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ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

吉野山・洞川温泉でひとり言

2010年11月15日 | Weblog
どうしても行きたかった吉野山。桜の時期は大変な混雑だけど、紅葉ではそれほどでもないだろうと11月9日に宿を予約した。晴れ男にはめずらしく、低気圧の影響で風が強く、ドライブ中には雨も降った。ラッシュを少し過ぎた大阪市内を阪神高速で抜け、西名阪を柏原ICで降りた。右に当麻寺の2塔を見ながら、津風呂ダムに向かった。吉野から少し入り込んだ所にあるダムだが、まだほとんど紅葉はなかった。早々に引き返し、宮滝遺跡と吉野歴史資料館に立ち寄った。宮滝遺跡は、かつて持統天皇が30回以上も訪れた吉野宮があったところで、縄文・弥生の遺跡も出土している。持統天皇は「壬申の乱」で天智天皇の太子、大友皇子に勝利した大海人皇子(後の天武天皇、天智天皇の弟)の皇后(天智天皇の娘)である!?ややこしい関係です。持統天皇は飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな業績であるが、唯一の子、草壁皇子を天皇にしたくて、天武天皇の死後は自ら女帝として、ライバルの大津皇子を謀反として自殺に追いやり?草壁皇子に継がせるつもりが、その前に草壁皇子は病死した。「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」万葉集のこの歌はよく知られている。積極的で有能な女性であったようだ。

古代出雲の旅三日目でひとり言

2010年11月03日 | Weblog
松江では魚を食べたので、夕べは米子駅前で焼肉屋に入った。期待はしていなかったのだが、すごくおいしかった。最終日はほとんど帰るだけのスケジュールだったが、お陰で元気にドライブできた。朝一番は弥生時代に100年以上も栄えた妻木晩田遺跡を訪れた。9時の開演前に着いたので資料館は閉まっていたが、公園は無料で開放されていた。妻木山地区は工事中で見られなかったので、洞ノ原地区を見ることにした。整備された芝生に竪穴式住居が復元されてあり、一種の違和感はあるが、住居の中に入ると何故か懐かしい感じがした。その先を少し歩いたところ、その絶景に思わず「わー」っと声が出た。昨日ドライブした弓ヶ浜の海岸線がきれいに見渡せるすばらしい眺めだ。現在では海岸線から相当高地になるが、弥生時代はどうだったのだろう。この地区にも墳墓群があるが、眺めの良い所に墓を造ったものだ。そう言えば神戸の五色塚古墳も眺めの良い所だった。古代出雲の旅の最後のポイントがこの妻木晩田遺跡だったが、ここには弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)にかけての、竪穴住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基や、環壕など、山陰地方の弥生時代が凝集しており、また古墳時代には衰退したと言う。出雲の謎や弥生時代の鍵もここに埋まっていると思う。また来てみたい場所になった。

古代出雲の旅二日目でひとり言

2010年10月21日 | Weblog
さて、残暑は残るがすがすがしい朝を迎え、須我神社へ急いだ。「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」という有名な和歌をスサノオが作ったされる所。ヤマタノオロチを退治した後、イナダヒメ命とやって来て、「心がすがすがしくなった」と言って宮を建てたとされる。境内には地域の皆さんが裏山や境内の草刈などに大勢来られており、熱心に奉仕されている姿を見て、本当にすがすがしい気持ちになった。境内には和歌の石碑があり、和歌発祥の地とされている。


須我神社から松江市に帰る途中に熊野大社がある。古代では出雲大社と並ぶ神格の大社で、出雲国造家が祀る。意宇(オウ)平野を流れる意宇川の水源になる熊野山を背に、堂々とした趣で祀られていた。さすが神格の高い神聖な場所になっている。この地意宇から、杵築(キヅキ)にある出雲大社に出雲国造家が移って行き、意宇には新たに神魂(カモス)神社を建立して、本来熊野大社で行われた火継式などの儀式が神魂神社で行われるようになった。出雲大社と神魂神社は直線でも40kmほど離れているのに、出雲国造が危篤になると後継者は一目散に神魂神社へ馳せ参じ、神魂神社で火を熾し、これを生涯守って行く。これが火継神事である。意宇の勢力が杵築を征服したのだろうか?国譲りか?

