みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

奈良紀行女ひとり旅パート1 

2008年01月03日 14時11分14秒 | 旅行記

 「奈良紀行記女ひとり旅パート1 」

 

「1 平城京」

わたしが、奈良駅に降り立ったのは何年ぶりだろう。
東京では、スターバックスでモンゴメリーの「赤毛のアン」に登場するギルバートのような鳶色の瞳をしたアメリカ人青年と珈琲を片手に話していて、「京都の駅にはがっかりした」というその青年が、奈良駅周辺は東大寺の庭という感じでローカルな部分がいいと褒めていた。

まあ、京都駅もマンモス駅だから、便利でJRの案内も確かで、利用してみると快適であったので、外見も実際見ると清潔感があって新幹線の乗り場もわかりやすくて機能的であり、とことん利用するビジネスでは問題ないだろう。

 さて、東大寺には鹿がのどかに歩いている。鹿は神道の神様のお遣いであり、神無月になり紅葉の時期には妻を恋い鳴くと言う。花札を想起するといい。昔は、花札なんて博打を打つようなものと思っていたが、あの絵柄はなかなかよく構成されている。

 人を襲うことのないように、鹿は角が半分折られているのはなんだか昔拝見して痛々しかったが、その頃はまだ大学二年生で、二月東大寺のお水取りを拝見することができた。

 横浜から来たという中学生とユースホステルで合流し、三人山辺の道を散策した。
彼らは男子高の生徒で、
「お姉さん」
と今とは違ってお世辞ではなく、まさに
ぴったりの呼称で呼ばれていた。
 男子校ではほとんど女性とは話すことができなかったらしい。

 寺の案内をしながらも、今になって思うと、ガイドが必要と言うより、女性として見てくれたんだろうと思う。
 今思うと、自分には色気がなかったけれど、若さが漲っていた。

「七、一、零、つまり七と十、奈良なんと美しい平城京と言うの」
と言うのは微笑みを誘った。
 平城京は夜列車から見るとライトアップされて平城門の朱塗りが
妖しく煌めいていた。
 平城京は、明らかに平安京とは違う王朝・文化だったとある方は言う。
「続日本紀」を読むと少しつつ解明される、古代日本史。
平城京跡には奈良国立文化財研究所がある。

 今は様々なハイテクノロジーを駆使して壁画も検証されるが、なかなか保存をよくすることができず、一時新聞で飛鳥時代の高松塚古墳の壁画の損傷を嘆く記事も見受けられた。
 わたしは、図書館の学生をして先生方からいやと言うほど聴いた言葉は、「人類にとって大事な知の遺産を後世に残すために図書館はある」ということであった。

 わたしはもういい加減いい年をしている。だが、今は亡き宇野千代さんのエッセイの言葉を思い出したり、瀬戸内寂聴さんの源氏物語を読むと、年齢と仕事の善し悪しはそう反比例するわけでもないらしい。
 人間の脳のほんどは眠ったままらしい。動いている部分はわずかしないのだ。
わたしの脳もぼんやりしている。稀にアルツハイマー病かなって不安になる。
イギリス人の教育熱心な先生が、「わたしはたまに心配になるの」といたづらっぽく笑って話していらしたことを思いだし、言葉の壁を越えて人間の機能について自然科学的なことに関する発想は同じだとおかしかった。

 最近はテレビを通じて大勢の日本語の達者な方々が出演するので、驚くには当たらない。

 最初にわたしが奈良で訪問したかったのは、堀辰雄さんの「大和路・信濃路」に描かれていた秋篠寺だった。

「奈良紀行2 秋篠寺」

駅からとぼとぼ歩いて、途中でカメラのフィルムを購入し、割と開けた町並みを行く。
歩いていて、田舎町までは言えない感じで道路は舗装され、確かに時代は平成だと思う。
バスの時間帯がわからないので、西大寺から歩くこと二十分くらいだろう。

 大きな道路、東京で見かけるのと変わらない家並み。ここが古都かなと思うほどである。
途中平城京跡の傍を通る。

 狭い道をいくと、町並みが一軒家の並ぶ狭い道になり、すーっと秋篠寺に導かれていくような感覚になった。

 秋篠寺は、苔寺ではないのだろうが、苔のむしたIzumo002_2 緑の絨毯のような庭に木々がきりっと間隔を正確に計って植樹されたよう
に整然と立っていた。精霊が木一本一本に宿り、秋篠寺を見守っているような雰囲気だった。

 気品という言葉が頭浮かんだ。
 境内はたいへん静かだった。
整然と美しく存在する典雅な寺という感じで、足を踏み入れるのに心の中が洗われるというのは、こういう場所であったのか、と目を見張った。
 こういう雰囲気は今までかつて見たことのない、清楚という言葉で表現仕切れる寺であった。
 歩くのにもばたばたと音を立ててはこの場の空気を乱す、そう思ってそろりそろりと歩んで行く。
 開かれた空間に、緊張感という大仰な言葉とは異質の、凛とした空気が漲っていた。

秋篠の御寺に入りてしのばれぬ精霊宿り雅やかなり

 200210_001_3 寺は、白壁に木の格子が几帳面な建築家が線をすーっと硬質のペンで長く引いたかのように緻密な感じで組み込まれていて、大きな屋根もその建築物に荘厳さを与えているようで、軒先がきゅっとカーブしているところがおすましさんの顔のようにちょっと小憎らしくもある
ような高雅さである。

 見惚れてばかりもいても、時間がどんどん過ぎて行く。
招かれた客のようにためらいなく、御寺の中へ入って行く。
薄暗い。
いや、暗いと言ったほうがいいだろう。
Izumo012 闇にひときわ輝いているのは何だろう、もちろん薬師三尊と、あの、あまりに有名な伎芸天立像であった。

 恋をした男がどうしても女が忘れら無くて、邸に忍び込むという話が今昔物語に出て来るが、恋いこがれると東海道新幹線に急に飛び乗って、あっという間に京都に行ってしまうことはあり得る。
現にわたしがそうであった。

 奈良のこの伎芸天を眺めて、思わず何も思案しなまま、ふくよかなお顔にまず見入って、両手が合わさっていく。
 気持ち左にお顔をちょっと傾げておいでかなあって思って自分も小首を傾げて、じっと見入る。

 お顔だけが天平時代、お身体は鎌倉時代。
そう解説されれば、なるほどお顔の乾漆像が柔らかな笑みを含んでいて、これから人から何か尋ねられて言わなければならないのだろうと何かお口から言葉をふっとお漏らしになる瞬間、そう唇がふっと言葉を言うその直前の少し開らき加減のご様子に似ている。
朱色の唇が艶っぽい。

 眉は、大きな丸いカーブを見せ、穏やかでたおやかである。
お身体はしなやかに腰をちょっと引き気味で、大きくうなりを見せて曲線美を見せている。

 暗闇の中で蝋燭の明かりで佇まれている様子が神秘的である。
音楽など芸能の神様である。
琵琶の音色が奏でられるかも知れない。いや、あれは弁財天だ。
わたしはいろいろ心の中でつぶやく。

 ご本尊にも手を合わせ、近くに椅子があって、黙って座った。
暗い御堂に関西の地元の方風な高齢の女性がふたりおいでになった。
関西弁でのどかな会話がゆるやかに流れて耳に入ってくる。

 何を話題にしているかもう忘れたが、何か音楽を聴いているように、その場の雰囲気に近くてのどかさを増す会話であり、方言の魅力であった。

 邪鬼を脚で踏みつけている帝釈天であっただろうか、堀辰雄さんが仲間と「踏みつけられているほうが何年もたいへんだろうね」と言うような発想をして、会話を楽しんでいらしたようだけれど、なるほど踏まれているほうもなかなかの役目、ふふふと思った。

