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ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

ソウルでひとり言

2010年01月22日 | Weblog
2009年末はいろいろあった…。
そんな真っ只中、かねてより決めてあったソウルへの旅に出た。心に穴を空けたまま…。
出発の直前には、突発性難聴になり、体が半分水に浸かったようなズブズブの状態で関空を飛び立った。昨年末は会社を辞め、まるで世間から取り残された片隅の公衆電話のような心境で、福岡から海路対馬まで行った。古代海人族たちが行き来した玄界灘を渡ってみたくて。今回は、8回以上訪韓しているKZさんと一緒で、2泊3日のツアーの2日目に百済へのOPを組んでくれた。KZさん頼りのおまかせ旅行となり、ズブズブの私にとってはありがたい、癒せる旅になった。
 ソウルからバスで高速を2時間半ほど走って扶余(プヨ)に着いた。百済最後の都のあった所で、日本の飛鳥は蘇我入鹿がこのプヨを真似て都造りを行ったようだ。飛鳥の甘樫丘はプソ山で、流れる白馬江(ペマガン)は飛鳥川と言われている。蘇我家は甘樫丘に武器庫を建て、唐の強大な軍事力から都を守っていたプヨを真似、飛鳥で天皇を守っていた。実際見た白馬江は穏やかな流れで、その河口は白村江につながっている。唐の大群はこの川を遡ってきたのだろうと思った。
 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に超大国唐が出現し東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、倭国(日本)も領土こそ取られなかったものの、国防体制・政治体制の変革が起きるなど大きな影響を及ぼした。


纏向遺跡でひとり言

2009年11月18日 | Weblog

新聞は英国人女性死体遺棄事件で逮捕された市橋容疑者や、詐欺事件で逮捕されている女性との接点を持つ、6人の男性の不審死などの記事で埋められている。そんな新聞の2面に驚く様な記事が掲載されていた。<奈良・纒向遺跡>3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か! ついに、やっと纏向遺跡から大型の建物が出た!しかも3世紀前半の建物となれば卑弥呼が生きていた時代そのもので、卑弥呼の宮殿かと想像は広がる。しかも記事を読むと4つの建物は同じ方向に軸線を揃えてあり、明確な設計図に基づいて、強い規格性をもって構築されている。最大の建物は南北19.2m×東西12.4mと、この時代では国内最大級の規模になる…。吉野ヶ里の建物よりも大きい居館の発掘で、いよいよ畿内巻向が邪馬台国の可能性が強くなった。
そして、楽しみにしていたその日がやってきた。発掘現場は巻向駅のすぐ横にあり、まるで卑弥呼の宮殿のために駅を作ったかのようで、卑弥呼は定期券でどこかへ通っていたのかな?と思った。平日だったので人は少なく、俳優の刈谷俊介さんが大きな体を折って作業をしている姿を間近で見ることもできた。発掘現場は降った雨水で水溜りができていた。大きな居館の前には石が貼ってある溝らしき跡があり、雨水でぬかるみ、まるで居館域へ引き込まれた水路が再現され、当時の船が行き来している様に感じた。ふと隣に目をやると卑弥呼の様な女性が私に微笑んでいた。
紅葉がはじまる時期なので、談山神社へ足を伸ばした。残念ながら少しまだ早かったようで、緑色の葉っぱも多かったが、緑、黄色、橙、赤のグラデーションが着物の模様のように艶やかだった。ここで「乙巳の変」(イッシノヘン)の密談があり、大化の改新へと続くことになっているが、藤原不比等が残した日本書紀の真相は、今となっては遺跡のように深く埋もれてしまって分からない。
乙巳の変で殺された蘇我家の弔いも兼ねて、晩秋の飛鳥石舞台(蘇我馬子の墓)に寄って帰ることにした。さっきから一緒にいる卑弥呼と…?