神魂神社は「八雲立つ風土記の丘」入り口のすぐ右手奥にある。急な石段を上がるとすぐに本殿がある。現存する大社造りでは最古の社殿で、国宝である。屋根の上にある神紋は亀甲に「有」の字が書かれている。10月に全国の神様が集まるので、全国では神無月だがここは神在月となり、それを「有」と象形してある。おもしろい!
 風土記の丘はその奥に岡田山古墳がある。前方後方墳と円墳の2基よりなり、1915年に出土した大刀から象嵌銘十二文字がうきあがり「額田部臣」と『風土記』に記載されている出雲の氏族と合致、その存在が考古学的に証明されることになった。この後の展示学習館で調べると、この古墳に埋葬された考えられる人物は、大和政権の支配機構であった部民制度に組み込まれた豪族というものの、最も高い「臣」という姓を持った人物として、出雲の政治勢力の大きさを示す。と大和政権との関係がはっきり見えて興奮する。やはり、大和建国に出雲の貢献は間違いない。古代出雲歴史博物館で見た「馬上の大首長像」を思い出しながら、金細工の冠や大太刀を身につけ馬にまたがる姿。私が習った弥生時代の人物像とは大違いだ。でも、よく考えたらこの時代から大和へ赴任して、故郷は遠い所になっていたんだろうな。そんな思いがここに展示されている「見返りの鹿」埴輪の様に、振返り振返り大和に向かったのだろうな。

風土記の丘から神魂神社を抜けて程近いところに八重垣神社がある。ここだけは何か別世界の賑わいで若い女性が多く、何だか場違いの様だ。社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたというところで、社殿後方には「奥の院」が鎮座し、「鏡の池」と呼ばれる神池や「夫婦杉」と呼ばれる2本の大杉、「連理の椿」がある。「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かんでくる。半紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれる。このため、軽い1円玉を使うのを避け、10円もしくは100円で占いを行う事になっているが、早く沈めるには500円を使えば良いと思うが…!?池の淵には順番待ちができる程人垣ができている。「良縁を願う八重の人垣造る八重垣で…!」
さて、そろそろ昼飯を食べようと松江市内に戻ることにしたが、その前に山代二子塚古墳に寄る事にした。出雲の墓は西谷墳墓群で見た、四隅突出型墳丘墓だ。しかし、ヤマト建国後ほかの国が前方後円墳になっていくのに、出雲では前方後方墳(後ろも四角形)が造られる?ヤマトに逆らって独自の文化を継承しているのか?この二子塚古墳が前方後方墳なのだが、行ってみると草がおいしげりその形ははっきりしないが、パネルに四角形と台形の前方後方墳が描かれていた。

昼飯は有名な鯛茶漬けを食べようと宍道湖温泉のM旅館に行ったが、予約がないと平日でも1時間以上待ちになる言われ、仕方なくあきらめた。食べ損なった鯛は旨そうだった。この鯛は大阪店で食べれるとシンジコんだ?すきっ腹のやけくそで松江城を大急ぎで散策し、その後安来清水寺に向かう事にして、お昼はお寿司を買って車で食べることにした。
山陰道で安来まではスムーズであっという間に着いてしまった。清水寺は古代出雲とは関係ないが、学生時代に松江出身の同級生からここのお土産で、らっきょのシソ巻きを貰ったのがおいしくて忘れられなく、いつか自分で買いに来ようと思っていた。境内には古い羊羹を売る店があり名物らしい。しかし、残念な事にらっきょは見つからない。精進料理も2軒あるので、ひょっとしたらここの土産かもしれないが、あきらめて奥にある三重塔に向かった。ここの三重塔は登閣料を払って登る事ができた。真っ暗な細くて急なはしごを登って三層目に着いた。汗をかいた体を心地よい風が冷やしてくれる。ここで昼寝は気持ち良いだろうな。

さて、今夜は米子泊なので、とにかく安来を後にして向かうことにしたが、時間がまだ早いので急遽美保が関まで走らせることにした。まさに弓ヶ浜は弓状になっていて、越の国へ船が放たれたような地形だ。時間があれば境港の水木しげるロードにも寄って「ねずみ男の汁」(缶ジュース)を飲みたかったが?前回一度行っているので美保が関に急いだ。美保神社は港に面して、すぐの所に鎮座している。神事として青柴垣神事、諸手船神事がある。主祭神の事代主神が国譲りの話で、美保の岬に釣りに行っていたが、天つ神が来て迫ると、「天つ神の御子に奉りましょう」と海中の青柴垣に身を隠す…とあったが、そのところが伝えられているのだろと、古代のこの港で起きたことを空想してみた。最後に美保が関灯台まで行った。残念ながら隠岐は見えなかったが、この辺りの景色を見ると半島や越との交流が盛んだったことが分かる気がする。対馬海流は陸から遠くないので、海流に乗れば新潟や青森まで行きやすいそうで、漂流しても日本海側のどこかに漂着できたのかも知れない。新潟のヒスイや火焔土器、そして青森の三内丸山…どんなつながりがあったのだろう!?