 秋篠寺はおおらかな雰囲気を仏像がお持ちになっている、そう思って感心した。
 「あえやか」というと誰かが言っていたが、なるほど、ゆったり豊満な派手さのない中に艶っぽさ、そういう日本語もあったなと思い返した。

唇のかすかに動く息づかい朱がなまめかきしき技芸天なり

 仏像を拝見して表に出ると、秋の爽やかな柔らかな日差しに当たる。
けして、境内にいて先ほどの雰囲気は遜色しない。
この凛とした空間がずっと持続する、それがこの寺の品格というものなのだろうと思った。

庭に東洋美術家で歌人の会津八一の和歌が石碑に詠われていた。
「あきしの の みてら を いでて かえりみる 
  いこま が たけ に ひ は おちむ と す」

読み終えて、ふっと顔を上げると、そこに碑をやはり拝見していた老紳士が佇んでいた。

「会津八一ですね」
そう言って言葉を思わずかけた。
なんだか嬉しかったからである。
老紳士ははっとして
「ええ」
と答えて顔を振り向かせた。年齢は60以上の方であろう、しかし、しばらくしてその方は石碑と境内を去りがたく思って佇んでいた、わたしにそっと声をかけて来た。

「わたしは、唐招提寺と秋篠寺が好きでして、よくこの辺りを散策しています」
「そうですか、わたしは東京から参りました。どうしてもこちらに伺いたかったからです。」
 赤い色柄の派手ではないシャツはこぎれいな雰囲気で、その人の人柄は穏やか感じであった。

 話していて、その方はもう退職して毎日こうして散策するのがお好きなようで、関東で長年勤務していたらしいことがわかった。
一緒に境内を出て、平城京の方面へ歩き出した。

一句

秋篠の天平の美を仰ぎ見て奈良の秋こそ豊かなりけれ

 わたしが不退寺や法華寺に行きたいと話していたら、ちょっとその方はまじめな顔になって静かに口を開いた。
「もし、わたしでよろしければ、時間がありますので、用事が終わったら、奈良は交通が不便ですから、車で法華寺までご案内します」
そういう提案をなさった。

 わたしは幾ら若くないとは言え、車ということでちょっと警戒したが、法華寺までならお言葉に甘えよう、まあ大丈夫だと思って、お礼を述べて便乗することにした。

 途中、わたしは東大寺に匹敵すると言われた西大寺に行ってみようか思った。紳士は、是非見たほうがいいと言った。
 奈良の東大寺はあまりに有名だが、西大寺は真言律宗の総本山で765年称徳天皇により造営された。

 今は礎石などから往事を忍べないが、ひっそりとしているので、わたしは無知なまま誘われて行った。                                                             Izumo001_2

 「奈良紀行3 西大寺」

西大寺への道は秋篠寺からすぐだった。
歩いて数分で到着する。

 老紳士と軽く身の上話などをしているうちに到着した。
紳士の奥さんは、とある資料館でパートをしているらしい。
趣味で歴史の本をよく読むというそうである。
 わたしは女性の一人旅ということもあって、自分のことをしゃべるのは気が引けた。できるだけ聞き役に廻った。

わたしの容貌は、街でよく見かける平凡な女性で、見苦しくないというのが取り柄であるよう、心がけていた。
紳士にはどう見えるかわからなかったが、紳士もこぎれいな方と言う印象であったので、ほどほど好感を互いに持ったということであろう。

 わたしは父親ほど年齢の離れた紳士に男に対する警戒感を持たない代わりに、不思議な縁を感じた。
老紳士に接するわたしは、不思議な仙人にあった旅の途中の「不思議な国のアリス」のように、古の都に時間を超えて迷い込んだまさIzumo011 に一旅人であった。

西大寺の東塔の礎石は、何も言わずどっしりと広い空間を占めていて、五色の錦垂れ下がった本殿の中に釈迦如来と菩薩が安置されている。
寺の境内はほとんど人がいない。
紳士は時間がないなあと焦るわたしに、
「大茶盛りで有名ですよ。」
と言う。

わたしは知識がないので、ここで叡尊が茶を献じて参拝者に配ったことから始まった行事についてとんとわからなかったが、勧められるまま、本堂に上がって、仏像をぐるっと見渡して、大茶盛りの絵はがきを購入した。

 京に詳しい方が見たら、卒倒するだろうと思えるほど時間を気にして、そそくさ退散したのは、あとで思うと冷や汗ものである。
古都はのんびりと行かなければならない。
大事なものを見落としそうである。

 紳士は黙って外でひっそりと佇んでいらした。
これが相手に対する配慮であろう。
急ぐわけでもなく、静かな面持ちである。
ちょっと淋しそうな目つきを稀になさる。
 実は西大寺に見てほしい重要な仏像があったのだろう。

葉書を拝見すると、直径30センチ以上もある大茶碗で参詣者が薄茶をいただくらしい。きらびやかな着物を豪華に来た年若い女性が楽しそう
に大きな茶椀を回し飲みしている光景がほほえましい。

 豪快なスケールであり、こさっぱりした僧侶の姿の写真と対照的であった。
鐘楼があり、ここの木の板に孝謙天皇のことがささっとしたためられていた。はじめは称徳天皇を申し上げた。

母は、光明皇后である。夫、聖武天皇の第二皇女であり、在任中に父帝の発願であった東大寺大仏を開眼させた。
いとこの藤原仲麻呂を重用したが、僧侶、道鏡を寵愛したため、仲麻呂が反乱を企てたことで淳仁天皇を退位させ、ご自分がまた皇位をお継ぎになって称徳と名乗られた。

道鏡は、権威を持ち、政治に力を振い、皇位につかんとしたため、これに反対する貴族たちは和気清麻呂に宇佐八幡宮の神託を受けさせて道鏡の野望を妨害し失敗させたと言われる。

 歴史は勝ったものが英雄視される。Izumo003_3 史実はどちらを味方にするかわからないものの、そこに「道鏡を守る会」という組織もあり、道鏡は朽ちて損害の多かった傾落の見られた国分寺に積極的に保護政策をとり、悪人だったという見方以外の視点をもたらす。

 「道鏡を守る会」の石碑には、「この里は 継ぎて霜や置く 夏の野にわが見し草は もみじなりけり」とあった。
 国家鎮護を思案し、各国ごとに国分寺を造営するという具体案は、道鏡なきあとはまったく陰を潜めた。
歴史を見るということは難しい。

ある友人に話したところ、孝謙天皇は藤原家の権力から皇室の権威を守ろうとしたのだという説もあると言う見方も教えてくれた。
どちらであろう。

200210_004_2 わたしは、西大寺の池を老紳士と見やって、のどかなこの秋の昼間、池のほとりの掲示板に観世流謡曲にも歌われた「百萬古柳」がここにあると、ぼんやり眺めていた。
太陽の日の光を受けて池面が白い鑑のようになっている。
たまに吹く風に寄って、池面がさざ波立つ。

一句

西大寺茶の発祥の大茶盛藤棚近き池に佇む

女帝と言うと、薄幸なイメージがぬぐえないが、孝謙天皇はその時代を精一杯パワフルに生きた女性であるかも知れない。
 思いはどうしても少ない日程で予算を気にして廻るわたしには、過酷に砂時計のように刻々と過ぎて行く。
もう二度とない、この時間が。

孝謙(称徳)天皇に女性として胸に痛みを伴ってこみ上げる何かがあったが、さて次に行こうと紳士に声をかけた 。        200210_002_3

 駐車場へ向かうわたしたちは足早だったが、その道の途中、「大茶盛り一口めして皆なごむ」という歌が奈良らしいのどかさを醸し出していた。

「奈良紀行記4 不退寺」

田舎とはもう言えないほど、奈良の西大周辺の道は広く綺麗に舗装されて、車が大道を通る。老紳士の好意で車に乗り込んだ。
紳士は軽やかにハンドルを切って、すぐ法華寺に到着した。

