ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

チツプ釣りと親父

2015年06月02日 17時27分33秒 | 釣夜話

親父から魚釣りを直伝してもらったのは白老湖の鮒釣りから始まっている、小学生時代と思っている が釣って来た魚は背開きして焼き干しにして食べていた記憶が残っている、どんな魚でも粗末にすることは無かった、海釣りは室蘭港の白防波堤が圧倒的に多かった、魚種は多岐でカレー、あぶらこ、ガヤ、そい、どんこ、ハモ、時にはカスベ、サメ、小物ではチカ、サバ等一年中楽しめる釣り場で初心者からベテランの釣り師まで賑わった最大の漁場であつた、ここの釣場は親父のお伴しての夜釣りでハモ釣りでの思い出が強烈に残り今でもその時の映像が浮かんでくるほどだ。

戦後、姫鱒釣が始まったのは登別の倶多楽湖や洞爺湖だった、現在は支笏湖のチツプ釣りが支流になっているが、私が円山釣具店時代には6月1日の解禁日には必ず参加していた、当時は支笏湖線もなく恵庭市から丸駒温泉へ抜けるルートでポロピナイに出てボートを借りていた、釣り方はリール釣が定着したのもこの頃です。

親父と行った倶多楽湖のチツプ釣りは5月1日が解禁日で、矢張ボートを湖水に出し18尺ほどの継ぎ竿を使い浮き釣りで一人2本ほどとリール竿2本位で底釣りの両方で釣っていた、ここのチツプは環境で余り大きく育たず精々25cmほどだったが、美味しさには変わりが無かった、ここはチツプの他に対岸で採れる春椎茸がお土産になった。

洞爺湖のチツプ釣りは目立たないが、魚体も大きく岸から投げ竿の浮き釣りを確立させたのも親父達と思う、商売とは言へ良く研究したと思っている。

輪西から伊達、壮瞥、昭和新山を見ながら湖畔にそって、そして変電所のあるところが釣り場だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


5月が待ち遠しい

2015年01月25日 18時01分20秒 | 釣夜話
楽しみながら病後の体力回復にと、百姓仕事を気が付いたのは昨年のまだ雪のある内だった、それの他にも前から定宿にしていた十勝岳麓の吹き上げ温泉に湯治に出掛けていた。
五日だったがバックカントリーで三段山山頂、手作り橇で滑り下りる事も出来て、自信が付き五月から始まる市民農園の仲間入りを果たした、楽しい六ヶ月だった、五月から始まった途端に突然の直ぐ下のの妹の死に、自分を振り返る警告でもあったと警告もあったのに過信していたの自分があったのも事実だった。
後悔先に立たずをこの歳になっても繰り返している自分の未熟さに呆れている。
どうも歳をとると考えが単旬に、そして頑固になっているのが薄々解っている。

昨日突然外出許可をもらい帰宅する、PCのメール整理と今日から始まった月寒中央公園で始まっているジヤンボフェステバルの様子を見る為で、私の代役の本間氏が活躍しているのを見て安心して病院まで帰って来た。
明日の日曜日まで続くが、お天気も味方しているみたいだ、久しぶりに沢山の子供達を見た。

親父から釣のいろはを教えてもらったが、私から自分の子供達に教えたのは釣りでなくウインタ一スポーツのスキーだった、直接教えた訳でなく環境を整えるのに私の全能力、財力、時間、をつぎ込んだ、全く悔いの無い子育て時代を過ごして来たと確信している、親父を超すことはできなかったが別の意味で私の役割は完徹したと思っている。
その頃の釣り場は私はもっぱら美国から先の岩場が多く崖をロープを持ち込み人の余り入らない場所を積極的に開拓したり、崖下りしてから組み立て梯子を持ち込んでは若さいっぱいの釣りを楽しんでいた。
それに引き替え親父の釣り方は、無論お客さんと一緒に歩いていたが余別の船釣りが多くくなっていたのは体力の衰えが原因だった事が後年にになって理解出来て来た。

釣札幌編
札幌に代わってから父も私も自分達の店のお客さんと釣歩きする事が多くなる、その頃は子育て時代と重なるのでプロドライバーと釣具店、それにスキーが中心の子育てが重なり、それは忙しい時間を役替えしながら充実した日々を過ごした。

それと対象的に親父は人で店先までタクシーを呼び込み、石狩新港釣りに変化していた、無論ドライバーには帰りの予約を忘れることは無かったのでタクシー会社には大変上客になっていたと思う、それほど釣りは親父にとっては人生その物と思う。