古代出雲の旅一日目のひとり言

2010年10月06日 | Weblog
深夜に自宅を飛び出した!大丈夫かな?まぁどうにかなるさ!さすがに連休の中国自動車道も深夜はガラ空きで、アッと言う間に最初の加茂岩倉遺跡に着いてしまった。午前三時…辺りには何もない!駐車場で仮眠することにしたが、満点の星空に暫し見惚れ感動。しかし、余りの静寂に不気味さを感じ、眠ることもできず2時間ほど過ごした。そこで、仮眠をあきらめて予定を変更し、一挙に日御碕まで行って日の出を見ることにした。夜明けは早く、日御碕に着いたころはすっかり朝日が水平線を上がってしまった。出雲国風土記には新羅国から余った部分を引き寄せて日御碕を造り上げたと言う、同じように島根県の東の美保関は越国の都都(ツツ)の三埼を引き寄せて造ったとある。古くから朝鮮半島の新羅と越国との交流があったことが分かる。朝凪の静かな日本海を見ていると、縄文の人たちが半島からやってくる舟影が見えるような気になる。

来た道を少し戻り浜辺に下りると日御碕神社がある。海岸から近い森に朱色に塗られた社殿が朝日にまぶしい。スサノオ尊とアマテラス大神の姉弟が祭られている。

おにぎりをほお張りながら、海岸沿いの29号を大社まで戻った。稲佐の浜を東に行くと出雲大社の参道になる。神無月には全国の八百万神が上陸する場所だ。大社は二、三年前に出張帰りに寄ったので記憶が新鮮である。

大社は「平成の大遷都」で本殿が修理中であった。この本殿が口ずさみで「雲太、和二、京三」と唄われた日本一の高層建築であったらしいが、境内から直径3mにもなる3本の柱の束が2000年に発掘されて,48m超の高層建築が現実味を帯びてきた。何のために?出雲大社の祭神は大国主神である。彼が一生懸命に造り上げたこの国を、舞い降りた天つ神が譲るように迫る。大国主神は長男の事代主神(コトシロヌシノカミ)が答えると言い、その事代主神は美保の岬に釣りに行っていたが、天つ神が来て迫ると、「天つ神の御子に奉りましょう」と海中の青柴垣に身を隠す。大国主神はもう一人の息子に聞いて欲しいと言う、現われた建御名方神(タケミナカタノカミ)は力比べを申し出るが力及ばず、ついに信濃の国の諏訪湖まで追い詰められ、そこから出ないことを誓って命乞いをした。ついに大国主神は「天つ神の御子の御殿と同じような、立派な宮殿を作って自分を祀ってくれるなら」という条件で国譲りを承諾した。そして、天にも届く高層社殿になったらしい。また、本殿の正面から祭壇は見えない。何と、祭壇は西を向いており正面からは横を向いて祭られている。正面には心御柱があり祭壇は壁で塞がれている。この心御柱が大国主神の大黒様から大黒柱と呼ばれる。これは何か祟りを封じている様な配置になっている。また社殿の大きな注連縄は他の神社と左右反対に飾られており、また、出雲大社での拝礼は「二礼、四拍手、一拝」です。大社の西は稲佐の浜で夕日が沈む方向で、逆さ注連縄や四拍手など「死」に関わるサインのように思われる。

大社に車を置いて、隣にある「島根県立古代出雲歴史博物館」へ自転車で向かった。開館前だったが中に入れていただき5分ほど待った。中央ロビーには発掘された宇豆柱が展示され、その太さに圧倒される。また、空中社殿の模型の数々や、荒神谷遺跡から出土した銅剣、加茂岩倉の銅鐸などが迫ってくる。すっかり古代出雲にタイムスリップできた。

さて、いよいよさっき見た銅剣が出土した荒神谷遺跡へ急いだ。大量の弥生青銅器が出土した遺跡だ。銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本で、これだけの量が一箇所から出ることも、一緒に銅鐸と銅矛が出ることも類がない。研究から近畿と北九州の両方に交流があったことが窺える。どうして埋めたのだろう?祭祀のために使った物だろうが弥生後期には何故か埋められてしまった。このころから出雲独自の四隅突出型墓が出現してくる。