紳士は、わたしがこれから不退寺に行って、その後コスモスが美しいと言われる般若寺を見たい、そして、時間があれば浄瑠璃寺に行って見たいのだが、今日は全部は無理でしょうね、と話すと、感情はさほど込めていないものの、じっと耳をすましてお聴きになり、よろしかったらこれから用事を済ませて、わたしで良ければご案内しましょう、というお言葉がかえって来た。

「山の中にあって、バスもほとんど来ないので、車でないと難儀でしょう。」
そう言う言葉にわたしは驚いたが、嬉しいような半面、この車で山奥まで行くというのは瞬間、ちょっと素直に述べると怖かった。
わたしが当惑したような顔つきをしたせいか、紳士は急に顔を硬直させて、慌ててポケットに手を入れると財布を抜き出し、中から運転免許証を取りだした。

「わたしは退職するまで東京におりました。従って、標準語を話しますが、実はこちらの出身です。
 妻もこちらの人間で今は図書館の職員を手伝っています。
 歴史が好きでよくふたりで寺参りをしますが、今は妻は職場にいます。わたしが送り迎えをしているのです。
 今日は唐招提寺にいつもの日課のようにお参りをしようと思っていたら、あなたに会いました。わざわざ東京からいらして寺をご覧になりたいと言うので、これも何かの御縁かと思います。
 わたしはここに住んでおります。
どうか安心なさってください。まあ、女性のひとり旅ですから、警戒なさるのもわかります。ここに住んでおります。」

と、運転免許証を真剣な顔つきで差し出している。

わたしはまだ警戒心が解けないままも、瞬間迷ったまま、まあ、なんというかここで紳士を疑い続けるのも申し訳ないと、ひやりとしたものを感じながらも頷いていた。

車から再会を約して降りて、歩んでいき、道順から不退寺に行こうと思った。
  途中、昼食を取らなくてはと、周りを見渡したが、入りやすい店がなく、大きな交差点でぽつりと佇んでしまった。

 よく見える看板と言えば、牛丼の吉野屋であった。今まで一度も入ったことがない。
奈良に来て牛丼かなと迷ったが、選んでいる選択肢がなかった。

 店員の女性がきびきびして、男性ばかりの中をひとりどう注文していいかもわからず、迷いながら生まれて初めて有名な割に入らなかった店に入って牛丼を食べた。ついでにゴボウサラダも頼んだが、通な人が言うことには、ゴボウサラダの注文は邪道らしかった。後悔先に立たず。もう過去になった。

 在原業平ゆかりの寺、不退寺の山門をくぐる。
本堂では阿保親王の像を眺める。平城天皇の皇子で、父君である。
うーんと眺めていた。霊感は沸かなかった。

 平城天皇が茅葺きの仮り住まいをなさって、「茅の御所」と言われた。
なんだか、大きな屋根の御堂は、思ったより重厚である。
建築は寄棟造りらしい。

 中で拝観していると、ここの方が、
「藤原定家は、有名なわりに字が下手でしてね」
とおっしゃる。あとは、詳しいことは忘れたけれど、寺にあった格子模様の青い模様をじっと眺めていた。
 ここで発掘された石棺があったので、拝見した。200210_007_2 大きな石のエジプトにあるミイラの石棺のように長くて大きく、江戸時代の小さなサムライの着物を見たことがあるが、全く異質な人種の人が入っているような気がする。
古代の石棺だから、まあ当然だろう。
 
 この寺は業平が聖観音像を刻んで本尊としたのが始まりらしい。
「不退転法輪寺」と称される。名前が良い。
わたしはどうしてもここに来たかった。来てみてどうかと問われても困るのだが。

 ただ、『伊勢物語』を高校時代に原文で読み、業平のプレーボーイと言うだけで和泉式部と並んでおもしろおかしく語られるのではなく、不遇だった皇子方に思いを寄せるのである。
 
 水瀬によく鷹狩りになった惟喬の親王が政治の世界から遠のき、出家なさった。
庵を組まれて比叡山の麓に庵を組まれてお住まいになり、そこを業平が雪を踏み分けて訪れるのである。

空が黄昏に染まる夕暮れ時、今はと思って泣く泣く業平は帰宅の途につくとき、

「忘れては夢かとぞ思ふ思いひきや雪踏み分けて君を見んとは」

(つらい現実が事実であるということをふと忘れては、これは夢ではないかと思うのです。こうして山深い場所であなたさまにお目にかかるとは)

業平は美男だが政治に疎くて和歌だけ優れていたと語り継がれる。
ほんとうにそうであろうか。          200210_009

「おおかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」

(わたしは月を鑑賞しまい。この月が積もり積もって老いてしまうから)

当時の宮廷で孤立した親王を敢然と見舞い、二条の后など高貴な当時の権力者の奥方に恋をして、光源氏のモデルと言われるように次々恋の遍歴を重ねたと語り継がれる。
 すべてが業平ではないということから、「ある男が・・・・・」と『伊勢物語』は語られている。

 兄たちである、時の権力者藤原氏を驚愕させた。
 白露を何か、玉かと業平に尋ねるほどの世間しらずの姫君を籠絡したと言ってもよい。
 二条后との恋は、業平の能面の苦悩滲む顔が刻まれている。

 恋路に藤原兄弟から邪魔をされながらも、「不退転法輪寺」の名の通り、政治に背を向けた、男の執念のような物を感じる。

ただ、その恋は本物であったし、自分の存在を生きて示したような不届きさであり、姫君や后を高雅なまま包み込む歌の品位が漂う。

 政争抗争に負けて政治の表舞台からはずれた男の社会の裏における男の意地の通し方が、「不退寺」の名の由来である気がした。

一句

業平の執念見たり不退寺の名のごとくして生きたる男

ちょうど寺を出たところ、「写真を撮ってください」とわたしより二回りほど歳の離れた地味な女性が声をかけていらした。     Izumo004_2
はいと言って、シャッターを切り、わたしも頼む。
そのとき、ふっと気がついたのは、この南の門は鎌倉時代の本瓦拭き四脚門で重要文化財の珍しい建築であった。

あとで気がつき、その女性に感謝した。地元の方は聡くて、旅人にものをそっと教えてくれる。

「奈良紀行5 法華寺」

さて、その後は法華寺に赴く。法華寺は清潔感ある風情であった。
ちょうど光明皇后にゆかりのから風呂が修復工事されていた。

 今、日本が地震。台風に見舞われて日本国土が荒れているが、被災者の方々のお気の毒な場合と同じく、当時人心は荒れ、天災に見舞われて、夫の聖武天皇は平城京から四回都を遷都して平安京へ移る。従って、仏教の力で国家安泰を祈願した。

 わたしは、華塚という碑がどんと立っている中、200210_028_3 菊など秋の花々が咲き乱れていて、手のあまり入っていない花々のある花壇をぐるりと歩いていた。

 から風呂の修復に熱心な方々は、この花塚も綺麗に手入れしてくれるか、なんだか気がかりだった。
 花塚というのは、日本人らしく、優しい心遣いを感じて嬉しかった。
コスモスや様々な名も知らぬ可憐な花々を目に入れて、誰もいない、お庭を見ていた。

 「から風呂」は、光明皇后が病に苦しむ民衆のため、千人の垢を流す願をたて、千人目に現われた病人Izumo005_2 の膿を吸ったと言われる。
 学生当時は、高校の日本史の教科書を読んで、思わず唇が腫れでもなさらなかったか、だいぶ気になってしかたなかった。

 怖気立つような度胸で、はっと胸をつき、そこまでなさらなくてもいいのにと、自分にはできないことだと、死に行く病人を次々と自ら励ましさすられたというマザー・テレサを想起した。

