みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2002年出雲と松江旅行記パート9

2009年02月18日 10時55分52秒 | 旅行記

Optio430_02032830_116 松江城のお堀の周りをぐるっと廻って、武家屋敷のほうへ向かいました。

桜が綺麗に咲いていて、春爛漫でした。松江は視界を遮る高層ビルはほとんどなく(いや、なかったと言っていいほど)、昔の日本各地もこういう感じかなあと思いながら、松江の街を歩いていました。大都会の高層ビルに見慣れた目には、穏やかで静かな街という感じで、なんだかほっとしたものです。

 超高層ビルは、なんだか異様な感じに思えて、わたしなどは恐いと思うことがあります。夜景は綺麗ですが、「ここから富士山が江戸からよく眺められた」という立て看板は東京の至る場所で見かけますが、今では実際見るのはなかなか難しいです。それほど、視界がきかないのです。ここでは、初めて出雲へバスで移動中に、Img_0016 窓から平地や田畑が広がって見えて、のどかな場所へやって来たと思いました。

 武家屋敷は、写真でご覧の通り、綺麗に保存されています。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居跡もありました。まず、拝見した武家屋敷は、昔の様子が伺われ、貴重な建築物でした。古い大きな井戸があり、人が昔よく身投げしたという恐いお話も井戸にはあるということを想像させるような、非常にりっぱな井戸でしたが、ここではそんな実話はないことでしょう。

Img_0015_2昔は、家の中が薄暗く、畳も小さく、みなさんこじんまりと静かに生きていたのだと理解できます。こちらのお屋敷は大きなほうで、撮影を全部できなかったのは残念です。そう言えば、昔は一年に一度は必ず障子を貼り替えたりしたもので、襖が破れると、母と桜模様に切り紙をして張り付けたものです。こういう経験は、都会のマンション暮らしになるとなくなってしまいましたが、まだ日本間のあるお宅にはある習慣かも知れません。

Img_0018 左の写真は、吉川幸次郎氏が・・・と書いてあって、あれっと思い、撮影した石碑です。立て看板がありますが、有名な漢文学者の方の記念碑です。

右から読んで、「瀧川君山先生・・・・」と書かれた石碑になります。 塩見縄手の武家屋敷の母屋の裏手の庭にありました。

瀧川君山氏は、中国前漢の武帝の時代に編纂された「史記」の解釈をなさったので、それを顕彰したのです。幕末に松江藩士の子として生まれ、青春時代をここで過ごしたと言われます。

 わたしは、ちょっと感動して、撮影しました。敬意を払ったからです。

 わたしがわかったのは、そこまでで、以下は、「松江市メールマガジン●第65号●  だんだん かわら版 2005/03/20」の文化財課の岡崎さんの文章を紹介します。

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 松江中学から東大文学部へ進み、、仙台の第二高等学校(現在の東北大学)の教授として30年勤務し、大正2(1913)年「史記」の研究考察に取り掛かり、20年間にわたり心血を注ぎ、6,000頁に及ぶ原稿を書き上げ、「史記会註考証」130巻としてまとめられ昭和初期に刊行されました。

 「史記会註考証」は、それまでの中国、日本の研究論文を集大成し、「史記」を時代別に解釈したもので、県立図書館に所蔵されています。昭和30(1955)年中国において復刻されるや、中国、ソ連(当時)をはじめ世界各国で高い評価を与えられています。

 ・・・・(途中略)・・・

 文章は中国文学研究の権威、吉川幸次郎先生、書は同じく中国文学者の小川環樹先生、石は香川県広島の青木石(御影石の一種)です。

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 わたしは、イスラム教徒の方に、「日本では昔、横文字を右から書いたので、アラビア文字と同じですね。」と述べたところ、その方はそうですか、と驚いておいででした。わたしはもう古い人間かも知れませんが、昔は封筒の自分の住所氏名は右側に書いたものです。最近は左側に書きますね。ほんとうは真ん中に書くのが正式らしいですよ。時代が変わると、書式も変わるものです。その昔昔はイスラム文化と日本文化とは、どこか似たところもあると思います。

