十三年を過ごした三重県の津で昔の仲間たちと語らい遊び、久々に気兼ねなく存分に楽しむことができた。遊び盛りに知り合った仲間達とはコップ1杯のビールだけで20年以上の歳月が甦える。
その楽しいひと時を過ごした帰りに亀山へ向かった。朝からあいにくの霧雨で、昨日までの晴れ空が嘘のように霧がかかっていた。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)は第十二代景行天皇の皇子であるが、兄を殺してしまうその荒々しい性格を恐れ熊襲征伐に向かわせた。ヤマトタケルは叔母にあたる伊勢神宮の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に貰った衣装で女装し、熊襲の首長を宴会の席でだまし討ちにして殺した。その帰り道に出雲に立ち寄り出雲建(イズモタケル)もだまして殺す。意気揚々とヤマトに帰るヤマトタケルだが、景行天皇はすぐさま東国平定を命じた。これを受け、またも立ち寄った倭比売命に嘆きそして泣いた。この時倭比売命から「草薙剣」を授かる。東征に向かったヤマトタケルには、尾張でミヤズヒメと結婚の約束をして相模へ入るが、国造に欺かれ野の中で火に包まれたが、草薙剣で草を薙ぎ払い助かった。船で上総へ渡ろうとしたとき暴風雨に会い難航した。このときに后の弟橘比売(オトタチバナヒメ)自ら身を投げて海を静めて上総へ上陸でき、ついに蝦夷を平定した。そして帰路に結婚の約束をした尾張のミヤズヒメのところへ逗留していたが、伊吹山に荒ぶる神がいると聞き出かけたが、そこで出会った大イノシシの姿をした山の神の妖気にあてられ、瀕死の状態で山を降りて能褒野にたどり着いたがそこで息絶えた。能褒野でヤマトを偲んで詠んだ歌が
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭し麗し」
明治十二年に宮内庁が倭建命の御陵と指定したのが能褒野神社の横にある王塚である。
ある日その墓から倭建命の魂が白鳥になって天空高く飛び立ったという。
倭建命になりきったひと時のロマンは何かしっくり来ない、前半生は粗暴で戦術はだまし討ちばかりで、後半は悲劇的な英雄に変化している。倭建命は大和のタケルが諸国のタケルと結びついて、日本武尊(ヤマトタケル)という架空の人物に凝集されたとも言われている。
能褒野から白鳥が飛び立った亀山からは、現在では液晶テレビの亀山モデルが全世界に飛び立っている。