 よく読めば、壮絶な行為である。現在2002年の教科書にはその記述はもうない。

 娘を次々と后にして、外祖父として藤原氏は権力を振るうようになったことが後の人の歴史研究で見る目が変り、これらの逸話がおおげさな話ということになったからかも知れない。しかし、とりあえず、から風呂のことは修築される程だから、一応この寺では有名な話なのだろう。

 お寺へ行くと、守り犬なる陶器の販売をしていて奉納を勧めているが、かわいらしいという感じで眺めて、傍にいた女性が愛子様に贈られた話などを述べて購入するのを黙って見ていた。

 中に入って、手を合わせ、拝見すると、こちらの十一面観音は、光明天皇をモデルにしたと言われるが、豊満な肉体であるにも関わらず、けして見るものに幻惑した淫らな発想をするものなら視線を跳ね返し、憤怒で炎に燃やされてしまうかのような内なる気性の激しい、威圧感を感じた。

 片足が今にも歩きだそうだと白洲正子さんが述べておいでだったが、親指が実物のようにリアルにそうっとそらして歩まれる瞬間、何もおっしゃらないが行動で意志を伝えましょうという雰囲気で周りのものを圧倒させる。

 なんだか仏様にしては生々しい感じだった。

一句

白檀の観音さまのおみ足の親指眺め我笑み洩れぬ

 悲田院、施薬院という貧者と病苦者のため奮闘なさったらしい。
史実の発願のきっかけはわかなくなくても、国家に身を投じて活動され、何か成し遂げようと活動する女性のたくましさを全身に像がにじませていた。

 ほうっと思って尼寺を抜ける。

秋晴れが爽やかで、透明な青い空の日差しは肌に優しかった。

続く

 


2002年出雲と京都見学記

2008年01月03日 12時06分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

「2002年出雲と奈良見学記」

伊勢神宮に行ったので、出雲大社にも行かないといけないと思って出かけました。
出かける際に、アメリカ人の青年に「知っていますか」と尋ねたところ、「知らない」と言うので、いつも彼のことを意識して旅行中は英語のガイドもせっせと集めていたのですが、帰宅してメールをしても返事はなく、残念なことに彼は帰国してしまったのでした。

今日はもう書く時間はないのですが、出雲大社の建築は国譲りの後に奈良の東大寺の建築の際にその技術を伝えたのです。釘を一本も使っておりません。
昔は、バベルの塔のように非常に高い建築物で、竹中工務店がその模造品を作成しております。国譲りの際に条件として、大国主命のために作る約束をしたのです。柱が非常に太くて、もの凄く高い建物でした。近年その柱の存在が明らかにされました。出雲族は、平和を非常に愛したそうで、国譲りの詳しい事情については、皇室と同じほど古くから代々続いていらっしゃる子孫の千家という宮司方が伝承されていて、公にしないと言う約束だったそうです。「秘すれば花」(世阿弥)

Izumo009_2

歌舞伎の出雲の阿国の墓も傍にあり、日本の国技である相撲の発祥地でもあります。

奈良の東大寺はたいへん有名で観光者も多いのですが、平城京跡の近くに西大寺という孝謙天皇ゆかりの寺があり、今はひっそりとしていますが、大茶盛りで有名で、ここが日本の茶道の発祥地であり、茶道と言えば、松江の殿様松平治郷(不昧公)は藩の税制建て直しのために貢献したらしく、治郷公が東京品川に茶室をお作りになったのですが、ペリー来航のためにお台場に大砲など警備に努めるべく整備することになり、取り壊されて、その一部「独楽庵」が出雲文化伝承館に移築されました。
治郷公の江戸のお屋敷は、現在の赤坂にありました。
そして、治郷公のご息女は、千葉の佐倉にお嫁入りになり、この地に現在、国立歴史民俗博物館があります。

日本を知るには、伊勢ばかりでなく、出雲も大事です。

出雲大社には、今は式場になっている神殿にIzumo010 ステンドグラスがはめ込まれていて、なんだか教会風でした。朱色の袴をはいた巫女が鈴をしゃんしゃんと鳴らして、太鼓に合わせてひらりひらりと舞っている姿を見ていたら、なんだか古代へわたしの神経が飛翔して行きました。妙に懐かしい感じでした。
出雲大社の資料館にあった白い龍笛が素晴らしくて、手に取ってどんな音がするか吹いてみたくなりました。
きっと薬師寺東塔の水煙にある笛を吹く飛天のように、その音色は天へと響き渡って行ったことでしょう。

京都広隆寺の半迦思惟像は、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「とても人間的で神々しいもの」と誉め讃え、確かに左右から多角的に眺めていて、非常にバランスが取れていることがわかります。頬に置いた手は、非常に繊細で、前屈みになった姿勢と腕との角度を測ると、その間の空間はちょうど二等辺三角形になっています。
これを見学して、京都寺町通りの果物屋で梶井基次郎が檸檬を購入して、「あ、これなんだな」と握った感覚を思い出しました。
この微妙なバランス、これが今の国際時代の日本に必要なものなんだな、と思いました。
聖徳太子のように仏教を神道と習合させ、この二等辺三角形のようにした力量は素晴らしく、日本の最大の哲学者であり、政治家だったのではないでしょうか。

現在の社会では、仏教、神道、キリスト教、この三つを正三角形に見事に融合させて、日本でバランスが取れるような社会実現、そんな聖徳太子のような哲学的政治家が日本に現れたら、きっと日本の平和は永続することでしょう。

*あ、イスラム教もあるから、やはり、全部の宗教の融合を図るのは難解でしょうか。
イスラム教の方も重んじています。

現在、宗教界でも各宗派で共生のための歩み寄りが始まっています。
今回、芸能と学問の女神とも言うべき秋篠寺の技芸天も見学しました。
明治時代に廃仏毀釈で危うくこの世から葬られるところだった十一面観音像など、美術評論家だったアメリカのフェノノサが見いだして守って来た歴史を振り返ると、日本人は自分の文化をもっと大事にしたほうがいいと思いました。

和辻哲郎の本を片手に白州正子さんがお寺巡りをしたように、ひっそりと自分もこれからもずっと古都を彷徨ってみたくなりました。
日本の本質を知るアメリカ人の留学生は、茶道をクラブで選択しますが、妙心寺の釣り天井の龍を眺めてみるといいと思います。あざなえる縄の如く、生死は表裏一体、こういう老荘思想が日本では禅として広まりました。龍は見方により登り龍になったり、下り龍になります。妙心寺の境内には、外国人の方が子どもさんを遊ばせていました。
下手ながら、古都数首。

「古都数首」

太秦の永久の微笑に古の調和の限り結晶と見ゆ

天上に身を躍らせる龍神の豪放磊落妙心寺の秋

禅寺の茶室向かひ秘めやかに侘びを語りし古の僧

 現在、平城京を復元するため建築されていますが、古都の悠々とした風情が守られることと、「仏つくって魂を入れず」というようなことがないことを願っています。

「大和うるわし」・・・外国人の方々も評価してくださる美しい日本を持続したいな、と日本人として思いました。


名古屋ちょっと見学記

2008年01月03日 11時38分20秒 | 旅行記

名古屋ちょっと見学記                 055_2

場所(地域) 愛知
場所(詳細) 犬山
時期 2004年5月1日
ワンポイント 白帝彩雲の間

愛知万博を来年に控えて、感じることが名古屋で多々ありました。
ひとりになって辛いですが、頑張ります。                      

愛知陶磁資料館に行きました。 

あちらこちらで、名古屋では藤の花が綺麗に咲いていました。      
愛知万博会場のすぐ傍にあり、今準備が進められています。
元経済産業省の堺屋太一さんが確か委員から下りた事件がありました。
どんなものが展示されるのでしょうか。
1800年代の万国博覧会に出品した日本の作品はすばらしもの
でした。