脱線しましたが、小泉八雲の旧居へ戻ります。Img_0017 一見変哲がないようですが、中は必見です。

 資料館もあるのです。わたしは詳しいことは知らないものの、ハーンはヘルンさんと地元では呼ばれて慕われていました。学生は一目置いていて、ハーンが東京大学で教鞭をとった時、非常に人気が高く、後任についた夏目漱石がハーンと違う教授法で、だいぶ批判されて、たいへん苦労したそうです。

 静かに優しく教えるタイプで、今でいう英語の単語帳を日本人の奥さんと一緒に、子どもの教育のため作ったらしく、そういうものの展示がありました。ギリシャ人と同じく、日本人は昆虫を愛でる民族として愛すべき国民であると、日本人が喜ぶような誉め言葉が日記に書かれてあります。虫かごもあって、日本人のコオロギの鳴き音を愛でる習慣は美しいという人でしOptio430_02032830_118 た。わたしは、子どもの頃、都会にいながら、墓地へ出かけて、蝉を捕まえたり、コオロギを捕まえたり、虫かごに入れて飼ったことがあります。懐かしいものです。

日本庭園をこよなく愛し、その住まいもそのままの感じに残っています。わたしが子どもの頃、小泉八雲と言えば、「耳なし芳一」という恐いお話があり、怪談で震え上がったことがたびたびあり、いったいどうしてこんなお話をするのだろうと、こわごわ読んだものです。

 一番、震え上がったのは、民間伝承の話で、子どもをOptio430_02032830_122 負ぶったお母さんが峠を越えると、なんと無事にすんだとほっとしたものの、子どもを見たら、その子どもの首がなかったというので、ショックで青ざめた記憶があります。日記を読むと、全然恐くないのに、怪談話は凄まじい感じで、日本の伝承の怖さも知っています。わたしは、赤ちゃんのお守りをしながら、いつも負ぶっていると、後ろを振り返り、心配で心配でたまりませんでした。だから、大人になるまで、ハーンが慕われている理由がよく理解できなかったので、出雲・松江に行く際も、凄く恐い思いが半分ありました。

 ただ、幼稚園生の頃、お寺で地獄の話を聴いて、別に何も悪いことをしていないのに、怖さのあまり眠れなくなり、悩んでいたところ、転居して神社で「オオクニヌシノミコト」のアニメ映画を拝見したのです。そこで因幡の白兎の話を知り、ああ、神道って恐くないと思いこんだのです。神社アレルギーがないのは、そのせいです。ただし、日本の過去にも人柱の話など、全く恐い話がなかったわけでもないのですが、まるでギリシャ神話にそっくりな話の展開に驚き、子どもの頃は神話に夢中になったことがあります。日本神話とギリシャ神話は似ていておもしろい、と思ったのです。

 Img_0020 国家神道は、明治以降になってからでしょう。宗教の自由を認めながらの矛盾が当惑の種です。出雲大社に行けば後醍醐天皇直筆の書があり、「神に祈って(あるいは誓って)自分は・・・する」と記載されていますから、天皇=神という考え方を天皇自身が昔は持っていたのではなく、天皇は祭司だったと再確認しました。明治初期では、日本人の庶民の大半は、天皇を崇拝するどころか、半信半疑で見ていたくらいで、ハーンが天皇の写真に向かって敬礼した時、学生たちが驚愕したらしいです。

 当時の政府が恐くて、やがて誰も何も言えない時代へ突入します。大正時代は、美濃部達吉はじめ、思想的にも自由な議論をできる雰囲気があり、やはり昭和の軍部独走による統制が、神道を非常に恐ろしいイデオロギーにしてしまったのではないかと認識します。確か最右翼の方に仏教徒もいましたから、神道だけに責任を押しつけていいかわかりません。