農道の調査で発見されたらしいが、現在の地形からはどうしてこんな所に?としか思えない場所だ。2000年ハスが植えられている池越しに何度も振り返りながら荒神谷を後にした。そして、少し離れた須佐神社へ急いだ。『出雲風土記』にスサノオが「この国は小さな国ではあるが良いところなので自分の名は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し自らの御魂を鎮めた所。神社7不思議があり、最近はパワースポットとして訪れる人が多くなったようで、境内は整備工事の最中だった。道を作り、店を賑わせ、人が作る経済パワーのほうがすごいと思った。最後の訪問先は深夜に到着した加茂岩倉遺跡になる。

荒神谷遺跡から東南3kmで、平成8年日本最多の39個の銅鐸が発掘された。この銅鐸は大きい銅鐸に小さい銅鐸が入れられた入れ子状態になっていた。銅鐸にはシカ、サギ、トンボなど近畿でも発掘される稲作における土地の精霊が描かれているが、荒神谷の銅矛にある「×」が銅鐸にも刻印されており、出雲の銅鐸オリジナルの海亀が描かれている。11月に全国の神が集まる神在祭(カミアリマツリ)が行われる出雲大社では、沖合いから海蛇が到来しなければ始まらない。(セグロウミヘビ)日御碕神社、佐太神社、美保神社では「竜蛇さま」と呼び、丁重に祀っている。海亀、海蛇など、出雲と「海」の関係は深い。海を渡ってきた遺伝子が忘れられないのであろう。
今日は松江に泊まるので、途中玉造温泉でゆっくり温泉に入ってからチェックインする事にした。玉造温泉にある玉造湯神社はTVでも放映されている「願い石」があり、神社には似つかない若い女の子達が列を作って「お願い」していた。流行のスピリチュアルスポットらしいが、非宗教的な擬似宗教のスピリチュアリティーは心霊、教祖やカルトなど結局は人間の持つ「欲」を露呈する。まあ、一心に「お願い」しているぐらいは良いけれど。さて、ゆっくり温泉に浸かって宍道湖の夕日を見れば、「欲」もない神聖な気持ちになれるかな?今夜は地酒でも飲んで、旨いもの食って……欲だらけ!

古代出雲の旅でひとり言

2010年09月23日 | Weblog
ついに古代出雲への旅が実現した。
記紀から出雲が抹殺され、神話の世界に葬られてしまった理由は?
ヤマトができる前から栄えていた出雲が、国譲り神話の如く大和政権以後は衰えて行った事。出雲大社が平安時代から口遊(くちずさみ)で「雲太、和二、京三」と唄われ、和二の東大寺大仏殿や京三の平安京大極殿をしのぐ48m以上の高さがあった。そこが全国の神が集まる場所になり、しかし、祟る出雲とされている事など、など…さあ出かけよう古代史のミステリーゾーンへ!
古代出雲2泊3日の旅程は
1日目 自宅→日御碕神社→出雲大社→県立出雲古代博物館→荒神谷遺跡→須佐神社→加茂岩倉遺跡→玉造温泉→松江
2日目 松江→須我神社→熊野大社→八雲立つ風土記の丘→神魂(カモス)神社→八重垣神社→松江城→清水寺(安来)→美保神社→米子
3日目 米子→妻木晩田遺跡→大山寺→自宅

青いケシにひとり言

2010年06月23日 | Weblog
よき時代に流行った安全地帯が「蒼いばら」で復活した、歌よりも玉置浩二のスキャンダルがヒットしている。青いばらはいまだに開発途中にあり、サントリーの遺伝子組換えによるアプローズが有名であるが、青紫色に近いため、さらに青色を求めて研究が続けられている。
 世の中には不思議な生物が多いが、この青いケシも神秘的だ!「ヒマラヤの青いケシ」メコノプシスはその名の通り、ヒマラヤや中国西南部の高地に生育する。標高4000mを超えるような瓦礫の中で、こんなに鮮やかなブルーの花弁と金色の雄しべで、数少ない昆虫を呼び寄せる…。茎などに見える棘は水分を取り込むためだそうだ。
 六月の六甲高山植物園にはこの幻の青いケシやエーデルワイス、そして思い出深い早池峰ウスユキソウが咲いている。岩手に赴任していたときの同僚が、チョモランマに登って帰らぬ人となり、彼が愛した早池峰へ弔いの登山をした。疲れきった所の岩場にそれは咲いていた、エーデルワイスによく似た早池峰ウスユキソウが感動的で、疲れも飛んでいったのを覚えている。彼の肉体は北壁に滑落し、氷河に飲み込まれているだろうが、その魂は大空を飛び6人の子供たちを見守っているだろう。