ドイツ人ワグネルが東京大学、東京工業大学であらゆる技術を用いて日本人を指導し、陶磁器は明治政府の威信をかけて、贅を尽くしたもので、現在の日本も赤坂に有名なギャラリーがあり、個人投資家の力で高度な技術を伝えています。現在、茶器に興味があり、ずっと鑑賞しに行っています。
現在、日本政府が力を入れているとは思えず、ちょっとその反響が心配ですね。県レベルで終わってしまう可能性もありますが、名古屋の商人や伝統ある名門徳川家の良さを生かせて、駅に着いた時にノスタルジックな雰囲気も味わえたなら、明治村に溢れていた欧州との交流を思い出させて、来日する外国の方々には新鮮さと親近感を覚えてもらえるでしょう。

Photo_4 犬山城は、「白帝城」と言われるほど、木曽川から見て高台にそびえていて、中国の李白の詩から歌われた城の感じに似ています。「白帝彩雲の間」と歌われ、「朝(つと)に白帝を発す」という題名で、「三国志」の英雄劉備玄徳が亡くなった地の歌です。

中は、強固な木で組み立てられており、姫路城と同じく「国宝」です。
町おこしで犬山の方々が頑張っていますが、伊勢神宮のおかげ横町ほどではなく、特色にかけていて、なにかもう一工夫ほしいものです。
「からくり館」はなかなかおもしろいです。
もっと大規模にいろいろなからくり人形を動かして見せてほしいと切に思いました。

ただ、資料館には山岡鉄舟や近衛秀麿の書などがあり、それは読んで良かったと思います。
近衛さんのには、「しなければならないということより、何もしないことも時には大事なんだよ」というような意味も書いてありました。

名古屋城は、行ってがっかりしました。      056_2
エレベーターで上って、なかは展覧会場を改修していました。
今回は歴史的な意義を見いだせませんでした。
ただ、青松葉事件ということが気になりました。
尾張徳川家に何があったのでしょう。
まだ調べていません。

(今日調べたところによると、江戸の徳川家が養子縁組を4代に渡って無理に行なったことで、尾張藩の渡辺という家臣が倒幕派に廻り、官軍に敗走した幕府を見て、幕府派の家臣三人を葬り去り、隠蔽工作したという事件らしいです)

ただ、名古屋城のお堀の周りには、綺麗に春爛漫に藤棚に花が咲き誇っていまして、しばらく佇んで眺めていました。金の鯱は、さすがによく拝見できて、トレードマーク的な感じで、犬山城と対照的な感じでした。

城の周りの藤棚は、見事に花をつけて、春爛漫を歌っていました。

それから明治村に向かい、明治村は、それなりに045 意義があり、明治時代の建築物を保存状態良く残されていて、一日ゆったり過ごすのがいいと思います。半日だと非常にせわしないのです。今回疲れ果てました。

038 いろいろな建築物があり、明治という外国建築士の設計による邸宅や、古い教会(聖パウロ会)の建築物、そして、古いミシン、昔の帝国ホテルのロビーなど、見て感動しました。わたしは、帝国ホテルのロビーが気に入って、ここでは喫茶店もあるので、お茶をひとりで優雅にいただき、古きとき時代を偲びました。

049_2

美しい湖水(木曽川)に新緑が映えてハナミズキが美しく咲き誇り、八重桜とあいまって春の祭典という雰囲気でした。
蔵元により、忍冬酒を購入し、漢方に近い味わいですが、飲み慣れると結構いけます。身体に良いそうです。リキュール酒らしいのですが、減量は米です。

羽黒という場所が近くにあり、名水で歌われていて、そこの日本酒「小弓鶴」もいただきました。名鉄観光のホテルでかろうじて購入。
味わいは辛口、さっぱり美味。
ボトルも白磁に犬山城を描いていて、なかなか素敵です。
名水の場にはお酒のみならず、精密機械の工場も中部にはたくさんあります。
新幹線の中では工場の看板をじっと眺めていました。
わたしは、じっくりカメラやデジカメをいつか購入しようと思っています。

このページの写真は東芝の携帯電話の写メールで、画像が荒くなっています。
欧州に旅行に行った時、外国人の目を惹いたのは、日本製のカメラでした。
日本経済の立ち直りはきっとあると思います。
最近は中国産より関西の織物のほうがいいそうです。

織田信長の弟、織田有楽斎(有楽町の名はこの人の名前から取った)の茶室、国宝如庵を拝見しました。                       Photo_5
今回の目玉観光地です。
茶室の中に、写経が壁に貼られており、簡素で繊細、知性溢れ、それが全く鼻につかない、品の高いお茶室です。
携帯電話で水琴窟の音を録音して、帰宅しても楽しんでいました。横の写真は如庵の庭園です。

如庵は、もとは三井家所蔵でしたが、今は名鉄に受け渡されています。
数奇な運命をたどり、転々と移築され、現在はここにあります。

愛知は蘭の名産地でもあり、らんの館も041 蘭と言えば、「松坂屋」のシンボルです。
おみやげにういろうを購入。

徳川園は、ただ今あちらこちら修復や改築などをしており、国宝の宝庫ですが、残念ながら拝見できませんでした。
源氏物語絵巻(国宝)は、上野毛の五島美術館以外、ここにあります。

名古屋は、トヨタ博物館もあり、産業展示資料館も拝見したかったのですが、時間がありませんでした。
日本車と言えば、トヨタ、ホンダ、日産と思い浮かべます。奥田経団連会長の顔を思い出し、経済的な基盤として手堅そうです。

夜、元陶器貿易商人のお屋敷春田邸で大正時代の面影を偲び、お隣の亡き豊田一族のある方のお屋敷をちらりと見ました。
シンプルな洋館で落ち着きある品がありました。

名古屋を数日間でみんな見ることは不可能でした。
交通機関案内がもっとわかりやすく、便利に接続されればいいのにと思いました。


「2007年10月第十五回東京メトロウォーキング」

2008年01月03日 00時38分48秒 | まち歩き

「2007年10月第十五回東京メトロウォーキング (水戸後楽園から神楽坂~江戸川公園・護国寺というコース)」

①神田上水~東京メトロのウォーキング

あのコースは、簡単に言うと、神田川上水の流れを説明するルートを巡っていた。

全部、詳細にエッセイを書こうとして無理が出て、とうとうこんな時期になってしまった。
いっぺんに解説せず、何回か分けて書くことにした。ご記憶に在る方は、思い出してみてください。

神田川上水(椿山荘下・関口芭蕉庵・江戸川公園あたりに流れていた川)は、関口の大洗堰(現在の大滝橋)あたりで水位を上げ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現在の小石川後楽園)に入れた。そこから地下を樋で神田・日本橋方面に給水した。
ルート、水戸後楽園を出発して、江戸川公園・関口芭蕉庵あたりまで来て、水がここから始まったことがわかる。
この大洗堰の取水口に、上水の給水量を調節Dscn4334_2 するため、「角落(かくおとし)」という板をはめこむための石柱が設けられた。
このあたりは、風光明媚な江戸名所だった。
大洗堰の由来碑が、江戸川公園にあったのを見た方はいらっしゃるだろうか。
あそこに、裏側に、当時の「角落」として使用された石柱があり、昭和8年大洗堰廃止により撤去されたものを移したのである。
立ち止まって、この石柱を見学した人はほとんど見かけなかったが、今度ご覧になってみてください。
なお、上水に取り入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川に流された。

あと、みなさんがほとんど気に留めなかった水(すい)神社(永青文庫へ続く胸突き坂あたり。新江戸川公園と関口芭蕉庵へ右折したあたりの場所にあった神社)は、由緒ある神社である。今でこそ、廃れたイメージに見えるが、実は重要な場所だ。ちょっと小高い位地にあった神社である。目白台1-1-9。
日本最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水(もんと)が開いた。
伝えによれば、八幡宮社司の夢枕に水神が立ち、わたしをこの土地に祀れば堰の守護神となり、村民および江戸町は安泰なりと告げたので、祀ったらしい。
上水の恩恵にあずかった神田・日本橋方面から参拝者が江戸時代は絶えなかったと言う。
目白台に椿山、西に富士山が綺麗に眺められ、Dscn4328_2 行楽地であった。
神社の傍には、昭和34年4月10日皇太子殿下御成婚記念(今上天皇の皇太子時代で美智子様とのご成婚)という碑が建っていた。

