甲賀五十三家といわれる近江国甲賀郡の郷士に三雲氏と言うのが有った。
代々甲賀郡吉永山に城をかまえ、戦国中期、三雲新左衛門賢持と言う人物
が出た。彼は近江の守護佐々木家に仕え間忍(忍術)をつかさどった。
長享元年、足利義尚が京で大軍を集め、近江の佐々木氏を討ったとき
佐々木方の三雲新左衛門は、他の五十二家の甲賀武士とともに義尚の本陣の
ある近江国粟田郡鉤ノ里に夜霧に乗じて夜襲し、敵軍を潰走させた。
この時以来、甲賀忍びの衆の名が高くなったと言う。
賢持の子賢方の代に主家の佐々木氏が信長に滅ぼされ、賢方は山林に隠れた。
三人の子が有ったが、兄二人は忍者として上杉、筒井氏に仕えさせた。
末っ子の佐助だけは手元に置いて修行させた。
「茗渓事跡」と言う古書に「佐助十才のとき、新太夫(賢方)吉永山の崖に
登らしむ。岩頭に立たせ、足を持って子の腰を蹴る。お墜つること十丈、佐助
九たび回転して谷の瀬のうえに立つ。しかも濡れず」とあるそうだ。
猿飛の名はこの身軽さから出たものだろう。
佐助は正しくは三雲佐助賢春と言う。父の死後、甲賀の山を下り、大阪の
豊臣に仕えた。
司馬遼太郎著「風神の門」より
代々甲賀郡吉永山に城をかまえ、戦国中期、三雲新左衛門賢持と言う人物
が出た。彼は近江の守護佐々木家に仕え間忍(忍術)をつかさどった。
長享元年、足利義尚が京で大軍を集め、近江の佐々木氏を討ったとき
佐々木方の三雲新左衛門は、他の五十二家の甲賀武士とともに義尚の本陣の
ある近江国粟田郡鉤ノ里に夜霧に乗じて夜襲し、敵軍を潰走させた。
この時以来、甲賀忍びの衆の名が高くなったと言う。
賢持の子賢方の代に主家の佐々木氏が信長に滅ぼされ、賢方は山林に隠れた。
三人の子が有ったが、兄二人は忍者として上杉、筒井氏に仕えさせた。
末っ子の佐助だけは手元に置いて修行させた。
「茗渓事跡」と言う古書に「佐助十才のとき、新太夫(賢方)吉永山の崖に
登らしむ。岩頭に立たせ、足を持って子の腰を蹴る。お墜つること十丈、佐助
九たび回転して谷の瀬のうえに立つ。しかも濡れず」とあるそうだ。
猿飛の名はこの身軽さから出たものだろう。
佐助は正しくは三雲佐助賢春と言う。父の死後、甲賀の山を下り、大阪の
豊臣に仕えた。
司馬遼太郎著「風神の門」より