奈良県宇陀郡大宇陀町が万葉集で言う安騎野だと言うのが定説らしい。
ここは、柿本人麻呂が「ひむかしの・・・・」と歌った場所である。
壬申の乱のとき、持統天皇の息子、草壁皇子は十一歳で後にここに狩に来ている。
草壁は若くして死ぬが、彼の忘れ形見の軽皇子がその後、また此処に狩に
来ている。そのとき人麻呂は草壁を偲んで「ひむかしの・・・」と歌を作った。
と小説家永井路子は小説「茜さす」下巻の中で書いている。
が、白川静氏の「初期万葉論」では異なった解釈になっている。
この「安騎野冬猟歌の歌うところは、継体受霊の秘儀的実修とみるべきものであり、
この歌もまた儀礼実修の方法である。
冬猟に赴く軽皇子は、即位前に薨じた皇太子日並の子であり、
即位を果たさなかった天皇霊は、今中皇命として持統がその仲介的保持者となっている。
安騎野への山尋ね、そこでの旅宿り、そして冬至払暁の受霊の儀式は、
大嘗会即位儀礼の実修形式に他ならない。(東の野にかぎろいの)の一連の歌は、
天皇霊の現前とその受霊という、荘厳にして絶対的な祭式的時間を歌うもので、
叙景ではない。」と言うものである。