清水寺でひとり言

2009年11月02日 | Weblog


清水(キヨミズ)と読むが、京都ではない。東条湖の近くで、辺りはゴルフ場銀座である。こんな所に古刹があったのかと不思議に思い、ゴルフバックではなくカメラを手に車を走らせた。
御嶽山 播州清水寺 西国第二十五番霊場 
縁起:推古・聖武 両帝勅願所 本尊 大講堂(千手観音)・根本中堂(十一面観音) 奉安
御開山法道仙人は印度の僧で、今より1800年前、人皇十二代景行天皇が治められていた時に中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ鎮護国家豊作を祈願されました。
  推古35年(627年)推古天皇勅願により、根本中堂が建立され、仙人一刀三礼の秘仏十一面観音、脇士毘沙門天王、吉祥天女の聖像が安置されました。もともとこの地は水に乏しく、仙人、水神に祈ったところ、霊泉が湧水しその事に感謝して「清水寺(きよみずでら)」と名付けられました。神亀2年(725年)聖武天皇は行基菩薩に勅願して大講堂を建立、永く経典の講義をする道場として、法灯を国中に輝かされました。ウィキペディアで調べたら、あるわあるわの業績で、伊丹の昆陽池も、有馬温泉も行基の業績だったなんて。いくら弟子が多くいても、これだけの仕事をこなすのは大変なことで、その建設スキルやリーダーシップは相当なものだったのだろう。聖武天皇とくれば治世時代に長屋王の乱が起こり、藤原四兄弟が皇后である光明子(藤原不比等の娘)の立后を図った事件である。しかし、その四兄弟が天然痘で全員死亡するなどの「祟り」が起こり、ますます仏教に帰依し、東大寺盧舎那仏を建立した。そして皇后になった光明皇后が、聖武天皇の遺愛品を納め、その一部が正倉院に保存されている。今年も第六十一回正倉院展が開催されている。展示を一度でも見れば、当時の文化や技術が想像以上に高いことを思い知る。そんな時代に活躍した行基、今だったら大富豪になっていただろうな…。金か?どうも思考の行儀が悪い今人の代表でした。また正倉院に出かけて行基さんに会ってこようと思った。

オノコロ島でひとり言

2009年08月12日 | Weblog

お盆Weekで、高速道路の1000円割引が拡大されたので淡路島へ行きました。明石海峡大橋を渡るのに通常2300円が1000円で行けるのはありがたい。民主党が政権を取ればこれも無料になるのだろうか?
 さて、日本列島はどの様にできたか知っていますか?何と泥沼のようなカオスの世界からイザナギとイザナミがオノコロ島を拠点に日本列島を生み出したのです。

天津神(アマツカミ)達は、伊耶那岐命(イザナギ♂)と伊耶那美命(イザナミ♀)に「この漂っている国土を有るべき姿に整え固めなさい。」と命じ、天の沼矛(アメノヌホコ)をお授けになった。そこで二神は天の浮橋の上にお立ちになって、その沼矛で国土を掻きまわした。沼矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮(塩)が積もって島になった。これを淤能碁呂島(オノゴロシマ)という。
伊耶那岐命・伊耶那美命が淤能碁呂島に降りてみると、その島には天の御柱と八尋殿(ヤヒロドノ)があった。  

イザナキ:「貴女の身体はどのようにできているのですか。」
イザナミ:「私の身体はほぼ整っているのですが、足りない所が一箇所だけあります。」
イザナキ:「私の身体は既に整っているのですが、それが高じて余った所が一箇所だけあります。だから、私の身体余った所で貴女の身体の足りない所を挿し塞いで国を生もうと思います。それでどうでしょう?」
イザナミ:「ええ,結構ですわ。」
イザナキ:「それならば、私と貴女でこの天の御柱のまわりをめぐって出会い、寝所で交わりをしましょう。貴女は右からまわって下さい。私は左からまわりましょう。
そして、二神がその方法に同意して柱をめぐり出会った時に、まず伊耶那美命が声をかけた。

イザナミ:「まぁ、なんて素敵な方なの!」
イザナキ:「あぁ、なんて素敵なひとなんだ!」
イザナキ:[……女性が先に言うのは良くなかったのでは?」

とは言うものの、二神はそのまま交わって子を生んだ。
しかし生まれた子は水蛭子(ヒルコ)と淡島(アワシマ)だった。
二神は困ってしまって天津神に相談した。すると、天津神は「女性が先に言葉を言ったのがよくなかったのだ。もう一回やりなおしなさい。」と指示した。
そこで、再び二神は天の御柱をめぐり出会った。今度は先に伊耶那岐命が声をかけた。

