っての訓練をしていたことを覚えている。
子供心に何の疑いを持っていなかったが、後年教育の大事さを思い知らされる。
テレビが始まる項までは映画は娯楽の花形だった三本立映画もこの項だった。

戦後の映画の中で青い山脈は生涯忘れられない映画であり、私の青春時代と重なっている。
永遠の美女・原節子・・・

昨日は東札幌病院の開院記念曰で赤飯と饅頭が出るが半分も食れなかった。