田部美術館には、松平不昧公の祖母が伏見宮邦永 親王の王女だったため、展示室に、親王筆の和歌が掛け軸として、かかっていました。皇室とも縁が深いのです。
「通しありて めくみあまねき 世の春に たれもたのしむ 心をそしる」
さて、松平不昧とは、どういう意味か。実の名は、治郷(はるさと)と言います。「不昧(ふまい)」の号は、南宋の無門慧開禅師の著、『無門関』の中から、不落不昧(*みなりん訳:間違っていたらごめんなさい。・・・すたれることなく、むざぼることはない)からとったもので、禅学の師である麻布(訂正)天真寺九世、宗碩禅師から授かったとされます。
日本は、古より皇室を重んじてきた過去 があり、明治時代には、出雲大社でもそれは例外ではありません。
「霜雪にしをれぬ松の操こそ 春の光にあらわれにけれ」第80代出雲国造千家尊福公詠
この歌は、手水鉢の柱に記載されていたものです。
右の写真は、大国主命の銅像です。この方が因幡の白兎を助けた方になります。わたしは、ここまで来たと思うと感動しました。
当時、出雲に赴任した外国人講師で松江の島根尋常中学校教師だった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、生徒に作文をかかせたところ、生徒達の多くが「いつか天皇陛下のために命を捧げる」と書いていることに驚き、それを頭から否定するのではなく、軍隊へ入って命を捧げることがすべてではなく、何が大事か、お別れの日の言葉にこういうようなことを述べています。
○ハーンの生徒へ贈る言葉(みなりん要約)
要するに、みなさんの作文を読んで思ったのは、天皇陛下のために死にたいという希望は尊いが、成長し賢くなれば、重大な国家的危急の時に天皇や国家がみなさんの血を要求することがあるかも知れないけれども、わたしは日本にはそういう時はけして来ないと信じています。
そこで、気高く国民生活の指針ともなるべきみなさんの願望は、「国のために死ぬことではなく、国のために生きることです」。
どんな職業の人でもその仕事の発展向上に最善を尽くす人なら、義務のために命を捧げる軍人に負けない忠実さをもって、天皇と国とに命を捧げることになります。
つまり、軍人になって死ぬことは非常事態のみであって、あってはならないことで、生きぬくことを思案することが大切なのです。
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わたしは、はっきり申して、茶道に詳しくなりたいものの、経済的な理由で、習い事はできません。奥は深く、習っても日本のお稽古は月謝以外の心配りが必要だからです。でも、茶道は禅に通じていて、和歌とともに日本の大切な伝統 になります。
*突然ですが、写真で探していたら、武家屋敷の井戸の光景のある写真が出てきたので、お見せしましょう。右です。
わたしの古い東京の家にも、中庭に井戸があり、そこはまるで東京ではないような光景でした。実際に今でも使用できますが、昔はそこで水を汲んで、祖母と洗濯をしたものです。薪を割り、風呂で焚き火をしたことを懐かしく思い出します。
○本題に戻ります。
昔の武士は、お茶室に入る前に刀を預けて(下の写真がお客さんが刀を置いて待つ場所)、にじり口からどんなに偉い人でも扇をまず入れて、頭を低く下げて、謙虚な気持ちで茶室へ入ります。そして、そこでは殿様も臣下も関係なく、風雅を味わい、深い中身のある会話を交わしたようです。日本人にとって、茶道はきらびやかな着物を着て外交辞令を述べるのではなく、そういう謙虚で慎まし い修身の場・身分を越えた交流の場でもあったと思われます。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのを勘違いしている方もいるので、敢えて知っている方の前で言いますが、これは「いつも死ぬことを念頭に置いて最後まで恥ずかしくないように身を引き締めて生きなさい」というような意味で、「忠君のため死になさい」という意味ではありませんよ。
自分の身を処すことを武士は重んじて、こういう茶室で、心静かに人と心の交流をし、自分を戒めたのでしょう。
茶室の掛け軸には、禅の法語が書かれてあるのはそういう心得の確認でもあったようです。
「不審庵」という出雲の茶室には、不昧公自筆の「庭前栢樹子」という一行書が蔵されているそうですが、現在はどうなっていることでしょう。
また、和歌をここでもお詠みになり、
「常磐なる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりける」
と認めたそうです。
不昧流の茶室はどういうものかと尋ねられれば、不昧は諸流みな我が流であるという根本の上に立ち、何流を問わず、その茶道の本旨に適い、「清楚質朴」で「侘び」の体が十分に備わり、露地その地勢に適応して「雅趣」を具するものは、すべてみな不昧公の好みであると言われています。
茶室も、廃材を有用に使用して利用するようなものが、不昧公の意に適っていると言います。これは、自然環境に優しく、実に現代人に必要な心構えですね。
*参考書「松平不昧公傳」
もし、それを強いて不昧公の好みの茶室を具体的に示すものがあれば、大崎名園内の為楽庵始め、その他園内にある茶室でした。これは大名茶苑として江戸第一と賞賛されていましたが、幕末の激動の中、幕府の命令により、東京の大崎に 砲台を設置するため、なんと取り壊されてしまったのです。
節の多い、長柄の橋杭の古材を用いたことで知られます。惜しく思った方々により、当時の拝見記など基礎資料によって、平成3年に出雲文化伝承館に「独楽庵」を復元した(右の写真)のです。これによって、晩年の不昧公の数寄心を探れると、元出雲文化伝承館館長の藤間亨氏は述べていました。
右の写真は独楽庵です。
さて、わたしは、その後、明々庵に伺いました。塩見縄手から坂道を上り、到着すると、真っ正面に松江城を遠く望むことができました。
不昧公好みの茶室のひとつであり、明々庵は、もと家老の有澤弌善(かずよし)のために設計したもので、松江殿町の本邸にありましたが、明治維新後旧藩士渡辺善一の手に渡り、その荒廃するのを恐れて、松原瑜洲がこれを求めて、 東京都の現在の原宿の自邸に移しました。
その時、松原氏の知人であった日本郵船会社の社長の岩崎男爵にこれを相談し、日本郵船に託して海路幾百里、たいへん丁寧に茶室を輸送しました。
会社は知らなかったため、多額の運賃を請求しましたが、岩崎男爵はすでに亡くなり、困っていたところ、その夫人が知っていたので、海上の賃金200金は岩崎家が負担して払ったと言うことです。
松原氏が払ったのは、東京湾から原宿までの運賃と建立費で済みました。
松原氏は、この厚意に謝意を表し、自邸に客が来ると、この話を語ることを必ずしたと言われます。
その後、大正4年11月松原氏は、公従三位に贈位されて不昧公への感慨が深まり、ついに意をけっして松平家に献納することになります。
現在は、ここ島根県の松江のここへまた戻されると言う数奇な運命を辿りました。
上の写真が、明々庵から拝見した松江城です。綺麗に撮影できて、非常に嬉しく思います。お茶室については、また今度。続く。