また、江戸川公園の場所には、掲示板があり、俳聖松尾芭蕉が神田上水の改修工事に関わった人物であることを紹介し、関口芭蕉庵を記している。
このあたりが、永青文庫で有名な熊本54万国の細川家の下屋敷跡になったのは、幕末である。江戸時代初期・中興には、まだなかったことを頭に入れて想像して見てください。
松尾芭蕉の前身は、伊賀の国(三重県)の藤堂藩の武士であり、藤堂藩祖の藤堂高虎はじめ築城・土木・治水の技術に長けていたことから、芭蕉が工事監督にあたったらしく、延宝4年(34歳)から同8年まで幕府から命じられて仕事にあたった。

今は、誰もそう崇めてみない神社も、非常に参詣者の多い歴史というものがあり、便利になった現代そう省みられないが、出来た当初は、ほんとうに江戸の人のこころが向けられた場所であった。そんなことを、些細なことでも見落とさず、歩いていきたいと思っていた。

この神田川も、明治43年の大洪水で、地域の人のDscn4341_2 護岸への悲願により、大井玄洞(加賀藩金沢生まれ。明治33年小石川区在住)が、大正2年護岸工事を始め、同4年完成させた。
江戸川公園の大通りに近い場所に、昭和3年銅像を建てたものがある。

②小石川後楽園・水戸光圀~東京メトロウォーキング
「小石川後楽園パート1~ 第十五回東京メトロウォーキング」

わたしは、後楽園に特別な感慨を持ったことは今までなかった。
そう言えば、このウォーキングで、美しい菖蒲の花を見た場所があったことを思い出し、あの美しい場所はここだったかと、今回記憶を回復させていた。

後楽園の資料室で、光圀関連の漢詩などがあり、読んでみて、深く感動した。

水戸光圀後楽園関連詩
「次韻九成題隻頭蓮詩」に序をよせている

1676年の夏、後楽園の庭に二つのうてな(おしべ・めしべ)を持った蓮の花が咲いた。7月のある日、文学的な才能のある人が大勢集まった。和やかに宴を開く。跡継ぎの綱條(つなえだ)が蓮の花に関する詩を読み、添削を求めた。吟詠するのに捨て置くのにしのびなく、天・ 娟・ 蓮 の韻字の詩を作った。そこで綱條に諭して、

「蓮の花というのは吉祥であり良い水で、土地が肥えていなければ咲くことができない。
学問もそういうものである。

つまり、詩や賦等の文章は、学問に励み書物を読んだ結果としての花や葉である。道徳を深く学び、その根本を養えば花や葉は自然と咲きかつ茂る。
ただ、詩や文章を養うことに意を用いて、根本を勉めるのを疎かにすれば壁に絵を描いて
光がなく、あやぎぬを切り取って香りがないようなものだ。どうして一人前の男子がすることであろうか。

Dscn4270 夜に昼を継いで努力して倦怠をせず、たくさんの書物を読んで、文章を作ることが多ければ、それで詩や賦は自然と上手になる。昔の人が言ったように、胸の内に万感の書物が有れば、筆をおろして滞ることはない。
あなたも勉強しなさい。そうすればわたしの激励を受けることがあろうか、その必要はないのだ。」と。

さて、その後の文章に小石川後楽園の風光明媚な庭についての記述があった。
文章を書く身には応える言葉だが、光圀の愛情も深い見識の上、伺える。

③小石川後楽園・朱舜水・斉昭~東京メトロウォーキング

**大事な補足・・・木下順庵は、将軍徳川綱吉の侍講であり、その門下が新井白石、
雨森芳州であった。林羅山門下だけでは朝鮮通信使への詩文(漢作)に尊敬を集められず、彼等は漢詩をよくなしたと言う。

樋口奈津(一葉)は、頼山陽の「日本外史」を読んでいた。
やはり、「たけくらべ」の白い水仙の花には侍の矜持の意味があると思う。
彼女は近代の女性の自我に目覚め、女性解放に目を向けた。けして欧化主義に流されず、さりとて古い因習に囚われず、華族にも庶民にも媚びない個人主義の精神を持っていた。

薩摩の話題は日本ではタブーのようだ。
皇室とも縁が深い。日本にはタブーがある。

「小石川後楽園パート2 第十五回東京メトロウォーキング」

1651年6月幕府の公許を得て江戸小石川の屋敷内に、深山幽谷のような「後楽園」を徳川頼房公が造営した。                Dscn4271
光圀の時に、明の遺臣朱舜水を師として迎えて、その設計を取り入れ、西湖の風致をなぞらえ、御園一見を望む民衆には見せるように計らい、後代出来た偕楽園の造園趣旨の根本精神がすでにここに現れていた。つまり、「古の人、民と偕に楽しむ。」(偕楽園)(孟子の梁恵王上)。
光圀の時、貴賤関わらず御園を見せ、後楽園と号した理由は「楽は天下に後れて楽しむの御心」ということらしい。
いかにも、後庶民的にも愛される人物になった風情がここにある。
なお、「黄門様」と言われるが、「黄門」とは実は、官位のこと、中納言を指す。(持統天皇の際に創設された官位)水戸徳川家は代々中納言であったから、光圀だけを指すわけではないが、世間ではなぜか光圀だけのように思っている。
本来は、中国の秦漢時代の宮中のもっとも奥の小門が黄色で、官位を「黄門」と言うゆわれになった。(詳細は省略)                        

さて、朱舜水は、1664年、光圀が賓師として江戸Dscn4289 に招聘した。
この人は、後の日本に思想的に大きな影響を与えた人である。
少し、楽をしたいので、ネットの辞書を借りて引用する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朱 舜水(しゅ しゅんすい、zhu1 shun4 shui3、1600年 - 1682年)は、明の儒学者。江戸時代の日本へ来日。舜水は号。諱は之瑜、字は楚嶼・魯璵。

浙江省に生まれる。台湾に拠って清に抵抗、日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行う。南明政権の魯王や、明の復興運動を行っていた鄭成功を支援し、59年7月の南京攻略戦にも参加。

同年、復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命する。柳川藩の儒者である安東省菴に援助され、65年に水戸藩主の徳川光圀に招かれて江戸に住む。水戸学へ思想的影響を与えたほか、『大日本史』の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。

著作に『舜水先生文集』、『朱徴君集』ほか。東京大学農学部内には「朱舜水先生終焉之地」と記された碑がある。

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さて、補足するに、近松門左衛門の『国性爺合戦』で知られる、明朝の回復を図って活躍した鄭成功の軍が南京まで攻め込んで敗北するのが1659年将軍家綱の時代だった。
(なお、明朝最後の皇帝・皇后が自殺したのは1644年将軍家光の時)

後楽園散策に、これ以上何も関係して来ないが、庭園に朱舜水の思想が入っていれば話は別になる。長くなるが、続けざるをえない。
あの資料館に朝鮮通信使の話も記載されていたが、実は、この話は朝鮮通信使と外交にあたった時の外交官でもあった雨森芳州始め、多くの儒学者に影響を与え、幕末の勤王思想にまで発展させてしまうのである。

はしょって行くと、徳川家光は日光東照宮を造営し、徳川家康を神聖化した。
そこに、今まで天皇家独占だった?宗教的権威と血筋の神聖な中に、徳川家が割り込もうとしたと解釈した人も京都の人にはいたのである。雨森芳州も関西人で、武力制定のみで天下を取った?と思案した徳川が京をさしおいて、文化・政治まで江戸繁盛させて都へと移行する権威に反発心を沸かせたのである。