私から子供達に釣りは伝授はしていない。

歴史的出来事の瞬間をテレビ座席で観戦する。



只今サイボークで~す。

2015年01月24日 18時08分25秒 | 釣夜話
緊急入院して三週間が過ぎた、何回目のお風呂に入る首までざっぷり湯壺に入れる訳ではないが人間に戻ってゆく感覚は何とも云えない、異物が臍の下にぶら下がっている、此も我が身の内と思うと、とうとう劇画のサイボーグになったと異次元世界に入り込んだ気持ちになる。
主治医の話では近々此のままで一旦退院してもらいます、そして3ヶ月ほどしてから人口肛門を処置しますとのお話しだった。
多分現在の体力では手術は困難で少し体力が付き次第と、私は解釈した、病院のベット生活だけでは運動量が足りな過ぎる、此で病院の食事では食欲がなく正直食べるものが無い、普段食べているものを家から持って来て貰って食事を済ませて要るが、それでも半分程度しか食べれない。
手術痕も回復し安定して来たので今日から、院内トレーニングを開始した、と大げさに言っても軽い運動靴に履き替え病棟の階段歩きで手に杖を付き手摺に掴まっての歩行、5階までだったが息が切れた、ついでに階下院内を一周して来る。
明日からは徐々にトレーニング量を増やすことにしている。

現在でも私の幼名のヤッチャンと呼んでくれる人がいる、私より七歳上の姉さんで子供の項から親戚付き合いの女性で今は恵庭の末息子が住む近で一人住まいをしている、今でも交流を続けている。
遠藤製網時代前々から付き合いのあった日通の長谷さん、この時は萩野駅の日通の所長だったと思うけど、病身の奥さんに先立たれ親や兄弟それに自分の子供と大所帯の彼の苦境を案じて会社ぐるみで後妻のお世話、厚岸の婚期が遅れていた女性を言葉巧みに長谷さんの後妻に納めてしまった、中にたった人の話では子供は一人ということにに乗せられたか考えた末に長谷家の一員に、嫁いだ日は一人だった子供が翌日になると二人に一日ごと家族が増え最期は父親迄いたことが解ったが、もうその時は運命かとあきらめて添い遂げたと後になってその時の心境を話してくれた。

私も女房をもらい嫁舅問題で親父から家から出て行けと言われて、実家にも帰れずその頃すっかり親しくなっていた長谷さん宅に赤子を背負い避難していた、大変な頑固親父だったが時間がたちお袋から諭され薄々感じていた長谷さん宅に私を連れ戻し役として長谷さん宅に行き一晩泊まって帰ってきた事があったが、狭い借家の部屋に収まらなくて朝起きると父親が押し入れから現れたり、子育て時代の貧乏を身をもって経験した、本当にいま思うと懐かしくさえ思える時代だった。

その長谷さんが日通の所長時代登別辺りから苫小牧までの各駅を渡り歩いた時に、沿線の各川のヤマメ釣りをやっていた時に、親父に代わってヤマベ釣の先生になってくれたのが長谷さんだった、後妻に入って二人の男の子を育て上げたが、少し年がい離れていたが一人になってからもう20年もなっている。
あと数年で90歳に到達する、年々老化は進んでいる様に見えるが血はつながらないが姉の長命を心から願っている。

悪名時代の遠藤家

2015年01月23日 12時42分57秒 | 釣夜話
映画の勝新太郎時代「悪名」と重なるような遠藤家の時代があった、釣具卸商から発展し遠藤製網株式会社の運営に行き詰まり会社を潰してしまった、大事な息子を失ったり地獄を見た親父は、形振り構わずと残っていた自宅を利用しヤクザの世界と重なる遊廓[花月]を開業する、子供達は自宅から離れた所に借家を借りてお手伝いさんを住まわせ別世帯の環境を整えて遊廓の運営に関わっていた、時折私も帳場に顔を出し悪名時代の遊廓の裏側から現実の世界も見せてもらった。
親も社会勉強のつもりか私の存在を気にもとめていないようだった。
この時私は多感な高校二年生で男になったのも高2時代だった。

