みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2002年出雲と松江旅行記パート8

2009年02月07日 23時02分19秒 | 旅行記

  松江城に戻りました。別名は、「千鳥城」と言いますImg_0023 。桃山初期の荘厳雄大な姿です。

千鳥が羽を広げたような三角形の屋根を千鳥破風といい、天守閣の美観を構成する重要な部分です。

三層の中央にある寺院様式の窓は「華頭窓」と呼ばれて、一種の飾りで、本天守閣の美観の特色は、ほとんど飾りを用いないで屋根・破風・窓などにより均整のとれた構成美を出していることです。

鬼瓦は、後世のものとは違って角がほとんどなく、各一枚ごとに異なった珍奇な表情をもっているらしいのです。下見板張りは姫路城や彦根城の白壁(塗籠造り)は少なく、大部分が黒く厚い雨覆板でおおわれて古い様式を保っています。

城を支える石垣は、牛蒡積みと言われ、石の大きな部分Optio430_02032830_105 を内面に、小さな面を表に出して、見た目は粗雑でも石組にしては非常に頑丈です。勾配は力強い直線ですが、中腹は窪んでおらず、古い様式です。

 全国現存の12天守閣では、大きさは二番目、古さは六番目です。1611年に出雲領主堀尾茂助吉晴が5年の歳月で完成させました。

 明治8年、場内の建物は全部取り壊されたが、天守閣だけは有志の奔走によって免れたそうです。

わたしは、天守閣まで上り、松江市内を眺めてみました。ちょうど、この写真の通りです。松の町並みは高層ビルが少なく、宍道湖までよく眺められました。

 城内を歩いていると、椿の木をたくさん見かけました。椿は、油にしてよし、炭にしてしてよし、いろいろ役立つ優れものだそうです。そのため、城内に多く植えたようです。

 Optio430_02032830_109_2 城内をぐるりと廻って、城山稲荷神社へ向かいました。出雲地方は、ずば抜けて稲荷神社が多いと言うし、小泉八雲はそれに非常な興味を持っています。つまり、出雲地方の方々は、昔、ヨーロッパのカトリックの農民のように神話をつくるところがあるので、いわゆるほかの地方の稲荷信仰とは異質であるとも述べています。

どういうことかと言うと、必ずしも稲荷信仰は「稲の神様」ではないという意識で、超自然的なものを畏れる気持ちから崇められていたと述べます。その起源は中国にあり(チェンバレン氏の著作から)、神道の国日本に、仏教的な呪術とともに変容して入り込んで溶け込んだようなのです。

 おもしろいことに、松江の武家屋敷には稲荷大明神のOptio430_02032830_115 祠があり、彼等は狐を善の神と信じていました。国語語源辞典でも調べてみたのですが、狐というのは、中国語の「コ」という音、つまり「コンコン」と鳴く声からきたようで、人々は、「コンコン」と鳴く狐は善の狐、「クワイ、クワイ」と鳴く狐は悪い狐と区別していました。人に憑依する悪い狐とは区別したようです。

 小泉八雲が出雲地方の狐を特に愛したのは、その素朴さだったようです。いわゆるうすら笑ったような端正にできていない部分に原始的な信仰の姿(恐怖を持って畏怖したであろう)を見いだしたのかも知れません。100体近くあるものの、90近くは鼻がないのはなぜかというと、写真をご覧になってわかるかと思いますが、鼻先はないのですけれど、原因は子どもの悪戯らしいのです。

 その中で、珍しく鼻先がある狐の像があって、これを八雲がOptio430_02032830_113 特に愛したとありますが、わたしが読んだ本には特にそういう区別はなかったように感じました。しかし、記憶が定かではありません。狐信仰ゆえ、金持ちの家には狐を祀ることで、なかなか結婚できない娘がいたとか、迷信ゆえの不幸もあったようです。

 けれども、小泉八雲は名言を残しています。彼は狭い度量の人ではなかったと思います。なぜなら、迷信ゆえに束縛された民衆が、その自縛から解放されるのは、「宗教」ではなく、「教育の力」であるとはっきり明記しているのです。

近代科学教育の力は、迷信をうち砕くのです。宗教では、まだ西洋でも悪魔の存在を否定しませんが、公立学校の普及により、迷信に捕らわれていた出雲の地方の人々も多少変化しました。

 最後に、彼がキリスト教をただ疎外したのではなく、西洋Optio430_02032830_111 にも残っていた迷信や宗教の盲信による危険をよく熟知していたからだと思います。彼自身がキリスト教の土壌で育ちながら、日本の仏教を嘲笑し揶揄する学生を制して仏教を重んじていたし、神道にも理解を示しました。でも、どれかひとつの宗教だけを大事にしたということは彼の日記からは示されていないようです。わたしはそういう面では、平田篤胤神道と小泉八雲を結びつける考えはないのです。そう感じたからです。

勉学不足からかも知れませんが、彼は偏狭的な思想の持ち主ではないことを次に示します。彼は、実に現実的な人物でありながら、人道主義者だったのではないでしょうか。彼の神道観は、偉大なる自然への畏怖の念だったと思います。

Optio430_02032830_114 「狐神の鼻をいたづらにこわす小さな手が植物の進化や出雲の地質学について作文をものにすることができる。新しい研究によって新しい世代に啓示された美しい自然界には、妖狐の居場所はない。全能なる祈祷師にして改革者は『子ども』である。」

(参考:「神々の国の首都」小泉八雲著)

今日はここまで。続く。