加賀藩前田綱紀の母、大姫は光圀の姉であった。雨森芳州の師、木下順庵は朱舜水と交友すること、亡くなるまで10数年に渡った。ひたすら師とした。京都の伊藤仁斎も再三入門の願いを出している。
なぜか。
歴史は大義名分、正統の王にいかに忠をつくしたかという点から、道義によって解釈していく考え方(春秋の大儀)を取った。
朱舜水が、その正統である明王室に最後まで忠誠を尽くし、異民族の清に降りることを最後まで拒んだからである。
日本では、天皇を正統な流れと大義名分を立てたのである。
水戸光圀は後に湊川に楠木正成公の碑を建てた。
前田綱紀は、狩野探幽に楠木正成父子の桜井訣別の図を描かせた。
これ以上は、わたしの頭の整理がついていかないので、省略する。

Dscn4272 話を戻すと、井の頭の水を引く後楽園の泉に水戸九代藩主徳川斉昭の時代まで名前がまだついていなかった泉があった。ここで、斉昭公は光圀公が昔、宴席を開き、文人と語り合ったことを偲んだ。そこで、その時のことを文章に綴らせた。
ある日、斉昭公が庭を歩いていて、後楽園の門を入って、ひとつ丘があり、そこから清冽な泉が流れている。簡素な茅葺きの建物があり、西行法師の像があり、そこにしばらく佇んで、立ち去りがたく思った。Dscn4287_2
斉昭公は新古今和歌集の西行法師の歌を思い出され、この景色が目に浮かんだと言う。
その歌は、「道の邊に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ」。
歌の意を汲んで、自ら大書して、石を刻んだ。
斉昭公夫人(正妻:有栖川宮幟仁(たかひと)息女登見宮(とみのみや)吉子(文明夫人))
は、「道のべに・・・」と いう歌を碑に刻んだ。
斉昭公に仕えていた斎藤一斎は、西行法師を祖としているので感激して、駐歩碑の記を書き、光圀の師の朱舜水に自分は及ばないが、と謙遜している。

また、この資料館には、第十一代将軍徳川家斉の峰姫が、第八代藩主家修に輿入れしているので、御守殿の門の台座だったと思われる石が置かれていた。1840年9月と記載されている。
家格三位以上の大名に将軍の息女が輿入れすると、その女主人本人あるいは住まいを御守殿と言う。
現存する、御守殿の門は、東京大学の「赤門」である。

朝鮮通信使についての記述版もあったが、Dscn4298 朝鮮通信使の接待に当たり、対馬藩家臣として活躍した雨森芳州が、武も軽く思わないものの、文治政治を最上と思案していたらしく、仲間の新井白石や、当時の幕府と意見を軽く衝突させるようなところがあったことを軽く記載しておきたい。
先日NHKでも放映されたので詳しい方がいると思うため、ここではここまで。

*後日は、夕方、NHKの夕方の番組で日光東照宮は平和のシンボルです、と強調していたので、歴史を説明するのは難しいと思った。
わたしは、いつも思う。
じゃあ、徳川幕府を倒す必要なかったんじゃないかと短絡的に思ってしまうし、その
明治維新への過程は、とても簡単には説明はできない。
わたしもサントリー学芸賞を取った書物からかいつまんで説明しているのであって、わたしの私見ではないから、前の説明はかなりおおざっぱなまとめ方をしている。

朝鮮通信使は、鞆の浦あたりまで瀬戸内海の公道を通り、あとは近江のほうを通り、参勤交代の公道とは違うルートへ行き、場合によっては日光まで足を延ばした。

豊臣秀吉の時代よりは、徳川時代のほうが今はアジアとの関係からして穏和だが、明治に変わっていくのに、やはりそこには思想があって、地球の人・日本人はみんな仲間という今とは全く違う、過去の日本人の歴史観というものがあったことをご理解いただきたい。

③小石川より飯田橋~九段坂 第十五回東京メトロ沿線ウォーキング

小石川後楽園の中も拝見したが、不老水、Dscn4281 八つ橋、など江戸名所らしい場所が幾つか。

「円月橋」は、
「朱舜水の設計と指導により、名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る姿が満月になることから 、この名がつけられた。後に八代将軍吉宗が江戸城吹き上げの庭に同じものを造ろうとしたが、果たせなかった」
と言う。

Dscn4285

綺麗な半月の石の橋である。庭の隅のほうにあり、鬱蒼とした林の中で、見落としてしまうかも知れないが、美しい形をしている。日が射したら、さぞかし、水面に綺麗に写ることだろう。下には、清い水が流れていた。

その近くに、萱門(かやもん)跡がある。門外に水車を設け、神田上水を汲み上げ、小廬山側に通したと言われる。この門は、戦災に消失した。

一つ松の緑は綺麗だった。蓮池に近い大泉水とのDscn4290 分岐点あたりにある。大泉水を近江の琵琶湖に模して、琵琶湖の唐崎の一つ松になぞえた。

庭を廻れば、きちんと説明板があるので、楽しい。
時間がないので、駆け足で廻った。いろいろ見落としているだろうが、みなさん、結構中に入っておいでだった。

庭園を出て、後楽緑道を歩いていると、みなさん、楽しそうに話していた。
「こういう道があるんだねえ」と。
小石川橋を渡る。飯田橋へ向かう。

台所跡がある。
Dscn4302 「江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷があった。そして台所頭を初めとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいた。武鑑にはお台所頭、四百万、だい所長、鈴木喜左衛と記されている。その後、大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残った。」

飯田橋一丁目付近。東京女子医科大学発祥の地。
「吉岡弥生は明治33年(1900年)12月5日にこの地にあった至誠医院の中に東京女医学校を創立いた。翌34年4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転。後に市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続く。吉岡弥生の至誠医院は明治31年(1908年)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災まであった」

九段坂を通る。
Dscn4304 「古くは飯田坂とも呼ばれた。『新撰名所図会』には「九段坂は富士見坂の通りより、飯田町に下る道を言う。昔、御用屋敷の長屋九段に立ったため、これを九段長屋と言う。今は斜めに平らかになる坂になったが、もとは石をもって横に階をなすこと九層にして、しかも急坂だったため、車馬は通すことはなかった」と書かれている。坂上は観月の名所として名高く、1月、7月26日、夜待ちといって月の出を待つ風習があったと言う。」

昭和館を横に見て、田安門交差点で右折し、靖國神社の鳥居を眺めて、早稲田通りへ入った。大きな鳥居の奥に大村益次郎の像が建ちそびえていた。
大村益次郎は、長州藩出身、近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力。明治26年、日本で最初の西洋式銅像として建てらたそうだ。 大村益次郎像建立は明治26年(大熊氏廣・作)。
彼は蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。
「戊辰戦争」では、その手腕により新政府軍を勝利に導く。明治維新後は、文字通り、軍権の全権を担い、軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築く。明治2年に過激な同郷の長州の攘夷派による襲撃を受けて、その傷がもとで死去する。

すごーく、大きな鳥居。みんな散策しているので、中に入る人は少ない。単立神社。

ネット辞典より

「靖国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊(死霊の美称)である。神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の水戸藩士、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する

現在の神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。靖国神社自身は、國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「円」、国は旧字体)と表記している。」

明治生まれの祖母は全く、靖國神社は散歩にいいと勧めるくらい、思想を究明しない、安らかな地だと信じている。わたしは複雑な気持ちで眺めた。
一応、記念碑には頭を下げて通る。

この後の、神楽坂へと行く。続きは後日。


2007年水戸弘道館ほか見学

2008年01月01日 16時48分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

027_2 「巧詐は拙誠に如かず」(徳川斉昭書)