別宅の住み込みのお手伝いさんに手を付けてしまった、17歳になった男子相手は5歳も年上のお姉さんだつた、何時までも続く事なく室蘭の番頭各の高久さんにお預けとなる、他人の飯を食べたのも初めてで此処から学校に通っていた。
忘れない青春の一ページとなった。
遊廓その後三年ほとで終わり、今度は道路側を区切って店舗として貸し出す大家さんに変身していった、その間私は高校を卒業し短かった丁雅時代を終えて輪西に帰ってきた、時は昭和50年頃世間は糸編景気の真っ只中だった、何もすることがなく我が家に出入りしていた、軍払い下の毛布をニツカズボンにした商品を一反風呂敷に包んだ荷物を担ぎ行商の見習いで親方の後に付いて行った、実戦で商売の勉強をしていた、その内にもう修行も止めて自分の店を持ち開業ししてしまってはと、貸していた店舗を返してもらい親父は自ら大工仕事で奥行きが浅いが間口の広い衣料品店[越後屋衣料品店]を作り上げてしまった。
同時平行で商品仕入れは、同じ町内会の大阪商人の古物商に同行し大阪の競り場に渡りを付けてもらい競り場で初めての買い物をする、そこを終えると綿物の所の岡崎や戻って岐阜の競り場通い道が開け準備は整って来た、初回はお袋も同伴し私の後見人として見守ってくれていた、母と二人だけの長旅は此れが最初で最期となる、この頃婦人科の子宮癌が見っかり何年も入退院を繰り返すことになる、母まだ50歳頃で二十歳で嫁に来て二年おきに子供を生み、死産を入れて1ダースの子供を生んだと母の口癖だった。
余程親父に惚れていたのか、死もの食いで付き添い命を全うした、それはそれは腹の座っ
た芯の強い女性だった事が良く解って来た。

父母の強力な応援を得て、越後屋衣料品店は開業へとつながる、物さえあれば売れる時代店先は昔の札幌の金市館の店構えで商品が無くなれば札束を腹巻に巻きっけ大阪方面には通った、現金仕入れの現金販売面白い様にものが売れた、売場は店員二名ほど雇い母の手使もあって滑り出しから順調だった、始まった頃はまだ21歳の若僧だった。

魚信と合わせ
小さな魚でワカサギ釣りがあるが、仕掛けを魚に合わせた道具を使うとそれなりの釣の面白さが堪能出来る。、親父は何でも釣って来ていたが真剣に釣り方の研究も兼ねいた、大変良く釣れる魚に食べて余り美味しくないが、岩場の浅瀬で釣れる油子に良く似たハゴトコがいる岩場や海藻が繁茂し仕掛けが失う場所は重りに砂袋を使い紙ひもか輪ゴムで繋ぎ一回一回重りを捨てても惜しくない重りを考え出したり、研究に余念のない親父はだった、そして釣り上げたハゴトコは背割りにして焼くと藁で編み上げ囲炉裏の上に、乾燥してそのまま酒の肴になることもあるが甘露煮で戴くと立派な一品に仕上がる。
ガヤは浮魚だが大きくなるとハチガラやソイ擬きになる、結構美味しく食べられる魚です。
引きはソイが一番だがハチガラの引き込みも釣の楽しさを倍加させてくれる嬉しい魚で見た目は悪いが味はソイ並みと思っている。
圧倒的に当たりが強烈なのはスズキの右に出るものはないと思っている、油断すると竿ごと海の中に引きづり込まれてしまう事がある、何本も遠投げして竿たてに立てているススキは固まって回遊してくるので釣れ出すと巻き上げている途中にで残りの竿の方にも掛かってしまうこともあり、体がひとつには出来ない相談になる。








カメラとの出会い

2015年01月22日 16時54分31秒 | 釣夜話
小学生の遊びの中で日光写真があつた、単旬な作りで印画紙を黒い袋から取りだし写真と反対の種紙に合わせ太陽に向かって当てると写真が現れて来ると、子供の頃は興奮していた、残念ながら定着が出来ないので翌日には印画紙は真っ黒になっていた。
本物のカメラを手にしたのは高校の一年生だった、兄と同じ学校で室蘭商業高校で入学時は東室蘭の兄の通った学校だったが直ぐ母恋に移っていた。
クラブ選択でカメラ部を選んでしまったのは兄の影響が大きかった、兄はその項でドイツ製の一眼レフKW社のPrakticaを持っていた、私はカメラ無しで入部していたので時折兄の目を盗んでその豪華なカメラを部活に持ち出していた。
しかしいっまでも続く事はなく、親父から自分で働いて買えと言われる、父母が話し合いってのことだったと後で気が付くが、母と相談して夏休みに家の一角を利用し生花店を開く、仕入を担当し輪西からリヤカーを引きながら本輪西方面の山側に点在していた、農家の庭先に咲いている花を買い付けて廻った、お月見などには途中の原野でススキや背たかあわだち草を刈り採って商品に混ぜて売っていた、売り子はお袋で商売上手だった、カメラが買えるほど売上が貯まると兄に頼んで買ってきてもらったのが国産カメラのミノルタのシヤバラ式カメラだった、嬉しかったその夜はカメラと添い寝をしていた。
目的を果たすと花屋さんはいつの間に閉店している、それから部活には誇らしげに首から下げて歩き廻ったことを昨日の様に思い出す、カメラのお陰で女生徒と自然に接触出来る様になりこの頃から異性に目覚めた瞬間だった。
黒の学生服にゲレーのスボンをはいて目立つ服装に、硬派から軟派に変身していった。

