ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

談山神社でひとり言

2006年05月07日 | Weblog
大宇陀の町並みを見に行く途中に、談山神社の案内看板が目に入って思わずハンドルをそっちの方に切っていた。紅葉の時に行こうと思っていたが、サイトにはひどい渋滞と書いてあったので断念していた。今日は快適に舗装された道路ですぐに到着した。
 さて、談山と書いてタンザンと読ませますが由緒によると中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)が当社本殿裏山にて極秘の談合をされたと記されている。この談合で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家、文治政治の完成を成し遂げたことになっている。この裏山の多武峯は談峯、談い山、談所が森、と呼ばれ大化改新談合の地と伝承が残り、談山神社の社号になったとある。
 確かに人里はなれ遮断された場所なので密談するにはもってこいの地理である。しかし、情報の発達していない太古の昔にこんな場所まで来る必要があったのだろうか?
ここに来るまでに誰かに見られる方がずっと怪しまれると思う。
 境内にはさすがにもみじが多い、その新緑も秋に負けないぐらいきれいで若々しいエネルギーを感じる。談合は何月だったのだろう?
 歴史作家の関さんの推理によれば、英雄視されているこの2人は実は保守派で、悪者にされている蘇我入鹿が律令制度を推進して東アジア戦略を全方向的に考えていた革新派であり、「冤罪」で暗殺されたのである。この時代の歴史は日本書紀に頼るが、これを編纂したのは中臣鎌子(藤原鎌足)の息子である藤原不比等で、藤原家に都合の悪いことは書かないどころか、都合の良いように編纂しているのである。しかも、藤原鎌足は当時人質として日本に送られていた百済王子の豊璋だと推理する。親百済派の中大兄皇子と百済の王子が手を組んで百済救援のために入鹿を暗殺したとする。非常に明快な推理で、飛鳥時代の英雄たちが国際外交政策の違いで相手を暗殺し、それをスポークスマンが都合の良いように作り変えたシナリオで発表する。まるでどこかの国のやっている事のようで、この推理は飛鳥人が現代人と同じ血の通った人間として見えて来てワクワクさせてくれる。
 本堂には異様に鼻の大きい藤原鎌足像が祭られている。全国藤原家名簿が片隅に売られており21世紀まで栄華を忘れられないのだろうか?