イザナキ:「あぁ、なんて素敵なひとなんだ!」
イザナミ:「まぁ、なんて素敵な方なの!」

こう言い終わって交わると次々に子が生まれた。

1.淡道島 淡路島       8.伊予の二名島 四国
2.隠岐島 隠岐島       9.築紫島 九州
3.伊岐島 壱岐島      10.津島 対島
4.佐度島 佐渡島      11.大倭豊秋津島(オオヤマトアキツシマ) 本州
5.吉備児島 児島半島  12.小豆島(アズキシマ) 小豆島
6.大島 瀬戸内海大島  13.女島(ヒメジマ) 姫島
7.知詞島(チカノシマ) 五島列島 14.両児島(フタゴシマ) 男女群島ならん

思った程の混雑もなく、明石海峡を渡り、西淡三原IC(南あわじ)まで快適なドライブで、すぐに「おのころ島神社」の大きな鳥居に迎えられた。田園地帯の真ん中で、どうして「島」?と不思議に思ったが、神社は丘になっており、大昔はこの辺まで水位が上がって、島の様になっていたのだろうと思う。残念ながら社殿は大きくも古くもなく、シンボルの大きな鳥居とは不釣合いで、太古のカオスの世界を感じることはできなかったし国生みの感激もなかった。気を取り直して、多賀の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)へ向かった。神宮と格が高いだけあって、立派な神殿や拝殿で淡路一の宮にふさわしい。ここはイザナミが国生みを終えた後、多賀の地に幽宮(かくりのみや)を構えそこに鎮まったと記された場所に由来する。余談だが、この幽宮は滋賀の多賀大社と意見を分けている。丁度拝殿では巫女さんが舞を踊っていた。真夏の暑い昼下がりの拝殿から、乾いた鈴の音が境内に響く。そして太鼓の音がどんどんと響き心を取りもどす。日本列島がこの地から生まれた話だが、次々と生まれる島は大和政権の支配下地域に思える。
 新政権誕生の直前でマニフェスト論議が絶えないが、この国のビジョンが明確でないと、どの政党のマニフェストも評価が厳しい。日本は国のでき方もカオスだし、これからの未来も曖昧で進んで行くのだろう。私の人生も行き当たりばったりの、いざとなったら難儀な事になる、イザナンギ人生だ!


火焔土器でひとり言

2009年07月04日 | Weblog

長い間、新潟で暮らしていた時にはあまり気にも留めなかった「火焔土器」であるが、博物館へ行くようになって、縄文の力強い美しさに惹かれている。丁度、大阪府立弥生文化博物館で6月末から「火焔土器の国」のテーマで新潟の火焔土器が100点以上展示され、5000年前のメッセージを伝えてくれると知って2回目となる博物館へ急いだ。
 展示室に入ってすぐに感じた!100点以上の土器の迫力と彼らが何かを伝えようとしている様な気配を。1つでも圧倒的な迫力なのにこれだけの数が揃うと不気味でもある。入口正面には新潟県馬高遺跡から出土した重要文化財の火焔土器があり、火焔土器の名前の元になったプロポーションのすばらしい土器がある。鶏頭冠(ケイトウカン)突起もボリュームがあって力強いし、全体のバランスもすばらしい。その横には火焔土器から3000年後の弥生中期の大阪で出土した弥生土器が展示されている。両者を見比べると、違う!のひと言。素朴でダイナミックな火焔土器と緻密な文様で優雅ささえも醸し出す弥生土器との対比は妙で上手い演出だ。火焔土器の鶏頭冠や胴体の文様は、粘土の紐を作りそれを突起状に組み合わせたり、文様は彫るのではなく、いちいち貼り付けて造られている。祭事用で生活用品ではない様であるが、これだけの装飾ができる芸術性と、煮たり炊いたりの機能美だけでなく、芸術というある意味無駄な事にその能力を使う余裕があったのだと思えば、まさに縄文人の文化を感じる。あの岡本太郎の魂をゆさぶったと言われる火焔土器。
 最初に博物館に来たときは、ミュージアムショップで志賀島の「漢委奴国王」の金印レプリカを買って帰った。今回もショップをのぞいたら火焔土器のレプリカがあった。思わず欲しくなって値段を見ると9,000もした。その瞬間、縄文の文化も浪漫も遠くなり、私にはとても「買えん土器」となった。