川釣り編
親父と一緒に釣り歩いた中で印象深い釣がある、後から検証すると最所から川のボラ釣が狙いで場所は靜狩方面の大岸の河口がポイントだった、現地到着後海岸へ波打ち際でたもを使い沖アミ掬い、それが今日の魚の餌だった、このボラ釣は釣果より釣の醍醐味を考えての釣り方で、竿はへら鮒釣の段巻き竿にヘラ浮きを使用し針は極小針に沖アミを付けて川の深みへ上流から流し込むと微かに浮に変化が現れる、タイミングを見計らい合わせると一気に竿は引っ張り込まれ竿が二つになるようにしのる、魚との闘いが始まる暫くすると、魚は弱って来る、そこまで持ち込むと人間の勝ちに完全に釣り上げると50センチもある大きなボラで顔は四角い面白い顔をした魚でした。
北海道ではあまり食べられていない魚ですが、洗いとか酢味噌あえで食べた記憶が残っている、本州ではボラの卵で珍味を作っているので珍重されているボラだが北海道では滅多に見られない魚です。












釣具の変遷

2015年01月21日 12時22分02秒 | 釣夜話
戦後食糧難時代は遊び半分ではなかった、捕ってきた獲物は生きる為の食糧に明日の糧となった、沢山釣ろうと思うと釣り場の選定が大事で我が家の茶の間が情報集めの場所に、移動方法はこの頃は鉄道一本の時代だった、非番が多い鉄道マンが多かったのも頷ける、太平洋海岸は砂浜が多い、波打ち際から100Mほとの所へ餌を付けた針を投げ込むには手竿では不可能だ、ぞこで遠投が出来る投げ竿が改良して出来上がって来る、親父が考え出した竿は、竹継ぎ竿で扱いやすい長きを15尺としそれを四本にする事で汽車で 持ち運びの時でもと考えての事で、普通は2セットでそれに付帯する竿立て角形魚籠、リックサックの中は弁当と雨合羽、時には特長も用意するので結構な重装備になる。
装備で忘れてはならないものにリールがあるが戦後はドラムの金属性でメーカーは確かオリンピックと記憶している、大きさは三寸五分でがっちりとしたリールだった。
その他矢張スチール製の富士リールでこちらは四寸が主体だった戦後中のドラムはプラスチックに変わって行ったが少し重くなったと感じていた。
重いものに重しがあるが最初は純正の鉛の三角で投げ釣り用は20グラムを使っていた。
仕掛けは三角を使い針二本が標準だった、餌はもっぱらえらこが主役だった。
室蘭時代はまだグラスフアイバーが発明されぬ前だったので天然物の鯨のひげを削って穂先に取り付けた竿でひとランク上に、釣果期待出来た竿だった。

山女魚釣・1年生
初めてヤマメ釣りに挑戦したのも親父のお供で始まっている、川は竹浦川で手頃な川だった、出で立ちは竿一本腰には蓋付き魚籠それに餌入れがセツトされていたと思う、背中にはオニギリとお茶が足元は地下タビに草鞋履、兎に角一人前のスタイルだった。
下流から釣り上りで1ヶ所に止まらない釣りスタイル、親父の後を必死に付いて行った、親父の釣り方を真似て竿を出すが、そう簡単には釣れてくれなかった、腰くらい深い川を何回も渡る、その内とうとう初めての山女魚を釣り上げる、その日はそれ一匹の釣果だったが楽しかった、それに用意して行ったオニギリの美味かったこと忘れる事は出来ない。
以後やまべ釣の先生は、長谷さんになった。続く

北海道遠藤家の教育骨子は

2015年01月20日 15時33分03秒 | 釣夜話
親父は遠藤家の長男として誕生しているが、親の目から見た父には異端児に見えていたのか家督は次男にしてしまつた、女親の強い意思が働いたと聞き及んでいた、それが切っ掛けで生まれ故郷を出る決心をした、その項で子供は4人になっていたので上の長男と長女を祖父に預け水盃を交わし北海道の士を踏んだ、その後親父は親が死んでも故郷に帰る事はなかった、本音は錦を飾って故郷にが親父の秘めたる心と推察している。