三島藍野陵でのひとり言

2010年05月26日 | Weblog



朝から雨が降っている!どうしようかと思ったが、晴れ男の自分を信じて茨木市にある藍野陵に向かった。…しっかり、傘を用意して。
三島藍野陵は第26代継体天皇(在位507年~531年)の陵墓とされているが、近年東1.5kmの高槻市にある今城塚古墳こそが、築造年代や規模からして継体天皇の陵墓とされている。藍野陵は宮内庁が比定しているので、立ち入りはできないし整備もされているが、本物の?今城塚は比定されていないので、一般人の立ち入りができる事になっている。
継体天皇は先代の武烈天皇が太子なく崩御したので、大伴金村が越前へ赴いて第15代応神天皇の5世孫の継体天皇をヤマト王権に連れてきた。ここで、天皇家の万世一系が途切れたとも言われており、現天皇家の初代とする新王朝論もある。
三島藍野陵は病院のすぐ横にあり、病院の庭のようになっている。周辺の道は狭いが陵墓正面は整備されていて、そこから見る陵墓は悠然としていた。雨は上がっており、晴れ男の実力発揮で写真が撮れた。ナビを今城塚古墳にセットして向かったが、その時また雨が降り出した。今城古墳の周辺は、全くの住宅街でなかなか陵墓への入り口が見つからない。挙句に工事中で封鎖されていた。現在整備中で2011年に完成するらしい。雨は止まず、降りる事もなく最後に枚方市の百済寺跡へ行くことにした。この後百済寺跡に到着したときは驚くことに雨が上がっていた。
継体天皇は「日本書紀」によると、58歳にして樟葉宮(クズバノミヤ)に即位した。六世紀のまだまだ寿命の短い時代で!二十一世紀の58歳は何をしているのだろう…「晴れ男」と喜んでいる場合ではない。

大遣唐使展にてひとり言

2010年05月13日 | Weblog
今年は遷都1300年祭で奈良は大いに盛り上がっているはずだが、連休まであまりTVなどの放送がなく、そこそこぐらいの人出と思い込み2日の日曜日に出かけた。目当ては国立博物館で開催している大遣唐使展である。奈良に近づく前から人は多く、電車は満員で、車窓から見えた平城宮跡イベント会場の混み具合は尋常じゃない。こんな人出は見た事がない。人の列、列…、まさに跡地に都が蘇ったようだ。
 真夏のような日差しを浴びながら、あの阿修羅に再会するために真っ先に興福寺に向かった。ぎょ…!境内に入る前から宝物殿への行列、最後尾から1時間半です…!次の機会にしよう!迷うことはないほど長い列だった。急遽予定変更で早めに昼食を取る事にした。興福寺を通り抜け猿沢の池の一筋向こうに、「季のせ」と言う蕎麦屋が雑誌に紹介されていたのでそっちへ向かった。細い十割そばで、辛み大根のおろしそばは予想以上においしかった。食べている間に、みるみる行列ができた。
 奈良公園から春日大社へ足を運び、東大寺へ抜け博物館へ帰るコースで2時間ほど歩いた。東大寺では聖武天皇祭の法要が行われており、大仏さんの正面は法要中で入れない。多くの高僧が高座に陣取り、その目線の正面には何故かミス奈良や他のきれいどころが鎮座していた…?この盧舎那大仏をどの様にして造ったかを知って、あらためて大仏さんを見ると、つくづく大変な事業だったと思う。
 やっと人出が空いていたところは、お目当ての博物館だった。もっぱら正倉院展の時しかこないので比較にはならないけど、他の場所と違って待つこともなく入場できた。入ってすぐ正面にあの観音菩薩立像と聖観音菩薩立像が並んで展示されている。光背もないので後姿も見られるが、聖観音菩薩立像は顔もスタイルも完璧だ。一方の観音菩薩立像はちょっとけだるい感じの立像で、顔はふっくらとして親しみが湧く。どちらも見飽きないほどの美しさがある。さて、楽しみにしていた吉備真備の絵巻はと言うと、その絵より描かれている物語の内容が面白くって、当時のヒーローを称えるのにこんな滑稽な話でよかったのかと思ってしまう。吉備真備に難問を突きつけ殺そうとするが、囲碁対局で相手の碁石を飲み込むズルをして勝つ真備、まるで魔術師か超能力者の様に描かれており、当時との善悪感や英雄感の違いが少し分かるような気がする。昨年吉備路を訪れた時、井原鉄道に吉備真備駅があったのを見て吉備真備に興味があった。遣唐使としてその命がけの航海で入唐し、18年の長期留学で日本に大量の書籍を持ち帰り、最先端の知識で学問の進歩に大いに寄与した。自身は当時の藤原家に対抗し、聖武天皇を支える。しかし、一旦は藤原仲麻呂に左遷され九州に送られるが、2度目の遣唐使として帰国し恵美押勝の乱で勝利し、仲麻呂を追討する。晩年は結局藤原氏の専横政治に対抗できずに引退した。「長生の弊、この恥にあう」と言い残して政界を去った。天武系の王統がこれで絶えた