睡蓮にひとり言

2009年06月09日 | Weblog

睡蓮の美しさは何だろう?
東京国立博物館で開催されていた阿修羅展が閉幕になり、入場者数は94万人を超え、日本美術の展覧会では歴代1位となった。
睡蓮と蓮(はす)の違いはよく分からないが、ハスは、葉や花が水面から立ち上がるが、 睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだままで植物学的には別の科になっている。
スイレンの漢字名に「睡」があるが、その由来は、日中に開き夜に閉じることから、「睡眠する蓮」で「睡蓮」となったそうです。
 睡蓮・蓮と言えば仏教との関わりが深いが、「蓮」は、きたない泥の中からきれいな花を咲かすことが仏教に通じる象徴的な花として珍重されてきた。
 久しぶりに両親らとドライブで神戸花鳥園に来た。折からの新型インフルエンザの影響で、神戸の観光名所は空いている、それに入場料も半額近くに値引きされていて、知らなかった我々は大いに盛り上がった。駐車場には他府県ナンバーの車が多く、館内も結構賑わっていた。インフルエンザ不況と高速道路1000円効果の戦いの様で、我々の様などちらの効果も関係ない家族はまるでバカみたいだ。
 睡蓮はどうして美しいのだろう?モネが描き続けたその魅力は何だろう。睡蓮の花を見ていると、私には何故かその姿が白くひかり、輪郭がぼやけた阿修羅像に見えてくる。水面に立つ阿修羅、泥の中から鮮やかな色彩で凛として水面に立っている。その美しさの中にある力強さ、いったい何を悟っているのだろうか。


阿修羅像でひとり言

2009年05月06日 | Weblog
ついにやってきました。何が?誰が?
それは身長140mm、顔が3面、手が6本……!
興福寺創建1300年記念 国宝阿修羅展公式フィギュア 制作:海洋堂
2009年3月から6月にかけて東京国立博物館で開催している阿修羅展の会場でのみ販売されている。その阿修羅が家にやってきた。今や遠くなった東京なので、前の会社のにしやんに頼んで阿修羅展に行ってもらった。会場では行列に並んで、予約購入の手配をしてもらったお陰で我が家に阿修羅がやってきてくれた。一人一個だったので本人は買わずに私に送ってくれた。御釈迦さんの様なありがたい話である。ネット販売では1体¥11,000まで上がっている。
 興福寺の阿修羅は誰が見てもこの表情の虜になるでしょう。日本の仏像の中でも一番ファンが多いと思う。興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶとのこと。この像は光明皇后が734年(天平6)に母の橘三千代のために建てた西金堂の群像の一つで今に残る貴重な仏像である。光明皇后は聖武天皇の皇后で、父親は藤原不比等である。この時代は長屋王の変や、疫病など多くの災難や藤原家との対立があり、聖武天皇は深く仏教に帰依して、東大寺や正倉院、国分寺、興福寺、新薬師寺、法華寺など多くの創建に関わり、現在でも奈良・平城京の中心として残っている。藤原家の陰謀や天然痘などによる修羅場を観た光明皇后も、阿修羅のように釈迦の弟子になり、本来の憤怒の相を捨て、釈迦に帰依してこの様な真摯な表情になりたいと願った事だろう。実物を見てない人は是非一度、阿修羅と正対してみてください。

レッドクリフ2を観てひとり言

2009年04月22日 | Weblog
パート1は三国志を知らないと理解できないのでは?と思うほど展開が早かったが、パート2は赤壁の水上戦だけが舞台なので、心理戦や絆など人間の感情や心情を映しており、少し映画らしくなってゆっくり観られた。それでも観終わった感想は何も残っていない。出演人数の多さや特殊撮影などは、嘗ての「ベンハー」や「クレオパトラ」なんかを彷彿させるが、登場人物の心理表現などが薄いように思う。韓国映画のほうが心情表現は良く分かる。映画は映画として、中国でこの赤壁の戦いをしている頃、日本はどんな時代でしょう?神功皇后摂政8年、神功皇后が夫の仲哀天皇急死後、朝鮮半島へ三韓征伐に出かけた頃です。(ブログの気比神社でひとり言参照)中国はこの後三国時代に入り、魏・呉・蜀の鼎立となる。230年代には卑弥呼が魏に使者を送る。中国の歴史は三国志がかなり史実を伝えているが、残念ながらこの時代の日本の歴史はまだまだ想像の世界にある。日本の歴史がこんな不可解で良いのだろうか?宮内庁は史実をもっと公開して欲しい。昨日、先進国家の中国観光客が資生堂の化粧品を大量に買って行った。支払いは「銀聯カード」を出してきて、この店では使えないことを言っても納得しない。結局日本人ガイドにTELして現金で支払った。「銀聯(ぎんれん)カード」は、中国内の銀行がネットワークを組んで運営しているカードで、中国本土では現在、10億枚以上が発行されており、日本でも約6000店舗で利用することができるが、JCBの様な銀行の残高を超えて買い物ができるクレジットカードとは違って、残高以上の買い物はできず、「信用取引」はまだ一般的ではないようだ。しかし、曹操軍の軍船のように数にものを言わせて世界を変えて行く、恐るべき中国。毎度ありがとうございます…。