父のバツクボーンは、ー子相伝長子相伝が組まれていたようで教育方針、昔から踏襲されて来た男尊女婢で生まれてきた長男を家の跡継ぎとして生まれた時から別扱いに、実際その様に子供を育て鍛え上げている、兄は幼児期に目の上をハチに刺されて失明している、そのハンデーを克服しながら小学校を卒業すると、ここで父母のグループに合流する、第二次大戦が始った頃に中学生になっている学校は5年間で最後の年は終戦を迎えている、兄は文武両道で片目の独眼竜政宗だったが剣道を続けていて選手にもなっている。
大事に育てていたのか当時珍しく写真が残されている。
それに引き換え、次男坊の私には勉強を強要された事もなく、元気に朝から晩まで遊びまくっているのが私の日課だった、親父は時折商業実践の様に泊まり込みで一人で商用の手使いをさせられていた、其れなりの考えのあってこそと想像つく。

戦後釣具卸商から転換した、漁網会社の運営は大変な時代に会社を立ち上げてしまったみたいで、漁師に売った網の代金が回収出来ない事態に、自然相手の漁師は魚が捕れなけれ
ば支払う事は出来ない、大漁が続けば何の事もないのに、この時代の商法に打ち負けた、それでも生き残るのに闇で綿糸の横流しが残されていたが、父の潔癖症はそれを許さなかった、後耐え切れずに会社は倒産する最初から一緒に携わって来ていた兄の長男が責任を取る様に間もなく失踪してしまう、その後足取りは途絶えたまま、たぶん何処で命を絶ってしまったと想像するだけです。
親父も長男には大きな期待を掛けていたと想像出来ます、親父の人生の中で一番悲しい出来事と思います、その後の人生観も変わって行ったと思っています。

親父の教育方針は自然に私にも引き継がれた。

今日の釣り談義は
後年、店の前へタクシーを呼び込み豊平川の下流の堰堤まで行きヤッメウナギの引っかけに通っていた、背おろしし串に刺して焼き上げ蒲焼きの様にして美味しそうに食べていた。
兎に角釣った魚は供養と粗末にする事はなかった。





遠藤釣具商は通算26年に及ぶ

2015年01月19日 17時23分51秒 | 釣夜話
親父の才覚で昭和18年頃百貨店より遠藤釣具卸商に変革している、間もなく終戦を迎えるが親父が最も輝いた時だ2年くらいでひと財産築く、ここで親父は発展的に物事を考え釣具から漁網の分野への転出を図る、その頃は綿糸は統制時代のキップ制で自由販売の出来ない時代だった、遠藤製網株式会社を立ち上げた、事務所もシックイ塗りのジャンデリアが下がった応接間もある会社で、専務や事務の方には長男もスタツフの一員だった。
向かいの工場には糸車のついた輪転機械が稼働していた、出来上がった網を二階の倉庫で仕上げ作業と忙しく、女工さんもたち働く企業だった、その頃私もー役かって夜になると工場入口の門番役で泊に行っていた。
遠い昔のお話しです。

釣の方は磯釣りばかりでなく自家用磯舟もあったが、私はからっきし舟に弱く釣り場につかない内に舟酔いが始まってしまうので子供の頃は舟釣りは出来なかった、それでも大人になってからは、いつの間に消えていた。
黄金の沖辺りは宗八カレーの漁場で何時も箱釣りで大漁が当たり前だかた、量が多いとあの独特な魚の臭いに閉口するが、腹を出し串に刺して2・3日干し上げると、これがカレーの一夜ぼしになり最高の代物に変化する。
宗八カレーは干物のトツプリーダーです。
残念ながら磯釣りでは釣れないカレーです、虎杖浜辺りから日高沿線様似辺りの砂浜でタカノハカレー釣りが楽しみのひとっでした、よく煮っけにして食べていたが黒がしらカレーより美味しかった、いっの間に姿が消えてしまった理由は未だに解らない。

親父の釣具商は、室蘭編5年と札幌編21年の合計26年に及ぶ。

スケトウタラの三平汁はご馳走だった。

2015年01月18日 20時01分55秒 | 釣夜話
輪西時代の我が家の左隣は津軽弁丸出しの婆ちやんがらっ湾振るう八百屋だつた、親父は馬車追いをやっていて馬鉄も合わせてやるやり手の一家で子供時代大いに影響を受けている。
魚はガンガン部隊のおばさんが出入りしていた、季節の魚の中でスケトウタラは我が家の食卓を大いに賑わい充実していた、この魚値段が安いのが最大の魅力で捨てる所がない、レシピは頭から尻尾までぶつ切りコンブを曳いた大鍋に大根がどっさり入る味は塩味の三平汁で食卓を充実させていたと思っている、魚のメスと雄で白子なら鍋の中にタラコだったらコンニヤクで和えて鍋の他に一品増えていた、秋に大量に漬けた沢庵は何時も食卓に、丸いチャブ台を囲んで食事風景で親父はガラスの中が見える銚子に酒を入れ鉄瓶の蓋を取って燗をする所作は決まっていた、鍋の中から大きな魚の頭を取り出して美味しそうに綺麗に食べる仕草は決まっていた、遠藤の子供達はこの魚で育っている、レシピは味噌汁になったりちり鍋になったり、旬が終わると棒だらを戻して薄味醤油で煮っけになったりスケソウ様々でした。