AVATARを観てひとり言

2010年02月09日 | Weblog
疲れた!162分のせいではない。3Dで描かれる世界への集中とその臨場感で、本当に自分自身がアバターになってパンドラを駆け巡った気分になった。ストーリーはシンプルでゲームの様な展開だし、こんな近未来でも資源=金に強欲な人間の利己的な企てがあるのか?と思うし、その任務を遂行する古典的な大佐、戦闘シーンではいつの間にか弓以外に銃や手榴弾も活躍するし、アメリカ映画らしいアバウトがある。しかし、そんな細かいことはどうでも良いぐらい、アバタもえくぼ?奥行きの深い3D世界はすばらしいし、アバターやナヴィ族の動きもすばらしい。異次元の世界が見事にスクリーンに再現されている。これこそ映画館で観る映画を変えた歴史的な作品になるでしょう。
 ニュースでは3D-TVを4月から発売すると報じられた。また、3年後には全世界のTVの30%が3D対応になるとの予測も言われている。ゲームの世界にはまっている若者たちは飛びつくだろうし、スポーツ番組はたまらないだろうと思う。80年代にも一度3Dのブームがあったが、質の悪さや良いソフト不足などで定着しなかった。しかし、今の技術でそれらの問題を克服しており、薄型TVも価格競争で頭打ちになっているようなので、3D-TVが家電メーカーの救世主になるかもしれない。
 そう言えば、未成年時代に友達とこっそり、パート立体映画という時々カラーの立体映像になるポルノ映画を見に行ったのを思い出した。入り口で青赤メガネを渡され、カラーになるとそのメガネをはめて観るのだが、上手く見れなくて、めがねを外すと映像が何重にもなって、何の映像かも分からないので、友達と二人で欲求不満になって帰ったのを思い出した。40年近く経っていると思うが、3Dの世界は画期的に変わった。その時メガネをずらしたりしながら、口をあけてスクリーンを見ていた青年は少しも進化していない。

那智大社でひとり言

2010年01月30日 | Weblog
日向から瀬戸内海を東進してきた神武天皇は、河内国(東大阪市)に着いた。しかし、那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の妨害に合い上陸できず、熊野灘を回り那智の海岸に上陸した。そのとき那智の山に光が輝くのを見て、この大滝を探り当て、神として祀ったという。仁徳天皇の頃に近くの台地に熊野那智大社を造り、いざなみの尊を主神として祀った。また、境内には神武天皇が大和へ山越えするとき、道案内を務めたという八咫烏(ヤタガラス)が任を終えて帰り、石の中に姿を消したという「烏石」がある。ここでは「オカラスさん」と呼ばれる烏文字で書かれた「熊野午王神符」を500円で買った。心の中では日本代表が今年のワールドカップベスト4を祈願して。さて、神武天皇が熊野上陸したときに、大きな熊に化けた荒ぶる神が現われ毒気を吐き、神武軍全員は正気を失った。そこへ熊野の高倉下(タカクラジ)という者がきて霊剣を献上し、その力で全員が正気に戻った。この剣は天理の石上神宮(イソノカミ)に祀られた。石上神宮を祀っているのは、大和政権で軍事氏族として活躍した物部氏だ。その物部氏はニギハヤヒノミコを祖神とし、ニギハヤヒノミコは神武東征の動機になった人物で高倉下はニギハヤヒノミコの子であり、河内で上陸を阻んだナガスネビコの義弟と話はややこしく、また何か神話と現実の繋がりが強く見えてくる。