水戸の弘道館内の売店でひとり水戸拓を刷り続ける北澤彦一さんの一番お気に入りの言葉である。

もとは茶道の心得だが、すべてのことに通じると思うとおしゃっている。

不器用な自分には有り難い言葉だった。わたしが水戸と言うと偕楽園を思い出す方のほうが多い中、梅を観賞して名所として印象深いのは、弘道館のほうのお庭の梅でした。

偕楽園の好文亭は、こじんまりとしながらも、三階まで上がると、いかに遠方の湖や白や薄いピンクの梅木の森も拝見できる風光明媚な場所かわかる。
松林も見える。
好文亭の中の日本画の襖絵も見事であった。
菊の間、楓の間、松の間、梅の間など、どのお部屋もこじんまりしていながら、趣があり、当時の日本人の宿泊場所は、小さな空間だった。
庭も、造りが見事である。
大正天皇、秩父宮さま、三笠宮さままでは実際宿泊し、使用なさったらしい。

話戻って、弘道館。しだれ梅初め、偕楽園にはない花が咲き乱れて、品格のある感じでした。てっせん梅という茶せんのような枯れたイメージの古い梅から、侘び助という椿も咲いて、趣が深いものでした。

018

弘道館の居間に一歩入ると、「尊攘」というイデオロギーだが、字体と勢いは見事な大きな筆がまずどっと目に入る。
弘道館、別名「遊於芸」と額があった。
「ゆったりと余裕をもって学ぼう」
ということらしい。

弘道館で最後蟄居なさった徳川慶喜の部屋で正座して弘道館の拓本を部屋で眺めていました。(拓本が見事)
ここは至善堂という間。
拓本を読みたくても、時間が許さない。016

弘道館は14歳に入学して、卒業がないらしく、40歳になると入場制限があるそうです。下級武士は、出世するには、必死で勉学したそうです。そのひとりが藤田東湖です。水戸学を知るには、彼を知らなければならない人です。

弘道館の中には、拓本は、美しくとられていても、原本になる碑は、太平洋戦争で爆撃にやられしまうものあって、拓本だけは今でも綺麗に読めるので貴重である。                               019

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ネット参考解説 Wipidekia

藤田東湖

常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷に生ま、1827年(文政10年)に家督を相続し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。

1829年(文政12年)の水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。

しかし、1844年(弘化元年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に1846年(弘化3年)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。

1850年(嘉永3年)にようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)には処分を解かれている。

藩政復帰の機会は早く、翌1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。1854年(安政元年)には側用人に復帰している。

1855年11月11日(安政2年10月2日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。

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藤田東湖の筆跡は、なかなかの個性的な字。線が鋭く、いかにも利発で、はっきりと物を申し上げそうな鋭さが字体にある。
徳川斉昭の奥方との往復書簡は美しく、
奥方さまの字は女性らしい麗しい字だった。実は、有栖川宮の皇女を妻となさっていたので、優美で何流か、非常に美しく書き散った字体である。

吉田松陰が、ここを訪問し、世話になった礼状を送っていて、その吉田松陰の字も拝見できる。こういう字体なのかと、感心して拝見した。
ただし、斉昭や東湖ほど、字体が整っているわけではなく、まあ、そこそこ普通の字なのに、割とのびのび大きく字を書き、素直で、はっきりした直な人柄とを想起する。

裏には、鹿島神宮の宮司さんは梅の神木から自ら作った梅のみがご奉仕にと置いてある。孔子廟の横に楷木があった。
儒学は、武士の必読。
水戸は「大日本史」の編纂で有名である。いつか読もうと思いながら、高校時代で忘れていた。
八角堂は、八卦から由来する。
武家にふさわしい。

水戸藩の尊皇攘夷の思想は過激だと言うイメージを持っていた。

わたしは、彦根藩の伊井直弼のことをずっと気に止めて、桜田門外の変を学校時代から気に留めていたので、桜田門というと警察庁より井伊直弼をすぐに思い出し、いつもここから歴史は大きく転換したと記憶にとどめている。とても気になる日本の事件だった。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳川斉昭(とくがわなりあき)/寛政十二年~万延元年(1800-1860)

斉昭は徳川御三家の一つ水戸藩に生れた。30歳で水戸藩主となった斉昭は門閥保守派を一掃し、会沢正志斎や藤田幽谷、東湖ら能力のある下級藩士を登用し藩内革命を推し進めていった。
その激しい気性から彼は「烈公」と呼ばれていた。

斉昭は自ら木綿の着物を着用し質素倹約に努める。これは水野忠邦の天保の改革にも影響をあたえたといわれている。
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学門の面では弘道館を設立。「弘道館記」で建学の精神を述べ、文中に「尊王攘夷」の語も用いた。藤田東湖による弘道館記の解説書「弘道館記述義」によりその水戸学が全国に広まり、幕末の「尊王攘夷」運動など思想的影響を及ぼしていくことになる。

水戸藩は海に面しており、外国船が頻繁に沖に出現、さらには上陸までする事もあった。そこで斉昭は大砲の鋳造をしたり、蘭学者を招いて造艦書を翻訳させたり、間宮林蔵に北方調査を依頼したりと海防に力を入れはじめていく。また神仏分離を推進。しかしここで門閥派と抗争になる。そして幕府から隠居謹慎を命じられ、家督を慶篤に譲ることになってしまう。

嘉永二年(1849)幕政に復活。ペリー来航後の嘉永六年(1853)には老中阿部正弘により幕府の「海防参与」に任じられる。

太極砲(常盤神社)

この時期、江戸の佃島で日本初の洋式帆船「旭日丸」を建造した。
(進水時にバランスを保てず傾き、実用には至らなかったそうだ)
幕府政治における発言力が増していくと、江戸城大奥の質素倹約化を推し進めた。そのせいかどうか、、、大奥ではにはすこぶる不人気だったらしい。

老中阿部正弘の後任に「開国派」の堀田正睦がたつと対立し海防参与を辞任。
また大老に井伊直弼が就任し、日米修好通商条約締結や将軍後継に慶福(家茂)を決めると猛烈に反発した。

斉昭をはじめとする反対派諸大名は一斉に江戸城に登城し直弼に詰問した。しかし、このことで斉昭は謹慎させられる。013
翌、安政六年(1859)、大老井伊直弼による反対派へ処分がはじまった。「安政の大獄」である。
斉昭は水戸において永蟄居、藩主慶篤は御差控、子の一橋慶喜は謹慎処分、水戸藩家老安島帯刀は切腹させられた。

万延元年(1860)三月、大老井伊直弼、桜田門外に倒れる。
襲撃したのは関鉄之助を大将とする水戸脱藩17人と薩摩藩士1人だった。
斉昭はその5ヵ月後、水戸城で没する。享年61歳。

補足
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/mito1.htm 参考

寛政12年(1800年)3月11日、水戸徳川家江戸小石川藩邸で生まれる。長兄で水戸徳川家第8代徳川斉脩の没後、門閥派より11代将軍徳川家斉の第20子恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑え、下士層の支持を得て文政12年(1829年)襲封した。

天保2年(1831年)有栖川宮織仁親王の王女登美宮吉子と結婚。

藩校弘道館を設立し、門閥派を押さえて、広く人材を登用することに勤めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった、比較的軽輩の武士を用い藩政改革を実施した。011_3

斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年)7月、斉昭は、1.「経界の義」(全領検地)2.「土着の義」(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。

しかし、弘化元年(1844年)鉄砲斉射の事件について責任を問われ、幕府から隠居の処分を受けた。弘化3年(1846年)に謹慎解除。嘉永2年(1849年)に藩政関与が許される。

嘉永6年(1853年)6月ペリーの浦賀来航に際して、、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張する。

安政6年(1859年)に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主松平慶永と尾張藩主徳川慶恕、そして実子で一橋家の当主一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で大老で南紀派の井伊直弼を詰問したため、永蟄居を命じられた。

万延元年(1860年)8月、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞で急逝する。享年61。