ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

太山寺でひとり言

2011年06月28日 | Weblog
兵庫県には数少ない国宝建築の1つである、太山寺(たいさんじ神戸市)に出かけた。国宝建築では姫路城が有名だが、朝光寺や、播磨の法隆寺と言われる鶴林寺などはあまり知られていない。
垂水の五色塚古墳の北側に位置し、学園都市を越えた山間の住宅街に、車では見過ごしてしまう仁王門が迎えてくれる。
当寺の歴史は遣唐使でもあった藤原鎌足の長男、定恵和尚の開山、霊亀2年(716)鎌足の孫で藤原不比等の子である宇合(うまかい)の建立と伝える。
中門をくぐると、正面には堂々たる本堂が構えている。その大きさや、朱色の柱に蔀戸(シトミド)がはめられた様子が国宝にふさわしい風格を醸し出している。本堂に向かって歩き始めると、苔むしたもみじの古木に、赤い新芽が蝶のように舞っている。その向こうに三重塔が見えて、新緑のなかに馴染んでいる。本堂は仏教の大衆化に伴う新しい仏壇形式だそうだ。

宇合(ウマカイ)は不比等の三男。不比等の子四兄弟は、聖武天皇の夫人光明子(四兄弟の妹)を皇后に立て、四兄弟が政権を握ったが、天然痘の流行で四兄弟全員が相次いで亡くなった。人々は長屋王の祟りと恐れた。「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。これが長屋王の変。
奥の院には太山寺川にかかるアカイ橋を渡る。緑と赤のコントラストが面白い。

不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤(ラクイン:身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子)との説がある!、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝えている。
鎌足は百済王子で、不比等は天智天皇の子か……?想いに浸り古代妄想して蓮池を眺めたが、何かが飛び込む音がして我に返った。このへんで退散時(たいさんじ)。

石上神宮でひとり言

2011年06月23日 | Weblog
纏向から長岳寺と黒塚古墳をスルーして、最後の石上神宮に着いた。境内では多くの鶏が迎えてくれた。Yさんも「何や!何か神社と関係があるんかな?」と驚いていた。

石上神宮は古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきた。祭神の布都御魂大神は神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である。布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命(うましまちのみこと)により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命(いかがしこお)が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。本殿はなく拝殿の後ろに「禁足地」があり、そこから神剣が発掘された。また、国宝で有名な「七支刀」もこの神庫にある。2年前に百済の国立扶余(プヨ)博物館でレプリカを観た時に、当時の強い倭国と百済の親交を感じた。

 蘇我馬子、物部守屋の崇仏派と排仏派の戦いで、蘇我勢力は守屋を追い詰めたが、守屋も稲城を築き守りを固めた。苦戦していたときに、廐戸皇子(聖徳太子)が四天王像を彫り戦勝を祈願し、そして守屋は射落とされ物部氏は滅亡した。本当の理由はどうであろうと、新勢力が蘇我氏に替わった事を示す。物部守屋は長野の善光寺の内々陣中央に守屋柱と言う柱があり、その下に首を埋められたとも四天王寺に埋められたとも言われており、聖徳太子が創建した社寺は守屋鎮魂の為とも言われている。
 熱かった一日も夕方になり涼しくなってきた。バイクを取りに大和郡山城跡まで戻り、2台で帰路に着いた。
「かんぱ~い!」「……!」一口目のビールには言葉はいらない。Yさん宿泊のホテルの近くで食事になった。今日の山辺の道を振り返り、纏向の埋め戻されていた事を悔やみ、2人の誇大妄想はまだまだ続いて、気が付けば3時前になっていた。いや~楽しい時間は早く過ぎるもんだ。

箸墓から纏向遺跡でひとり言

2011年06月20日 | Weblog
山辺の道出発点を後にして、箸墓古墳、檜原神社そして、Yさん楽しみの纏向遺跡に向かった。いつも箸墓の横を走るだけなので、今日は周囲を車で回ることにしたが、遠くで見るより以外に大きかった。これが卑弥呼の墓か?と言われる大市墓で、宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されている。「日本書紀」には次のような三輪山伝説が載せられている。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形になって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。ふウ……!出雲の神と何かがあって磔にでもなったのか?日食で卑弥呼が処刑されたのか?とにかく奇妙な謂れだ。

