ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

火焔土器でひとり言

2009年07月04日 | Weblog

長い間、新潟で暮らしていた時にはあまり気にも留めなかった「火焔土器」であるが、博物館へ行くようになって、縄文の力強い美しさに惹かれている。丁度、大阪府立弥生文化博物館で6月末から「火焔土器の国」のテーマで新潟の火焔土器が100点以上展示され、5000年前のメッセージを伝えてくれると知って2回目となる博物館へ急いだ。
 展示室に入ってすぐに感じた!100点以上の土器の迫力と彼らが何かを伝えようとしている様な気配を。1つでも圧倒的な迫力なのにこれだけの数が揃うと不気味でもある。入口正面には新潟県馬高遺跡から出土した重要文化財の火焔土器があり、火焔土器の名前の元になったプロポーションのすばらしい土器がある。鶏頭冠(ケイトウカン)突起もボリュームがあって力強いし、全体のバランスもすばらしい。その横には火焔土器から3000年後の弥生中期の大阪で出土した弥生土器が展示されている。両者を見比べると、違う!のひと言。素朴でダイナミックな火焔土器と緻密な文様で優雅ささえも醸し出す弥生土器との対比は妙で上手い演出だ。火焔土器の鶏頭冠や胴体の文様は、粘土の紐を作りそれを突起状に組み合わせたり、文様は彫るのではなく、いちいち貼り付けて造られている。祭事用で生活用品ではない様であるが、これだけの装飾ができる芸術性と、煮たり炊いたりの機能美だけでなく、芸術というある意味無駄な事にその能力を使う余裕があったのだと思えば、まさに縄文人の文化を感じる。あの岡本太郎の魂をゆさぶったと言われる火焔土器。
 最初に博物館に来たときは、ミュージアムショップで志賀島の「漢委奴国王」の金印レプリカを買って帰った。今回もショップをのぞいたら火焔土器のレプリカがあった。思わず欲しくなって値段を見ると9,000もした。その瞬間、縄文の文化も浪漫も遠くなり、私にはとても「買えん土器」となった。