親父が充電中、毎日の様に輪西の鶴中の前の坂を登り詰めゴルフ場跡を降りると右手にローソク岩、左遥か前方に鯨半島が見える砂場海岸に立つローソク岩まで所々岩場もあるが降りた辺りは一面鳴き砂だ、最初はカレーか油子狙いと思つているが、その内夕方まで粘った夜予想もしなかったスズキがヒットした、後での話しの中で、夕方になると沖の方で大型の魚が波だつのを見ていたと話していた。
獲物は大きい凱旋して帰って来る姿は魚のエラにタオルを通し釣竿にぶら下げひとやま越えて帰って来る、町中を通るので一辺に噂は広がった、それから親父も毎晩通い続けた釣果は一晩に三本も掛けてしまい持ち帰るのに大変苦労している、何せ魚は大きいのは1Mもある、大漁もほどほどと思う日もあつた、イタンキのスズキ釣りは親父が開拓者で、毎晩浜は賑わいを見せた。
今から50年以上も前の出来事です。

今日は院内喫茶店へ

サツカーと相撲で躍る遠藤家

2015年01月17日 14時37分15秒 | 釣夜話
親父は小学校を出ると村のしきたりか大工の修行時代に入っている、13歳から20歳迄の8年ほど親方について修行が続く、村に帰って来るのは盆と正月だけの世界だった。
母も小学校を出ると越後特有で巻町の毒消し販売組織に加わっている、組織は年配の女性を親方としてその下に子供と呼ばれる売り子をはいし一団を形成し行動し、旅館は使わず部屋や一軒家を借りて合宿生活に入って農村部へ散開している、商品は毒気しばかりてなく日用品全般を扱い歩く百貨店と呼ばれていた、越後カスリを着て「毒気しはいらんかね~」と歩く姿と母の映像が重なって来る。
親父は大工の年季明けが終わって間もなく隣の遠藤ハナと結婚する、父22歳母20歳1925の正月。

1927年に長男(照秀)の誕生、1929年長女(房子)、1931年次女(死産)、1934年次男(泰秀)私の誕生、1936年に直ぐ下の妹の芳子と続く、ここまでに生まれた子供達の生誕地は五ヶ浜で
このあとに生まれた子供達は道産子になって行く。

防波堤釣りは、本輪西駅で下車し北外防波堤(通称白ぼう1)まで歩いている、延々と続くケーソンの上'を行く灯台まで600Mほど途中幾つかのポイントはあるが昼間はカレー、油子、カジカ、ガヤ、夜釣りは黒そい、それに夏場のハモ釣りは親父からの直伝で夜のカーバイトランプが懐かしく思う映像として焼き付いている。

風が強い山瀬風が吹く日、防波堤は途中堤防の上を波が越えている箇所が数ヶ所見えていたが、構わず堤防のとっさきまで一気に走り灯台真下で釣りを強行したことも忘れられない思出のひとっです。
灯台真下は堤防より1M以上高く灯台の風下でしぶとく釣りを決行する技も父からの直伝と懐かしき。

丙午迷信背負い母生きる

2015年01月16日 13時22分45秒 | 釣夜話
母は遠藤吉五郎家の四女として五ヶ浜で生まれている、父の実家とは隣同士。二歳上の兄さんが隣の遠藤家の長男の親父だった、家同士で決めてまってしまい本人達の知らぬ間に決められていたと、子供の私達に聞かせてくれていた、ただ迷信を信じていたかの様に父の事業が行き詰まると、一気に吹き出て母を責めていた。
1666年丙午の八百屋お七夜が迷信の原点で、母の生まれた1906年が丙午だった、母には何の責任も無かったが運命と甘んじていた様に思えたり母の行動だった。
母の直ぐ下の弟に大工の遠藤吉四郎伯父さんがいた、戦後釣具商で財をなしていたので伯父さんが東京八丁堀に一家を構える時に支援し独立を助けた、その後いろいろと北海道遠藤家が八丁堀を出張所の様に利用する様になる、私も衣料品店を始めると東京八丁堀が中継地として利用させてもらっていた、私の風貌はこの伯父さんとそっくりだった。