箸墓からは、何軒かの三輪そうめん製造所を過ぎ、みかん畑の間を縫う細い道を登っていけば檜原神社が現れる。奈良の神社の中で一番好きなスポットだったが、昨年の遷都祭りできれいにメイクアップされてしまった。二上山が注連柱の間から見え、そこに夕日が沈む。

ここは、大神神社の摂社であるが、元伊勢と呼ばれる。豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が第10代崇神天皇に託され天照大神を笠縫邑に祀ったとされる地で、この後垂仁天皇の時、倭姫命(やまとひめのみこと)が今の伊勢の度会宮に遷したと言われる。
「うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む」
意味: この世に生きている私は、明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか
この歌は、謀反の疑いで処刑された大津皇子(おおつのみこ)の遺体が二上山(ふたかみやま)に移された時に、お姉さんの大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌とのことです。なんと悲しい歌でしょう
神社を降りてすぐの茶店で腰を下ろし、二人でラムネを飲んだ。Yさんは三鳥居が気になっているようで、茶店のおばさんに声をかけたが、「それやったら、神主さんに聞いたほうが…」と言われ、早速駆け上っていった。車を廻して待っていると、「何や分からんわ!」と帰ってきた。相変わらずの探究心と行動力に感心する。
 前回は2009年11月に訪れたので、場所が分からない。Yさん本命の纏向遺跡である。当時からの発掘作業で、桃の種が2000個以上も見つかり、魚や猪、鹿の骨など古代祭祀の供物が多数出土し、祭祀が行われていたことが確実となった。やはり卑弥呼か?やっと2年前に車を止めた場所を見つけ歩き出した。「あれ?畑しかないよ!」「あそこに巻向駅があるから、この場所に間違いないよ!」Yさんは納得が行かず、近くで農作業していたおじいさんにもう話しかけている。「あぁ、すぐに埋めたよ、桜井市も財政が厳しいんだか」「こんな価値あるものを、みんなにもっと見せてくれたら良いのにね」やっぱり埋め戻されていたんだ。二人共立ち去りがたい思いで線路沿いを歩いた。

「なんで、すぐに埋めるんやろな?」楽しみにしていた遺跡が見れず、Yさんは納得が行かない様である。本当にここが邪馬台国だったのだろうか?早く発掘が進んで決定的な遺物が出てきて欲しい。
予定より時間がかかったので、長岳寺と黒塚古墳の柳本周辺はドライブだけで終わって、最後の石上神社へ向かった。発掘作業中の前回(2009 11月)と違って今日は卑弥呼を見かけず、あの微笑みも見れなかった。ただ、Yさんのぼやきがだけ聞こえてくる。

大神神社・海石榴市でひとり言

2011年06月18日 | Weblog
大和郡山城跡を足早に見学し、その駐車場にバイクを置き、車で一緒に大神神社に向かった。ここからは十数Kmの距離なので、ゆっくり参拝してから大好きな「森正」でそうめんを頂く予定。平日の昼前でもあり道路は空いている。しかし、車内では古代史の熱い討論で込み合っていた。邪馬台国=巻向説のYさんと北九州説の私の混戦?である。邪馬台国がまだ決定しないうちに大神神社に着いた。「これで何度目の参拝になったかな?」すっかりきれいに建直された拝殿を眺めながらふと思った。境内にはこの時期に咲く御神花の「ささゆり」が咲き始めていた。

 どうしてここの祭神が大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で出雲の神が祭られているのだろう。巻向にあった古代都市は当時の吉備や東海地方など全国各地の遺物が発掘されている。ヤマト政権発祥の地には間違いないだろうと思う。その都市が何故出雲の神を崇めるのか?やはり、出雲族への大掛かりな裏切りがあり、その祟りを恐れ祀っているのだろうか?
「うん、うまいな!」森正のそうめんを食べながらYさんが唸った。涼しい風が店の中庭を吹き抜けて行く。「さあ、山辺の道のスタート地点に行きましょうか?」

 大神神社からすぐ南に金屋の石仏がある。車を止めて探すが分かりにくい、歩いてきたおばあさんにYさんが声をかける、相変わらずコミュニケーションには積極的だなと感心した。この辺りの山辺の道は幅1m程の細い畦道のようだ。おかげで少し歩いて美術館の前にある石仏を発見。車に戻って、細い街の道を辿り海柘榴市観音に寄り、初瀬川に突き当たった。最古の海外交易の市、海柘榴市(つばいち)は、大阪から大和川を遡ってくる終着点でした。また、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあった。遣隋使の小野妹子が「日出ずる処の天子」で有名になった仕事を終え、隋からの使者、斐世清(ハイセイセイ)を伴って帰国した時、ここで75頭の飾馬を仕立てて盛大に迎えたとのこと。また、百済から仏教も運ばれてきた。