 上の写真は、南天の木が見えていますね。大人になって、ハーンの言うことは、半分は理解できます。なぜ、怪談を書いたかは、まだ理解していません。勉学不足です。

 資料館には、ハーンのパスポートがあり、小村寿太郎Optio430_02032830_120 だっただろうか、名前が外務大臣と記載されていました。片目が悪く、高くしつらえた机に座って、机に顔をつけるような感じで座ったようです。その机と椅子は今も残っています。

 ハーンが宣教師や外国人教師の方々に嫌われたのは、キリスト教徒らしからぬ発言をしたせいらしいですが、孤独な中、東京大学を去り、早稲田大学で教鞭を取ります。いつか出雲へ行こうと思いつつ、なかなか実現できないでいました。わたしはキリスト教を理解しようと努めています(まだよくわかっていない)が、神社仏閣が全部なくなればいいと思っていません。

 現在の皇后陛下はキリスト教への造詣も深く、東大寺の僧侶の方はイスラム文化の研究もなさっていたと記憶します。現在はカトリックの神父様でも日本文化にお詳しい方もおいでになり、みなさん、お互いの良さを知り、排他的にならないように、努力を惜しんでいないように思います。

 ただ、どの国も、最初は素朴で純粋な信仰だったものが政治的に利用されてしまう恐ろしさは感じます。

 人の弱みにつけこんだり、扇動するような宗教は恐いです。「宗教を利用する人間」が恐ろしいのです。

 松江では、ハーンが蛙の置物を愛していたので、外国人にしては珍しいと感心して葉書を購入しました。

聖書では、蛙のことを災いのひとつとして記載され、「蛙のように汚れた霊」(ヨハネの黙示録より)と書かれていますから。ただし、ヒレア・ベロックというイギリスの文学者は、

「The Frog is justly sennsitive to epithetes like these」

(皮の薄い蛙がそのような罵り言葉に敏感なのも無理はない)

と悪口を警告しているそうです。思いやりに満ちた言葉だと思いました(?)が、ベロックについて知識はありません。

*痛烈な皮肉かも知れない。ベロックの言葉もよく理解しがたい。

(参考:ピーター・ミルワード氏の著作から西洋の蛙の概念の話を引用した)

日本人は、その鳴き声を万葉集時代くらいから、もう愛でていて、蛙は中国でも悪い意味はありません。

ハーンは、わたしにはまだ謎が多くて、これ以上の記載はできないので、今日はそっとここまでにします。続く。

 



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1 コメント

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初めまして! (グリル)
2009-02-18 14:13:22
初めまして!
「神社」のカテゴリからやってきました!
出雲はいいところですよね~。
私は宮城県仙台市に住んでいますが、お友達がこちらの、出雲大社教の神社に務めており、
その関係で6回ほど、出雲大社に神社関係者の名目でお供させていただきました。
昨年4月の60年に一度の、仮殿遷座祭にも関係者として幸運にも列席することができました。
私の家系には日蓮正宗の尼だった者がおり、不動明王信仰は深く、
また、主人の家系は山形出羽三山の山伏、行者が実際おりまして、お互い、
「修験道」 神仏習合との関わりは篤かったのです。
このことから伊勢神宮式よりか、出雲大社教は大変身近なものです。

また、仮殿遷座祭の次の日は、奈良吉野山に宿泊して翌日、
蔵王堂へ行きました。「修験道」の源でもある蔵王堂は、いつか行きたいという
強い気持ちがあって、叶えることが出来ました。
出雲大社は、神社関係者で行くと、近くの、「竹野屋」 に宿泊して
午前5時開門と同時に参拝いたします。
しかも10月なので、真っ暗です。
特に普通の方ですと、大国主大神さまの御社を参拝いたしますが、
出雲大社教はどちらかというと、その真後ろに鎮座しています、
スサノオノミコトの御社を重要視いたします。
そして願掛けのために、ある作法をしての参拝となります。
私の住んでいる仙台には、すばらしい住職がおります。
秋保というところに、「慈眼寺」 があり、
千日回峰行、四無行を達成された、塩沼亮潤住職がおります。
奈良吉野山、蔵王堂で達成されました。
ぜひこちらにもおいでくださいね。
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