馬鈴薯の花が咲がく頃は、油子(アイナメ)が産卵の為に岸よりする、何とか言っても釣り場は礼文~静狩間の岩場が一番だ鉄道路線沿いは海岸に近く海面より高い所を走っていてトンネルが続く難所で、道路も静狩峠になっているので汽車利用が殆どだった。
下車はトンネルとトンネルの間の小幌で降りると静狩よりに山道を少し歩く事になる可なり歩くと小幌の岩場にたどり着く、絶好の自然釣り堀の感じがする、平らの釣り場が続き目の前の海は直ぐ深く遠投げしなくても良く釣れた。
春の油子には寄生虫が入っていたりするので刺身は避けているが味噌汁に大根と一緒に頂くと何とも旨い、醤油で薄味の煮付けも旨く堪えられない。
寒い内の油子で三枚におろし昆布で挟んで一晩寝かしてから食べる刺身は何とも美味しくきっと酒の肴には最高と思っている。


小正月小樽時代も懐かしき

2015年01月15日 19時34分58秒 | 釣夜話
学校は好きだったが勉強は嫌いだった、高校時代の悪友は工藤、菅野、佐々木、五十嵐、平井の5名だったこの内二人が大学に進学している、商業高校だったので卒業と共に社会に,出るが多く銀行関係が多った、信金の頭取になった菅野くらいで後は皆泣かず飛ばずの悪友達で今年生存が確認されているのは時計屋の平井君だけだ、工藤。菅野は先に逝く、後の二人は音信不通で生きているか死んでしまったのか判らない。
平井君はいまだに輪西で生きている、今年元気を取り戻したら妹を伴って、 故郷輪西を訪ねたいと思っている。
高校を卒業と同時に南小樽繊維問屋森川商店の丁稚小僧に入る初めての親離れに親爺が付き添って来てくれた、この時の印象はいよいよ一本立する覚悟で緊張感で一杯だった事を覚えている、住み込の小僧は私の他に一人いて心強かった、その夜から店の玄関先が寝床となる、覚えることは沢山あったが本当に残念な事に修行時代は二年で終わりを告げる。
会社が倒産してしまった、やむなく故郷輪西に戻った。続く

チツプ釣りは室蘭時代の後半で最初は、登別の倶多楽湖だった5月が解禁日で岸からの釣り場はなく手漕ぎボートに乗ってウキ釣りだった、アンカーは打てず流し釣りで手竿だったので勝負は早かつた、湖水が少さかったのか魚形はやや小ぶりだったが数釣ばと楽しい季節の釣りだった、余録として対岸の岸辺で春椎茸を見つけ収穫するもう1つの楽しみ方もあつた、室蘭時代のチツプ釣りは何時も親父に同伴していた。
チップ釣りの釣り場は洞爺湖もあり、此方は岸からの浮釣りでポイントが沢山あり広いので選ぶのに苦労していた。
室蘭方面からは壮瞥に入り壮瞥発電所の横を素通りすると湖畔に出るその辺から右岸沿いがポイントの1つで、竿は磯釣り用リール竿を使い少し大きめの浮を利用して釣る方法で魚が掛かると立つていたウキが寝てしまう、そのうち魚が水面で跳ね出すので直ぐ判る。
洞爺のチツプは形がいい、釣りたての刺身は格別ですチップ釣りは季節の風物詩です。

この項はホンダドリューム300が足で後部シートに親父を乗せて走り回っていました。

ヤッチンの全ての世界輪西町

2015年01月14日 21時08分17秒 | 釣夜話
親父(遠藤家)の一番番頭は室蘭の高久さんだった戦前は商工会議所に席を置いていた、赤紙1枚で激戦が続くビルマ戦線に連れて行かれた、此処で親父の持ち味が発揮された残った奥さんにデパートの一角を借りて釣具店を開き支援し続けた 、それは戦争が終わり高久さんが帰国してくるまで続く、帰国後駅の近くに釣具店を開業させる。
その後高久さんは遠藤商店の一番番頭的に、酒宴で盛上がって来ると「私のラバさん集長の娘」を歌いながら面白く可笑しく踊っていたのを覚えている。

親父に釣りを教わったのは白老のポロト沼の鮒釣りだった何か遠い所に感じていたのは少年の感覚だったと思っている、駅から降りてダートの一本道を歩いて行った映像が今でも鮮明に残っている、沼に到着しさて竿の下ろす所まで浮草の浮島を歩いていた事も記憶に残るシーンで、私も竿を出しているはずだが鮒を釣り上げたシーンは出てこない。
釣果はあったが獲物は魚籠に入れ換え自宅まで持ち帰っている、親父の哲学か釣った魚は命を戴くと自ら処理していた、鮒も鱗を落とし背割りにし一度七輪で焼き上げその後甘露煮や残ったものは藁で編んで囲炉裏の上にぶら下げていた、これが晩酌時の酒の魚になっていた、鮒釣りの最後に沼の周りはで 山菜の蕗採りをやっている、此方も直伝と思っている。