醍醐寺でひとり言

2009年04月11日 | Weblog
平日の、桜真っ盛りに休みとなったので、考えた。この辺りで一番混雑する花見の名所はどこだろうと…。ネット検索で出てきたのは、JR東海 「そうだ 京都、行こう」で紹介されている醍醐寺だった。学生時代は山科で過ごしたが、一度も醍醐寺には行ったことが無く、平日の特権で混雑がましだろうと出かけることにした。JRのうたい文句は、(太閤秀吉が催した「醍醐の花見」で知られる京都屈指の桜名所。桜の馬場や、三宝院の土牛の桜、霊宝館前のしだれ桜の巨木など、圧巻の春風景が広がります。)と、とにかく屈指…らしい。早速、阪急に乗り京都地下鉄に乗り換え、乗り換え辿り着いた。JRは結局利用せずに醍醐寺エリアさくら散策マップだけ拝借した。平日にしてはさすがの混雑振りだが、女性か学生、老夫婦などでいい年の男は少ない。長年染み付いたサラリーマンの習性で、平日に人前に出ると後ろめたい気持ちになってしまう。最近でこそやっと平日に大手を振って歩けるようになったが、無意識に人目を気にしている自分が笑えてくる。さすがに世界文化遺産に指定登録された寺院だけあって、京都府最古の国宝五重塔や寺宝・伝承文化財は約15万点に及ぶらしい、境内も広く、拝観料だけでも3エリアで1500円もかかるほど広い。そのうえ三宝院の庭園では写真撮影も全面禁止で、監視員が二人も目を光らせている。私は古代史が好きなので奈良へはよく行くが、奈良と違って京都の寺院は拝観料が高く、写真撮影などの禁止が多い。壁画や絵画などフラッシュ光線でダメージがありそうなものは分かるが、庭園はどうして撮影がいけないのか分からない。商業ベースとしか考えられないし、せっかくの美しい景色を見ても、自分のものにならない疎外感を感じる。美しいものはもっと広く共有するべきだ。花見の話がぼやきになってしまったので、次回で書き直します。


吉備路でひとり言2

2009年04月06日 | Weblog
岡山は学生時代に来てからのご無沙汰で、黒い岡山城はかすかに覚えているが、倉敷は記憶があるような無いような状況だ。吉備路を廻った翌日は岡山に一泊し、倉敷の美観地区と岡山城を見てから帰ることにした。気になるのは倉敷市にある井原鉄道に吉備真備(きびのまきび)駅がある事で、歴史上の人物名が駅名になっているのは珍しいと思う。吉備真備は奈良時代に地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなった。近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。717年に遣唐使として入唐し734年に玄(げんぼう)らと種子島に漂着するも無事帰国した。3年後に天然痘が流行り藤原四兄弟が全滅し、当時縦(ほしいまま)にしていた藤原家の勢力が衰え、吉備真備の朝廷で活躍が始まったが、藤原仲麻呂の台頭によって左遷される。この当時は天武の子として反藤原に目覚めた聖武天皇が橘諸兄(たちばなのもろえ)らと藤原家との権力抗争で争っていたが、藤原仲麻呂によって聖武天皇は引きずり降ろされた。その仲麻呂は淳仁天皇の時、恵美押勝(えみのおしかつ)の名をもらい皇帝になろうとした。しかし、国家を私物化し藤原家だけが繁栄すれば良いという考えに反発が強く、「恵美押勝の乱」で吉備真備らに追討された。孤軍奮闘し、「古き良き大和」を最後まで守りとうそうとした吉備真備。国家を支え尽くした偉人だが、時の権力者によって人物像が矮小化され、後世の人間にもあまり評価されなかった孤高の人である。今も昔もどこにもよくある話で、何も見えていない者は、徒党を組み、邪魔になる優秀な人材は潰しにかかる。