 「この川は難波からどうやって流れているのかな?」「そっちは逆やろ!難波は向こうやで」と方向音痴の私を笑っていた。

「紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ」意味:この海石榴市(つばいち)の道で出会った君の名は? 教えて欲しいですね

秋篠寺でひとり言

2011年06月15日 | Weblog
「久しぶりです!」「あぁ!すごい人やな!?」
待ち合わせの秋篠寺は、年に一度の秘仏・大元帥明王像の一般公開の日だったので、平日にもかかわらず参拝客でいっぱい。元上司のYさんは、65歳を超えているのに750ccの大きなバイクに乗って、駐車場待ちの私の車にやって来た。境内には長い行列でやっと入場できたが、せっかちな二人にはご開帳の秘仏を見るために、もう一度行列に並ぶ気持ちは微塵もない。国宝の本堂に安置される伎芸天(重文)はYさんのリクエストで訪れたのですが、評判通りの美人で、しなやかな立ち姿と伏せがちな目線に癒される。頭部だけが元の造りで胴体よりも少し黒くなっている。また、境内は苔むした庭に囲まれており、市街地の真ん中にあるのにもかかわらず、独自の空間を造りだしている不思議な名刹だ。


 秋篠寺はこの地を所領としていた秋篠氏が氏寺として作った寺だという説がある。秋篠氏とはもともと渡来人の土師宿禰安人(ハジノスクネノヤスヒト)が朝廷に改姓を願い出て賜った姓である。土師氏は野見宿祢(ノミノスクネ)を祖先とする氏族。野見宿祢は『古事記』や『日本書紀』に登場する相撲の神で、垂仁天皇の時代に、天皇が出雲国から野見宿祢を召し、大和の当麻蹶速(タイマノケハヤ)と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を倒し殺してしまった。その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与え、野見宿祢はそこに留まって天皇に仕えた。その後皇后の死に際し、生きた人を埋める代わりに埴輪(はにわ)を作って献上したといわれ、これが埴輪の起源説話である。以後、土師の職に任じられ、姓(かばね)も土師臣(はじのおみ)と改めた。その子孫は代々天皇の葬儀を司り、やがて姓を菅原(すがわら)と改めた。なんと!菅原道真は野見宿禰の子孫である。
 秋篠寺の草創にはもうひとつ、この寺は鎮魂のために建てられたという説がある。壬申の乱以降約100年にわたって天武天皇系の天皇が続いたが、天智天皇系ではじめて即位したのが光仁天皇であった。770年に称徳天皇が亡くなると、皇位継承問題で天武派と天智派で意見が分かれる。王統はこれまでどおり天武の血筋から選ぶべきであるとする右大臣・吉備真備は、天武の孫で長親王の子、文室浄三(フンヤノキヨミ)を推し。天智の血筋から選ぶべきとする左大臣藤原永手は天智の孫・大納言の白壁王を推していた。称徳女帝の遺詔もあって、左大臣側の白壁王が推挙され、光仁天皇として即位したのである。62歳で即位すると、妻の聖武天皇の子・井上内親王を皇后とし、皇子の他部内親王(オサベナイシンノウ)を皇太子とした。朝廷から道鏡一派を一掃すると771年には吉備真備を引退させた。光仁天皇擁立の首謀者である、藤原良継、百川は藤原式家と親しい山部王を皇太子にする必要があった。772年に事件が起こる。 皇后が天皇を呪詛しているという密告である。井上皇后とその子他部皇太子は逆罪として逮捕されると、3年後の同日に死んでいる。その結果、皇太子となったのが山部王、後の桓武天皇である。母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる高野新笠(タカノノニイガサ)。ここで天皇家と韓国とのゆかりが記録されている。
「おいしいな!」境内にある香水閣と言う井戸の水をいただきながら、そのまろやかな味に二人とも頷いた。
この寺の歴史には血生臭い時代があったが、このしっとりした佇まいと伎芸天の表情からは、すべてを受け入れて、嘆き、恨み、そして許し、井戸の水のようにまろやかに浄化してきた何かがあるのかもしれない。
 さて、喉の渇きも潤せたので、私の車が先導して次の郡山城跡に向かった。