親父は酒は年季が入っていた、一升酒は飲まないが定量は銚子2~3本で晩年には朝昼晩と酒は増えて行った、室蘭時代は酒屋から12本入れの箱買いで銘柄は多聞だった、命を縮めるたのも酒で満80歳を前にして逝ってしまった、私は酒は全くやらなかったので親父の酒のお相手は出来なかった。
一緒に酒を飲めていたら、沢山の教えを戴いていたと思っている。

故郷は遠くにありて思うもの

2015年01月13日 16時07分19秒 | 釣夜話
三歳から20歳後半まで私の人間形成の土台造りとなった土地が輪西(室蘭)で、幼児、少年期から果敢な青年期をここで過ごす。
この輪西の町は日本製鉄室蘭の城下町で、奇くも1934年に創設され同じ年に新潟五ヶ浜で私も産声を上げ運命的なもある。
そして父と母の町でもある、戦前戦後の時代背景をバックに子育て教育の場ででもあり生業確立の場所が輪西だったが北海道に渡って来て此処を決めた親父の先見を見つめる目は確かと思っている。

親父の目は鋭かつた、鼻は高く馬ずら顔の武士の風貌で足は長く、ただ教育を受けていないのに博学だつた、自分から先頭に立たず人を動かした話術に長けていたと思っている、普段からその味方の人作りは考えてのことだつた、兎に角尋常な人でなかった。
そんな親父の風貌、内面 は私には引き継がれてはいない、母方の遺伝子が勝っている。

山女魚・実戦編
輪西を拠点に鉄道沿線が主戦場、近くは苫小牧までの駅ごと各河川全て太平洋に流れ込んでいる川で良く山女魚は鮭の子で親は同じと話して聞かされていた、戦後の食糧難時代は食糧調達の手段と魚釣りは一般に広がっている、現在は鮭も釣魚の対象になっているが当時は鮭は捕獲することは出来なかった、同じ親から生まれた山女魚は別で食べても美味しく釣り期間も長かった。
釣り竿も子継ぎにし長さも9~11尺が使い良く、川の大きさで竿を決めていた、普通は下流から上流へと釣り上がりるが、大事なことは魚がどの辺に潜んでいて魚影が見えていなければと、魚に先に人影をサッチされる様では人間の負けで、時には木陰岩影に身を潜め竿を振り上流からそっと流し入れる、いつ匹掛かったら静かに下流まで流し音を立てない様に釣り上げ、また同じ様に今度は下流にいる魚から釣り上げて行くとそのポイントにいる魚は全部釣り上げられるとの山女魚釣り名人の話しを聞いている。
親父は少し遠征する時はその名人と一緒に出掛けていた、親父は人を釣り上げるのが名人で沢山の取り巻きも自然に出来ていて、親父の情報の元はこの辺にあつたと後になってから解る。
地下たびでこけで滑る川は鞋をと携帯していた、エサは一般的にいたどり虫で少し高級なぶどう虫、鮭の卵のいくら、それに毛針も忘れてはならない、この毛針釣りは奥が深い。
今日はここまで

春を探しに屋上の温室まで、アザレアが咲いていた。

初場所や座布団も舞う宝富士

2015年01月12日 22時31分47秒 | 釣夜話
初場所二日目で注目の二人の力士が揃って負けてしまった、最近の力士の中にあつて横綱と対戦するところまであがた宝富士、四股名が優しいその上顔もそして体が丸々と博多人形のモデルに見えてくる、決してして強そうには見えない、それが大番狂わせの一番が起きてしまった。

人生で番狂わせは何時でも発生する、親父の人生の中での大番狂わせの出来でとが事業に失敗した時に大事に育てて来た長男を自殺する所まで追い込でしまつた事だ。
兄は私よリ七歳年上だつた小学校卒業まで祖父の所で育てられていた、中学校に入学するため親元にひきとられている、その時二歳違いの妹も一緒で我が家が一変に大家族世帯になつた。
子供は13歳頭に男2人女3人食べ盛りの子供を抱え親父の仕事は、大工から商人に変身していった、最初に今のコンビニの遠藤百貨店で間もなく釣具卸になっている、ただの大工で終るような親父でなかった、大戦後の混乱期を利用し一気に財をなした。
その間子供の教育は漫画の巨人の星の親父のようだつた、特に長男を鍛え育てていた、次男の私には余り期待をしていなかった、それが私が高校生項まで続いた。

親父はよく人を支援する、またそれが自分に返っ来ることを戦後の釣竿職人との出来事で
その後の人生の中でも何回も出てくる。
戦国時代の小さな城の城主で生き残るために必死だったと思えてくる。

退院は 梅の便りの届くこ

今年の年賀状です。