ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

丹後半島でひとり言

2012年07月27日 | Weblog
丹後半島には古墳の数が5000以上ある。前方後円墳は74で、中でも方墳が2159と、他の地域よりも圧倒的に方墳が多いのが特徴だ。方墳は中国には多いが、朝鮮半島では高句麗だけに多く見られる。また、網野銚子山古墳や神明山古墳など200m近い前方後円墳もあり、大和朝廷との関係と、半島との強い関係が想像できる。
 私市丸山古墳→元伊勢外宮→内宮→天の岩戸神社→作山古墳・蛭子山古墳→京都府立丹後郷土資料館→国分寺跡→成相寺→丹後海と星の見える丘公園(昼食)→伊根町(舟屋)→大成古墳群→丹後古代の里資料館→竹野神社→神明山古墳→琴引浜→網野銚子山古墳→夕日ヶ浦温泉(泊)→兜山→玄武洞→朝来市埋蔵文化財センター(休館日)→帰宅

 早朝に出かけたので、予定よりも早く私市丸山古墳に着いた。誰もいない円墳に登ると、眼下に雄大な由良川がすぐ近くを流れていた。流域の肥沃な土地をまかなっていることが良く分かる。舞鶴道が古墳の真下に吸い込まれるように走っている。頂上のベンチに腰掛けて、すばらしい景色を見ながらおにぎりを頬張った。さらに由良川を日本海側に下っていく途中の大江町に元伊勢神宮がある。内宮と外宮に分かれており、天岩戸神社もあり、また車で走っていると、五十鈴川や猿田彦神社など三重県の伊勢と同じ名称の地名や神社が周辺にある。大和政権が丹後を制圧したのは、飛鳥時代(6世紀終盤)とされており、聖徳太子の弟である当麻皇子(たぎまのみこ)により攻め滅ぼしたとなっている。民話にも、麿子親王(まろこしんのう=たぎまのみこ)により丹後に住む鬼が退治され間人(たいざ)の立岩に封じ込まれたとある。大江町には鬼退治伝説が3つ有り、大和朝廷が丹後を制圧した時の話が色濃く残っているだと思う。


加悦町古墳公園には4世紀後半に築造された蛭子山古墳、4世紀後半~5世紀初めに築造された5基の中型古墳からなる作山古墳が復元されており、作山古墳は1から4号墳の墳形が全部違うので、まるで古墳のデパート!しかし、隣の大きな蛭子山古墳と作山古墳の被葬者の関係はどうだったのだろう?と思いたくなる。古墳の周囲には丹後特有の「丹後型埴輪」と言う円筒型の先が閉じられている埴輪がある。大和朝廷との関係に何か「微妙な関係」を感じる。出雲の前方後方墳と同じ様な反抗なのか?

今回一番楽しみにしているのは、京都府立丹後郷土資料館にある「青いガラスの腕輪」を見る事だったが、当日の入場料はクールポイントで無料とありがたかったのだけど、肝心の腕輪は見当たらなかった。弥生後期の大風呂南遺跡から出た釧だ。青い成分は鉄で、ガラスを加工する技術を持っていたらしい。他の出土品からの考察からも、相当勢力を持った集団が居た事を物語っている。資料館のすぐ手前には丹後国分寺跡が開放されており、そこから見渡す天橋立は古代の匂いがした。